三
まだ七月の半ばだというのに、雨が降らない日がしばらく続き、連日猛暑続きであった。
このままだと八月はどんなに酷暑になるのだろうか。
毎年、この頃になるとそう思っていたが、そんな日々の中でも、今日は輪をかけて蒸し暑かった。
あたしは着ていた体操服の白いシャツの襟元を掴みそれで頬の汗を拭った。
着ているこの白い体操服は、あたしが高校に通っていた頃に授業で使っていたものである。
旧姓の「平井」と書かれた刺繍も上下そのままだ。
これはあたしの室内着の一つなのだ。
あたしは山梨にいた時から、家にいるときはこの体操服のシャツとハーフパンツを着ていた。
中学生の時のものと、高校生の時のもの、ちょうど一セットずつあったので、定期的に洗濯をして交互に着ている。
ちなみにジャージも上下ともに持ってきていて、夏以外の時期は体操服の上にそれを着て寒さをしのいでいた。
別にこの服たちをとても気に入っているわけではない。だが、田舎の学校というのは体操服で登校し、体操服で授業を受ける。
ずぼらなあたしは、服を何回も着替えるのが嫌で、山梨にいる時から、ほぼ一日中、この格好でいた。
このスタイルはその頃の名残りなのである。
物持ちがいいのと、中学生のころからほとんど変わらないあたしのスタイルがなせる技だった。
「暑い…」
我が家にはエアコンが一つしかない。その一つだけあるエアコンさえも普段は夫に電気代のことを言われるのが嫌でたいして使っていない。
もっとも夫が帰ると、彼は当たり前のようにエアコンをつける。
そのくせに、あたしが一人でいる時は「もったいない」、「ここは四階だから、窓を開ければ風が通る」、「一日中、冷房ばかりにあたっていると夏バテする」と何やかんや理由をつけて、あたしが冷房をつけることに対し嫌味を言ってくるから、あたしも意地になってつけないようにしているのだ。
しかし、意地を張ったところで、この猛暑の中では暑さの中ではしたたかに体力を消耗する。
せめて、まだ猛烈な暑さとなる昼下がりよりも、午前中にいろいろな用事を終えたかった。
普段、昼間までダラダラしているあたしも、こうした理由で夏だけは午前中にすべての家事を終わらせていた。
台所仕事を終え、洗濯物を干すと、次は風呂の掃除をした。
湿気と汗で全身がびっしょりになりながら、ようやく風呂の掃除を終えたのが十時頃のことだった。
風呂場を出ると、汗で濡れた体操服が素肌に張り付いて気持ち悪かった。
次に掃除機でもかけようと思った時、玄関のインターホンが鳴った。
正直、夫がいないこの時間帯は訪問者に来てほしくなかった。
防犯上、居留守を使うことが多い。
しかし、いつもこの月の半ば頃は恒例の母からの仕送りの野菜や米が届くのだ。
お米が尽きかけていたこともあり、そろそろ仕送りが来て欲しかった。
汗まみれなうえ、上下体操服であったことは、さすがに恥ずかしかったが、「早く出なきゃ」と思うがゆえ、そのまま玄関へ向って言った。
普段ならドアスコープで確認するところを、すぐにドアを開けてしまった。
見るとドアの向こう側には、宅配便の配達員ではなくて、何かの端末を手にしてリュックサックを背負った私服の若い男が立っていた。
「あ、すいませーん…あの私、このあたりの受信設備の調査をしているものです。私はこの地区の担当なのですが、いくつかご質問をしてもよろしいですかぁ?」
男はニコニコして、語尾を上げる特徴的な喋り方であった。
「はい…」
あたしは予想した宅配便でなかったことに、いっさいの思考が停止してしまった。
「あ、あの…失礼ですが、お父さんかお母さんはいますかぁ?」
特徴的なしゃべり方のまま、男は体操服姿のあたしのことをこの家に住む住人の子どもと思っているらしかった。
無理もない。
あたしは自他ともに認める童顔で、おまけにこんな体操服姿である。
「い、いえ。あ、あたしは…この家の人の妻です」
あたしは顔を真っ赤にしてそう言うのが精いっぱいだった。
