ダブルブッキング
神はいない。
もしいるのだとしたら、この状況から被害者を救っていないとおかしい。
情報屋の家に引っ越してから、すぐに次のターゲットが見つかった。台東区のスーパーに勤務する三十八歳の女性。独身。
行動パターンはシンプルだった。朝は人より早めに出勤。あがりは夕方。残業はない。その後、特に飲みに出かけたりもせず、ほぼまっすぐ帰宅している。
住居はマンション。監視カメラはエレベーターにしかない。たぶん。仮に映り込んでいても問題はない。
俺はスマホをいじりながら、女の自宅付近の通路で待った。さもマンション住民であるかのような態度で。
こんな都会では、住民同士、互いに顔も知らない。だから部外者が紛れ込んでいてもバレることはない。いや、部外者だとはバレているかもしれないが、住民の知人である可能性もあるから、いきなり通報されたりはしない。こちらは危険物など所持していないのだ。見た目は怪しくない。
スーツ姿の女が近づいてきた。
野菜でパンパンになったエコバッグを重たそうに抱えながら。
少し小太りで、肌つやはいい。愛敬のある顔立ち。悪人には見えない。かといって善人であるとも限らないが。いずれにせよ、理不尽に死ぬべき人間でないのは確かだ。
「こんばんは」
「こんばんは」
こちらから挨拶をすると、彼女もやや疲れた顔に笑みを浮かべ、軽く頭をさげた。やや不審そうな態度。それから鍵を取り出し、ドアを開いた。
このまま放っておけば、彼女はすぐに家に入り、朝まで出て来なくなってしまう。
だから俺は麻痺の能力を使い、彼女を弱らせた。
彼女は急に息苦しそうになってかがみこみ、バッグを落とした。俺は「大丈夫ですか?」などと親切ぶって近づき、「荷物、お持ちしますよ」と家へ入り込んだ。
中は片付いている。
麻痺の強さを調節しながら、俺は彼女をリビングへ誘導した。
「お邪魔しますね。落ち着いたらすぐ出て行きますから」
さも善人のようにそう告げると、彼女も「すみません」などと返事をくれた。
基本的にはみんなこうだ。
弱っているときに手を貸すと、誰もがこちらを信用しようとする。俺が苦しめているにも関わらず。
彼女がリビングに転がり込んだところで、俺は麻痺の能力を一段強めた。彼女は完全に崩れ落ちた。
俺は玄関のドアを施錠し、ふたたびリビングへ戻った。
「悪いな。あんたが苦しんでる原因は俺だ。これから命をもらう。乱暴はしない。このまま衰弱して死ぬ」
「えっ……うぐっ……」
触れる必要はない。
呼吸と心臓が弱まって勝手に死ぬ。
あとは俺が勝手に喋って、こちらへの憎しみを募らせれば完了だ。
彼女の能力は代謝。美容と健康に役立つ程度かもしれない。しかし俺が過去に手に入れた回復能力と組み合わせることで、劇的に死ににくくなるはず。
「先に軽く自己紹介しておくよ。俺は人の命を奪って、その能力を集めている。あんたはその対象に選ばれた。だから、これから死ぬ。好きに恨んでくれ。恨まれるべき存在だ。あんたにはなんの落ち度もない」
おそらくはイラつく物言いであろう。
もし自分が同じことを言われたら、きっと怒りで理性が消し飛ぶ。
「『世界が俺を愛さない十二の理由』って本を知ってるか? 俺の愛読書なんだ。そいつによれば、人ってのは際限なく拡大していくんだそうだ。ひとつ手に入れれば、もうひとつ欲しくなる。いくらでも自己を最大化しようとする。ぜんぶ欲しいんだ。円が欠けていることに安心できない」
女は苦しそうに床を這いつくばりながら、まだ理解できないといった顔でこちらを見ていた。
俺は片膝を立てて座布団に座っているだけだ。殴ったりもしない。
なにが起きているか分かりづらいのは事実だ。
「ま、あんたには分からないだろうな。なんせ俺にもよく分かってないんだから。言っとくけど、俺のは快楽殺人じゃない。人の命なんか奪ったって、楽しくもなんともないんだ。俺は憎しみで殺してるわけじゃない。恨みもないのに殺すんだ。ある意味、不条理だよな。まあ魚釣りに似てるかもしれない。釣り人だって、魚が憎くて釣り上げてるわけじゃない」
彼女は必死で呼吸を繰り返している。
生きようとしている。
俺は助けない。
「逆にさ、ムカついたから殺す、なんてのは、なんだかカッコ悪くてイヤなんだよな。そんなのあまりに短絡的っていうか……。さして知能の高くない動物のやる『反射』そのものでしょ? 俺のはなんていうか……。つまり、円がさ、欠けてるのが見えるわけ。それを完璧な円にしたいの」
エコバッグからは、野菜とともに、缶チューハイが転がり出していた。
俺はそいつを勝手に拝借し、飲み始めた。酒だと思って飲んだのに、無暗にあまったるい味が舌を襲った。
「なんだこれ、ほとんどジュースだな。あんた、ビールは飲まないのかい? まあ味が気に食わないってのはあるかもしれないが。俺もね、むかしはそんなに好きじゃなかったよ。特にウマくもないのに、とりあえず出されたからって理由で飲んでた。サラリーマンってさ、特に考えもせずビールばっか飲むのね。思考停止だよ。俺も停止してた。そしていまは……そうだな、いまも特に考えを改めてないな。せっかくサラリーマンじゃなくなったのに」
初めて就職したとき、歓迎会でビールを飲んだ。
正直、まったくウマくなかった。苦い水にアルコールを混ぜて炭酸を入れ込んだだけの、安いっぽい飲み物だと感じた。
