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早瀬立つ  作者: 秋島武雄
6/13

ミーコとは二度と会わない。


そう決めておきながら、また彼女と会う羽目はめになってしまったのは、それから一か月ほど経った盛夏の頃であった。


ミーコと横浜で会った翌日、別の短大時代の友人から結婚式の招待状が来たのだ。


もっともこの結婚式の招待状が来ることは、半年前からわかっていたが、あたしはすっかりこの場にミーコがいることが頭の中から抜けていたのだ。


この招待状は儀礼的なもので、あたしはすでに招待状の主に対し、出席することを伝えていた。


しかし、横浜でのことがあったから、出席すれば、ミーコとまた顔を合わせることになるのは気が重く、なかなか返事は出せないでいた。


だが、考えてみれば式が静岡で行われるのに合わせて、久しぶりに山梨・南部町の実家に帰省する口実ができた。


ミーコと再会する災難と、久々に母に会えることを天秤てんびんにかけた結果、あたしは式に出ることにしたのだ。


普段、吝嗇りんしょくな夫は、なぜかこの時は帰郷のための往復の新幹線代などの交通費も結婚式で出す祝儀も、それからあたしのヘアセット代もいっさい出してくれた。


守銭奴の彼からしたら、そんなのお金ははした金なのだろう。


とは言え、あたしが稼いだお金ではないから本来はありがたく受け取らなければならない。


でも、あたしはこんなに気前よくお金を出してくれる夫に素直になれなかった。


―あたしがしばらくいないのが、そんなに嬉しいのかしら…それとも別の女でもできていて、あたしが留守中にその人と会うのかしら…


意気揚々とわざわざ横浜駅まで行き、新幹線のチケットと乗車券を買ってくる夫に対し、あたしはひたすらいらぬ邪推じゃすいをしてしまった。


おまけに出発の日にいたっては、荷物が多いからと、最寄り駅まであたしを送ってくれるとまで申し出ると、いよいよあたしは夫の真意を知りたくなった。


「ねぇ、あなたはあたしにそんなに帰って欲しいの?」


最寄り駅の改札前での別れ際、あたしは夫にそう言ってみた。


「へ?なんで……?」


彼からはあたしの求める明確な答えは返ってこなかった。


「いない間、存分に羽を伸ばしてくださいね」


あたしはこの言葉を皮肉で言ったつもりだったが、夫は満面の笑みで「うん」と答えた。


夫の言葉に勝手にイラつき、勝手に呆れてしまったあたしは、まったく無表情なまま「送ってくれてありがとう」と言って、夫の持ってくれたあたしの荷物をひったくるように奪った。


