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乱戦の真っただ中

「そちらは任せましたよ!」

 言うと同時、イナシの前足は動いていた。

 挙動は単純。球体に対してのものと同じく、ぶっきらぼうに振るう動き。眼前の怪異たちがまとめて薙ぎ払われる。

「さっすがー」

 イナシの背に乗った爽太は、歓声を上げた。

 次なる怪異が呼び寄せられた現在、イナシの周囲には獣型の怪異の群れができていた。それは境内の反対の位置にいる遠見も同じで、竹刀を構えるその身を怪異が囲んでいる。それぞれがすでに交戦中である。

 群れの中に目立つのは犬か狼と思しき怪異。他には猪や狐、虎や獅子のような大型のものも交じっている。それぞれは、火の玉を伴った霊体や、目玉が飛び出し内臓や骨を露出させているリビングデッド、血走った眼をぎょろつかせて口からはみ出すほどに伸びた牙を持つ怪物としか形容できない異形のものなど、様々な形態である。

 唸り声をあげ、爽太に向けて鋭い眼光を飛ばすその様は、先ほどの球体と比べるまでもなく、命の危険を感じる相手だ。

 イナシの背中の上にいなければ、すぐにでも爽太は襲いかかられていることだろう。

「言葉が通じる相手ならなあ……」

 聞こえよがしに残念そうに呟いたが、イナシは目の前の怪異に集中しているようで無反応だった。

「行きます」

 再度、イナシが前足を振るう。

 先ほどと同様に獣たちが宙を舞うが、少数だが軽やかに跳躍して一撃を躱すものがいた。

 しかし、イナシの動きはそれで終わりではない。もう片方の前足がすでに出ていた。跳躍し、空中に身を置く獣に向かい、振り下ろす。

「――――ッ!」

 確実に捉え、地面に叩き落とした。獣の身体を衝撃が襲い、落下の地点を中心として薄い砂埃が舞う。

 断末魔の叫びすらなく、獣は行動不能になった。

 その一連の動きを見てか、無傷の獣たちはイナシから距離を取り、隙を窺う挙動を見せ始めた。

 しかし、イナシがそんなことを意に介すことなどない。怪異はただただ排除するのみ。それがイナシの役目だ。戦いにおける駆け引きや小手先のテクニックなどはいらない。

 イナシはまた、前足を振るう。

 それで十分。いや、そうすることが、今現在この場にいる人間を守るための最善策だと判断しての行動である。

 獣を吹き飛び、躱すものには二撃目を放つ。

 砂埃が舞い、僅かな血飛沫も舞う。

「当たり前だけど、余裕だよね」

 イナシにとって、眼前の怪異は取るに足らない相手である。大げさに身体を動かすこともなく、両の前足を振るうだけで事足りる。そこには不安も懸念もない。気にかけねばならないのは、人間の身の安全のみ。

 だから、戦いのさなかでも、時折イナシの視線は背後に向けられる。

 そこにあるのは、獣の群れを相手に果敢に戦う遠見の姿である。

「あっちは結構スリリングかな?」

 遠見は右手に竹刀、左手に水鉄砲という装備で怪異に挑んでいた。

 遠見の筋力の都合上、片手で扱う竹刀では威力に乏しく、叩き伏せるのではなく、跳びかかってくる獣を受け流すために使っている。獣は数が多く休む間もなく跳びかかってくるが、その合間合間に水鉄砲で牽制。怪異の猛攻をどうにか耐えているように見える。

