守護を望まぬ者
――キネン日。
それは一言で言ってしまえば、天使に説明したとおり守護犬の不要を祈念する日だ。それは紛れもない事実だが、爽太はそんなキネン日を少し楽しみにしている。
キネン日は町の人間から批判も非難もされていて、主催者たる人物は変人として確固たる地位を築いてしまっているし、本人もそれを自覚している。しっかりと自覚しながら、奇異や侮蔑の目で見られる行為をここ八年近くの間、誰に頼まれるわけでもなくせっせと続けているのである。
そんな彼のことも爽太は気に入っていた。守護犬に関して考え方に違いはあるが、八年間の付き合いのある親しいといえば親しい間柄である。爽太としては、他の人間にはない共通点もあり、懇意の中や友人という表現よりは同志というのがしっくりくる気がする。相手がどう思っているかはともかくとして、爽太は彼をそんな風に捉えていた。
「イナシにとってはどうなの?」
「どうというと、彼のことですか?」
イナシがちらりと爽太を見やる。
イナシは住宅街を後にして、キネン日の場所に向かっているところだ。爽太は背中の上、エルテスラは腹の中、と両者の定位置は当然変わらない。
「あれ自体は、やめてもらいたいというのが正直なところですね」
「やっぱり面倒くさいから?」
「それはほとんど感じません。あくまでも私の役目の範疇ですから。彼自身にも別段不快感はないですし――」
『それはいかん』
唐突にイナシの言葉を遮ったのは、エルテスラだった。その声にはありありと不快感が漂っているのがわかる。
『反守護精霊などと、そんなふざけた思想を振りかざすも者を容認していいわけがない。貴様の存在そのものの否定なのだぞ。打ち砕き、心身ともに粉微塵にしてしまわなければ……!』
軽く話を聞いただけで、未だ怒りが冷めやらぬ様子のエルテスラであるが、当事者であるイナシの方は涼しい顔をしている。
「そんな腹を立てるほどのこともありませんよ。町の人間に危害を加えようというわけでも、私の役目を邪魔しようというわけでもなし」
『甘い! 相手がひとりだからといって高をくくっていると足元を掬われるぞ。そんな調子だから向こうもつけ上がり、勢力を拡大しているのだ』
「拡大どころか、ずっと孤軍奮闘って感じだけど」
『それも甘い! 表に出ないだけで、実際には思想を同じくし手を貸すものがいるはずだ』
「それはないなぁ……」
爽太は苦笑を浮かべる。
残念ながら、彼にそんな力はないだろう。憎からず思っていても、そこはシビアに評価できる。そして迷うことなく断言できる。
しかしエルテスラはそんなことはお構いなしに、
『そんな甘い見通しでいるから、悪しき現状を野放しにしているのだ。ちょうどいい機会だ。我が直々に罰を下し、その思想を修正してやろう」
ふっふっふ、といまにも舌なめずりでもしそうな禍々しい笑みを漏らしている。
「やるなら危険のない範囲でやってくださいね。――あと、もう到着しますよ」
イナシの言葉通り、前方に視線を向けると目当ての場所が見えてきた。
それは神社だった。小さな山の麓に位置する小さな神社。鳥居があり、拝殿もあるものの、それ以外には石灯籠がぽつぽつとあるだけの、こぢんまりとした神社である。地面には石畳も玉砂利もなく、むき出しの地面が曝け出してあるのみで、ところどころに背の低い草が生えている様は神聖さからは程遠いものがある。
「もう準備はできているようですね」
言うと同時、イナシは大きく跳躍した。いつもの、最後の一歩である。
しかし、踏み切りはいつもどおりであったものの、着地は大地を揺らすようなものではなく、可能な限り衝撃を吸収する形のなめらかなものだった。下が地面であることも相まって、派手な地鳴りの音は立てずに済んだ。
「――よおイナシ、今日は早い到着だな。そろそろ自分の地位が脅かされると思って慌てたか?」
着くや否やかけられた挑発的な声。
その声の主はイナシを待ち受けていた様子で、拝殿の前に腕組みしながら立っていた。