「横浜と新横浜で、迷わないようにな」


夫は最後まであたしの不機嫌を理解していないようだった。

いや、もしかしたら少しはわかっているのかもしれないけれども、早くあたしと別れて一人になりたいような雰囲気であった。


「あたしが…山梨に帰っている間、ご飯どうする?」


「自分でやるに決まってるだろう。今までずっと一人だったんだ。また元に戻るだけさ」


「…そう」


少しでもあたしがいなければ困る、といった言説を引き出せないまま、あたしは諦めて改札口を入り、ホームへ向かう途中、一回だけ振り返った。


遠くにいる夫が、あたしを見て大きく手を振っていた。


―ああ、嬉しそう…


あたしは一つため息をついた。


夫から渡された切符で相鉄線で横浜駅へ向かい、地下鉄に乗り換え、新横浜から新幹線に乗った。


―でも大丈夫よ。あんなブ男で甲斐性なしに他に女ができるはずないわ


地下鉄に乗ってぼんやりとそんなことを考えていると少し気持ちが楽になり、次第に気分は母に会える喜びへと向いていった。


三島までの「こだま」の車中で、車内販売のサンドウィッチとオレンジジュースを買って食べていると、小田原に着く手前頃から雨が降ってきた。


酒匂川(さかわがわ)の鉄橋を渡る頃には雨はずいぶんと強くなって、窓に水滴の筋がいくつもいくつも風によって横に流れていく様子を、あたしはじっと見つめていた。


しかし、その雨は三島に着くとやんでおり、かわりに雨上がりの猛烈な蒸し暑さにあたりは包まれていた。


三島から島田行きの普通電車に乗り換え、富士まで来ればあとは自分の()()()()()と言っても過言ではなかった。


富士の駅で身延線のホームに降りてきた時には、すでに時刻は午後の二時を回っていた。


甲府行きの電車に乗り、製紙の煙で賑わう富士の町を後にすると、まもなく富士宮の市街地に達した。


この富士宮こそ、あたしの両親がまだ離婚する前に一家三人で暮らしていた町であった。


まだ家族が三人だった頃の楽しい思い出も、離婚をめぐって毎日家が重苦しい空気に包まれていた記憶も、酸いも甘いもすべてがこの町には内包(ないほう)されていた。


だからあたしは、この町を車窓からでさえ見たいとは思わなかった。

富士宮の市街地を抜けると、あとの車窓から見えるのは山ばかりになった。


空はまるであたしの心を映すかのような重苦しい曇天だった。


時々、思い出したかのように霧雨のような雨が混じり、電車の窓を濡らした。


富士川沿いに進む鉄路は、カーブが絶え間なく続き、酔ったのか疲れたのか、あたしは芝川(しばかわ)の集落が過ぎた頃を最後の記憶に眠ってしまった。


次に起きた時、ちょうどあたしは実家の最寄り駅に電車が停車していることに気づき、慌ててプラットホームに飛び降りた。


何はともあれ、無事に南部まで来たことを母にスマートフォンのメッセージ・アプリで送った。


母の実家の最寄り駅は、目の前の富士川に沿って走る県道沿いに設けられた小さな無人駅である。


あたりに集落らしい集落もない、当然駅前広場も何もないこの駅から、母の実家は歩いて十五分ほど、富士川の対岸の集落にある。


この無人駅の駅前にはベンチすらなく、車止めの黄色いポールに腰をかけながら、あたしを母を待った。

電車が行ってしまった後は、時折、目の前の県道を行き過ぎる車の音がする以外、東海道一、いや日本一の急流とされる富士川ふじかわの流れの音だけが響く。


早瀬はやせ()つ 富士の川水かわみず けさぞ渡らん


駅前にはそんな句が書かれた自然石でできた大きな歌碑が立っている。


あたしには子どもの頃から、誰が詠んで、なんでここに歌碑があるのかもよく知らない、この歌が好きだった。


だが反面、その意味をあまりよくわかっていなかったので、昔、この歌の意味を母に聞いたことがある。


―東海道一の早瀬、富士川を今朝こそ渡るぞって覚悟して行く旅人の心情を詠んだのよ


母はそう教えてくれた。

だが、母はこの歌のことを「へたくそ」と言い、ここにこの歌の歌碑がある理由も、誰がこの歌を詠んだのかも興味がない様子であった。


それにも関わらず、あたしはここに立つたびに、この歌を(そら)んじながら、、澄み渡った朝、着物を着て菅笠すげがさをかぶった旅人(あたしの貧弱なイメージで想像した昔の旅人の姿だ)が、この早瀬に臨む姿を思い起こす。


だけど同時にあたしはいつも人生の「早瀬」を渡る覚悟ができず、向こう岸に行くことができない自分のことを思っていた。


「ピッ!」


そんなことを考えながら下を向いていると、突然クラクションが聞こえた。


そして向かい側からやってきた軽自動車があたしの前で止まった。


「智沙ちゃん、お帰り!」


運転席から助手席の窓越しに母があたしに手を振った。


「お母さん!」


あたしは母の顔を見るなり、今までの陰鬱(いんうつ)が一気に吹き飛んで、意気揚々と助手席のドアを開けた。


「疲れた?」


「うん。でも、スムーズに帰れた!ところで車、新しくしたの?」


「そそ。前のも十五年乗ったからねぇ…今年の四月。まだ新車の匂いすんでしょー!でも、ほらぁ、木元のおじさん、覚えてる?ほらぁ、あの釣り好きの。あそこんちは三年前に買い替えたばっかなのに、この前、また買い替えた。あの一番新しいプリウスに!」