 しかし、それでは埒が明かない。

 弱っている獣はいるものの、未だ一頭たりとも行動不能になったものはいない。体力にもさしたる自信がない遠見にとってはこのままの状況が続けばジリ貧のはずである。

 これはいけない。

「遠見さ――――」

「わかってる!」

 言うと同時、遠見は水鉄砲をベルトに挟み、両手で竹刀を構えた。そして、

「やられる前にやる!」

 一番近くの獣目がけて、竹刀を突き出す。喉元を正確に捉え、押しきる。

「次!」

 伸びきった腕を横に振るう。そのまま、空いた脇腹目がけて跳びかかってきた別の獣を打ち払い、

「次!」

 ぐるりと身を回し、獣たちの位置を把握。

 ふ、と息を吐き、竹刀を上段に構え直し、

「――――!」

 手近な獣に目がけ、振り下ろす。確実に脳天を捉え、無力化する。

 一瞬のうちに、三頭の獣が地に伏せた。

「どうだコラッ!」

「おー」

 遠見の立ち回りを見て、爽太はぱちぱちと小さな拍手をした。

 いまの一連の動きは体力的に厳しかったのか、遠見は足を止めて肩で息をしている。

「でも、すごいすごい」

 それは純粋な賛辞だった。

 闘争本能剥きだしの動物など、怪異でなくとも相手にしたくない。しかし遠見はしっかりとそれを相手取っている。体捌きは素人目に見てもお粗末なものだという印象だが、それはそれ。重要なのは結果である。

 ――よくあんなことができるよね。

 遠見を見ていると、爽太の心にはいつもそんな思いが湧いてくる。

 爽太とて怪異を目の前にして悠長に会話を始めるという、一般人とは言い難い行動をとる変人ではあるものの、物理的に争う姿勢を見せられれば即降参である。骨を取り出す準備には余念がない。

 自分と同じく特別な力もない凡人であるのにこうして怪異に抗うことができるのは、ひとえに目的のためだろう。一途に思っているからこそ、わけのわからない理論も生みだし、実際に対抗する術を手に入れようというもの

 爽太はひとり、深く頷いていた。

『奴もなかなかやるようだな。あれだけの数をひとりで相手にするとは』

 そう言ったのはエルテスラだ。怪異を探知する能力とやらで戦況を把握できているらしい。

「ラさんから見てもやっぱりすごい?」

『本人には生来の力がなんらないというのがな。俄かには信じられんことだ』

「でも、ああやって戦えてるからねえ」

 爽太の視線の先、獣の群れの中で遠見は戦いを再開している。ひたすら足を動かし、竹刀を振るう。その肩は激しく上下し、傍から見ても疲労の様子が見て取れるが、それに見合った戦果は確実にあげている。遠見の周りには、力尽きて倒れ伏した獣たちが何頭も転がっていた。

「どんどん来い、コラァッ!」

 四面楚歌の状況に加えて蓄積されていく疲労。それがかえって遠見を気力十分、ハイな状態にさせている。その気迫に気圧されるように、獣たちは遠見からある程度の距離を取り始めている。

 形勢は完全に有利。遠見には体力面の心配もあるが、ミスや油断がない限り後れを取ることはなさそうだ。

「なんだかんだ無事終わりそうで良かった良かった」

 周囲を見れば、イナシの前にいる怪異ももう三頭を残すのみとなっている。

 こちらの勝敗は瞬く間に決するだろう。獣たちはすべて一撃ないし二撃で仕留められており、ひとつの例外もなく完膚なきまでに叩きのめされている。

 ――守護精霊はやっぱり別格だよね。

 そんな端的な感想もでてくる。同じく怪異を無力化したとしても、遠見とイナシの間にはまだまだ大きな隔たりがある。それは怪異を消滅できるかどうかというレベルの話ではない。根本的な能力の差が大きくあるのだ。

「でも、これじゃあラさんが出られるのはまだ先かな」

 この程度でイナシが疲れたとは思えない。まだまだ怪異を求めて町を駆け回る必要がありそうだ。

 そんなことを考えながら、爽太は視線を遠見の方へ戻す。ふと、その視界に妙なものが入っってきた。

「なんだあれ?」

 それは、一見して怪異だった。

 この町では、動物でも植物でもない正体不明のものはなんでも怪異認定されるのが常であるが、そんな消去法をとらずとも、爽太の目に映ったものは明らかに怪異だった。

 それは、半透明の身体をしていた。球体たちのように、水を厚い膜で覆ったような、ぶよぶよとした弾力を持った質感の身体。しかしその形は球ではなく、それを長く伸ばしたような蛇に似たものになっており、爽太の足と同じ程度の大きさだ。手足に加え、目や口もなく、意思を持っているのかも疑わしい容貌である。

「あんなの初めて見るかも」

 爽太は、誰に言うでもなく呟いた。

 爽太がいままで目にしてきた怪異の数は多いが、その中にこんなものはいなかった。見る限り、言語を解する能力どころか、自我や意思といったものすら持ち合わせていないように思える。

「いい勉強になるかも」

 気持ちだけ身を乗り出し、目を凝らして怪異をじっと見る。一挙手一投足を見守り、今後の糧にしなければならない。

 怪異はのそのそと這う動きを始めた。身体をくねり、伸び縮みさせるその動きは緩慢で、小動物や爬虫類に捕食される幼虫のようにも見えてくる。

 そんな動きのためか、獣たちはおろか、周囲に気を配っているはずの遠見さえ、視線を向けることはない。

 ――あれ何のために来たんだろ?

