下
※残酷描写、流血表現があるので苦手な方はご注意ください。
憐れな婚約者や妃を、苦しませずに逝かせるための毒薬。
僅かでも口にすれば、眠るようにして安らかな死を迎える――そのはずだった。
「……っ…………か、はっ!?」
だが違った。わたくしが口にしたそれは、赤い鮮血を吐かせた。
「ぅ゛、あ゛っ……ぁ゛あ゛あ゛っ!」
喉が焼け爛れ、内臓が蝕まれていく激痛に絶叫する。
口や鼻から血が溢れ、目からは赤く濁る涙が流れていく。
「な゛ぜ、ごん゛な゛っ?! ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」
戸惑い溢した疑問に、彼はゆっくりと言葉を返す。
「苦しいだろう? 楽に逝かせなどしない。それだけの罪を君は犯してきたのだから……せいぜい、苦痛を味わって無様に死んでくれ」
それが答えだった。赤く染まり歪む視界に、静かに嗤う彼が映る。
こんなにも憎まれてしまったのかと絶望し、わたくしは耐え難い苦痛を味わう。
「ぁ゛、あ゛あ゛っ! ぁ゛あ゛あ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」
身も心も苦しくて、髪を振り乱し、痛む胸を掻きむしる。
「これは報いだ。私の愛する者達を欺き、罠に嵌めて葬ってきた君への、それ相応の報い。……調査で明らかになった。弟達を暗殺し、邪魔者を排除してきた、君が犯した罪の数々……それは、許されない罪だ」
わたくしの秘密が、知られたくなかった真実が、彼に知られてしまった。
息すらもまともにできず、狂ったように泣き叫ぶ。
「ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!! ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛あ゛あ゛ぁ゛っ――」
隠し続けてきた、許されない罪。
それは全て、彼を守るためにしたこと。
清らかで儚い彼を守るには、わたくしが手を汚すしかなかった。
◆
この世界では黒が美しいとされる。
故に最も濃い黒髪と紫眼を持つわたくしは、絶世の美女と称えられた。
高貴な生まれで教養も品格も兼ね備えた令嬢ともなれば、権力者は挙って欲する。
しかし、どんなに黒く美しい権力者にも靡くことはなく、婚約者である王太子の瑕疵を補って支え、一心に尽くす姿は高潔にすら映ったのだろう。
気付けば、『王太子の完璧な婚約者』と呼ばれるようになっていた。
それにより益々、絶世の美女に懸想する男達は熱を上げ躍起になった。
王位継承権のある男は皆、彼の失脚を狙い王太子の座を奪ってでも、わたくしを手に入れようとしたのだ。
彼が心を砕き愛する弟達ですらも、それは同様だった。
わたくしは何度も何度も諭したのだ。
どれだけ、彼が稀有で掛け替えのない存在なのか、極めて優秀で国を思う王太子なのか、説いて聞かせた。
けれど、どんなに諭してみたところで無意味だった。
黒を持たない者への侮蔑は変わらず、有能な彼の失脚が狙えないと分かれば、終いには彼の暗殺を謀ったのだから。
目には目を、歯には歯を。わたくしがしたのは唯、それだけのこと。
彼を酷遇した者には酷遇を、彼に毒を盛った者には毒を、彼の死を望んだ者には死を。
謀られたことを逆手に取り、用意周到に奸計を巡らせ、そのまま返してやったまでのことなのだから。
彼の容姿を貶す者、彼の未来を奪う者、彼の生命を脅かす者は徹底的に排除した。
王族であろうと、肉親であろうと、誰であろうと容赦はしない。
彼を害そうとする者は皆、一様に敵なのだから。
いつしか、有能な彼を認めない愚か者はいなくなり、王太子としての地位は磐石なものになっていた。
◆
因果応報というべきか、許されないほどに罪を重ねたわたくしもまた、今こうして報いを受けている。
聖女の宣った通り、わたくしは怜悧狡猾で苛烈な悪役令嬢。
愛に狂い大罪を犯した稀代の悪女だ。
そんなわたくしを正しく裁き粛清する彼は、やはり、どこまでも清廉で美しい……そしてやはり、何よりも愛しい……。
苦痛に喘ぎ朦朧としながら、わたくしは周囲を見回す。
騒然とするパーティー会場では、皆が固唾を呑んで見守っていた。
わたくしは崩れ落ちてのた打ち、床に爪を立てて、そこら中を血で赤く染め上げて思う。
狂った悪女の無様な死にざまを、清く正しい次期王の英姿を、皆がその目に焼き付ければいい。
「――あ゛ぁ゛……ぁ゛……っ………………」
薄れていく意識の中、ぼやけて霞む彼の姿を見つめ、わたくしは願う。
ああ、どうか、彼が何よりも貴ばれ、皆に愛されますように――――……。
◆