遠目に見れば、二十歳そこそこの平凡な青年。しかし近くで見れば、切り揃えられておらず半端に伸びた鬱陶しい髪に、その前髪から覗く神経質そうな目によって、あまり近づきたくない雰囲気を醸し出している。
いかにもなオカルト好きの人物像になかなか合致しているこの青年が、守護犬用済みを祈念する男、変人こと遠見豊である。
「遠見さん、久しぶりー」
爽太はイナシの背から下りる。
遠見が爽太たちの方に軽い足取りで近づく。
「お? なんだ爽太もいるのか。一緒に来るなんて珍しいな。怪異にでも襲われてたのか?」
「まあ、そんなところ」
イナシはキネン日には絶対参加であり、爽太も都合がつけばいつでも参加したい心持ちでいる。だから、二人がともにこの場にいること自体はよくある光景なのだが、一緒に来るとなると話は別だ。イナシは、爽太に限らずこの場に遠見以外の人間がいること自体を嫌っているため、可能な限り人を近づけないようにするのである。そのため、イナシが爽太をわざわざ連れてくることなど通常ならありえないのだ。
「ついでに、もうひとり連れてきてるんだけど」
「なッ、まさかお前、怪異との交渉に成功したのか?」
目を見開き、大きく口を開けた遠見のその顔は、信じられないものを目にした者のそれだった。そんな顔をさせてしまうほどに、爽太の交渉は成功にほど遠いものと認識されている。
「いやいや、人間である可能性は考えないの?」
「いまさらこの場に好き好んで来る人間なんていないだろ」
遠見の言葉は確かにその通りだ。キネン日は町中の人間が知っていると言っても過言ではない。興味がある者ならば既に足を運んでいるはずである。
「だからって怪異はないでしょ」
「なんだ違うのかよ」
「これ。これを連れてきました」
イナシの方を振り返り、その腹を指差した。
返ってきたのは当然の反応だった。
「はあ?」
遠見の眉間に皺が寄り、片眉が上がる。腕を組んだまま、覗き込むように上体を曲げる。
「これ……って。なんな――」
『貴様かッ! 反守護精霊の思想を掲げる悪人はッ!』
イナシの腹から、これまでにないほどの大音量が響いた。
「んなッ⁉」
遠見は驚きとともに、声に気圧されて身を引く。
『貴様のその狂った考え、この我が矯正してくれよう。心してその身を晒せい!』
なおも発せられる攻撃的な言葉。爽太たちから話を聞いただけでもよほど遠見のことが気に入らぬようで、姿も見えぬ相手に対していまにも手を出しかねない勢いの声である。
遠見はそんな声を発しているイナシの腹を凝視する。
「イナシ…………。お前、寄生中でも飼ってるのか?」
『誰が寄生虫だ! そんな下等で貧相なものと同列に扱うな』
「……寄生型の怪異か?」
イナシの腹を指差しながら、遠見は爽太に尋ねてきた。初めて遭遇する状況に困惑しているものの、努めて冷静に理解しようとしているようである。
「違うよ。それ、天使」
「天使ィ?」
遠見の声が裏返った。両の目を大きく開き、口がぽかんと空いた。爽太の遠見との短くもない付き合いの中で、ここまで呆気にとられた表情を見たのは初めてだった。
遠見は、姿勢をそのままにしばしの間硬直していたが、
『おい、どうした。声が聞こえなくなったぞ』
というエルテスラの声に反応し、ぐいっとその視線を腹に戻した。
「天使って、あの天使か。天使のまがい物の怪異とかじゃなく、正真正銘の天使なのか……!」
その口元に、一転、笑みが浮かんだ。
『ふん、その通りだ。だからこの天使たる我が、貴様に正しき思想というものを――』
「天使様ァ――――――ッ!」
突然、遠見がイナシの腹に突っ込んだ。真正面からタックルでもするように、腕を目いっぱい広げ、身体全体を使って、抱きつくように突っ込んだ。衝撃でイナシの身体が軽く揺らぐほどに。
そのイナシの顔には、驚きと困惑の表情が浮かんでいた。それは爽太も同じだった。
――なにこの奇行?