 そんな疑問が頭を巡る。原因は何かと問えば、その答えは鍋だろうけれど。

 ――あれじゃあ人間から精気を奪うのは無理だろうなあ。いや、動物でも無理そう。

 あれで生きていけるのかと心配になってくる。競争力がなさすぎだろう。

 怪異はのそのそとした動きで、何故か倒れる獣に近づいていく。そして、その上に被さるようにして獣の身体に這い上がる。ますます何をしたいのかはわからない。

 頭に疑問符を浮かべた爽太が見る中、しかし異変はすぐさま起こった。

 ずるんっ、と、犬の身体に怪異の身体が重なる。腰回りを中心とした一部分、そこだけが半透明の身体に覆われ、その内部に取り込まれている。

 そして次の瞬間、半透明の身体の中で、爆発でも起きたかのように大量の気泡が生じた。音もなく、衝撃も感じられない爆発。気泡は一瞬で生じ、しばしののち消えた。

 そして同時に、半透明の身体の中から獣の身体も消えてなくなっていた。

「……え?」

 思わず声が漏れる。

 ぐったりと転がる獣の怪異。それに覆いかぶさる半透明の怪異。それは先ほどまでと同じ光景だったが、明確な違いが生まれていた。獣の身体が、半透明の身体を境界としてぱっくりと二つに分割されているのである。

 爽太の頭に、先ほどまでとはまったく違った種類の疑問が浮かぶ。

 怪異の方はさらに動き続ける。

 僅かに残された下半身。そして腹、胸。怪異は這い、先ほどと同じように自らの身体の内に取り込む。そして――消える。さらに続けて頭まで消した時、

『おい、なんだ? 怪異が一体消滅したぞ』

 エルテスラが異変に気づいた。

『奴からは離れた位置だが、他に誰か援軍でも来たか? 説明しろ。何が起きている?』

 エルテスラの戸惑う声に、爽太はいま目にしたものを、それが何を意味するのかを率直に口にした。

「怪異が、他の怪異に吸収された」

 いま爽太の目には、初めよりもひと回り大きくなった半透明の怪異の姿が映っていた。

『吸収型……。厄介なものが出てきたな』

「あっ、知ってるんだ」

『当たり前だ』

 爽太にとって目の前で起きた出来事はそれなりに衝撃的だったが、エルテスラの方にはそんな様子は微塵もない。

『吸収というのは決してメジャーな能力とは言えないものだが、我のような博覧強記な天使であれば見知ったものよ』

「僕は初めて見たよ」

 漫画や映画の世界では、生物を吸収する化け物なんてありきたりでありふれた存在だが、実物となると話は別だ。

「結構いろいろと見てきてるんだけどなあ」

『能力があっても使って見せるとは限らんからな。特にこの町では、怪異が人間に対して力を使う隙などないだろう』

「私の話ですか?」

 エルテスラの言葉に、耳聡くイナシが反応した。

「一瞬で呑み込むのが基本ですからね。迅速かつ丁寧に。守るためにはそれが最も理想的な手段です」

「イナシ、怪異は――」

 問いかけをする必要はなかった。周りを見れば、立っている獣の姿などどこにもない。すべてが地に伏せ、横たえ、身動きできずに転がっている。

 ――だよねー。

「しかし、厄介なものが来ましたね」

 イナシが、エルテスラと同じことを言った。

「何が厄介なの? 見た感じはお手軽に倒せそうだけど」

 改めて向けた視線の先、怪異は這って動くことをやめていた。代わりにその身体をしならせ、触手のように長く伸ばす。狙うのは当然、倒れている獣たちである。ずるり、と被さり、覆った箇所から瞬く間に吸収。怪異の身体がさらに大きくなっていく。