せめて服装がもう少しまともだったら、こんな面倒なやり取りはしなくて済んだだろうに。
少し後悔した。
男はちょっと信じられないような顔を見せたが、忙しいのか、「深く考えるのはやめよう」と言わんばかりに、表情を切り替えて、次の質問に移った。
「はい…そぉーですかぁ…あの、お宅様のお名前は宮内様でよろしいですか?」
「違います…うちは平泉です」
「あ…じゃあ、ぜんぜん宮内様という方はご存じない感じ?」
「知りません」
「あ…そっかぁー、じゃあ、前に住んでいた方なのかなぁ」
用件が済んだと思い、あたしはドアを閉めようとした。
早くドアを閉めたかった。
あたしはこの若い男の視線が、汗でびっしょりと濡れて張り付いたあたしの体操服のシャツの胸の部分に向いているような気がしたのだ。
―こ、怖い…
このまま男が自分に覆いかぶさってきたらどうしよう。
あたしは、唐突に彼に異常なほどの恐怖感を覚えた。
「あ、あの…それじゃ…」
やっとのことであたしは言うと、すぐにドアを閉めようとした。
「あ、あ、あ…ちょっと待ってください。現在、こちらのお宅は何人でお住まいですか?」
男はそう言うと、あたしが閉めかけたドアを手で押さえた。
あたしは一気に怖くなってしまった。
「あたしと主人が…」
とにかく今一度、夫の存在を知らしめねば。パニックで失いかけた理性の中で、かろうじてそう考えて、声を振り絞った。
「今はお一人?ご主人はお仕事?」
「はい」
言ってから、あたしはつくづく自分の馬鹿さ加減を思い知らされた。
いま家に一人しかいないなどとわざわざ言うこともなかったのだ。
あたしは震えながら男を見上げると、男は次にあたしがまったく予想だにしていなかった単語を口にした。
「あのぉ…お宅はテレビはございます?」
「テレビ…?ありますけど……」
どうして急にテレビのことなど聞くのだろう?本当に不気味だ。嫌だ。早く帰って欲しい。
「あー、そーですかー……あの、それじゃあねー、契約をぉーしていただかなくちゃ、困るんですよー」
急に男は妙に間延びした口調になった。
「契約?何の契約です?」
『契約』という言葉に、あたしはまた別の恐怖を感じ始めた。
「受信料の契約ですぅ」
この時、あたしはやっと男が公共放送の受信料の契約に回っている業者であることに気づいた。
「でも…主人に聞かないとそういうことわからなくて…」
「いやでもですねぇ…本来、払ってもらわなければいけない受信料ですから、困るんですよねぇー」
「でも…」
「受信設備があるご家庭が受信料を払うことは法律で決まっているんですよねぇー。払わないことは法律に反することになるんですよねー」
男はここで急に強い口調に変わった。
法律に反する、と聞いてあたしも少し不安になってくる。
「ここで契約していただければ、今回だけは特別に今まで未払いの分は目をつぶって、来月からという形にしても良いのですが」
あたしが不安そうな顔になったのがわかったのだろう。
男は急にここで下手に出始めた。
「あの…でも…」
「最近は受信料の未払いが増えて困ります。最近は放送設備が明らかにあるにも関わらず受信料を払わない悪質な世帯も多くてね」
「あの…主人が…」
「テレビを見ているにも関わらず払わないというのは悪質ですよぉー」
男はいっさいあたしの言葉を聞こうとはしなかった。
何か言おうとすると、男はそれを遮るかのように言葉を差し挟む。
あたしはいよいよパニックになり、あとはすべて男の言うがままにした。
何かを必死に書き、何かを受け取り、とにかく男の言うことに「はい、はい」と返事をして、何とかドアを閉めた。
何を書いたのかも、何を約束したのかも一切覚えていなかった。
「馬鹿…」
あたしは鍵を閉め、チェーンをかけたドアを、さらに自分の身体でおさえながら呟いた。
自然、あたしの怒りは夫に向いた。
必要な時にいなくて、不必要な時にいる。
自分の夫はそういう人だった。