いったい何事か。いま目にしている遠見の行動に、二人の頭の中にはともに疑問符が浮かんでいた。
『なんだなんだ⁉ 今度は何が起きた⁉』
外の状況がわからないエルテスラも、半ば怯えたような声を出している。
「天使ッ! 本当に天使なんだな! この町に、まさか天使が現れるなんて……!」
遠見は、満面の笑みだった。それどころか、感激のためか目尻には僅かに涙まで見える。
「俺が待ち望んでいたことが、現実に起きるとはな」
「遠見さん、天使に会いたかったの?」
「ああ。天使といえば、魔を滅する聖なる存在の代名詞。その力に対する純粋な興味は勿論、ある種の尊敬の念も持っている」
その言葉を裏づけするように所々震えている遠見の声。
「イナシ、知ってた?」
爽太の問いに、イナシは無言で首を横に振る。
『貴様、いまの言葉は本当か?』
「はい! 俺は常日頃、こんな犬じゃあなく天使のように気高く誇りある存在がこの町の人間を守ってくれればと、そんなことを夢見ていました!」
『ほほう。貴様、見所があるな。こいつらから話だけ聞いていれば、性根の腐った悪の権化と思ったものだが」
「それは極端に振りすぎでしょ」
『これならば少し様子を見ても良いかもしれんな』
「いいの? それでいいの?」
息巻いていた姿はどこへやら、エルテスラは遠見の態度にすっかり手のひらを返した。
爽太としては下手に争いを起こされたくもないので、友好的な態度には歓迎なのだが、ここまで一変されるとそれはそれで気味が悪い。
――意外とちょろいかも。
思えば出会ってからこっち、なんだかんだで言葉で言いくるめることに成功している気もする。面倒くささはあるが扱いやすい相手だと、爽太は心の中で結論づけた。
「でもなんで天使様がこいつの腹の中にいるんだ? おかしいだろ」
「それは…………一言で言ってしまえば、事故です」
「はあ? どうすりゃ喰うなんてことになるんだよ」
「まあまあ。そこも含めてちゃんと説明するから」
爽太は、遠見にこれまでの経緯を話した。
エルテスラに声をかけられたところから、その目的、腹から出す方法、腹の中の怪異の消滅に時間がかかるという現状まで、事細かに説明した。
遠見は真剣な顔で腕を組み、熱心に耳を傾けた。敬愛する天使が置かれた珍妙な危機的状況を正確に理解するためであろう。
「そういうことか」
ひと通りの説明が終わり、遠見はひとり頷く。
「それなら確かに事故だな」
「でしょでしょ。不幸な話だよ、まったく」
「ですから、今日は怪異を消滅させる手段がないので、何か別の方法を考えなければいけません」
「あ、その件なんだけどさ、僕にいい案があるんだけど。ここに来る間に思いついたやつ」
「……どんな案ですか?」
「僕が交渉して説得すればいいんじゃないかな! そしたら消滅させることなんてできなくてもなんも問題なし。万事オッケーだよね!」
「「却下」」
「えー。二人して言わなくても」
「それは禁止してるだろ。キネン日の趣旨から外れるからな」
「そう言われているにもかかわらず、無理矢理交渉を始めていつも通りに失敗していたのは先月のことでしたよね?」
「そう固いこと言わずにさあ。非常事態だし」
「非常事態だからこそ、そんな危険性のあることをするなと言っているんです」
「うう……」
折角の代替案だったのだが、揃って否定されてしまっては仕方ない。
――言われる内容は予想通りだったけど。
「そんな案なんてなくても、なんら問題ないぞ、爽太」
言ったのは、遠見だった。なぜか自信ありげな笑みを見せている。
「元々ここにこいつがいること自体おかしいんだよ。呼んだわけでもないし、歓迎してるわけでもない。――丁度いいじゃないか。守護犬がいなくても問題ないってことを証明できる絶好の機会だ」
「今日はそんなに自信があるの?」
「今日も、だ。俺ひとりでも怪異を全滅してやるよ」
『ちょっと待て。全滅とは、いまから何を始める気だ?』
言葉を交わす二人に、エルテスラが割って入った。
『我は具体的な内容をまったく聞いていないのだが』
当然の疑問の言葉。エルテスラは断片的な情報を聞かされるばかりで、肝心の内容はまったく教えられていない。
