五
翌朝、起きると夫の方が先に居間にいた。
結局、今日が楽しみすぎてなかなか眠れなかったあたしより早く寝ただけ、今朝は何の予定もない彼の方が早起きであった。
早々と朝食を済ませると、夫に「夜まで帰らない」と言い残して家をあとにした。
相鉄線の電車を待ちながら、プラットホーム越しに見えるごみごみとした街並みを、あたしはぼんやりと見渡した。
今日、わざわざ静岡から出てくる友達のミーコは、あたしが高校までを過ごした富士宮に今も住んでいて、あたしがいまは神奈川に住んでいることをことあるごとに羨ましがる。
あたしだって、最初、結婚して神奈川に来れると聞いた時はちょっと嬉しかった。
何しろ今まで住んでいた富士宮は静岡の地方都市で、一言で言えば典型的な田舎だ。
そんな田舎者のあたしには神奈川と聞けばすべて都会に思えた。
ところがどうだろう。この現実は。
まぁ、本当はあたしくらい馬鹿でも考えればわかるはずだった。
神奈川にだって地方都市があるということを。
あたしたちが住むここ綾瀬は何となく雰囲気が富士宮とそう変わらない。
唯一違うところと言えば、電車一本ですぐに横浜という大都会に行けることぐらいだ。
だが、そうかと言ってあたしみたいな田舎者が横浜まで行って何をするのか、という話。
横浜にすぐ行けるメリットなど、あたしは何も享受していなかった。
休日の横浜の街は相当の人出だった。
子どもをたくさん連れた家族連れに、デートなのだろうか、手をつないで幸せそうなカップル。
もちろん、そうではない人もいっぱい歩いているのに、いやにそういった人たちばかりがあたしの目につく。
―死ねばいいのに…
そんなよくない言葉が自然と脳裏に思い浮かぶ。
でも、そんなささくれた思いが、自分の惨めさの裏返しであることに気づくと悲しくなった。
そんなところに、精いっぱいおしゃれをしてきたつもりなのに、横浜の百貨店の入り口で待ち合わせた、静岡から来たミーコのほうが、あたしなんかよりずっと都会的であか抜けた雰囲気なのを見て、また落ち込む。
せっかくの楽しい日曜日。
眠れないほど待ち望んだ日のはずが、何かおかしい。
それを見透かすようにミーコは、あたしの地味な格好を見て、こう言う。
「智沙は素材はいいんだから、もうちょっとお化粧とかおしゃれしたら?」
何も言えなかった。
自分ではちゃんと化粧をしているつもりだし、精一杯おしゃれもしているつもりだが、きっとミーコにしてみれば、あたしは短大時代の芋臭い雰囲気そのままなのだろう。
「でも、智沙も不思議よね。智沙、絶対もうちょっとおしゃれな服来て、ばっちしメイクすれば、超絶な美女になれるのに…智沙ってちょっとロリっぽいし、あざといところあるからさ。本当はもっといい男と一緒になれたんじゃない…?」
二人でデパートの小洒落た喫茶店(あたし一人だったら、絶対に入らないような)に入ってからも、ミーコはまたそんなことを言った。
しかし、すべて言ってからミーコは、ちょっと気まずそうな顔をした。
あたしのことを褒めているつもりで、遠回しにあたしの夫のことを見下すようなことを言ってることに気づいたのだ。
―ミーコもあたしとおんなじで馬鹿だね……
あたしはそう思いながら、曖昧な笑みを浮かべてミーコの戯言を受け流し、カフェオレを一口飲んだ。
―不毛だ…こんなやりとり。
せっかくの日曜日。静岡からわざわざ来た友達と喧嘩することもないだろう。そう思った。
「そぉーね…あたしがもっとお化粧うまくて、ミーコみたいに服のセンスがよかったら、もっと高収入のイケメンと結婚してたかもね。人生ってわかんないねー。ミーコの言う通り、あたし素材はいいと思うんだけど」
ミーコが気まずそうで、かわいそうなので、のってあげた。
だが、あたしの気遣いなど、ミーコにわかるはずがなかった。
「そうでしょ!本当に智沙、結構純情で、か弱そうで、大人しいじゃん?そういう女の子って、男の側から見ると、守ってあげたいタイプだからさ、あんな男じゃなくてさ、もっと羽振りのいいイケメンのお嫁さんになれたかもよ?美男子系の」
しつこい。
確かにあたしの夫の器量が悪いのは、事実ではある。
