七
静岡の町には本当に久しぶりに来た。
東京や横浜といった場所と比べたら、この静岡などたいしたことはない地方都市かもしれない。
だが、富士宮や南部町で多くの時間を過ごしたあたしにとって、静岡は大都会で、その先にある横浜や東京は未知なる宇宙のようなものであった。
短大生だった頃は、毎日身延線と東海道線を乗り継いで一時間ほどかけて、この静岡まで通学していた。
だが不思議と懐かしいという感情は湧かないし、かつて駿府と呼ばれていたこの町のことをあたしは何も知らない。
短大時代は友達も少なくて、印象的なことは何も起こらなかったし、富士宮までの電車がそれほどないこともあって、友達と夜遊びに興じたこともほとんどなかった。
毎日電車で静岡駅まで来て、雑踏の中を肩をすぼめて怯えながら歩き、学校へ行く直行バスに乗って授業を受け、用が済めば、また同じ手段で帰る。
あたしの短大時代はひたすらその繰り返しであった。
予約してあった美容室でヘアセットをしてもらうと、ちょうどいいくらいの時間になったので、そこから至近の距離にある会場となっているホテルに向かった。
結婚式はかなり大規模なもので、きっとそのホテルにある披露宴用ホールのなかでも一番広いものが使われているらしかった。
二人の結婚をスポーツ新聞の号外風に報じたものを無理やり渡された時から、さっそくあたしはこの雰囲気に嫌気がさし始めた。
どうも結婚式というのは、茶番臭くてすごくて苦手だ。
本物のキリスト教徒が見たら激怒しそうなくらい、いかにも日本人の結婚式のためだけに作られたような教会風のセットの中で、外国人神父が(たぶんわざとそうしているのであろ)下手くそな日本語で「あなたは妻を生涯にわたって支え、助け合い、その一生を幸せにすることを誓いますか」という言葉を聞いていると、少し眩暈がするくらいだった。
あたしは他人の結婚式に参加すると、いつも斜に構えて、いらぬツッコミばかりいれてしまう。
ちなみに、こんなあたしだから、夫との結婚式はきわめてシンプルに、親族だけでとり行った。
それに対するひがみというものはいっさいないが、概して結婚式というのは別に大してめでたくもないのに、会う人会う人に「おめでとうございます」と心にもないことを言わなければならず、実に大儀だ。
だけど、そんなことよりも目下の課題はどうすればミーコからの横浜から静岡に場所を移したマウント合戦を避けられるか、ということである。
しかし、天の助けか、あるいは偶然か、渡された席次表を見ると、あたしの両隣ともミーコではなかった。
ミーコは同じテーブルではあったものの、対角線上、一番遠いところに位置していたのだ。
しかし、ほっとしたのもつかの間。
いざテーブルについてみると、左隣に短大時代、それほど仲が良いわけではなかったケイが座った。
ケイは今、静岡のIT企業で働いているという。
在学中からあまり笑わず、常にすまし顔で、それほどあたしと関りがあったわけではない。
同じ授業がいくつかあったから、同じグループにはいたが、あたしにとっては苦手な部類であった。
「智紗は最近どうなの?結婚生活はうまくいってんの?」
ケイは学生時代と変わらない、相変わらずツンとした表情でそう言った。
学生時代は美人で一匹狼。そして向上心が強いケイのことを、他のみんなは憧れの対象としてみる向きが多かった。
あたしは、学生時代からずっとケイに対して憧れもなかったし、羨ましいとも思ったことはなかったから、かえって隠し事などもしなかったし、聞かれたことは素直に何でも答えていた。
だが、そんな何も考えずに、ありのままに言った言葉、一つ一つがケイには気に入らなかったようだ。
「…ふぅ」
ケイはあたしの話を一通り聞くと、ちょうど運ばれてきたワイングラスに口づけながら、短い溜息をついた。
「こんなおめでたい場で、聞く話じゃなかった」
あたしは何が彼女を不機嫌にさせたのかよくわからなかった。
夫との生活が退屈であることがいけなかったのであろうか。
自分は聞かれるがままに、ありのままの自分の近況を語っただけなのに。
だが、時間が経って少しケイとの間にいよいよ気まずい空気が流れ始めると、あたしもケイの言う通り、友達の結婚式というめでたい場で、結婚生活がうまくいっていない話などするものではないと思った。
だが、後悔してももう遅い。やっぱ、あたしは馬鹿だ。
―こんなところに来てまで…
惨めですっかり肩をすぼめて俯くあたしを、ケイはまるで見下すように見ながら、ワインを飲むと、呆れたような表情で言った。
「そんなに旦那さんのこと嫌いなら、文句ばっかり言っていないで智紗も働けばいいじゃない?働くと世界は変わるわよ。あなたは専業主婦だからいけないのよ。もっと他の人との交流を通して人間を磨いて、ついでにお金を稼ぐ苦労も知ったら、世界が変わるかもよ?」
そうして、ケイはあたしが一番言われたくないことを、サラリと言った。
彼女の言葉は本質をついていた。
だが、本当のことを指摘されると、人は腹を立てる。
「働かなきゃいけないんだったら、あの人とは結婚しなかった」
「へぇ…もとから専業主婦志望だったの?」
「ふぅ」
珍しくケイは小さなため息をついた。
いつもあまり感情を表に出さないケイには珍しかった。
「だったら相手の文句言うもんじゃないわ。旦那さんの稼ぎがなきゃ、あなたは生きていけないんだから」
あたしはこの時になって、ようやくありのままのことなど、めったに言うものではないな、と思った。
僅かでもあった「同情してもらえるかもしれない」との思いは、この時一気に吹き飛んだ。
「そう言われれば、そうかもしれないけどさ……」
苦し紛れにそう言うと、ケイはさらに追い打ちをかけた。
「そんなに弱くてどうすんのよ。智紗は昔からそうね。常に自分が一番弱くて、可愛がられなきゃいけない。何か至らないところがあっても、常に誰かに『かわいそうねー、いい子、いい子』ってされて、かばわれなきゃいけない。でも、そんなんじゃ人間生きていけないわ。だって、智紗をかばってくれる人がいなくなったら、どうすんのよ」
ケイはそう言って、グラスのワインをまた一口飲むと、ウェイターを呼んだ。
「ワイン。同じの」
ウェイターに目も合わせず、彼女はそう言い放った。
―酔っているのかな?