「ごめんごめん。姿が見えないからつい忘れがちになっちゃって」
あはは、と笑いながらも、爽太はエルテスラに説明する。
「これから怪異祓いをするんだよ。怪異を集めて、ばーんと蹴散らす。ただそれだけ。それがキネン日にすること」
『…………それが、守護犬の用済みにどうつながるのだ?』
「怪異祓い自体は単なる手段。実際の目的は、俺の怪異用装備の試験運用、実験です。ありていに言えば訓練でもある」
「遠見さんが怪異を祓う力を持てば、それはイコール、イナシがいなくてもこの町の人間を守れますってこと。だから用済みになるって理屈だね」
『貴様は、怪異を祓う力を持っているのか? そういった家系――』
「ではないです。俺にそんな特殊能力はないですよ。怪異に対抗するための武器、道具を自分で作ってるだけです。イナシに代わってこの町の怪異たちを祓うために」
遠見は霊能力や超能力を持った家系の人間ではないし、特殊な血統に生まれた者でもない。代々医者を輩出している裕福な家系の人間ではあるが、それを除けば爽太と同じく、何の変哲もない一般人である。
遠見の背後、拝殿の階段には黒いリュックサックが持ってきてあり、その周囲にはいくつかの道具も一緒に置いてあった。
『なるほど。しかし、何故そんなことをする。生まれ持っての力があるのならまだしも、わざわざ自分が動くことはないだろう。なんの利点もない』
「自衛の力っていうのは重要なんですよ。真偽が怪しいのも含めれば、世の中には怪異を祓うことができる人間は大勢いる。自衛は十分可能なはずです。だが、この町の人間は長年守護犬に守られてきて、それに頼ることが当たり前になっている」
「それはあるよねー」
「そんなことじゃあ駄目だ。もし何かあったらどうするのか。この犬がいつまでも従順にしているとも限らない」
「相変わらず失礼ですね」
「こいつにすべてを任せてのうのうと暮らすなんて、俺には不安でしょうがない。もしものためにも対抗手段を持っておくべきだと、そういうことですよ」
エルテスラは遠見の説明に、再度、なるほど、と言った。
『そうかそうか、そういうことか。しっかり話を聞いてみればなんのことはない。守護精霊がどうこうというよりは、守護犬、貴様が個人的に嫌われているのが問題ではないか。それなら我が手を煩わせて修正する必要もないな』
「それでいいの?」
『当然だ。守護精霊全般に対して否定的な立場をとっているというよりは、守護犬が怪異祓いを一手に引き受けているいまの状況が不満なのだろう? そうであれば、我には関係ないことだ。――遠見といったか。貴様、益々精進することだ』
様子見どころか、エルテスラは完全に遠見の考えとこのキネン日を問題ないものと判断したようである。
「ええ。俺ひとりで、すべての怪異を祓ってやりますよ!」
拳を握り、遠見は不敵な笑みを浮かべる。やる気十分。大いに気が逸っている。
それは今年一番と言っていいぐらいの気合の入りようだった。やはり天使を目の前――イナシの腹の中だが――にして、テンションが上がっているのか、それとも別の理由があるのか。
ひとつ思い当たるとすれば、
「そんなに自信があるってことは、なにか新しい道具でも発明したの?」
新たな武器の導入である。
「察しがいいな、爽太。今回は新しい武器に加えて、餌にも改良がしてある」
遠見の言葉に、爽太とイナシは揃って視線を拝殿に向けた。もっと正確には拝殿の手前の地面である。そこには、鍋の載った一基の卓上コンロがあった。何の変哲もない鍋。しかしこれが、キネン日にはなくてはならない重要なものだということを、爽太たちは知っている。
遠見は立ち上がり、鍋のところまで歩く。爽太とイナシも、促されるように後に続いた。
「今回は自信作だ」
笑みを浮かべ、遠見は鍋を指差した。そこには本来鍋に入れられるべき食材とは程遠いものが詰め込まれている。なみなみと注がれた水の中には、葉、木の枝、草、花びら、蔓、木の根、草の根、石、等々。所々、すっかり濁っている水の中には獣の毛も浮かんでいて、それは子供がままごとで作る鍋料理の様相を呈していた。
