四
受信料の件があってから数日間、あたしたちは特に険悪な時期を過ごした。
結婚してちょうど一年あまりしか経っていない夫婦とは思えないほど、二人の間に無言の時間ばかりが流れていく。
だが、考えてみればこれがあたしたちにとっての日常であった。
「そう言えば、お母さんから荷物が届いたよ」
ほとぼりがようやく冷めたと思われたある土曜日、買い物から帰ったあたしに夫が声をかけた。
夫はこの日は「土曜日だから」というよくわからない理由で半休をとって昼には家に帰ってきていた。
あたしは夫といるのが嫌で買い物に出たのだが、それと入れ違いで宅配便が来たらしく、見ると玄関に段ボールが置かれていた。
山梨の母の実家からであった。
中には米や野菜などともに、洗剤や石鹸なども入っていた。
我が家のことを心配して、母は定期的にこういったものを送ってきてくれる。
母の実家は、農家だから米や野菜などは自分の田んぼや畑でとれるものを送っている。
これが我が家の食糧事情の改善にかなり大きく寄与している。
だが、その他にも洗剤や石鹸などの生活用品を、母がわざわざ買ってきてくれているのだ。
―わざわざ買ってくれなくていい…
あたしは母にそう言って、洗剤や石鹸の仕送りを断ったことがある。
だが、母は言葉では「はいはい」と言っておきながら、生活用品の仕送りをやめなかった。
結局、この母の援助が、この家の、というよりあたしの財布を支えていた。
―母はあたしが夫からちゃんと生活費をもらっていないことに気づいているのではないか。
あたしはこの荷物を受け取るたびに、そう思うことがある。
そして、この荷物はあたしにこの夫との結婚を強いた母なりのあたしへの贖罪の意味があるのではないか。
そう感じることがある。
だけれども、あたしのそんな気苦労も、母の気遣いにも、まったく無関心の夫がひどく恨めしかった。
夫が食べているもの、夫が使っているもの、ほとんどがあたしの母からの援助だ。
少しはあたしの母に感謝の一つでもして欲しい。
しかし、仕送りと言えばもう一つ嫌なことがある。
それは夫の実家からも相当の物資が送られるのだ。
夫の実家は都内にあった。
彼は一か月に一度は一人でその実家へ車で戻る。
そして帰ってくるたびに、やはり大量の食料や生活用品を貰って帰ってくる。
あたしは自分の母から言われて、最初のうちは夫の実家宛てにお礼の葉書を書いていた。
だけれども、だんだんそれも億劫になって、あたしの母にはそういった礼節を向こうの実家には尽くしていることにして、今はそれをやっていない。
そもそも夫はこうしてあたしの母がたくさんの食料や生活用品を送ってくれることを知っているのに、彼は別にあたしの母に何のお礼も言わない。
あたしの母に伝えないのはともかく、「いつも悪いね」とか「助かるね」とあたしにさえ言わないのだ。
だから、向こうの実家に何もそんな気を遣う必要などない。
だけど、あたしの母は「向こうのお母さんに感謝しなさい」と物を貰ったら必ずお礼状を書くようにしつこく言ってくる。
それだけは少し気まずかった。
そんなわけで、あたしは憎々し気に夫を見る。
あたしの気も知らないで、休日でやることのない夫はのそのそと用もないのに、居間と台所を行ったり来たりした。
わかっている。
要するに彼はお腹が減っているのだ。
―早く飯を作れ
こう言いたいのである。
あたしはしかたなく、台所に立った。
母の荷物の段ボールを開けると、わざわざ冷蔵便にしてあり、中には米に野菜にウィンナー、乾麺といろいろなものが入っていた。
本当はどれ一つだって夫には食べさせたくない。
あたしと母のものだ。
それでもしかたなく料理をする。あくまでしかたなく。
夫の食欲は旺盛だった。
もともと彼は一人暮らしをしていた頃は、薄給のせいで、とても貧相な食生活をしていたらしい。
貧相というのは、単純に偏った食生活というより、一日にうどん一杯とか健康を害するレベルであったとのことだ。
こういったところがあたしの夫の嫌いなところであった。
いくら貧乏でもうどん一杯で一日を過ごすような男は異常だ。
