生まれたもの
「天使ってやっぱりすごいんだね」
空を駆けるイナシの背の上、爽太は感慨深げに呟いた。
『なんだ、急に改めて』
「だってさ、人間に不用意に話しかけて守護犬に丸呑みにされて、それで腹の中から出られなくなるような明らかな落ちこぼれっぽい天使でも、あれだけの力があるんだよ? 真っ当な天使だったらいったどれぐらい強力なんだろうと想像するとさ、やっぱりすごいと思っちゃうよね」
『我を介して他の天使を評価するのはやめろ。そもそも落ちこぼれではない』
「でもさすがにマヌケが過ぎるというか……」
『この町が異常なだけだ! あとこの守護犬が!』
エルテスラの活躍により、キネン日はつつがなく終了した。
呼び寄せた怪異は一切合財消滅。遠見の作った怪異消却型照射機試作一号の二台目は結局使われなかったものの、道具の開発に天使から助力を得る約束を取りつけ、遠見はそれだけで舞い上がっていた。天使の持つ力で助けられたことによるハイテンションをそのままに、ひたすら狂喜乱舞。
その様子にエルテスラもますます機嫌をよくし、天使が他の守護精霊とは一線を画す偉大な存在であることを滔々と語り始める始末だった。大人しく待っていても終わりを迎えられなそうなその話を爽太とイナシで切り上げさせ、エルテスラからの教えを乞うて縋る遠見を、無事腹から出てからじっくりみっちりやってくれと説得して、どうにか神社を後にした。
遠見の望むまま、あそこにエルテスラを留まらせるわけにはいかない。なぜなら、エルテスラがイナシの腹から出られる目処はまだ立っていないのだ。
「汚名返上のためにも早く出たいところだねえ……。出たところで、一度入っちゃった事実は消えることなんてないんだけどさ」
『余計なひと言を加えるな。こんな所さっさと出てやるわ』
「私もそれを願っているのですが」
神社での戦いで、イナシの身体には確かに疲労は溜まった。精神的な負担も大きく、心身ともに疲弊したことだろう。だが、それでもまだ眠りにつくには足りなかった。
そのため、イナシは再び怪異を求めて街を駆け回っているのである。
「怪異がたくさん出てくれるといいねえ」
「本来望むべきではないことですが」
『そんな綺麗事を言っている場合ではない。貴様らは平気だろうが、我は数時間腹の中に入ったままなのだぞ。こんな狭く、暗く、湿った劣悪な環境に、ひとり閉じ込められた状態なのだぞ』
「寂しいなら人数増やそうか?」
『悪意を持った提案はやめろ』
「ごめんごめん」
爽太は笑い交じりに謝る。
「でもイナシは平気なんだよね? ずっと胃袋にラさんがいて、おまけにレーザービームまで撃たれたのに」
『光矢だ』
「あれはエルテスラの言った通り、なんら害のないものでしたから。腹の方も、思い切り動き回られでもしない限り不快感も苦痛もないですね」
ふーん、と爽太は相槌を打ち、そのまま黙った。
口元に手をあて、しばし思案したのち、
「じゃあさ」
にっこりと笑顔を作る。
「もうこのままでいいんじゃない?」
「『は?』」
「腹の中に天使をいれたまま、ふたりで協力してこの町の怪異を祓えばいいじゃん。怪異を探知する機能つきで、祓う時にはレーザービームによる遠距離攻撃も可能。天使内蔵型守護犬ってことで」
『いいわけあるかァ――ッ!』
当然の反論。
『いま劣悪と言ったばかりだというのに、貴様はそこに我を拘束し続けようというのか? ん? しかも内蔵型など、我は付属品ではないぞ……!』
「冗談だって、冗談。そんな酷いことは言わないよ」
『現に口にしただろうが!』
「ただ、この町の怪異を祓うっていうのは冗談じゃなくさ、実際にそうしたら駄目かな? 無事に出られたら、守護精霊ふたりでこの町を守る。どう? 駄目?」
『まったくそそられん提案だな』
「えー、いい案だと思ったんだけど……」
『貴様らこの町の人間にとってはな。我にとってはなんら得るものなどない。ここに縛られる理由も意味もない』
「それはその通りなんだけどね」
『であれば、提案すること自体が無意味だとわかっていただろうが。この町の怪異対策はこいつとあの変人がいれば事足りるだろう』
「でも賑やかな方がいいしー」
『賑やかしで誘うな!』
正論につぐ正論である。
「ざんねーん」
爽太は身体を後ろに倒した。どさっ、と広い背中に仰向けに寝転がる。
