05. 大聖女の再来
その日、強力な聖力が王都だけではなく国土全体をすっぽりと覆った。
不気味な空の薄暗さは突然差し込んだ日の光によって一瞬でかき消え、地を這う魔物が、空飛ぶ魔物が、水中の魔物が、すべてその聖力によって残らず外へと弾き出される。
あまりに強大なその力に王宮は震撼し、国中の聖力持ちは戦慄し、そして一般民衆は歓喜した。
――大聖女ルクレーシャの再来。
新聞の号外が街中を飛び交うなか、当のルクレーシャは王宮の最上階でどこか遠くを見つめながらぼんやりしていた。そんな彼女のそばには、騎士団長であるキースが控えている。控えていたというか、用事があったので立ち寄ったというほうが正しいが。
「さすがですな、ルクレーシャ様」
「うざ。茶化すなら出ていけ」
こちらを見もせずに威嚇してくる不良聖女にキースは苦笑するしかなかった。だが彼女のそんな態度はいつものことだったので彼が怯むこともない。
「お気持ちは分かりますが、他の者たちが怖がるので威嚇するのはほどほどにお願いします」
「…………」
なにやら小さく舌打ちのようなものが聞こえた気がしたが、キースは聞こえなかったふりをした。いちいち突っ込んでいたらキリがないので。
それに、いかなる束縛も嫌い、厭い、ぶっちぎる彼女が不自由極まりないこの場所へと戻ってきたのだ。それを考えると文句を言う気など起きるわけもない。
第一王子により追放された大聖女が王宮に帰還したのは、つい先日のことだ。彼女を連れ戻してくれたのは宮廷錬金術師総帥のカイ・クレヴィオらしいのだが、のらりくらりと誤魔化されたので詳しい事情は未だに誰も聞けていない。
だが、どうやらカイの友人とルクレーシャの友人が同一人物だったらしく、その友人宅にて偶然二人が鉢合わせてしまったらしいという話は耳にしていた。そして不幸にもそこで殺気立った二人が衝突したらしく、その友人宅の家が木っ端微塵に吹き飛んだとかなんとか。全然関係ないキースですら聞いただけで微妙に気まずくなる一件である。
それはともかく、まさかあのルクレーシャが聖女たちの指南役を引き受けてくれるとは思わなかった。もちろん期間限定のことで、彼女のこれまでの功績に報いて多額の報酬を出すという条件付きではあったが。
それでも彼女が再び聖女として力を行使してくれるなどと誰が想像しただろうか。少なくともキースにとっては完全に予想外の展開だった。
「ルクレーシャ様……戻ってきてくださり本当にありがとうございます」
「…………」
「自分はこれから王命に従い魔物の生息地域へと向かいます。しかしあなた様のおかげで国内にいる間は魔物の襲撃を心配することなく安全に進むことができる。感謝してもしきれません」
キースの言葉に、ルクレーシャは一言も答えなかった。別に彼女は感謝されたくて戻ってきたわけではないのだ。むしろ王宮側の人間であるキースが感謝したところで、彼女の胸にはなにひとつ響かない。そんなことは分かっている。それでも感謝したくてわざわざ彼女を訪ねたのは、キースの個人的な感情で。
言うまでもなく、現状の窮地はすべて王宮側の責任なのだ。元凶は第一王子の身勝手な行動だったとはいえ、彼だけの責任ではない。今までの平和な暮らしはルクレーシャの力あってこそだと知っていたのに、それなのに彼女が出て行ってしまうまで誰も動けなかったのだから。
あの時。その場にいながら誰も第一王子を止めなかった。彼が皆の前でルクレーシャを糾弾して他の女性を擁立し、婚約解消を叩きつけ、ルクレーシャがいい笑顔で立ち去るまで、それなりに時間があったはずなのに。
誰も止められなかった。国王陛下が不在だったとか、王子殿下の言葉に異を唱えることなどできなかったとか、そんなのは言い訳だった。
明らかに間違っていることだったのに、誰も止めなかった。誰もルクレーシャを守らなかった。誰も。
結局、一番最初に動いたのは兄の愚行を聞きつけた第二王子だった。父王に判断を仰ぐよりも先に独断で軍を動かし、兄と兄の新しい婚約者を別室に放り込み、そしてすぐさまルクレーシャの捜索に当たらせたのだ。
残念ながら初動が遅れたせいでルクレーシャを保護するには至らなかったようだが、それでも彼はできる限りのことをした。キースや、……他の大人たちとは違って。
「……ねえ、エステラはどうしてる?」
