マソスプレイニソグ
思想家と別れて数日が経ったが、組織はいまだ俺の動向を把握できていないようだった。
組織と警察も不和のまま。
こちらが一方的に優位という状況だ。
夏は続いている。
俺はマンションのリビングで、姫子に文字を教えていた。
「これが『ソ』、こっちは『ン』。この線の反り具合で判別するんだ」
「どっちでもいいよ」
「ダメだ。お前、『ラーメソ』なんて書いてたらバカにされるぞ」
「あはは! なにそれ! バカっぽい!」
自分を客観視できないというのは、じつに哀しいことだな。
姫子はしばらくソファで腹を抱えていたが、急にむくりと起き上がった。
「あんちゃん、パラノイアってなに?」
「なんだ急に……」
「情報屋の姉ちゃんが、あんちゃんのことそう言ってたよ。今後はそう呼ぶようにって」
あの女、余計なこと教えやがって。
俺はかすかに溜め息をついた。
「パラノイアってのはな、妄想に取りつかれてるヤツのことだ。事実でもないことを前提に、自分のロジックを組み立てるんだ」
「イミフだぞ! もっと簡単に言って」
「そうだな……。お前、なにか行動するときに、たぶん一番マシだと思う判断をしてるよな?」
「分かんない」
「してるんだ。『たぶんこうだろう』って予想にもとづいて動いてる」
「そうなの?」
「そうなんだよ。たとえば、足を一歩踏み出すときだって、床が抜けたらどうしようとか、上から林檎が降ってきたらどうしようとか、あんまり考えないよな?」
「考えないよ、そんなヘンなこと」
「そうだ。考えない。だいたいの場合、床は抜けないし、林檎だって降ってこない」
「降ってくるわけないもん」
賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ。
姫子はまだ自分の体験したことしか警戒できないようだ。
世の中には、落ちてきたココナッツで死亡する人もいるのだから、ときには頭上に気を払うことも必要だというのに。
まあいい。
「いま、『降ってくるわけない』って言ったな? それは絶対か? 俺が上から落としたらどうなる?」
「それはズルい」
「まあな。けど、ありえるんだ。なのに、そんなことありえないって勝手に決めつけて生きてるだろ? ただの予想を、さも事実のように捉えてる」
「うん……」
なんだか納得いかない顔をしている。
自己を否定された気分なのかもしれない。
「そんな顔をするな。べつにお前を責めてるわけじゃない。大人だって一緒だ。俺もな。誰もがこの生き方しかしていない。だから俺が言いたいのは、人間に限らず、あらゆる生き物はパラノイアだってことだ」
この程度のことでパラノイア呼ばわりするのは大袈裟だが、おそらくは否定しがたい事実なのでやむを得ない。
「みんなそうなの?」
「そうだよ。みんな事実でもないことを、さも事実かのように考えて行動してる」
姫子は、今度は不安そうな顔を見せた。
「じゃあさ、ホントのことって存在しないの? ぜんぶウソなの?」
「ウソだな。ウソだけど、多くの人がそう信じてる場合は、まるで事実みたいに機能する。同じ考えのヤツが多ければまともだと思われるし、少なければ異常だと思われる。それだけだ」
「あ、ババ……お婆さんもそう言ってたかも」
ちゃんと教育してくれる大人がいたんだな。
惜しい人を亡くしたもんだ。
俺は姫子の頭をなでた。
「ま、道具を使って計れるものであれば、みんなの意見を一致させられるから、そういうのは事実と呼んでいいかもしれない。同じ定規で長さを計ったら、誰が計っても同じ結果になるよな?」
「そう? 雑な人いるよ?」
「ちゃんと厳密にやると同じになるんだ。それを科学と呼ぶ。科学的に正しければ、同じことを何回やっても同じ結果になるんだ。まあ違うのもあるみたいだが、そういうのはいまはいい」
「めんどくさー」
人が力説しているのに、たった一言で片付けやがる。
まあ俺もちょっと喋りすぎたが。相手を無知だと決めつけて一方的に解説を始めるのは、「マンスプレイニング」といって嫌われる行為だ。いつも俺は「被害者」にカマしているから、きっとみんなも俺を嫌ったまま死んでいったことだろう。
俺はノートを指で叩いた。
「それより、だ。誰が読んでも区別できるよう、『ソ』と『ン』を書き分ける必要がある。お前くらいの年齢で、これができないのは、たぶんこの日本でお前だけだ。ちゃんと区別できるようにしろ」
「こんなの区別できるわけないじゃん!」
「できる。ちゃんと見ろ」
ちなみに俺は「パラノイア」について勉強したことはない。愛読書『世界が俺を愛さない十二の理由』に書いてあったことを引用しただけだ。間違っていても責任は取れない。
*
九月になった。
まだ暑い。
残暑なんてもんじゃない。夏がいつまでも終わらずに大地を制圧している。
以前よりは人の減った上野公園で、俺は姫子と散歩していた。
本当に信じられない話だが、ただふたりで歩いてあれこれ喋ってるだけで心が満たされてしまうのだ。もしかすると俺が本当にやりたかったことは、完璧な円を作ることではなく、こういう平凡な人生を楽しむことだったのかもしれない。
ま、それは感傷が過ぎるが。