夜、夫が帰宅すると、あたしは堰を切ったかのように夫に顛末をすべて話した。
「NHK…?どうして断らなかったんだ?」
「だって…テレビがあるなら払わなきゃいけないって言われて…」
「確かにテレビはあるけど、ほとんど見てないじゃないか。明日、電話して契約解除してもらってくれ」
夫は淡々とそう言った。
「あたしが!?あなたがやってよぉ」
「そもそも誰の名前で書類書いたんだ」
「あたしだけど…」
「だったら普通に考えて智沙が解約しなきゃだめだろう?」
あたしは夫に失望した。
こういう時に頼りになるのが男の人だと思っていたのに。
あたしはどうしようもなくなって、夫に泣きつく作戦に出た。
「…だって、怖かったのよぉ…」
「怖い?NHKの集金がか?」
「そうよぉ…」
「智沙は弱すぎる。そんなんでこの世の中生きていけるか。もうちょっとたくましくなってもらいたいもんだ」
「…」
「だいたいだ!不用意にドアを開ける方がいけない!なんで応対してしまうんだ。そんなもの無視しとけばいいのに!」
信じられない言葉であった。
受信料の契約の件を一方的に自分のせいにされてしまい、あたしは苛立った。
しかし、きっと夫はあたし以上にいら立っている。
平均的な世の中の知識がなくて、自立していなくて、自分では何もできない。
夫はあたしのことをそう思っている。
「だってしょうがないじゃない。宅配便かと思ったのよぉ…モニター越しに会話できるインターホンでもあるなら別だけど、うちはチャイムしか鳴らないやつだから、出るならドア開けるしかないじゃない…」
あたしは仕方なく、この団地がおんぼろなことのせいにした。
自分としてはそこでなんとか夫との妥協点を見つけようとしたつもりであった。
あたしが悪いのではない。夫が悪いのでもない。
ただ、この団地が古すぎて、誰でもここまで入ってきてしまえることが悪い。
しかし、夫は決してそうは思わなかったようだ。
むしろ、このような家賃の安い古い団地にしか住めない、と言われたと思ったらしく、顔を赤くして怒り出した。
「それでもドアスコープにしろ、チェーン越しとかいろいろやり方あるだろう!」
夫は何もわかってくれなかった。
あたしはあたしなりに夫に配慮したつもりであったのに。
「…」
「でももくそもあるか。だいたい智沙は危なっかしすぎる。いくら日本だからって、そんなに無防備でどうする」
「ごめんなさい…でも、違うの…宅配便が来たらどうする?」
「宅配便も来ないようにしろ!それか俺が受け取れる時間帯に送ってもらえ」
「送ってもらえって…」
宅配便でうちにやってくる荷物は、たいていあたしの母が送ってくれる仕送りの食料なのだ。
それは夫が一番多く消費しているし、吝嗇な夫のせいで予算が少ない我が家の家計に大きな貢献をしている。
そんな母に「仕送りの荷物を時間指定でして欲しい」など言えるのか。
不安定だった情緒が一気に崩壊した。
あたしが危険な目に遭ったことを、母のせいにされたことも大きかった。
「…あなたはわかってくれないかもしれないけど…あたしだって女なのよぉ…あんな強い口調で言われたら…あたしには無理よぉ…」
あたしはそう言うと、悲しくなった。
夫は何もわかってくれない。夫は何もしてくれない。
自分もいけないのかもしれないけれども、ともかくそれが悲しかった。
あたしは立ち上がると、プイと夫の前から去った。
夫はあたしの態度に少し動揺したような感じではあった。
でも、彼は絶対に謝らない。
それにあたしには夫の前から立ち去ったところで、行く場所がない。
行くといったって、この狭い家であたしが拗ねて、立て籠もることができるのは狭い狭い畳敷きの寝室だけ。
―あー、くだらない…
古びた天井を見ながら、あたしはそう思った。
しばらく経って気持ちが落ち着いてくると、あたしは昼間の出来事も、さっきの夫とのやり取りも、急にどうでもいいように感じた。
だけど、所詮あたしたちの暮らしは、延々とその「くだらないこと」の繰り返しに過ぎなかった。