エステラ。あまり馴染みのないその響きに、キースは一瞬反応が遅れた。それが何を指した言葉なのか本気でわからなかった。
しかしすぐに、それがルクレーシャの友人である女性の名前だと思い出した。確かエステラ・アランデル。欠落の錬金術師と名高いあの総帥殿が手放しで褒め称える唯一の存在だ。そして彼らによって家を木っ端微塵にされた紛うことなき被害者でもある。
「アランデル様でしたら総帥殿と一緒に他の宮廷錬金術師たちと顔合わせをしているはずです。こちらにお呼びいたしましょうか」
「いや、いい。あたしが勝手に心配してるだけだし。上手くやってんのならそれでいい」
紆余曲折を経て、現在エステラはなんでかこの王宮に身を置いていた。王命により魔物討伐に駆り出されることになったカイの代理として呼ばれたというのが正当な理由だが、王宮に戻ることになったルクレーシャのことが心配でついてきたというのが本当の理由である。
ルクレーシャの聖力が途絶えていた間に起きていた魔物の襲撃。その傷跡は今も各地に残っており、中にはかなり甚大な被害を受けた地域もあった。そのため国を挙げて復興に尽力しているわけだが、そのために必要ないくつかの希少な素材が不足するという事態が起きてしまっていた。
そんなわけで、カイやキースをはじめとする最精鋭たちが国王陛下により抜擢されて、魔物の生息地域へと赴き素材を確保することになったのだ。おかげでいくつかの要職が不在になってしまい、エステラのような部外者までもがその有能さのせいで穴埋めのため駆り出されるハメになっている。
なお、エステラを推薦したのはカイではなく錬金術協会であった。事情を説明して人材の紹介を頼んだところ、「アレの代わりが務まるのはエステラ・アランデルしかいない」と即答されたらしい。彼らの協会時代が微妙に気になる一件である。
「そういえばアランデル様は薬学系の錬金術に明るいのですか?」
「は? なに急に」
「いえ……ただ総帥殿が新薬開発の分野で多大なる貢献をしておられたので、その業務を引き継がれたアランデル様も薬学が専門なのかと」
ルクレーシャは肩を竦めた。錬金術師ではないルクレーシャには詳しい事情などよくわからない。
「そんなのはエステラに訊いて。でも確か修理と発明が本業って言ってたから、しいて言うなら機械工学あたりが専門なんじゃないの」
つまり薬学はエステラの専門外ということらしい。キースは沈黙した。ただでさえ無理を言って王宮に来てもらったというのに、全然畑違いの職場に放り込んでしまった可能性がある。キースのせいではないとはいえ、あまりにも申し訳ない展開だ。
出立の前に様子を見に行ってみるべきだろうか。悩むキースをよそに、なぜかルクレーシャが誇らしげな顔をした。
「なに、もしかしてエステラの実力を疑ってるわけ?」
「あ、いや、そんなことは……」
「言っとくけど、あんたに心配されるほどエステラは落ちぶれていないから。あたしが言うのもなんだけど、万能型の錬金術師を舐めないほうがいいよ。カイを見てるなら知ってるでしょ。専門外のことでも力業でなんとかすんのがあいつらだよ」
なにせ時間や空間という人間には領域外のことにすら干渉してしまうのが高位錬金術師だ。畑違いの分野だろうとなんだろうと、エステラにとっては大した違いなどないであろう。
「ていうかさ、むしろ自分たちの心配をしたほうがいいんじゃね?」
「……自分たちの心配、ですか? 確かに危険な任務ではありますが、万全の体制で臨む覚悟でおります」
「や、そうじゃなくてさ。危険なのは魔物よりもカイだって話」
ルクレーシャが遠い目をする。不足している素材を手に入れるために他数名と共に駆り出されることが決まったとき、カイはエステラの背中にべったりと張りついて延々ぐちぐち言っていたのだ。
『なにが悲しくて僕がエステラ以外の馬の骨と旅しなくちゃいけないわけ? ついこの間までそこら中に魔物いたでしょ。なんでその時に山ほど素材を追い剥いでおかないのかなあ。ていうか僕とエステラが二人で行けば済む話じゃないの? うわ、名案。ねえエステラ、また僕と一緒に魔物討伐の旅しない?』
なお当のエステラは、背後でぐちぐち言われているにも関わらず「私にはナニも憑いていない」と言わんばかりに完全無視を貫いていた。塩対応に見えるが、こういうときのカイは酔っ払いよりもタチが悪く、下手に構うと付け上がるのだ。なので彼女の対応は正解以外のなにものでもなかった。