『あれ単体で見れば脅威などない』

 エルテスラはきっぱりと言い切った。

『だが状況が悪い』

 その言葉に、イナシがこくりと頷く。

「あの調子で吸収され続ければ、遠見の懐中電灯で消滅できる許容量を超えるでしょう」

「でも、吸収しても全体の量は変化しないよね。むしろひとつにまとまって好都合じゃない? 倒したのは無駄になるけど」

「見る限り、あれは単なる吸収型ではなく成長するタイプです。吸収したものを養分として取り込み、その質量以上に成長する。だから厄介なのです」

『わかったか?』

 爽太は無言で頷いた。

 わかった。よくよくわかった、理解した。

「こんなだらだら話をしてる暇もないってことね」

「その通りです」

 言うや否や、イナシが動く。

 標的は、さらに吸収を続け肥大している。怪異の身体はすでに遠見の背丈を超すほどの巨体になっていた。這うことをやめて屹立した状態になり、その頂から放射状に触手を伸ばしている。

 幸い、現状の大きさであればイナシの手で一撃に伏すことは可能だろう。

 イナシの巨体であれば境内での移動は一瞬。大きく一歩踏み出せば、それだけで遠見と獣の群れの奥にいる怪異が前足の射程に入る。

「くっそ、吸収型かよ」

 聞こえてきたのは、焦燥を帯びた遠見の声。

 遠見も件の怪異の存在に気づいているようだ。おまけにその厄介さを十分理解している風である。

 イナシは上体を起こし、前足を振り上げる。

 脅威は確実に取り除く。それがこの場においてイナシの為すべきことである。

 役目を遵守し、実行しようとしたその時、不意に辺りに声が響いた。

 それは、遠吠え。

 発生源は、爽太たちのすぐ目の前。獣の群れの中。

 一頭の犬型の怪異が行儀よく座った姿勢で天を仰ぎ、高らかに遠吠えを上げている。

 突然のことにイナシの動きが止まる。

 爽太の耳に、さらに音が飛び込んでくる。それは森の中を発生源とした、いま目の前で発せられているものと同じ犬の遠吠え。それも、ひとつやふたつではない。幾重にも重なり、響く。

「まさかこれって――」

 頭に思い描いた嫌な想像を爽太が口にしようとした矢先、前方の森の中から犬型の怪異が飛び出した。

 それは当然のように群れを成し、脇目も振らずにイナシに跳びかかってくる。

「――――ッ!」

 標的を新たに、上げていた前足をそのまま振るう。

 数頭を払うが、躱したもの、続くものがイナシの身体に容赦なく爪を伸ばし、喰らいつく。

「くッ!」

 身を震わせ、纏わりつく犬たちをイナシはすぐさま払いのける。

 体格差のため、犬たちの攻撃は身体の表面を僅かに傷つけるにすぎなかった。残る犬たちもいったんは距離を取り、身を低く構えて歯を剥きだしにし、威嚇の唸り声を上げる。

『一気に二十は増えたな』

「増援を呼ぶ可能性は考慮すべきでしたね……」

『考慮しても意味はないだろう。悔いるべきは途中で動きを止めてしまったという点だけだな』

 イナシと吸収型の怪異の間、そこに犬型の怪異たちが立ち塞がっている。

『早々に片付けねば間に合わなくなるぞ。さらなる増援の可能性もある』

「わかっています」

 イナシの身に、ぐっと力が入った。

「爽太、しっかり掴っていてください」

 爽太が返事をするよりも早く、イナシは動いていた。

 前方への跳躍。

 着地と同時に、両の前足で犬を踏み潰す。さらにその体勢から勢いを殺すことなく、さらに前へ。並ぶ犬をまとめて薙ぎ払い、空いた前足で地面を蹴って横に跳ぶ。

 射程に入った犬を切り裂き、隙を突こうと跳びかかってきた犬に喰らいつく。飲み込むことはせず、牙で両断したうえで地面に吐きだす。赤黒い血が地面を、そして真っ白なイナシの体毛を汚していく。