「爽太、落ちますよ?」
「んー」
生返事。
『自由気ままとは、こいつのための言葉だな……』
エルテスラが呟いた。どうやら呆れは怒りを凌駕できるようである。
――思うままにはいかないよねえ。
視界に広がる青空は、とてもきれいだ。ちっぽけな悩みなんて無意味に思える壮大さ。有り体な感想だが、実際に目にしてみればそんな思いが自然に湧いてくるものだ。
「あー」
「爽太」
「ん、なに?」
「無理をする必要はありません。あと、焦らないでください」
「……んー」
「あなたが望むように、私にも望むものがあります」
「それはわかってるよ。八年経っても忘れないって」
『貴様ら、なんの話をしている?』
「んー? こっちの話。いつも僕の妄言にイナシが付き合ってくれててねえ」
『貴様は守護精霊への態度を改めることから始めろ』
「善処するよ」
エルテスラの言葉を小言として受け流し、爽太はまた空に意識を移す。
そして、呟いた。
「……………………暑いね」
さんさんと降り注ぐ日の光を、身体全体で真正面から浴びるこの現状。これは暑い。
寝ているから、ではない。夏真っ盛りの今日のような日は、座っていても直射日光が大いにつらい。エルテスラと会った直後は、久しぶりにイナシの背に乗れたことで気分も高揚していたし、激しい風を浴びていたため、さほど暑さが気にならなかったのだが、いまはそんな要素もない。
「イナシは平気だもんなー。こんなにもこもこなのに」
「暑さや寒さといった気温の影響は受けませんからね。炎や氷のような熱さや冷たさは感じ取りますが」
先ほどまでいた神社は、日光は木漏れ日程度で、不思議と空気もひんやりとしていた。意外と快適な空間だったのだ。
それを思い返せば、なおさらいまの暑さを意識させられる。
「ん~~~~。こりゃいかんね」
じんわりと汗も滲み始める。
「ラさんは涼しそうだよね」
『貴様…………!』
軽口をたたく元気はまだまだあるが、これではイナシの疲労を待つ間に爽太の方が先にバテてしまう。別に遠見のように戦うわけでもなし、怪異相手に交渉をさせてもらえるわけでもなし、だらだらしていても特に支障はないのだが、そうなると、
「爽太、帰った方が――」
イナシが同行を許可してくれなくなってしまう。
「大丈夫!」
がばっ、と起き上がる。
「大丈夫! よし、コンビニに寄ろう!」
「なんですか急に」
「小休止! さあ寄ろう、すぐ寄ろう!」
このまま帰らせられるのだけは避けなければならない。必要なのは暑さへの備えと休息だ。それさえできれば、なんら問題はない。
少し涼んで、冷たい飲み物でも買っておけばそれで良し。
「仕方ありませんね。無理して体調を崩されても困りますし」
『帰らせはせんのか?』
「身に危険が及ばない範囲では、本人の意思を尊重する方針なので」
『それならそれでいいが、長居はするなよ。貴様が時間を浪費すれば、それだけ我が出るまでの時間が延びていくのだからな』
「わかってるって。僕もラさんには早く自由になってもらいたいからね」
朗らかに笑う爽太を背に、イナシの足はコンビニへと向かう。
『自由なやつだな、まったく」
「そうですか?」
エルテスラの言葉に、イナシは意外そうに声を上げた。
イナシはいま、コンビニ脇の路地を進んだ先にある住宅や個人店に囲まれた更地に、ぽつんと座っていた。当然コンビニの中には入れず、表で待っていれば迷惑この上ないため、こんな場所で待機となっている。
更地のほぼ一面を覆う背の低い草にまぎれて顔を出すひょろりと伸びた草が、そよそよと風に揺れているのを見るともなく眺めながら、イナシは続くエルテスラの言葉を聞く。
『行動をともにしていて、嫌気はささんのか? お守りなど面倒なだけだろう?』
「特に不満はありませんよ。会うのも爽太が休みの時ぐらいですし、基本的にはこちらの邪魔をすることもありませんから」
『こんな無駄な寄り道をしてもか?』
「この程度なら許容範囲内ですね。あなたはそうではないんですか? 人間のちょっとしたわがままや気まぐれぐらいどうってことないと思いますが」
『我は人間と直接関わることなど滅多にない。これまで生きた数十年の間でも、片手で足りるほどだ』
「そういえばそんなことを言っていましたね」
天使はおいそれと人間に姿を見せることはしない。確かに自らそう言っていた。