だが、だからといって自分がそんな良い男性のもとに嫁げるとも思わなかった。
「あたしなんかが、そんなことになるはずないじゃん…」
「そんなことないわよ。智沙って、小動物系でしょ?オドオドしてて。そういうのって本当は結構モテるのよ。世の中の男性はそういう女の子が可愛くてたまらないのよ」
ミーコはさっきから同じようなことを何回も繰り返す。
あたしがか弱くて可愛いと言うのだ。
だが、それは果たして褒め言葉なのか、それとも真意はけなしているのかわからない。
ミーコはさきほどからどこかあたしを見下すような表情でアイスコーヒーを飲んで馬鹿にしたような笑いを浮かべている。
―ふん
と心の中で思いながら、カフェオレをもう一口飲んで、あたしはわざとらしく左手を上にして、手をテーブルの上で組んだ。
それはあたしが出来る唯一の反撃。
未婚のミーコに、あたしの左手の薬指にはめられた結婚指輪をさりげなく見せつけるのである。
ミーコはそれを一目チラリとみると話題を変えた。
「で…結婚して実際どうなの?うまくやってるの?」
実際、あたしは結婚生活がうまくいってないことをミーコに話したかったのに、もうその話題をするのは嫌になってきた。
なんでか知らないが、勝手にあたしが化粧と服のセンスが悪いばかしに、器量の悪い夫と結婚したことになっているので、何か複雑な感情があたしを支配していた。
―それでもあたしはミーコとは違う。あたしはもうすでに結婚している…
しかし、必死にそう言い聞かせても、あまりミーコに対する優越感を感じることはなかった。
対してミーコも反撃に出てきた。
彼女の「独身最高」のマウント張りはすさまじかった。
日々静岡に出て遊びに行っていること、彼氏っぽい人はいるが、その人はまだ「キープ」の範疇を出ていないこと、それとは別に菊川の裕福なお茶の農家の一人息子から猛烈なアピールをされているが、菊川のような田舎に行くのは嫌だと思っていること……
機関銃のように繰り出されるミーコの話は次第にあたしのとって苦痛になってくる。
―せっかくの日曜日……
だんだんそう思うのさえ億劫になり、このいやに人ばかりの横浜を早く出たい、綾瀬に帰りたい、と思うようになるのに、そう時間は必要なかった。
ミーコは服を次から次へと買った。
クレジットカードを颯爽と出し、次から次へと袋が増えていった。
「すごい…買うのね」
「だって、せっかく横浜まで来たんだもの。交通費考えたら、買わなきゃ損じゃない?」
あたしにはこの考えがよくわからなかった。
交通費がかかる上に、さらに買い物をするのだから、どうしたって得なことなど一つもない。
それとも夫の吝嗇がうつってケチな上に馬鹿なあたしが考える以上に、何か彼女はこれで得をしているのだろうか?
しかし、静岡にだって百貨店ぐらいあるし、そもそも今時インターネットで服などいくらでも買える。
でも、だめだ。
あたしがそういった指摘をしようものなら、「智沙は何も買わないの?智沙だって、たまにはドーンといい服でも買ってみたら?見繕ってあげようか?」といった会話を延々としてくる。
彼女はとにかく自分があたしより優位に立っていることを示したいのだ。
静岡くんだりからわざわざ横浜まで出てきて、あたしの前でさんざん買い物をしてみせるのも、すべてはそれに他ならない。
自分で言うのも難だが、あたしごときにしかそんな見栄を張れない彼女のことを、少し憐れみながらも、それでも自分の気に入った服を躊躇なく買いあさり彼女は少しくもうらやましかった。
実際のところ、あたしだって、ミーコほどではないにしても、服の一つや二つ、買いたかった。
だが、あたしには現実としてそんなお金がなかった。
あたしに散々マウントを張りまくって、独身の謳歌と幸せアピール、そして両手にたくさんの紙袋をぶら下げてその経済力を見せつけて満足したミーコがようやくあたしを解放してくれたのは、夕方五時頃のことだった。
午前十一時ぐらいに百貨店の入り口で待ち合わせをしてから、ここまでなんと長かったことか。
「ミーコはどうやって帰るの?新幹線?」
「高速バスだよ。静鉄の。静岡行きに乗って、富士川で降りるの。それで、あそこの道の駅まで彼にビーエムで迎えに来てもらうんだー」