とはいえ、カイほどではないにせよエステラも彼にはかなり甘い。以前カイに巻き込まれてバリシード峡谷で無双するハメになった際も、断ろうと思えば断れたのだ。それなのに同行したのは、結局彼を一人で行かせたくなかったからで。
そんな彼女が、今回のような危険な任務へと赴くカイのためになんらかの安全手段を講じないはずがなかった。なので彼の身の安全は保証されている。が、逆にカイ以外の身の安全はまったく保証されていなかったりもする。
「エステラ以外の人間と長期間一緒に過ごさなきゃいけないだなんて、あいつにとっては拷問でしかないだろうからね。うっかり魔物と一緒に討伐されないように気をつけな。あたしから言えることはそのくらい」
ルクレーシャからの謎の忠告にキースが曖昧に頷いた、その時。
誰かが部屋の扉を規則正しく叩く音が聞こえた。
「ルクレーシャ、そこにいるか。入っても構わないか?」
聞き覚えのある少年の声。その声を聞いて、ルクレーシャは珍しく体を起こした。
「……どうぞ。開いてる」
誰が来ようと基本的にダラけている彼女であるが、これでも一応相手を見極めてはいるのだ。
ルクレーシャが返事をして、数拍。開いた扉の向こうには、まだ幼さが残る顔立ちの一人の少年が立っていた。キースがすぐさま膝をつく。
「テオドール殿下」
そう、彼こそがこの国の第二王子。ルクレーシャですら一目置いている、十四歳のテオドール王子だった。
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王宮の最上階でそんな会話が繰り広げられていることなど露知らず、いつもの作業着の上に宮廷錬金術師のローブを羽織ったエステラは、カイから引き継いだ納品依頼書を片手に溜め息をついていた。その様子を見て副総帥たる女がキシキシ笑う。
「どうすんの、総帥代理〜。初めてのオシゴトが無理難題とかドンマイすぎますねぇ、キシシ」
「あんたはその笑い方をどうにかしなさい。個性とはいえ不気味すぎる」
「キシシッ、総帥殿にも毎日言われてましたぁ」
キシシ。そこはかとない不気味な笑いにエステラは渋面を浮かべた。しかし話が通じないほどの問題児というわけでもないので、エステラは無視して依頼書に視線を戻す。目で追うのも馬鹿らしくなってくる内容の依頼書だが、見ても見なくても書かれている内容は変わらないため粛々と納品の目処を立てるしかない。
「いくら自分はやらない仕事だからって、明日中にコレぜぇんぶ揃えて納品して欲しいとか、さっすが我らが総帥殿。超ウケるんですけど」
べシーが愉快そうにキシキシ笑う。笑っているが、常に瞳孔が開いているあたり正気の向こうで狂気が見え隠れしていた。しかし彼女が正気であるかどうかなんて、エステラには関係のない話だ。
「それで結局どうすんの、総帥代理〜?」
「どうもこうも。耳揃えて納品するだけでしょ」
「はあ?」
ベシーが信じられないものを見る目でエステラをじろじろ眺め回してくる。その視線が鬱陶しくて、エステラはそれを払い除けるように手をヒラヒラと振った。
「それマジで言ってますぅ? そりゃ総帥殿のおかげで薬品関係の在庫は充実してますけどねえ。でもこれ、特殊強化ガラスだの雨の中でも消えにくい蝋燭だの、今ちょうど欠品している素材がないと錬成できないモノ盛り沢山で、めっちゃウチらに喧嘩売ってきてますケド」
「欠品してんのはあくまで一般流通での話でしょ。それ以外のところから仕入れてくれば済む話だし問題ない」
一般流通以外。ベシーの目が細められた。ということは、つまり。
「……もしかして、路地迷宮から買い付けるつもりですかぁ?」
珍獣でも見るような目を向けられてエステラは辟易とした。この程度でいちいち驚かないでほしい。
「カイは私に無理難題を押し付けるような意地の悪い真似なんてしないよ。私に路地迷宮のツテがあるって知っているからこその采配でしょ。任された以上は信頼に応えるだけ」
「うげー、マジで路地迷宮に乗り込む気ぃ? 闇市場があんのは上層じゃなくて中層ですケド?」
「だからなに。こちとら最下層の出身だよ。中層なんてわけない」
――路地迷宮の、最下層出身者。
あまりに不穏なその響きに、今度こそベシーは素直に目を丸くしたのだった。