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早瀬立つ  作者: 秋島武雄
9/13

「ごめんなさい…少し気分が悪いの…」

「それは大変だ。申し訳ない…少し飲ませすぎてしまったようですね」


その時、時刻はすでに夜の九時を過ぎていたと思う。

気が付くと、あたしは藤堂と二人で、静岡の繁華街を歩いていた。


あたしはただでさえ飲めないお酒をたくさん飲んだせいで、目が回るような感覚に襲われ、足元がおぼつかない。


ふらつくたびに、藤堂に引っ張られ、立ち止まっては歩き、立ち止まっては歩きを繰り返した。


どうしてこんなに酔ってるんだろう……


あたしは猛烈な頭痛を感じながら、夕方の結婚式の二次会を抜け出した後のことを思い出していた。


あの後、あたしは藤堂の知っているとても洒落た静かなバーに連れていかれた。


「何飲まれます?今日は私がすべて出しますので、どれでもお好きなものを」と言われたが、もともとあたしはお酒が飲めない上に、メニュー表に書かれた謎のカタカナたちが何であるのか、まったくわからなかった。


あたしが戸惑っていると、藤堂は「智沙さんはカクテルなど飲まれますか?」などと聞いてくるので、あたしは正直に「あたし、お酒は飲めません」と言った。


すると、藤堂は「ふっ」と吹き出した。


「いや…失礼。お酒が飲めないとは、つくづく可愛いなぁと思いまして」


バーのカウンターに肘をつき、足を組んで座る藤堂のその言葉に、あたしは何も飲んでいないのにすでに酔ってしまっていた。


「何事も挑戦」という藤堂の言葉に踊らされ、人生で初めてカクテルというものを口にした。


それからというもの、あたしは自分でも驚くくらい饒舌じょうぜつになっていった。


これほど自分に話すことがあるのか、と思うくらい。


それから何軒も何軒も店をまわって、あちこちでいろんなお酒を飲んだことは覚えている。


しかし、そこで何を話したか、正確には覚えていなかった。


ただし、あたしが結婚していることは結局話してしまった。


そこから結婚生活の愚痴ぐちを言い始めたあたりから、それまで勧められて飲んでいたお酒を、自分から飲むようになったことだけは覚えている。


最後の店のあたりから、あたしは猛烈に気持ちが悪くなった。

これはいつものなんとなくの吐き気ではない。

あたしは完全にお酒に酔っていたのだ。


「ごめんなさい。飲みすぎてしまったみたい。少しどこかで休みたいわ」


朦朧(もうろう)とする意識の中で、ついそう言ったことが、すべての失敗の始まりであった。


あたしがそう言いながら、藤堂にしなだれかかると、彼は「心得た!」とばかりに、「では、いいところがありますよ」とあたしをある場所に引っ張っていった。


藤堂に連れてこられたそこは静岡の町の中でも、あたしが特に知らないエリアだった。


けばけばしく光るネオンや派手に光る電飾看板に彩られた、やたら料金を詳細に書いた看板が掛かる、見るからにあまり品の良くなさそうな店たちが並ぶその場所は、こんなことがなければ、もしかしたら人生で訪れる機会など一度もなかったかもしれない場所であった。


その近くの路上にいる人たちは、大声で話したり、なぜか異常に馴れ馴れしくあたしに話しかけてきたりする。


だが、あたしはこの頃は酔いに任せて気が大きくなっており、わざと慣れない感じを出して藤堂の腕に自分の腕をからませてよりかかり、小さな胸の膨らみを精いっぱい藤堂の腕に押し付けた。


