第92話 狸、懸命に走る
「羽根のようにとまでは行かないのかも知れませんけど、そんなに大したことはありませんよ」
とかなんとか葛葉嬢を煙に巻きながら、どうにか湖を見下ろす小高い丘まで退却して僕たちは一息を吐いた。正確には僕がだけどね。丁度真下に一連の事件で被害に遭った採卵場が見える。結構上ったもんだな。
周囲を見渡すと山腹のあちらこちらから煙が上がっている、あれが全て温泉らしいからな。襲われた別荘があるのやら僕たちが根城にしてる宿があるところやらも含めて七福神温泉郷なんだそうな。蛇足ながら別荘があるのが蛭子口、宿があるのが福禄谷と言う。他に弁天橋、寿朗原、毘沙門台、布袋河原、大国池があると言うかあったらしいんだが弁天橋と布袋河原、大国池はダム湖に沈んでしまって今は無いんだとか。
背中の重しをようやくの思いで降ろしフッと息を吐いた時、僕は違和感に襲われた。
ここに来た時と今と何かが違う・・・葛葉嬢の存在?いやいやこんなのは想定内だ。ではなんだ?
何がおかしい、鮭妖怪の波動を感じたからか?小止みになった雪を透かして見える凍結した湖面の下から何かを感じたのか?
ここは一人で悩んでも仕方が無い、大人しく周りに意見を求める解決の糸口になるのが一番さ。
「姫様、冬山の麓の湖の底に潜む二つの妖怪と聞いて何を思い浮かべますか?」
「駆け落ち」
・・・妖怪に色恋沙汰っすか?いや待て僕は何を連想したのか・・・
「僕は除霊に係わり過ぎていたんでしょうかねぇ、姫様みたいな見方を忘れていましたよ。
僕はてっきりあの湖を根城にした妖怪たちの砦みたいなものを考えていました、“猫”みたいに棲み付いて力を蓄えているみたいな。あいつはボッチだったのに対して手下がいるのかみたいな。
もう一つのイメージはやっとこさ辿りついたのに出産もできずに無為に殺されて行く鮭たちの残存する怨嗟の集合体から構成された妖怪が遡上してきた鮭たちを手下に従えた妖怪の住処みたいなイメージでね。こっちのイメージは“落ち武者”ですね。
それに対して姫様が打ち出してくれたのは“駆け落ち”。他所から流れ着いた番の妖怪がこの湖底に愛の巣を作っているんだってトコですかね」
何を感情移入してウルウルしてるんですか。あくまでも貴女の空想を設定の可能性として落とし込んでいるんですからね?
「今ので思いついた可能性ってのがあるんです。湖底が巣である事は一緒ですけど親子じゃないのかってね。
潜んでいるのが双頭の大きいのと単頭の小さいの。大きい方が親で小さい方が子供だとするとしっくりくるんですよ。
もしそうだとすると子育て中の親は、気が立っているから攻撃的ですよね・・・あっ!」
僕は、弾かれたみたいに雪に塗れ坂を転げ落ちながら湖を目指す。今は葛葉嬢の事なんか構ってる暇は無いんだ!
思い出したんだ!逃げ出す時にディーテの入ったバケツを忘れていた事に!
葛葉嬢を背負う時に尻がでかすぎてバケツを持てなかったとか、今更言い訳しても仕方ないんだけどゴメン!
置いてきぼり喰らって、雇い主に捨てられて僕に拾われた筈のディーテの恨めしそうな顔が目に浮かぶ!
妖怪がどうとか危険がどうとかって言う以前に、漸く構築しかかった信頼関係の崩壊に繋がりかねない事態じゃないの?危険とか度外視して助けに行くのが本筋じゃないか。
ここは、無理無駄無茶はみっともないとか透かしていい所じゃないだろ。行くだけ無駄でも助ける事が無理でも実力的に無茶でも、ここで助けに行かないなら僕はテイマー失格だよ。
それに半冬眠状態のディーテは動けなくて高カロリーの絶好の餌なんだから子育て中で栄養がいくらでも(この期に及んで鮭に引っ掛けてダジャレを言ってる余裕は無いんだぞ)欲しい筈の鮭妖怪なら喉から手が出そうなくらいのものの筈。ここは強情な葛葉嬢は放っといてでもバケツは回収しなきゃならなかったのに!
後悔先に立たずとは言うものの、あの時の間抜けな自分にビンタを張りたい!
息を切らし這う這うの体で辿り着いた現場で僕が見たものは・・・
《・・・ちょっとピーちゃん、おっちゃんに大至急繋げてよ!・・・あのアマ一遍シメてやる(ボソッ)》
・・・ピュアよぉ、なんで今カオルン少年と交信しなきゃならないんだよぉ・・・
「大上さん、今ちょっと手が離せないんだけど後でいいかな?」
《アッおっちゃん、その辺にクー姉いる?・・・抜け駆けなんて許さねぇからな(ボソッ)》
相当血が上ってるな、でもこっちもそれどころじゃないんだよ!
「今ちょっと離れてるから、後でね」
《ちょっと離れてって事はそっちに行ってるって事だよな・・・絶対ェ許さねぇ(ボソッ)》
嵐のような交信が唐突に終了した。こりゃあ店は臨時休業してでもこっちに来るな・・・
この調子なら今夜この地で2大怪獣の激突があるかも知れないけど、まぁ野次馬的には命あったら見届けてみたいのはやまやまで名残惜しい・・・それは置いといて今は5秒先の事すら判らないんだ。