『我からすれば、人間に周知され、気軽に言葉を交わしあい、あまつさえそのわがままに付き合っている貴様の姿は特異なものでしかない』
「そんなものですかねえ」
そう言われてみても、イナシにはいまひとつ実感がわかない。いまの状態が自分にとっての普通であり、そこには忍耐も努力もない。自然なそのものである。
それに、人間と気軽に言葉を交わしあい、とは言うが、そんな間柄の人間などほとんどいはしない。爽太と遠見を除けば定期的に顔を合わせるものも皆無。他の人間からはそっけない対応をされるのが常である。そこら辺は他の守護精霊と変わりないはずである。
そんな思いが声に表れていたのか、エルテスラはなおも言葉を続ける。
『あの変人がいい例だ。守護精霊の代わりをすると言って、無力な身で無謀にも怪異に立ち向かおうとする。勝手にそれをするだけならともかく、貴様はその尻拭いをさせられているだろう?』
ちょっかいを出したりからかったりする爽太がいないせいか、エルテスラはやけに饒舌である。
「別にさせられてはいませんよ。私が勝手にしているだけです。遠見の方ははっきりと必要ないとさえ言っていますから」
『それでも、実際には必要なのだろう?』
「ええ」
イナシは素直に肯定する。
「私が守る必要があります。しかし、それが私の役目。なんら問題ありません」
何の迷いもないイナシの言葉に、エルテスラは黙る。僅かに唸るような声が漏れ聞こえた気もしたが、しばし押し黙る。
数十秒の間ののち、
『貴様のその感覚はわからんな』
再び口を開いた。
『あの時もそうだ。奴が触手に捕えられ、怪異の人質になった時。あの時、貴様は怒りに満ちていると言ったな』
「あなたも、それを理解できると言っていましたね」
『それは少し違う。我が理解できていたこと、我と貴様に共通していたことは怒りという感情のみだ。その感情に至る理由は違っていた。貴様はあのような事態を招いてしまった己に対して怒りを覚えていたようだが、我は違う。我は、人質になってしまうというやつの体たらくに対し、貴様が怒っていると思ったのだ』
「その怒りは、ありえませんね」
イナシは即答する。
『そうだろうな。それが貴様の感覚だ。我とは違う』
「しかし、私は自分が特殊だとは思えません。私は何も特別な感情は持っていない。自分の役目を理解し、それを果たすために行動しているだけです。守護精霊としてなにも特別なことはない」
『そこに不満はないと?』
「ありません」
『疑問を差し挟む余地は?』
「ありません」
そんなものあるわけがない。
守護精霊にとっての役目というのは、つまりは己にとっての存在意義である。人間を初めとする生物たちの捕食者たる怪異。その怪異の天敵として生まれた守護精霊。守護精霊にとって、怪異を祓うことはいわば本能であると言い換えられる。それに影響しない事柄、人間との付き合いなどについては、ことさら気に掛けることではない。
要は、邪魔さえされなければ何をしようが構わない、というのが基本理念になっているのである。遠見の場合は多少邪魔になっていると言えなくもないが、現在のところは、まあ許容範囲。度が過ぎれば注意勧告、といったところか。
『所詮は犬の知性か…………』
ぽつりと、漏れ聞こえたエルテスラの呟き。
それは吐き捨てるわけでもなく苦々しげでもなく、口から何気なく出てきた言葉。しかしだからこそありのままの本心が表れた、そんな言葉のようだった。
イナシはその声色に、どこか諦めのような感情さえ感じた。だからだろうか、明らかな嘲りの意味を持ったその言葉を耳にしても、腹が立ちはしなかった。
むしろ、まったく別の感情が湧いてくる。
それはエルテスラに対する懸念と好奇の感情。イナシが感じ取った諦めは、何に対するものなのだろうか。
ここに着いてからのエルテスラの声には、これまでにあった覇気がない。尊大な口調は変わらないが、そこにあった張りはなくなっていた。
――会話の相手が人間ではないからでしょうか。
思い返せば、エルテスラは爽太や遠見に対していやに傲慢で、高圧的な態度をとっていた。そこには、天使、ひいては守護精霊が、人間より上位に位置する存在だという認識がはっきりと表れている。現に、人間は天使を崇め奉るべきだという考えも口にしていたし、遠見がそんな姿勢を見せれば、手のひらを返したように柔和な態度に変わっていた。
