『天才』がいつしか人を指すようになったとき
天才という言葉の意味は、純粋に考えれば『天から与えられた才能』ということになる。
つまり天才とは本来、特定の人や人種を指す言葉ではない。
またその才能は、優れた才能であるとも限らない。
平凡な能力でも、優れた能力でも、あるいは劣った能力だったとしても、それらは等しく、与えられた天才であると考えることができる。
そもそも、だ。
優れたとか劣ったとか、それはどうやって判断するのか。
何か一つ、特定のゲームに強いことが才能などたとしても、だとしたらルールが変わったとき、天才は凡才に墜ちることになる。
例えば何かのスポーツで、あらゆる暴力が許されるというルールになったとしたら?
天才とは、すなわち暴力の才能に置き換わる。
あらゆる武器の使用が許されるようになったら?
その時は、無慈悲さや、財力、あるいは武器を調達する能力が、天才と呼ばれるだろう。
善悪や優劣で差をつけることに意味はない。
秀才も愚才も、等しく天才である。
それがいつしか、優れた才能を指すようになり、次第に優れた才能を持つ人を指すようになった。
いつの間にか、天才が『天から(優れた)才能を与えられた(人)』という意味を持つ言葉になった。
既存のルールに適応できる人を「天才」と呼ぶことで、ルールを盤石にすることができる。
すなわち現行の天才ルールとは、既得権益者による『才能』の独占である。
あの人は天才だから。
そう言って諦める人間が多いほど、天才という言葉は輝きを増す。
勝てないと諦めて、磨くことをやめる。現時点の天才が、それこそを望んでいることにも気づかずに。
天才は、愚才が力をつけることを恐れている。
愚才が秀才となることではなく、愚才がルールを変えることを、恐れている。
愚者が愚者であり続けることをこそ、天才達は真に望んでいるのだ。
現行のルールで天才と呼ばれることのない私たちは、だからこそ考えなくてはいけない。
登り詰めて天才どもを脅かす方法を。
あるいは軸を変えて、自分こそが天才となる方法を。
だからまずは、愚者どもよ。
人に対して「天才」という言葉を使うことを、今すぐやめましょう。
あなたにも天才はある。もちろんかくいう私にも。
それをどう飾りたて、どう活用するか。重要なのは、素材の評価値などではない。
今の天才達には勝てないかもしれない。
でも別に、悲観する必要はない。
そもそも今のルールで、天才達に勝つ必要はない。
あなたにも、あなたの天才があるはずだから。