しかし酔えればなんでもよかったから、俺はその後も飲み会のたびにビールを飲んだ。
そうしているうちに、いつだったかアタリを引いた。
理由は分からない。なぜだかウマかったのだ。ひとりで飲んでいたときだ。その店の生ビールが特別に新鮮だったのか、あるいは俺の体調がよかっただけかもしれない。
人生で初めてビールをウマいと感じたとき、自分が大人になった気がした。
「いや、違うな。人がどんな味を好むかは、人それぞれだ。そして、あんたは缶チューハイが好きなんだよな? 妙な言いがかりをつけて悪かった。謝るよ」
だが俺の謝罪はまったく通じていなかった。
もちろんそうだ。謝るべき点は、そこじゃない。
俺は話題を変えた。
「俺なりに、なんでこんな無益なことを始めたのか、ちょっと考えてみたんだ。聞いてくれるか? まあうんざりだとは思うが、ほかに話すこともないしな。俺はさ、むかし、自分を善人だと思ってた。小学生に入る前だぜ。テレビのニュースを観た感じじゃ、この世界には悪いヤツしかいない感じだったしな。だから俺を世界の王にしてくれれば、この世界から悪事を消せると思ってたんだ。かなり本気でな」
これはジョークじゃない。
本気で信じてた。
俺には、自分が悪いことをしないという自信があった。
とはいえ、親の言いつけを完璧に守る子供でもなかった。俺はなにか理由をつけて自分を正当化しながら行動していた。つまり「俺のやることは悪ではない」という前提が先行しているのだから、論理的に俺は悪事を実行しようがなかったのだ。独善的としか言いようがなかった。
「でも成長するにつれて、俺なんかよりまともなヤツがいっぱいいることに気づいたんだ。てより、自分を善人だと信じるのが難しくなってきた。どんなガキにも小ズルい一面がある。俺も、ようやく自分のそんな性質に気づいたんだな。もし頭のキレるガキなら、そこで極論に走ったりしなかったのかもしれない。だが俺は賢くなかった。だからこう思ったよ。もしかすると自分は、悪人なんじゃないかって」
オンとオフしかない機械みたいなガキだった。
まあ、子供というのは興奮しやすいから、しばしばこういう結論におちいりがちではあるんだが。いま考えると愚かとしか言いようがなかった。
「だが悪人というには、あまりに平凡すぎた。だから自分を平凡だと思うことにしたよ。これはわりと最近までそうだった。自己認識と、世間からの視線が、おそらく一致していたからだろう」
なんならいまでもそう思っている。
ウソじゃない。
異常な行動をしているが、それにも理由がある。
「あんた、いまこう思ったろ? 平凡なヤツはこんなことしない、って。分かる。でも考えてみてくれ。平凡なヤツが、ある日突然、とんでもない力を手に入れたんだ。するとどうなる? 答え、『制御し切れない』。少なくとも俺はそう考えた。つまり平凡なヤツは、異様な力を手に入れたら、おかしくなる。これが道理だ。鹿威しに水が溜まったら、カーンって鳴るだろ。アレだ。どう考えても当然そうなる、という結論に、俺は至ったんだ」
小さな器に水を注ぐと、早くこぼれる。
それだけの話だ。
中程度の器にたくさんの水を注いだ場合も同じ。
あるいは理性で本能をコントロールしたってよかった。だが、俺は考えたのだ。はたして自分はそんな器だろうか、と。
俺の器が大きければ、また判断も違ったかもしれない。
「あ、いや、待った。なんかおかしいな。あんた、ひとりだよな? えっ? いや、ひとりだな。なのに……」
俺はつぶやきながら、にわかに襲って来た違和感の正体を探ろうとした。
目の前に被害者は一名。
能力もひとつ。
そのはずなのに、この空間にはもうひとつの能力らしきものを感じたのだ。
俺は立ち上がり、クローゼットを開いた。
中に人がいた。
青白い顔の、痩せこけた中年男性だ。歳は四十から五十といったところ。仕事帰りなのか、スーツを着ている。
彼は半笑いでこちらを見ていた。
「よ、よく気づいたねぇ。あー待って。これもなにかの縁だよ。仲良くやろうじゃないか」
声が震えていた。
だが、俺も震えそうになった。
そいつの手首には、黒いブレスレットがハメられていたからだ。
「シュラウド部隊……」
俺がそうつぶやくと、男は血走った目をさらに見開いた。
「驚いたな。組織の人間かい?」
「俺を待ち伏せてたんじゃないのか?」
「待ち伏せ? えっ、ウソでしょ? まさか、あんたが噂の黒木玄一くんかい?」
「……」
互いに初見のようだな。
前に神殿に行ったとき、こんな男は見かけなかった。
こいつの能力は、存在感を消すことのようだ。だから俺はギリギリまで気づけなかった。探知能力を持っている俺でさえこうなのだから、住民の女はなおさらだったろう。
そいつはこう名乗った。
「シュラウド部隊の潜入者だ。ま、自己紹介なんかしても、みんなみんなすぐに僕を見失っちゃうけどね。ははは……」
笑ってる場合じゃない。
俺はこいつを消すべきだろうか。
しかしここでシュラウド部隊を殺害したら、明らかに事件性を帯びてしまう。
住人の女が死んでいるだけならまだいい。「突発的な病死」で説明がつく。しかし同じ病気で部外者が死んでいたら、医者も警察も首をかしげるだろう。組織だって嗅ぎつける。
うまく対処しなければ……。
(続く)