終わった後で
「夏はやっぱり、茹で上がっちゃうよねー」
高台の公園の柵に身体をもたれさせ、遠い空を眺めて爽太は言った。
いつもの場所でいつもの体勢。太陽が空のてっぺんに来るにはまだ時間があるが、容赦ない日差しは全身に降り注ぐ。時折吹き抜ける風がなければ、いまにでもへたってしまいそうである。
「それはつらいですね」
まさしく他人事のようにそう言ったイナシは、暑さに舌を出すわけでもなく平気な顔で爽太の隣に座っている。腹の傷も数日前に完治しており、傷痕も残っていなければ体力の衰えもみられない。万全の状態である。
「でもこうしていても仕方ないからね、うん。常に目標に向かって邁進しなきゃね!」
「また交渉ですか?」
「そうだよー。他にやることなんてないよ?」
「安全性を考慮して、今日からは保護者同伴にしますか?」
「なんでだよー」
爽太は拗ねたように唇を尖らせる。
イナシは相変わらず怪異との交渉には否定的で、爽太が妙な所に行かないか、妙なことをしないかと目を光らせている。
「ひとりで大丈夫だってば。初めて説得に成功もしたこととて、心配ご無用!」
「まだあれを成功と…………」
イナシの顔が若干呆れたものになる。
「成功は成功だからねー」
あっはっは、と爽太は勝ち誇るような笑い声をあげた。
その時、不意に遠くの空で光が瞬いた。線状に延びた一筋の光。
爽太の笑いが止まり、ふたりの視線がそちらへ向けられる。
「――待って下さい! あなたには、慈悲というものがないのですかッ?」
空に生まれた悲痛な声。
声の主は黒衣を纏った人型の怪異。交渉を司る悪魔、ヘルベル。
何かから逃げるように、その身体は風を切って空を進む。
「悩み苦しむあなたに救済の手を差し伸べた、そんなわたくしに対する慈悲は――」
言い終わらぬうち、それに対する返事とばかりにヘルベルの背後から幾本の光が襲ってきた。
「くッ」
跳び、身を捩って光を躱す。僅かに光に触れてしまった黒衣は、一瞬にして跡形もなく消え去った。光がもたらすのは殺傷ではなく、完全な消滅。
自分を襲うその力に、ヘルベルは確かな畏怖の念を抱いた。
背後、その畏怖の体現者が言葉を発した。
「救済ではなく、貴様の利益のためだろう? それに――」
ヘルベルが背中越しに視線を送った先、
「怪異を祓うのが、我の務めだ」
純白の翼をはためかせ、迫りくる天使の姿。
ヘルベルは歯を食いしばり、速度を上げる。とにかく今は逃げるしかない。ヘルベルに、天使に抗う術はなかった。
「結局、あなたは何もできなかっただけです。なにもせず、元の位置に戻っただけ。無意味で、無味乾燥な生を享受するだけの――」
言葉を遮ったのは、またもや光だった。
しかし、それは背後から襲ってくることはしなかった。ヘルベルの眼前、そこに光の壁が立ち塞がったのだ。包みこもうというように、湾曲した巨大な壁。
「そんな……ッ」
退路を断たれ、ヘルベルは空に立ちすくむ。
壁は上から下へと光の流れを作っており、それはさながら滝のようであった。
「何もできなかったのは、事実だ。だが、知ることはできた」
声に促されるように、ヘルベルは緩慢な動作で身体ごと振り向いた。最早逃げおおせようという気などない。だが、自らの消滅を受けいれようもない。ただ恐怖と消失感が湧き上がってきていた。
真っ直ぐにヘルベルを見据える天使の右手は宙に掲げられ、そこからは止めどなく溢れんばかりの光が放射されている。それが放物線を描き、巨大な光の壁を形作っているようだ。そして、空いている左手は、
「貴様は知ることもできずに消えろ」
手の平を前に、ヘルベルに向けられる。
「さらば」
直後、空に光が走った。
「終わったっぽいねぇ」
ふう、と一息、爽太は言った。
「元々力の差は歴然としていましたから、始まってしまえば一瞬でしょう。始まるまで、今日を迎えるまでが少し長かったですが」
「立ち直るまでがねえ……」
あはは、と今度は乾いた笑い。
「でもまあ、そもそもよく生きてたよね、ラさん」
イナシがエルテスラを呑み込んだあの日、エルテスラは消滅しなかった。
爽太もイナシも、本気で祓うつもりだった。迷いは微塵もなく覚悟はできており、そうするために行動した。
しかし結果として、エルテスラはすんでのところでそれを回避した。イナシに呑まれる瞬間、その身が天使へと戻ったのである。
「あんなにころころ変わるって、天使不安定過ぎない?」