ベンチに腰をおろして休んでいると、また白髪の男が近づいてきた。今日もワイシャツとスラックス。これが彼の普段着なのだろう。
「こんにちは。また会いましたね」
「わ、お爺さんだ!」
姫子が無遠慮に指をさした。
ジジイ呼ばわりしなかったことは褒めてやろう。しかし返事はそうじゃない。
俺は姫子にこう教えた。
「『こんにちは』って言われたら、『こんにちは』って返しなさい」
「はーい! こんにちは、お爺さん!」
これには思想家も苦い笑みだ。
「素直なお嬢さんだね」
俺はざっと周囲を見回した。
特別な気配はない。
もっとも、俺が探知できるのは特別な能力だけだ。拳銃を持ったヤツがどこかに潜んでいても探知できない。
俺は男へ告げた。
「どこか場所を移すか?」
「いえ、ここで結構。あなたへお手紙を渡しに来ただけですから」
「手紙? 誰から?」
「私の知人です。正確には、知人の娘から」
「誰だよ……」
封筒を受け取ったが、差出人の名前はない。
心当たりもない。
俺が不審そうに封筒を確認していると、彼はこう告げた。
「黒木さん、あなたのことは、まだ組織には報告していません」
「分かってる」
「その代わりと言ってはなんですが、中の手紙を読んで、書かれている要求に応じて欲しいんです」
「いま読んでも構わないか?」
「ええ。先に言っておきますが、中身はラブレターではなく、果たし状です」
「……」
少し期待したんだがな。
俺のファンではなくアンチだったというわけだ。
書面は簡潔だった。
日時が指定されており、そこで殺し合いをしたいとのことだった。
思想家はこう補足した。
「あなたはいま、罠である可能性を懸念したかもしれませんね。ええ。罠です。ある意味、ですが」
「どんな意味で?」
「この件に組織は関与していませんが、結果は組織の望んだ通りになるということです」
「俺が死ぬと?」
「いいえ」
こいつは本当に読めない。
果たし合いをして、俺が死ぬのでなければ、相手が死ぬことになる。なぜ組織がそんなことを望むのだろうか。
「じつは彼女、能力者なんです。それもタイプX」
「具体的に、どんな能力なんだ?」
「それを教えたらフェアでなくなってしまいますね。私の紳士道に反する」
タイプX――。俺の記憶がたしかならば、例の新薬とやらの被験者だ。
つまりその人物は、薬を使ってまで能力を得たことになる。そこまで俺を恨んでいる人間が、この世にいるだろうか。誰にも目撃されていないはずなのだが。
俺がいぶかっていると、彼はこう続けた。
「言える範囲で構わなければ、それは水槽の女性でさえ保有していない能力、とだけお伝えしておきましょう。その能力が欠落していたせいで、彼女の月は満ちなかった」
欠けた円――。
おそらくは組織が月蝕と呼ぶもの。
もし保有者を殺せば、俺の能力になる。
なぜ組織がそんなことを望む?
思想家の言う通り、罠なのだろうか。
だが、欲しい。
水槽の女でさえ保有していないタイプXの能力。
かつての俺は、自分の平凡さを受け入れていた。
神になりたかったわけでもない。
だが、得てしまった。
すると前へ進まねばならなくなった。
自分の意志で進んでいるというよりは、誰かに背中を押されているような気もしなくはないが。
もし翼が生えたら、誰だって試しに飛んでみるはずだ。拳銃を拾ってしまったら、こそっと撃ってみたくなる。特殊能力が使えるならば、使いたくなる。
本能的な衝動だ。
力があるのに、使わないなんてことは、できない。
初めてライターを手にした日のことを思い出す。
それを使えば、なんでも燃やせてしまうことに気づいた。
部屋でプリントを少し燃やして遊んでいた。ちょっと火をつけては消し、ちょっと火をつけては消し、そういう行為を繰り返した。
あるとき、予想をこえて火が強まった。
実際はたいした炎上じゃなかったのかもしれない。
それでも俺は、自宅を失うのではという恐怖に襲われた。パニックになりかけた。プリントの上に座布団を押し当てて、なんとか消した。
消えてくれた。
運よく。
家族にもバレなかった。
だが、俺はしばらく呆然とした。
最初は完璧にコントロールできていたはずなのに、ふとした瞬間に火は驚くほど強くなっていた。
ま、この教訓はまったく活かされていないわけだが。
俺は手紙をポケットにねじ込んだ。
「分かった。応じよう。あんたも来るのか?」
男はかぶりを振った。
「いいえ。彼女は、あなたと二人きりになりたいようですから。お邪魔はしませんよ」
「俺の知り合いか? 誰なんだ?」
「会えば分かります」
女の知り合いなんて数えるほどしかいない。
もちろん姫子ではないだろう。情報屋でもない。まさか新婚の平松が? いや、戦う理由がない。
男が去ると、姫子が俺のポケットから手紙を引き抜いた。
「女の人から手紙? 誰? あたしの知ってる人?」
「どうだろうな。俺にも誰だか分からないんだ」
「分からないのに会うの? あ、これ難しい字ばっかり。カッコつけちゃって。みんな漢字使ってれば頭いいと思ってるよね」
「そうだな」
こいつにはカタカナだけでなく、漢字も教えなければ。
道のりは長い。
おそらくは、俺の命がいくつあっても足りないだろう。
(続く)