 犬たちはたやすく蹂躙されていった。

 漂う鉄の臭いを感じながら、爽太はイナシにしがみつく。こんな状況で落ちてしまえば無事では済まない。

 イナシが動く。

 爪を、牙を、躊躇なく使い、素早く、そして確実に仕留めていく。首を刎ね、腹を裂き、脚をもぎ、完全に無力化させていく。

 血煙をあげ、悲痛な叫声とともに犬たちは地面に転がった。

『悔いる必要などなかったな』

「本気はさらにすごいねえ」

 爽太とエルテスラが会話を交わしている内にもイナシの蹂躙は続き、そして、

「――最後」

 ものの二、三分程度で終わった。

 犬型の怪異たちはすべて肉片と化し、地面に散らばっていた。

「これで残すは奴のみですね」

 こうしている間にも、吸収型の怪異は吸収を続け、さらに巨大化しているはずである。

 爽太とイナシが、揃って怪異の方へ視線を向けた。

 その視界に、予期していなかった光景が映る。

「くっそ! やめろコラッ!」

 発せられるのは苦々しげな声。その声の主は遠見である。

 獣の群れを相手に戦いを続けていた筈の遠見だが、しかしいまは何故か宙に浮いていた。脚を投げ出し、腕を投げ出し、無防備な格好で。

 よく見てみれば、その腕と脚、おまけに腹には半透明の触手がしっかりと巻きついていた。

「この低能生物がぁぁぁッ!」

 境内に響き渡る怨嗟の声。腹を締め付けられている割には、よく声が出ている。

「うっわ、捕食されかけー?」

「完全に捕まっていますね……」

 遠見は怪異の触手に完全に捕えられていた。。大声で喚いているのが怪異の気に障ったのか、新たな触手が顔に伸び、口元を完全に覆う。竹刀はその手を離れて地面に転がっており、自力での脱出は望めない状態である。

 怪異はすでに人間の身の丈など優に超え、すでにイナシに匹敵するほどの大きさに肥大化していた。経常自体に変化はなく、伸ばす触手の太さと長さ、そしてその数が増している程度である。爽太の目には怪異の姿が、丸々と太った幹を持つヤシの木のようにも見えた。

 怪異の周りにはいまだ獣型の怪異たちも残っており、手が出せない位置にいる遠見の代わりにイナシに向かって威嚇の唸り声を上げている。

『おい、まさか奴が怪異に喰われているのか?』

「取りあえずは捕まってるだけ。悪役に人質に取られるヒロインみたいにね」

『…………迷惑極まりないな』

 ため息とともに出てきたのは、呆れたような声。

『やはり人間ではそんなものか。――しかしどうするのだ? 奴はともかく、怪異自体が巨大になりすぎている。あんなちゃちな道具で消しきることなどできんだろう?」

「そちらは諦めます。初めに言った通り、あなたを吐きだすのを待ってからすべて呑み込む方法を取ります」

『まあ、それが妥当か。元々、人間に任せるという選択肢の方が無謀だからな』

「この程度の相手であれば、殲滅は一瞬。遠見を助け、怪異を倒すことに何ら問題はありません」

「――あのさあ」

 出し抜けに、天使とイナシのやり取りに、爽太は割って入った。緊張感も焦りもない、普段通りの気の抜けた声。

「イナシ、怒ってる?」

 端的な問いかけ。

 イナシの話す内容に、それを示すものはなかった。口調も、緊迫感はあるが落ち着いたものだ。だが爽太には、なんとなくではあるがそこに怒りりが感じられたのだ。

 問いかけは、一瞬の沈黙を呼んだ。

 が、すぐにイナシは口を開く。

「ええ。怒りに満ちていますね」

 努めて冷静な声。震えることもなく、押し殺した感情が透けて見えるようなこともない、平坦な声だった。

「やっぱりねー」

『怒り、か。まあ、気持ちはよくわかるな』

 エルテスラが同調する。

 イナシは一度ゆっくりと瞼を閉じ、長い息を吐きだしたのち、開いた。

「私は、怪異の力を侮っていた。遠見の身を危険に晒すなど、あってはならないことです。無意識のうちに、このキネン日という状況に慣れ、油断があった。――こんな怒りを覚えるのも、久しいことです」