衆目に晒される中、稀代の悪女オディールは壮絶な死を迎え、息絶えた。
残虐な処刑執行に居合わせた者達は、戦々恐々と立ち尽くしていた。
温厚篤実なはずの王太子が、冷酷無残な断罪者へと豹変したことに驚愕し、茫然と見ているしかなかったのだ。
中でも、予想だにしていなかった展開に混乱し、聖女が震える声で呟きを溢す。
「な、なんなのよこれ? こんなグロシーン、あたし知らないわ……虫も殺せないような優しい王子様のはずでしょ……」
聖女が見知っているキャラクターとはまるで違う。まったく違う人物にすら思えた。
そんな様子に徒ならぬ恐怖を覚え、聖女が凝視していれば、王太子は冷淡な表情で振り返る。
「ひっ!」
「エリカ、もう大丈夫だ」
小さな悲鳴を上げた聖女に、王太子は穏やかに微笑みかける。
「……どうしてまだ怯えた顔をしているんだい? エリカを害そうとする者は、もうこの世にいないのに」
王太子はいつも通りの優しい笑みを浮かべている。
そのはずなのに、聖女には優しい表情に感じられない。
何故かは分からないが、途方もなく恐怖心を掻き立てられるのだ。
怯える聖女を見て、微笑みを湛える王太子は不思議そうに言う。
「エリカが私に教えてくれたんじゃないか……愛の力が悪を滅ぼすのだと」
聖女は戦慄した。
次いで、焦り考えを巡らせる。
どこで間違ってしまったのか、選択を間違えた覚えはないのにと。
だが、聖女の存在が影響し、王太子を大きく変えてしまったことは間違いない。
聖女が背筋を凍らせ固まっていると、王太子は悪女の亡骸に歩み寄り、血塗れた身体へと手を伸ばす。
「な、なにを……?」
死体をどうするのかと、聖女は戸惑いの声を上げ、会場の傍観者も困惑していた。
王太子は自分が汚れることも厭わず、血濡れた身体をそっと抱きかかえる。
元婚約者の凄惨な亡骸を見つめ、恍惚とした昏い笑みを浮かべて語りかけるのだ。
「ああ、愚かで憐れなオディール。エリカが現るまでは、この世で最も美しく貴い人だったのに……私への愛のために罪を犯し、狂い死んだ。ならば私は、その一途な愛に報いてやるべきだろう」
「報い……?」
もはや、誰に語りかけているのかも分からない。
そんな狂気を感じさせ、王太子は笑みを深めていく。
「だから、剥製にして綺麗に飾ってあげるんだ。ずっと側に置いて、愛でてあげるんだよ……こんなにも美しい黒なのだから」
血濡れた亡骸へ愛おしげに擦り寄り、血で汚れていく白い王太子は、血の赤が際立つ。
真っ赤に染まり、より一層と鮮やかに哂う様子は、この世の者とは思えない悍ましさがあった。
化け物じみている……死した者を腕に抱き昏く哂う、死を愛する人ならざる者――正に、死神だ。
その場に居合わせた者は、誰もがそう思った。
聖女が口を開けたまま声も出せずに震えていると、おもむろに死神が聖女を見据える。
「!?」
「ああ、大丈夫だよ。エリカが裏切る真似をしていなければ、私は何もしない。安心して……それに、もしもエリカが死んだとしても、その時はもっと綺麗に着飾らせて飾ってあげるからね。大切に愛でてあげるよ……何よりも貴い、美しい漆黒なのだから」
死神は哂う。
暗い、昏い、冥い、闇い――真っ黒い闇を宿した眼で見つめ、死神は微笑むのだ。
「…………ひゅっ」
聖女は息を呑んだ。
王太子の言動に、あまりの狂気に、自分の犯した過ちに、蒼白になる。
これから先ずっと、聖女は死神の微笑みに怯え続けなければならないのだから。
真っ赤に染まった死神は亡骸を愛おしげに抱え、血の跡を残しながら立ち去っていった。
◆
……――――何かが唇に触れ、喉を伝う。
焼け爛れていた喉が潤い、少しずつ癒されていく。
暗く重い世界から引き上げられて、わたくしは目を開いた。
「………………」
明るく眩しい世界。ぼんやりと霞む視界に誰かの影が映る。
人影が近付いてきて唇に触れ、また甘露が喉を伝う。
口付けられ、何かを飲まされたのだと分かった。
妙に実体感のある感覚に意識が覚醒して、死後の世界ではないと理解する。
「……わたくし、生きて……いる? ……」
毒杯で死んだはずではと混乱し、呟きを溢した。
焼けた喉から発せられたのは、ひどく擦れた囁き声だった。
人影がわたくしを見下ろし、頬にそっと触れて撫でる。
ぼやけていた視界が徐々に鮮明になり、誰なのか分かった。
そこにいたのは、彼だった。
何より愛しい彼がそこにいたのだ。
そして、彼の表情を見て胸が苦しくなる。
彼はとても悲しそうに、微笑んでいたのだから。
「オディールは死んだ」
言い聞かせるように彼は告げ、切なげに笑いかける。
「オデット。それが君の新しい名前だ」
彼はわたくしに新しい名前を与えた。
けれど、それがどうしてなのか分からない。