『なんだ? 見えない我にもその自信作とやらの詳細に教えろ』
「えーとね…………鍋。鍋があって、それで怪異が大量に来るんだよ」
『わけがわからんぞ』
エルテスラがこれを目にしていれば十中八九顔をしかめ、あーだこーだと喚いていただろう。しかし、これは爽太とイナシにとっては見慣れたもの。別段驚くものではなかった。
この鍋が、遠見が言う餌である。そしてその目的は、怪異をおびき寄せること。
「鍋の中身は、この山で採れた野草や木々。古来より、こういった自然物には霊的な力が宿ると言われています。俺はそれらを加工、活用して怪異に対抗することのできる道具を作ってるってわけです。そしてこの鍋は、俺が試行錯誤を重ねて作った特製ブレンド。町を彷徨う怪異をおびき寄せる装置になっています」
怪異を祓うと簡単に言っても、実際にそうするとなるとまず問題になるのは、どうやって怪異を見つけるのか、という点である。怪異というのはそこらに存在してはいるものの、人を襲う時でなければその姿を見せることなどほとんどない。普段は姿を消している状態にあり、守護精霊ならともかく、ごく普通の人間がそれを見つけることなど不可能である。
よって、怪異を祓うとなると、自然と待ちの一択を強いられることになるのだが、それでは遠見の求める訓練をするには効率が悪い。そこで考案されたのが、怪異をおびき寄せるための仕掛けである。
「細かい理屈は遠見さんにしかわからないんだけど、なんでか怪異が寄ってくるんだよね」
「これができるまでは苦労したなぁ。あてもなく町中を走り回って、ひたすら怪異を探し出す。丸一日かけても成果ゼロなんて珍しくもなかったからな」
「こっちも大変でしたよ。町中を回っているからどこにいるか把握できないのに、怪異に襲われかけても骨を出さないんですから……」
当時を思い出しているのか、イナシは悩ましげな顔で呟いた。
「別に助けを頼んじゃいないからな」
対する遠見はそれを気にやむでもなく、平気な顔をしている。
『そんな雑草やら何やらを詰め込んだだけの鍋で、本当に怪異が来るのか?』
エルテスラは唐突に出てきたこの鍋を疑っているようである。
それも仕方のないこと。爽太も初めてこの鍋を見せられた時は、とうとう遠見が狂ってしまったと、本気で嘆いたものだ。見た目には、当の怪異たちにもそんな訳があるかと一蹴されてしまいそうな代物である。しかし実際に効果があるのは事実だ。
「大丈夫です。今回はこれも入れて、さらにバージョンアップしますから」
言いながら遠見がポケットから取り出したのは、一枚の五百円玉だった。それは普通の五百円玉とは少し異なっていた。硬貨の中心、そこにくっきりときれいな円が穿たれている。そこには何かの蔓が結び付けられており、余った部分がだらりと垂れさがっていた。
それはさながら、古典的な催眠術に使う小道具の五円玉のようだった。
「いかにも不思議な力がありそうだろ?」
蔓の端を持ち、五百円玉をぷらぷらと揺らしながら、爽太に向かって自慢げに笑う遠見。
爽太は揺れる硬貨の穴を指差す。
「それ犯罪だよね」
「馬鹿。相手は法に縛られない存在だぞ。同じ土俵に立たなければ負けることは必至だ」
「五円玉じゃ駄目なの?」
「当然だ。五円は勿論、五十円でも駄目だ。五百円玉であることに価値がある」
遠見はきっぱりと断言した。まったく以て迷いない。
「この五百円玉が、催眠術でよくあるアレをモチーフにしていることは既に気づいていると思うが、一般的に催眠術で用いられるのは五円玉だ」
うんうん、と爽太は頷く。イナシもエルテスラも、理解しているのかはわからないが黙って聞いている。
「しかし、五円玉というのは硬貨の中で力を持っているものかといえばそうではない。下から二番目に位置しているに過ぎない」
「ってことは、金額がそのまま力になるの?」
「額が大きいほど、欲望を初めとした人間の思いを受け止めることになるからな。自然とそうなる」
そんなものか、と爽太はそれ以上の疑問は持たず、聞く姿勢に戻った。とりあえず常識を取っ払うことが遠見の話を聞くコツである。