 怒りの理由は、爽太にもわかるぐらいに明白だ。

 イナシにとって、怪異により人間に脅威がおよぶのは、恥ずべきことである。それはいまのような特殊な状況でも、怪異の懐に自ら飛び込んでいく遠見が対象でも同じことだ。

 キネン日の際、イナシは爽太の身の安全に常に気を配っている。当然、爽太が無力であるからだ。それに比べれば、遠見は多少なりとも放置されている向きはあった。守られることを遠見自身が嫌うし、ある程度の怪異であれば自力での対処が可能であるからだ。しかしそれは、いま目の前で起きている結果を、仕方のなかったことにする理由にはならない。

 怒りの矛先は、自分である。

 人間を守る、という守護犬の役目。それが果たせないのであれば、守護犬という存在そのものが無意味になる。役目とは、守護犬を形作るただひとつの理念なのだ。そのためならば、何だってする。

 だから、イナシは己に憤る。

「役目は果たします」

 再度の平坦な声。

 イナシの身体が、動く。

 が、それよりも早く、

「――待テ」

 発せられた、ひとつの声。

「なに……?」

 突然の声。それは爽太ではなく、エルテスラでもなく、遠見でもないなにものかの声。

 ――まさか……。

 爽太の視線が、吸収型の怪異に吸い寄せられていく。

 頭頂付近、触手の根元よりやや下がった位置。つい先ほどまでぬらりとした半透明の肌が広がるだけだったその箇所に、爽太ははっきりと見た。そこに、ぐにゃりとした歪な口が開いている。

「コイツガ、見エナイカ?」

 子供が粘土を無理矢理押し広げたような、器の縁がひしゃげたような、そんな歪んだ形をしている。口というよりも、穴といった方が正確にも思えるその器官は、ぱくぱくと開閉を繰り返す。感情が見えてこない無機質なものだが、確かに音を、声を発している。

 それは、確かに口であった。

「下手ナ真似ヲスルト、コイツヲ殺ス」

 発しているのは、いかにも追いつめられた悪役が使いそうな常套句。そしてそれが示しているのは、捕食される寸前の獲物であった遠見が、晴れて名実ともに人質になってしまったということである。

『事態は悪化の一途だな』

「でもなんで? なんで急に喋り出したの?」

『身体だけではなく、精神も成長するタイプだったからだ。吸収の結果、知能を持つことができたというわけだ』

「しかし、これはまた……」

 イナシの声が曇る。

 ――厄介だよねえ……。

 これでは迂闊に動けない。単なる捕食対象であれば、精気を奪われている間にただただ素早さを優先し、イナシが怪異を倒せばよかった。吸収型であれ、怪異にとって人間は精気を奪うためのものである。絞りつくしたあとならともかく、初めから吸収するようなことはしない。だから最悪、むりやりにでも触手を引っぺがして遠見だけを助け出せばよかった。

 しかし、人質となるとそうはいかない。相手の要求にもよるが、力任せの解決はまず不可能である。

「動クナヨ」

 告げられる言葉。そこには覇気も威圧も感じられないが、イナシの動きを止めるのには十分な力を持っている。

『守護犬、この事態をどう打開する?』

 エルテスラの問いかけは、幾分挑発的なものに聞こえた。それが奮起を促すためのものなのかは爽太にはわからなかったが、イナシの方は黙ってしまった。

 人質救出の方法。

 イナシが取るべき選択肢は大きくふたつある。怪異に気取られない遠距離からの攻撃か、怪異が反応できない速度での急襲。

 しかし、イナシはそのどちらも選ぶことができない。まずもって、イナシには遠距離攻撃の手段などない。となれば速度に頼るほかないが、それも難しい。不意打ちによるものならともかく、面と向かって仕切り直したこの状況では、攻撃をあてるよりも早く怪異が遠見を吸収するだろう。

 イナシは、動くことができない。

 怪異の言葉に従うしかない、と、そう判断せざるを得ないはずである。

「万策尽きた感じ?」

 黙ったままのイナシに、爽太は訊ねる。いつも通りの軽い調子で、無邪気に。

 イナシの返答はなかった。

 それを確認した爽太は背筋をしゃんと伸ばし、

「じゃあ――」

 その声に、期待の色を加えて言った。

「選手交代だね」

 にっ、と三日月形に口が笑った。

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