「富士川で降りるの?めんどくさいね。直接、富士宮行くやつはないの?」
「あるけど、それは横浜西口から出てないの。東京駅発なのよ。富士急のやつね」
「そんなめんどくさいことしないで、どうせ車で迎えに来てもらうなら、新幹線で新富士に行けばいいじゃない」
「新幹線に乗るとなると、地下鉄に乗らなきゃいけないでしょ?混んでるじゃん。こんなたくさん荷物持って、混んでる地下鉄乗りたくないし。それに新幹線は高いし」
最後まで買い物袋いっぱいぶらさげ、その経済力を誇示しながらも、なぜか新幹線代はケチるという謎の論理のまま、彼女は「バイバーイ、また会おうねー」と手を振って、バスターミナルの方へ歩き出そうとした。
「それにしても智沙。気をつけてね」
「何が?」
「離婚!しないでよ!お似合いよ。あんたには今の夫が」
あたしはその言葉を聞いて呆然とした。
捨て台詞と言おうか、特に最後の「お似合いよ。あんたには今の夫が」の部分は余計だった気がする。
いや、余計なのではない。
彼女は結局、わざわざ静岡から横浜まであたしに会いに来て、それを言いたかっただけなのかもしれない。
いや、それとも高速バスのターミナルにミーコの彼氏がBMWで迎えに来てくれることをあたしがスルーして少し怒ったのか。
その「彼」が誰を指すのかもあたしは聞かなかった。
例の菊川のお茶畑の息子か。
どっちにしろ、あたしにはきっとこの後、道の駅の駐車場で上下白いジャージを着た田舎のヤンキーが「浜松」ナンバーのBMWのドアを開けて、ミーコの乗っている高速バスの到着を待っている絵ぐらいしか想像ができず、やはり興味はないな、と思った。
帰りの相鉄線の中であたしはそんなことを考えていた。
気力も体力も使い果たして、疲れてたどり着いた綾瀬の家で、もう食事を作る気力などなかった。
「ただいま……お土産よ…シューマイ…」
家に着くと、あたしの今日の屈辱を何一つしらない夫が呑気な顔で、あたしの買ってきたシューマイ弁当を、嬉しそうに眺める。
「崎陽軒かい?久しぶりだ。ありがとう。さっそく夕飯で食べようか」
―ありがとう……か
普段の生活を支えているあたしのお母さんの野菜やお米に対しては言えないことが、横浜の名物のシューマイには言えるのか。
あたしはミーコ以上に厄介な存在があること、それもミーコとは単に会わなければいいだけなのに、この存在とは毎日会わなければならないことを急に思い出した。
何かどうでもよさそうな生返事を想定していたあたしは、ほっとしたのを感じた。
「元気がないね。疲れたかい?」
夫は妙に機嫌がよかった。
「うん…少し…」
「楽しかったかい?」
「う…ううん」
あたしは、曖昧な返事をしながら居間に向おうとした。
「何だよ。楽しくなかったのかい?」
夫はあたしの背中に向けてそう問いかける。
「…今日会った子、あたし嫌いな子だったの」
「ははは…じゃあ、何で会ったんだ」
「向こうが会いたいってしつこいから」
「はは…そりゃ、仕方ないね」
夫は何でもかんでも『仕方ない』、『しょうがない』という。口癖なのだ。
「でも…何か仕事も、プライベートもすごく充実してるみたい」
あたしは愚痴をこぼすのと同時に、つまり自分はあんたとの生活のせいで充実していない、と当てつけを言ったつもりであった。
「自慢したかったのかな。それを」
夫はあたしの話に特に関心を持つことなくシューマイの包みを開けようとしている。
「まぁ、そりゃ、ご苦労さん。それより早くシューマイ、食べよう。お腹が減った」
―あたしの苦労はほとんどあんたのせいなんだけどね……
ミーコに対する恨みは、いつの間にか夫に向けられていた。
こいつがもっとイケメンだったら、もっと収入があったら、もっと優しかったら……
あたしは今日みたいな思いをしないで済んだのに。
ミーコのマウント張りに対して、既婚者として、首都圏に暮らす成功者として、ミーコに余裕の哀れみの目を向けることができたのに。
ミーコに対し、何一つ反論できなかった自分が悔しくて、あたしには屈辱の地である横浜で買ってきたシューマイの味などほとんどしないに等しかった。