「そう考えた場合、最も力があるのは何か。五百円玉だ」
「お札じゃ駄目なの?」
「そう! そこが重要だ! 力だけを考えれば、貨幣の中でヒエラルキートップに君臨する万札に手を出すべきだ。それ以外の選択肢はあり得ない。しかし何故そうしないか。答えは簡単だ。なぜなら、この五百円玉は催眠術をモチーフにしたことで、本来の力以上の付加価値が、万札を超える力を持った状態になっているからだ」
そんなものか、と爽太は思う。
「なおかつ、これは催眠術のみならず、ダウジングを模したものでもある。ペンデュラムとして五円玉を使った方法は最も簡易だが、その効果自体は十分に期待できるからな」
「つまりその二つを掛け合わせたハイブリッドだと――」
「さらにもうひとつ。もうひとつある。――――爽太、鍋の縁を見てみろ」
促されるまま、爽太は視線を落とす。鍋の縁、両端の取っ手の真下の辺りに、水に半分浸る状態で小さな紙が貼られていた。見ればそこにはそれぞれ、『はい』、『いいえ』と書かれている。
「わかったか?」
爽太は視線を落としたまま、首を横に振った。察しようもない。
「これは、コックリさんだ」
「あー」
気の抜けた声が出た。
「簡易的ではあるが、この鍋そのものが擬似的にコックリさんを呼び出す紙になっている。――ちなみに鍋の底には鳥居を描いた紙も貼ってある。この鍋に硬貨を入れることで、コックリさんが完成するって塩梅だ」
遠見は、手にしていた五百円玉を爽太の眼前に突き出した。
「つまり今回の鍋は、操作する力の催眠術、探索する力のダウジング、召喚する力のコックリさんという、三種の力を複合した未だかつてないものになっている! そしてこれを実現するためには、用いるのは硬貨でなければならない、ということだ」
「おー」
ぱちぱちと爽太の力のない拍手が鳴る。
遠見の鍋に関する説明は以上である。
『いまの理屈、なにひとつ論理展開が理解できなかったのだが、大丈夫なのか?』
「あなたの頭と鍋の効能が、という意味ならどちらも大丈夫ですよ。私もトオミの理屈は何ひとつわかりませんが、実際に結果は出しますから。――トオミ自身の頭が大丈夫かどうかは私にはわかりかねますね」
――たぶんギリギリ大丈夫ではないよね。
爽太は周囲の人間から変人だと思われている節があるが、遠見の場合はそれが明らかである。なにせ名指しで変人と呼ばれている。爽太も、遠見のことを普通の人だと思ったことは出会ってこの方一度もない。
怪異を呼び寄せ、祓う。その行為には当然ながら大きな危険がつきまとう。なにせ一度に呼び寄せられる怪異の数は十を下らない。それだけの数の怪異に囲まれるという状況は、いくらこの町の怪異の出現頻度が高いと言っても、本来ならあり得ないものである。求めるもののためとはいえ、そんな状況に自ら身を置くことなど、常人ならば選択しないだろう。遠見の身の安全を守るため、来るなと言われてもイナシが毎回参加するほどに危険なのだ。
遠見は自分の力で怪異を祓うことができると豪語するが、一対一ならばともかく、多数を相手にするのは荷が重い。ましてや、遠見は元来特殊な能力を持っていたわけでない。親が開業医で金持ちなだけの一般人である。それなのに、もう八年もこんなことを続けている。
――どこから自信が来るのかねー。
人のことを言えた義理はないが、そう思う。
――番犬に対しての思いってやつかなぁ。
などと考えていると、
「さらに――」
遠見がいきいきとした顔で声を上げる。
「武器の方も新型がある!」
笑みを深め、自分の言葉に自分自身でわくわくしながら、背後、拝殿に置かれていた物を手に取った。
「定番の、滅殺型竹刀ともしものための浄化砲」
何やら幾何学的な、記号とも文字とも判別不可能な何かが書かれ、全体を蔓でぐるぐると巻かれた竹刀。そして、見た目には何の変哲もない、拳銃型の水鉄砲。これらが遠見の基本装備ともいえる対怪異用の武器である。