ふと、気づく。
――それが、私との感覚の相違。
考えの相違は、結果として人間との関係に対する見解の相違を生む。守護犬と天使とでは、思考における前提条件から違っていたということだ。それならば、犬の知性と言われても納得である。
ただ、そういった違いがあるのはいいが、イナシにはまだ気になることがある。なぜか、エルテスラはイナシの考えが気に入らないようなのだ。
イナシからすると、エルテスラがどんな思考をし、思想、信条を得ようとも、それ自体に反発する気持ちはない。なぜそんな考えに至ったのか、それは天使共通のものなのかそうでないのか、そういった種々の疑問は抱いても、その考えに反論しようなどという気はさらさら起きない。
しかし、エルテスラの方にはそれがある。だからこそ、繰り返し言葉を重ねてイナシの考えの是非を問うような真似をする。
なぜ、こんな相違があるのか。
――これすらも、結局は守護犬と天使の違いという事なのでしょうか。
すべてはそこに行き着く。それだけのことなのかもしれない。それがわかったところで、エルテスラの諦めの中身を窺い知ることはできないのだが。
ただ、長々と考えてみて、イナシにはひとつだけ思い至ったことがある。
それは、
「あなたはどこか人間らしさがありますね」
率直な感想。
自分の思考を他者に広め、共有したいと願う。だから他者の持つ異なる考えに反発し、批判する。そんな他者への反応は、いま結論付けたように天使として当然のものなのかもしれないが、守護精霊の普通ではない。どちらかといえば、それは人間がやっているものに思えた。とても人間らしい、そんな行動。
エルテスラからの反応は、すぐには返ってこなかった。
まずもって無音。視覚情報はゼロなので、音を発せられなければエルテスラの様子を知る術はない。
声が届いていなかったのではないかと不安になりかけたころ、
『翼以外は人間だからな。犬の貴様と違って』
何を馬鹿なことを、とでも言いたげな反応が返ってきた。
「いや、そういうことではなく――」
『外面でなく内面か?』
「そう! そちらです!」
『まさか』
苦笑。
『そんなわけがあるか。どちらかといえば人間らしいのは貴様だろう。人間と仲睦まじく、友人と言っても遜色ない会話を交わす。余程人間に近くはないか?』
「表面上はそうかもしれませんが――」
『お前は真面目に言っているのだろうが、我にとっては戯言だな』
遮った天使の声には、失われていたはずの覇気が蘇っていた。
『人間らしい? 馬鹿馬鹿しい。我は天使だぞ。人間どころか、ただ怪異を祓うだけのそこらの守護精霊よりも格上の存在。その力は貴様も目にしただろう? 我の手にかかればこの町に蠢く怪異どもを一掃することなど容易いこと。それに引き替え、人間というのはなんの力も持たず、守護精霊に守られなければ怪異になす術なく餌食にされる存在。いわば劣等種だ。この両者の間にどれだけの差異があるのか、それは貴様にもわかるだろう?』
熱を持った言葉の羅列。
怒りは伴っていないが、確固たる熱意を感じる。イナシの口をついて出た感想は、エルテスラの揺るぎない、いや、揺らいではいけない何かに触れてしまったようである。
その何かの正体は明確には分からないが、そこに天使としての矜持が関係しているのは明白である。単なる守護精霊ではない、天使であるエルテスラ。そこにはイナシでは推し量れない思慮や苦悩があるのだろう。
「確かに、差異はあるようですね」
『ようではない、明々白々だ。まったく、貴様らには教育が必要だな。どいつもこいつも天使に頼るばかりで知識も分別も欠けていて…………』
ぶつぶつと天使の不平不満は続く。
イナシはそれを聞き流しつつ、視線を上げた先、こちらに向かう爽太の姿を見つけた。
左手にコンビニの袋を下げ、右手は口元にある。いや、正確には右手に持った薄い青色の塊を口元に添えている。
イナシの視線に気づいた爽太は、右手を上げてぶんぶんと振っている。顔にはいつもの笑み。
傍から見れば、悩みも何もないお気楽少年。
あれと同じだという指摘は、確かに否定されても仕方ない。腹から未だ聞こえてくる呪詛のような声を聞きながら、イナシはそんなことを思った。