「……ジーク、フリート、様……どうし、て? ……」
上手く喋れず、途切れ途切れになりながら擦れた声で訊ねれば、彼は眉根を寄せ、心痛な面持ちで目を伏せて語った。
「オディールは罪を犯し過ぎた。どう繕っても極刑を免れないほどに、八方から恨まれてしまっていた。だから……あの女の特殊な能力から、断罪され死ぬ運命は変えられなかったんだ」
それから、強い眼差しで彼は断言する。
「だが、それももう終わった。オディールは死んだのだから」
わたくしを見つめる強い眼差しが、次第に揺らめき、彼の瞳が潤んでいく。
「服毒死を偽装するためとはいえ、あまりに惨い……残酷なことをしてしまった……」
彼はわたくしの髪をそっと掬い上げ、愛おしむように顔を寄せ、唇を付ける。
毒杯の影響なのだろうか、わたくしの髪は輝くほどに白い、銀白に変わっていた。
「あんなに美しかった黒い髪を、鈴を転がす綺麗な声を、こんなにも変えさせてしまった……だけど、私のために毒をも飲んでくれる君が、私と同じ色を持つ君の姿が、何よりも愛しくて狂おしいんだ……」
彼の銀白の瞳から一筋の涙が流れた。
涙は次から次へと溢れ出し、彼の頬を伝い落ちていく。
「君に犯させてしまった罪、それらは全て私の罪だ。……許してくれとは言わない。生涯をかけて、償わせてくれ……私の全てを、君に捧げると誓う」
涙を流しながら、彼は誓った。
「ジーク、フリー、ト様……」
わたくしを生かして、側に置いてくれると言うのか。
稀代の悪女に誑かされ匿ったともなれば、知れたら大変なことになってしまう。
彼の妨げになるくらいなら、わたくしは死んだ方がいい……。
そう考えていると察したのか、彼は真摯な眼差しでわたくしを見つめ告げる。
「君だけが、私の聖女だ」
「……っ! ……」
それが、本当の答え――彼の本心だと、わたくしは確信した。
「愛している。ずっと君だけを」
初めて……初めて、彼が愛の言葉を告げてくれた。
優しい彼はわたくしのことを慮り、自分に縛り付けないようにと、愛の言葉を口にすることはなかったのだ。
彼が愛されていいんだと、思ってくれた。
彼が愛される存在なのだと、認めてくれた。
彼が愛されることを、幸せになることを、望んでくれた。
ああ、嬉しい。嬉しい……こんなにも嬉しいことはない。
喜びに打ち震え、震えてしまう声で、心からの言葉を告げる。
「……はい。……わたくしも、愛しております。……誰よりも、何よりも……」
わたくしの目からも、涙が止めどなく溢れ、零れ落ちていく。
でもこれは、悲しみの涙などではない。これ以上ない、嬉し涙なのだから。
彼にもそれが伝わったのだろう。
ああ、やっと幸せそうな笑みを見せてくれた。
愛おしげにわたくしを見つめ、優しく抱きしめてくれる。
彼の温もりが、彼の鼓動が、わたくしを必要としていると伝えてくれる。
全てを捧げると誓ってくれた彼に、わたくしも全てを捧げよう。
彼が望むのなら、どんなことがあっても生き抜いてみせよう。
わたくしの生涯をかけて、彼を幸せにすると誓おう――。
◆
幾許かの月日が流れ、ジークフリートは王位を継承した。
それに伴い、『色狂いの無能な聖女』と噂されるエリカも王妃の座に着く。
だが直ぐに、嫡子ロットバルトの誕生と引き替えにして、王妃エリカは逝去する。
王妃が命に替えて残した王太子。その姿を見た者達は眉を顰め訝しんだ。
王太子の色は、王の純白とも王妃の漆黒とも違い、似ても似つかなかったからだ。
本来の王家の血が色濃く現れた故か、はたまた王の血ではなく愛人の血が混ざった故か、公爵家の色に極めて近い、黒髪に紫眼の姿で産まれていた。
その後、王はベールに包まれた銀白の美姫オデットを後添えとして迎え、王妃に据える。
王妃オデットは王によく仕え、王太子を実の子同然に愛し、国と民を慈しんだ。
白い王に寵愛される賢妃として世に名を馳せ、『白い聖女』と称えられるまでになる。
翌年、王妃の産んだ御子が同じ色であったことから、王太子が不義の子ではと囁かれることもなくなった。
ただ、歳月を経るにつれ、王太子が成長すればするほど、別の疑念が浮かび上がってはいた。
王太子の類稀な美貌に加え、その怜悧狡猾で苛烈な性質は、過去に断罪された稀代の悪女オディールを彷彿とさせたからだ。
しかし、それを表立って口にする者は誰一人としていない。
歴代の黒い王達よりも遥かに豊かで穏やかな治世を敷く、仲睦まじい白い王夫妻の姿を見れば、自ずと分かる。
王太子は紛れもなく、王の愛する聖女の御子であると。
『――愛しいオデット。君だけが私の聖女だ――』
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