以前爽太が受けた説明によると、竹刀に書かれているのは、遠見が夢枕によるお告げで謎の光り輝く存在から授かった、魔を祓う聖なる文字。これは墨汁で書かれているが、それには、遠見が勝手に霊木と呼んでいる名称不明の木からできた炭が混ぜてある。巻かれた蔓も、遠見曰く霊樹――霊木との判別基準は木の背の高さである――に巻き付いているのを引っぺがしたものである。水鉄砲の方は、山の湧水をベースに、鍋を煮立てた後の煮汁を加えたものが入れてある。
二つとも鍋同様に子供のお遊びの結果にしか見えないふざけた武器だが、爽太もイナシもそれが武器として機能しているのを嫌というほど見てきた。
遠見の理屈は、どれだけ説明されようとも誰の理解も得られないが、確かな結果を出し続けているのである。
「そしてこれが新型――――怪異消却型照射機試作一号!」
境内に響き渡るほどの一際大きな声とともに爽太の目の前に出されたのは、懐中電灯だった。どこから引っ張り出して来たのか、昔ながらの古臭いデザインの大型の懐中電灯。
それは一見何の変哲もないものに見えたが、案の定、竹刀同様に謎の文字がびっしりと書き込まれている。
「これは…………どう使うの?」
「懐中電灯なんだから、照らすに決まってるだろ」
――それは確かにそうだろうけど……。
遠見の新型を前に、爽太は疑いの念を持たずにはいられなかった。恐らくそれはイナシも同様だろう。怪訝な顔で遠見の手にある懐中電灯を睨んでいる。遠見の作る道具に対して、信頼はしないもののある種の信用はしている爽太であるが、今回のこれはなかなか難しい。竹刀であれば単純な打撃武器であるし、水にしても霊の浄化、悪魔祓いとしての聖水など、元々用いられているというイメージがある。しかし、懐中電灯にはそれがない。さすがにただの懐中電灯から、魔を滅する光を連想することは難しい。
――でもたぶんその理屈が入ってるんだろうなあ。
理解はできないが、何年も付き合って慣れてくれば推測ぐらいできるというもの。
しかし、だからといって理論を聞いても得るものは何もないので、爽太は単刀直入にその結果の部分だけを遠見に訊ねる。
「それで、その光はどんな効果があるの?」
「当たった怪異を消し去る」
「怖ッ!」
衝撃的な答え。
「消却って言っただろ。当ててしまえば、頭だろうと腕だろうと脚だろうと腹だろうと、きれいさっぱり跡形もなく消せる」
何でもないことのように、遠見は冷静に説明する。
「で、でも消滅って、本当にそんなことできるの? なにか突飛すぎるというか、人の持てる力を超えてるというか……」
「突飛も何もないだろ。現にこいつは腹の中で怪異を完全に消滅させてるんだから」
遠見はイナシを指差す。イナシは爽太と違い驚いた様子もなく、いつも通りの穏やかな表情でトオミの話に耳を傾けている。
「実際に成功するかどうかは何とも言えないけどな。あくまでも計算した結果、理論上そうなるってだけで、実戦で試してみない限りは机上の空論でしかない」
何をどう計算したらそんな結論が導き出されるのかは、この世の誰にも与り知らぬことだろう。遠見のこれまでの実績を知っている爽太にとっても、野草と懐中電灯で怪異を消滅させる力を得るというのは、俄かに信じがたい事実である。
「しかも、なんでこんなボロい懐中電灯なの? 最新のを買えばいいじゃん、お金あるし」
「それじゃあ駄目なんだよ。こんな古臭くて最後にいつ使ったのかもわからない、どこかに捨て置かれていたようなすっかり埃を被った物を使うのが大事なんだ。なぜなら、こういったものには付喪神的な力が備わっているからな」
遠見の理論はやはり理解不能である。
そんな単純な感想を改めて持つとともに、そんな理論なんだからきっと怪異も消せるさ、と、爽太は無駄に頭を悩ますのをやめた。
『こいつ、本当に大丈夫か?』
エルテスラが漏らす不安と懐疑の声にも、
「あっはっは、心配ないない」
と、適当な答えを返しておく。
「俺は楽しみだよ、イナシ。こいつが問題なく動けば、お前の腹の具合なんかなんら関係ないからな。用済み記念に大きな一歩を踏み出せる」
にやり、と、遠見の口が三日月形に歪む。
「成功を祈りますよ」
イナシも口元に柔らかな笑みを浮かべ、そう返した。
遠見の新たな道具の説明も終わり、キネン日の怪異祓いが始まる。