そんなことを知っていたら、あたしはこの男と結婚などしなかった。
夫は今はあたしの作ったものを片っ端から食べるし、ご飯も何倍もおかわりする。
―あなたが食べているのは、全部うちのお米よ。
あたしは夫が茶碗を差し出すたびに、そう心の中で呟いた。
しかし、おそらくあたしが本当にそれを言葉にしたら、大方、夫は「こっちが頼んでもいないのに、向こうが勝手に送ってくるから別にお礼などいい」とでも言ってくるに違いない。
いや、さすがに彼でもそんなことは言わないかもしれないが、とにかく夫とは話したくないから、あたしは黙って夫の茶碗に山盛りにご飯をよそってやる。
まあ、それでも一言でいいから「いつもお母さんにはお世話になっている」とか「お母さんのところの送ってくれるお米はおいしいね」とでも言ってくれたなら、あたしの溜飲は下がったろうに。
そんな葛藤であたしは食卓につくたびにイライラしてしまう。
それが終わったら、長い長い夜がやってくる。
あたしたち夫婦は、夜は一応、別々の部屋で寝ている。
あたしが寝る部屋はこの家の一番奥にある五畳ほど和室となる。
しかし、五畳ほどあっても、洋服箪笥や戸棚がある関係上、寝られる面積は実質三畳ほどしかない。
この狭い空間に布団を敷き詰めると、ほぼ部屋はいっぱいになる。
休日はこの時間こそが嫌いな夫と別々なれる唯一の時間で、嬉しかった。
さらに幸いなことに、こうして別々に寝ているから夫はあたしの身体を求めない。
いや、求められないのだ。
おかげで結婚した当時から今に至るまで夫は童貞であたしは処女である。
あたしにとって男女がお互いの身体と身体を求めあうなど、考えただけでもおぞましいし、単純に自分の身体の中に、男性のものを入れられるのがひどく怖かった。
そういったことは、本当に愛していて、自分の何もかもを委ねられる人とのみするものだと思っていた。
本来、その人こそが夫なはずなのだが、当然あたしにとって、それは夫ではなかった。
初めて夫に身体を求められた時、あたしは公然とそれを拒否した。
夫はそれ以来、あたしを誘うことができなくなった。
男としてのプライドをこれ以上傷つけられたくないのであろうか。
いずれにせよ、彼があたしに拒否されたことで、性交渉が怖くなったことだけは確かなようだ。
もし、今後再度夫が自分の身体を求めてきたらと考えると、それだけでも吐き気がするが、夫はあれから今までそんな素振りを一度も見せたことがない。
とんだ意気地なしだ。
都合がいいけど。
しばらく部屋でスマートフォンをいじって、決まった時間になるとあたしは風呂に入った。
あたしが綺麗に掃除した風呂だけど、一番風呂は決まって夫が使う。
夫は特段風呂を汚く使うわけではないけれども、同じ湯に入るのが嫌であたしはいつもシャワーだけで済ます。
風呂から上がると、またこの愛しの和室に戻ってきて、一人鏡台に向って髪をドライヤーで乾かしながら、意識しないうちに鼻歌を歌っていた。
気分がいいのか、顔が少しほころんでいる。
なぜこんなに気分がいいのだろう。
それは明日が日曜日だからだ。
普段、朝の早い夫のために早く起きなければならない平日とは違い、翌日朝寝ができる土曜日の夜は好きだった。
しかも明日は久しぶりに静岡の短大時代の友人と横浜で会うことになっていた。
早く寝て、たっぷり寝てやろう。
あたしは自分の頭上にぶら下がっている電灯の紐を引っ張った。
電気を消し、和室に闇が訪れると布団の中に潜り込んだ。
しかし、早く寝ようと思うがあやにく、なぜか眠たくない。
翌日が休日だということで、多少興奮しているのだろうか。
どうもこうもちっとも眠くないのだ。
解き放った電灯の紐がブランブランと揺れて漂っているのを、あたしは闇に慣れた目で見つめていた。
夫の寝息が隣室から聞こえてきた。
―ずいぶん早々と寝るのね…
あたしはそう思いながら、彼の存在を意識したくないばかりにイヤホンをつけると、スマートフォンでヒーリング・ミュージックを流す。
あたしの夜は毎日このようにやってきて、このように去って行くのであった。