母はいきなりエンジン全開で、積もりに積もった話の一端を猛烈な勢いで話してきた。


そういえばあたしが自分の結婚式をした時、山梨の田舎から出てきた母のこのとめどない明るさと、訛りが恥ずかしくてしかたがなかったことを思い出した。


しかし、それも今となっては身に染み入るような温かみを持っていた。


「お母さん、あたし、お腹空いちゃった!」


「なに?食べてないの?」


「新幹線の中でサンドウィッチ食べたけど、少しだけだったから」


「じゃ、帰ったら素麺茹でるねぇ…いっぱいあんの!ほら、毎年、山本さんが持ってきて来るんだけど、食べきれないくらいあんの!」


家に帰ると、あたしは真っ先に一番奥の和室になだれ込むように入り、畳にゴロンと横になった。


「あー疲れたー」


開け放たれた広縁の向こう側に広がる庭に降る雨の音を聞きながら天井を眺めた。


「おじいちゃんもおばーちゃんも、元気にしてるー?」


台所で素麺を茹でている母に大きな声で尋ねたが、母は聞こえないようであった。

あたしは顔を庭に向けた。

気が付くと雨は本降りになっていた。

雨で少し冷えた風が吹き抜けるのと、畳の香りの心地よさにあたしは少しの眠気を感じた時だった。

スマートフォンが鳴っているのに気づいた。


―誰だろう?


あたしは画面を見ると、夫の名前が表示されていた。

話によると、夫はこの日は夏休みであるから、朝早くから職場である学校に行く必要はないのだけれども、残務があるから、あたしを送った後、車で職場に行ったらしい。


そうなると時間的に夫は職場からかけているらしかった。


―何かあったのかな…


あたしは不安になって慌てて電話をとった。


「あ、明…さん?」


「あ、智沙かい?」


何かあったのかと思ったのに、相手はずいぶんと呑気な声であった。


「無事に着いたかい?」


「うん…着いたよ…さっきだけど…」


「そうかい…そっちは雨はすごくないかい?こっちも今、ものすごい雨だよ」


夫の声にあたしは生返事しかできなかった。


正直、やめてほしかった。


せっかく母の実家に帰り、夫のことを何もかも忘れられると思っていたのに、わざわざその存在を思い起こさせる電話をするなんて。


いや、無事に着いたことを心配するのはまだいい。

でも、それならラインか何かでしてくれればいいのに……


そう思うと、ボロボロと涙があふれてきた。

わけがわからなかった。あたしはなぜ泣いているんだろう。


夫のことを思い出したから?


ミーコと会わなければならない明日の結婚式が嫌だから?


それとも何か他の理由があるの?


田舎の母のもとに来て、感傷的になっているから?


わからなかったが、涙が止まらなかった。

しかし、受話器越しでは鈍感な夫はあたしの異変に気付くはずもなかった。


「ところで智沙、結婚指輪していかなかっただろ?」


「あ、忘れてた…」


忘れていたも何も、あたしは普段から結婚指輪をすることなど滅多になかった。

どうして今日に限って、結婚指輪をしていないことを指摘するのだろう。

あたしは疑問に思った。


「ま、結婚式だもんね。お母さんからなんかダイヤの飾りでもついているやつでも借りていった方がいいよ」


夫は少しぶっきらぼうにそう言うと「じゃ、まあ元気にやってくれ」と言って電話は切れた。


「智沙ちゃーん、できたよ」


そうしているところへ、ちょうど母の呼ぶ声がする。


あたしは慌てて涙を拭くと、「はーい」と元気よく返事をして居間に向かった。


やがて、ものすごい厚い雲がかかっているのか、居間の中は暗くなり、さすがに電気をつけなければならなくなった。


昼間なのにこんなに暗いのも珍しい。

夫が話していた厚木の雨雲が、ここにも来たのだろうか。


「すごい雨が来そうねぇ…さっきテレビで出てたけど、峡南(きょうなん)地方は雷警報だってさ」


外の雨はまるでシャワーのように強く降り注いでいた。


「明日の結婚式は何時から?」


素麺をすすりながら、母は私にそう問いかけた。


「十一時……でも、静岡でヘアセットするから、朝から出ていく」


「そうかい。お母さん、何時に送っていけばいいかな?井出駅まででいい?それとも富士まで送っていくかい?」


「井出駅で大丈夫よ。朝は畑仕事で忙しいでしょ?」


「なんの。勤め人とは違って畑仕事なんていつでもできる。富士川沿いにずっと行けば富士は案外近い」


「大丈夫、大丈夫」


あたしは言いながら、素麺をすすった。

明日の結婚式のことはあまり考えたくなかった。


「明日のドレス、出しておいたから。いいわね。明日の智沙ちゃんを見るのが楽しみ」


母は無邪気にそう言った。

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