あたしはどこで覚えたのか、それとも女としての本能か、こうすると男が理性を失うことを知っていた。


すると彼もいよいよその確信を得たのか、足取りを早くする。


実際には今にも吐きそうなあたしは、正常な思考を失っていることもあって、生唾をなんども飲み込みながら、彼に引っ張られるに任せていた。


藤堂はこういう場所に行き慣れているのか、頼もしくあたしの腕をからめせると、スタスタと歩いて迷わずにある一つの建物にあたしを連れて行った。


そこはえらく暗い場所であった。


床には柔らかすぎるふかふかの絨毯が敷かれており、高いヒールを履いたおぼつかない足では、何度も転びそうになった。


中には誰もいなく、外の喧騒が嘘のように静かであった。


そのとても暗い暗いエントランスの中に部屋の内装の様子が示されたパネルがあった。


ここにもやたら詳細な料金表が掛かっていた。


暗いエントランスの中で、光るパネルは眩しいほどであった。


藤堂は極めて慣れた手つきで、そのパネルたちの中の一つのボタンを押すと、下から自動でカードキーのようなものが出てきた。


一切、他人と会うことなく、チェックインできるその意外にハイテクな仕組みに、あたしはこの間だけちょっと吐き気を忘れた。


「ここ、どこ?」


「ホテルですよ。ちょっとここで休憩しましょう」


ホテルはホテルでも、それはいわゆるラブホテルであった。


さすがのあたしでも、そんなことぐらい薄々感づいていたが、まさかこういうところに本当に来ることになるとは……


―ラブホなんて初めて…


通常のあたしの生活の中では、絶対に訪れない場所。

その艶めかしい雰囲気は、禁忌きんきを犯している、しかし、後ろめたさの中にある魅力を猛烈に放っていた。


それに完全に魅せられたあたしは、いっさいのためらいも持たずに、のこのこと彼のあとについていった。


彼はなぜかこういう施設にとても慣れていた。

だが、酔って理性を失ったあたしは、彼がこういうところに慣れているということについては何も考えなかった。


廊下は相変わらず薄暗かった。

そして異常なほどに静かである。

エレベーターで上の階に上がると、そこで初めて人と行き合った。


ホステスのような、肩も胸の谷間も丸出しにしたけばけばしい赤い色のドレスの長い髪の女が、禿げた中年の男性に寄り添いながら歩いてきた。


すれ違う瞬間、あたしも藤堂も、赤いドレスの女も、禿げた中年の男も一斉に顔を伏せて、お互いの顔を見なかった。


部屋に入ると、その中はどこかカラオケボックスを大きくしたような安っぽい作りであった。


中央に大きなダブルベッドがあり、その手前に小さなテーブル、その前にソファ、それからテレビや冷蔵庫などの調度品が一通りある。


しかし、天井からいろいろな色の照明がギラギラと光っている割に、部屋は妙に薄暗い。


窓が一切ない造りであった。


いや、窓はあるのだが、板で()め殺しにしてあるのである。


廊下は静かだったのに、部屋に入るなり、何か有線的なBGMがかかっている。


藤堂はやはり手慣れた手つきで、ベッド際の操作パネルをいじってその音楽を消した。


「さ、ここで少し休みましょう。お水飲みましょうか?」


再び部屋に静寂が訪れると、藤堂が言った。


「すいません…何から何まで…」


「いえ。僕がいけなかったのです。智沙さんがお酒にこんなに弱いとは知らなかったので」


「あたしも自分がこんなに酔ってしまうなんて知らなかったので…」


「先にシャワー浴びます?」


「シャワー?」


なぜシャワーを浴びる必要があるのか。あたしはよくわからずに聞き返した。

というか、シャワーまであるのか、とまた妙なところで感心してしまった。


「いいですか?」


藤堂は少し戸惑った表情を見せた。


「ま、座りましょう」


そう言うと藤堂はベッドの方にあたしを座らせた。


「疲れました?」


「ええ、ちょっと飲みすぎてしまったようで」


「申し訳なかった……私もまったくもって配慮に欠いていました。お酒に弱いことをもっとちゃんと私が認識していれば……申し訳ない」


藤堂はそう言うと立ったまま深々と頭を下げた。


「違うのです!あたし、今日、藤堂さんにいろいろ話を聞いてもらえたことが嬉しくて…今まで誰もあたしの話なんて聞いてくれなくて…あたし、とてもとても苦しかったんです…それに……」


「それに……?」


「藤堂さん、あたしのこと可愛いって言ってくれた。そんな人、はじめてで…」


あたしは酔いに任せて、そう言うとくっと顔を伏せた。

恥ずかしかったのではない。気持ち悪かった。

本当は今にも吐きそうで、トイレに行きたかった。


「しかし、僕には不思議だ。智沙さんのようなこんなに可愛くて健気な女性を大切にしない男がいるなんて」


言うと藤堂は急にあたしに近づき、あたしの肩を両手でぐっとつかんだ。


あたし、一体藤堂に何の話をしたんだろう?

夫のことを話したのだろうか?

ま、いいか。


あたしはそう思った。


「智沙さん、あなたはとても魅力的だ。こんなに可愛い女性は今まで出会ったことがない」


酒臭い息をふきかけられたが、今まで誰にも言われたことのない言葉だけに、あたしはお酒によって真っ赤になった顔をさらに紅潮させた。


「そんな…あ、あの……あたし……」


藤堂は戸惑うあたしの肩にかけた手に力をこめた。


あたしは藤堂にベッドに押し倒され、ほぼ同時に藤堂があたしの上に覆いかぶさった。


「んんっ…」


無理やり唇が押し当てられ、同時に藤堂の手があたしの着ているドレスの背中のファスナーを下ろし始めた。


「あ…あの…」


一応、あたしは拒絶の意思を示してみた。


こういう恥ずかしがって嫌がる態度が、かえって男の心に火をつけることを、あたしはなんとなく知っていた。


「…嫌です?」


「ううん…」


あたしははっきりと拒否をしない自分に酔いしれていた。


―ここは「早瀬」。人生の「早瀬」。いつも渡るのを躊躇ちゅうちょしていたけど、たまには「早瀬」に挑んでみたいものだわ…


酔ってすっかり理性を失っているくせに、あたしはそう思いながら、頭の中に馴染み深いあの富士川の光景を思い起こした。


あたしがそんなことを思っている間に、藤堂の手によってファスナーは完全に下ろされ、彼はあたしのドレスの肩紐をゆっくりと外していく。


だが藤堂も緊張しているのか、手は心持ち震えているように見える。


どちらにせよ、肩紐はなかなかあたしの肩からうまく外れない。


一応、パーティー用のドレスを乱暴に扱ってはいけない、という気遣いもあるのかもしれないが、あたしは、


―焦っちゃって…かわいい…


と思うことにした。


さきほどまで、あれほど悠然としており、女性慣れしているように見えた藤堂は、今は早くあたしの裸を見たくて焦っている。


はじめて自分が誰か他の人を魅了しているという妙な満足感があたしの正常な思考をさらに妨げ、興奮させた。


―いいぞ、いいぞ。あたしはこの「早瀬」を悠然と渡ってる……


いよいよ肩紐は外され、藤堂はあたしのドレスの生地を下にずらした。


誰にも見せたことのないあたしの身体が今、藤堂というこの日出会ったばかりの男の前にさらけ出されようとしていた。

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