その態度にあたしはそうも思ったが、話し方も振る舞いもいつも通りだった。
そもそもケイは、いっさい飲めないあたしと違って、学生時代からお酒に強く、酔って饒舌になるような人ではなかった。
―でも、酔ってないなら、この場でそんなこと言う必要ある?
あたしはそう思うと急に怒りがこみ上げてきた。
友人の晴れの場で、あたしはケイから人格を否定された。
ミーコといい、ケイといい、どうしてあたしのことをこんなに馬鹿にするのだろう?
あたしはそう思い、向こう側にいるミーコを見た。
ミーコは隣の友達とのおしゃべりに夢中だが、隣で彼女の話を聞いている誰かは案の定、少々うんざりしたような顔をしていたのが笑えた。
―ああ、またマウント張ってるのね……
そう思い、呆れつつも、目を自分のいるテーブルに向ければ、またウェイターがケイのグラスにワインを注いでいた。
―よく飲むなー
あたしはそんなケイの様子を呆れ顔で見ていた。
だけど、悔しいがケイの言っていることはすべてが真実であったと思った。
あたしはケイの言う通り、常に誰かに甘え、誰かにかばわれ、誰かの庇護のもと生きてきた。
ケイの言うことを否定するつもりはない。
だが、だからと言って自分の生き方を変えるほどの強さもあたしにはなかった。
それが情けなかった。
何かケイに反論したい気もしたが、顔を上げてケイの方を見る元気さえなくなってしまった。
ケイの方もそれ以上、あたしの方に顔を向けてはくれなかった。
というより、あたしに目さえ合わせてくれなかった。
―みんなあたしのことが嫌いなんだ。
直感的にそう思った。
あたしはこの瞬間から静岡という町が嫌いになった。
この町にも、そしてこの場所にいるすべての人とも今後、二度と会うまいと思った。
出てくる料理もデザートも豪華でめったに口にできないものであったが、美味しいとは思わなかった。
―いいんだ、いいんだ。もともと結婚式は綾瀬を離れる口実。お母さんに会うためだけなんだ。この時間は余計な時間なんだ。あと数時間我慢すれば、あたしは山梨のお母さんの家に戻れるんだ。そこからが本番なんだ…
そう自分で思わせた。
確かに自分で何でもかんでも道を切り拓いていったケイにとっては、常に他人に依存し、ひ弱なあたしのことを嫌悪しているのかもしれない。
結婚式の終わりまで、とうとうケイとあたしは口をきかなかった。
しかし、なぜかそれはあたしの方に非があると思うと、ただただ情けなかった。
だけど、ケイと話すという方策がなくなると、あたしは一人ぼっちでやることがなくなってしまった。
仕方がなく、この日の主役たちの方に目を投じる。
しかし、ステージで展開されているのは、
・耳が痛くなるような大音量で流れる二人のこれまでの人生を綴ったビデオ。
・誰か知らない偉い人たちの長い話。
・まったく興味がないケーキ入刀。
・いかにも田舎のヤンキーが好むようなポップスを素人が熱唱するという耳をふさぎたくなるような余興。
・他人のことなので、まったく感動的ではない両親への感謝の手紙の朗読。
あたしは自分が何も悪いことをしていないのに、ただひたすら拷問に遭っているかのような感覚で、それらを見つめていた。
だけどもっとも苦痛なのは、誰と何を話すわけでもなく、ひたすら運ばれてきた料理を口に運ばなければならいことであったかもしれない。
まあ、もっともそんな惨めなあたしのことなど、誰も気にしてないかもしれないけれど。
だが、どんなものにも必ず終わりがやってくるものだ。
二時間半ほどでその拷問は終わった。
―やっと帰れる…
あたしはそう思った。
だが、災難というのは立て続けに起こるものである。
「二次会は何時からだっけ~?」
周囲からそんな声が聞こえ始めたのである。
結婚式、披露宴、そしてそれよりもさらに耐え難いのは二次会であった。
披露宴の時点で不快さはマックスなのに、さらにこれからもっとあたしが苦手そうな二次会に、参加することになっていた。
あたしは最初こそ、二次会に行くことには難色を示していた。
しかし、今日、あたしが実家から来ていることは、すでにみんなに知られている。
すなわち、みんなのあたしの扱いは暇人。
暇人がなんで二次会に来ないのか。
あたしが二次会に行かないと自然、そういうことになってしまう。
隙あらば閉式の混乱に乗じて、帰ることも可能であった。
だが、あたしみたいな臆病者は「それじゃ、これで」とそのまま帰る勇気さえないまま、なんとなくロビーに突っ立ていると、運悪くミーコたちの群れに遭遇してジ・エンド。
そのまま、なんとなくの流れで二次会へ向かう濁流へ巻き込まれてしまった。
ミーコたちはあたしをその流れに引き込んでおきながら、あまりあたしに構うそぶりを見せない。
あたしは集団の一番後ろからただ黙って、その群れについていく。
この惨めさは、もしかしたらただ座って料理を食べていればいい披露宴以上のものであったかもしれない。