「完全に堕天使になってはいなかったからでしょう。私の腹を裂いておきながらそれもどうかとは思いますが」
「ボーダーラインが謎だね」
エルテスラは改心し、天使の姿でイナシの腹に納まった。そうなれば当然、祓うことなどできはしない。イナシの腹は、怪異でもない守護精霊である天使を消滅させるようにはできていない。
「もう少し早く天使に戻っていれば、私も呑み込まずに済んだのですが」
「全部がそううまくはいかないってことだよ。なにはなくとも、僕の説得成功第一号ということで、それだけでも喜ばしいことだからさ」
「だから、あれを説得の成功というつもりなんですか、あなたは」
「だって現に成功してるし」
「あれは遠見のおかげでしょう?」
エルテスラが天使に戻った要因。それは、あの時の遠見の言葉だった。
イナシを打ち負かすこともできず、爽太には自分の考えとともに尊厳をへし折られ、自分が本当に望むものはなんであるのか、それが頭を巡っていたあの時、遠見の言葉はエルテスラに届いた。
それは、天使への崇拝とも賛美ともいえる言葉。浅薄で、思い込みが強く、願望も投影されたその思いは、爽太たちからすれば状況を把握できていない立場からの馬鹿な妄言だったが、エルテスラの心を確かに動かしたのだ。
人間からの感謝の気持ち、労いの言葉。
エルエスラの堕天を防いだもの、エルテスラがただ望んでいたのはそれだった。
「でもあそこまで追い込んだから良い結果につながったわけじゃん。僕の言葉なしだったら改心してなかったと思う」
そこに疑問を差し挟む余地などないという、自信満々な態度で言ってみせる。
「そんなわけがあるか」
突然、羽音と共に、空から声が降って来た。
「トオミはともかく、貴様の存在などなくとも我は堕天を免れていたわ」
エルテスラが腕組みし、空から爽太を見下ろしていた。
「早ッ」
「当然だ。我は天使であるぞ。この翼が見えんか?」
「ああ、その薄汚れた灰色の……」
「白だ! 穢れなき純白だ!」
「あー、はいはい」
エルテスラの翼は完全に天使のものである純白に戻っていた。その尊大な態度は変わらぬままであるが。
「偉そうなところは本当にそのままだよね。涙ながらに土下座して謝ってきたから、中身も少しは変わったかな、と思ったんだけど」
「流しとらんし、やっとらんわ」
「でも殺意を持って襲ってきたんですから、それぐらいしてもおかしくはありませんよね」
「うッ……」
ふざけ半分の爽太とは違い心から大真面目に言うイナシに、エルテスラは思わず言葉を詰まらせる。
「まあそこまでは求めないよ。なんせ初の説得成功で――」
「貴様、まだそれを言うか……」
「間違ったことは言ってないじゃん。ラさん、これからはこの町で怪異を祓ったり人間を助けたりするんでしょ? だったら、イナシと一緒か、代わりに怪異を祓ってもらえるように交渉するっていう僕の目的に一致してるもん」
「まあ…………確かにな」
「いままでは交渉しても、休戦とか一時撤退とか、とりあえず町からは出ていくとか、そんな中途半端なものばっかりだったけど、今回は完璧だから。完全に目的達成!」
ぐっ、と満面の笑みで親指を上げる。
「戦力として我が非常に有用であることは否定せんがな」
「私としてはどちらでも一向に構いません」
「無関心だな。貴様には自分の役目を取られるという懸念などはないのか?」
「結果として人間が守られるのならばそんなことはどうでもいいです。過程は一切気にしません」
「……やはり貴様の感覚はわからん」
「自分がやることをやる、というただそれだけですよ」
イナシの言葉に爽太は、お~、とわざとらしい感嘆の声を上げた。ぺちぺちと小さな拍手のおまけつき。
「いいこと言うねえ。――ラさんもいまやることをやらないとね。遠見さんの試作品の相談を受けるんでしょ? 怪異も祓ったんだから、さっさと行かないと」
「言われんでも行くわ。貴様らとの会話は、いままでに感じたこともなかった疲労感を感じるからな。長居は無用だ」
エルテスラは腕を解き、翼を大きく羽ばたかせた。
「では、ひとまずさらばだ。この町にいれば、すぐにまた顔を合わせることになるだろうがな」
そう言った直後、一陣の風が地面を打った。
「――わっぷ」
反射的に手で顔を覆い、爽太は目を瞑った。
「配慮や気遣いというものはまったくありませんね」
「やっぱり天使は高慢だよねー」
ゆっくりと瞼を開ければ、当然そこらにエルテスラの姿はなく、遠くの空にそれと思しき黒い影が確認できるばかりである。
「その程度なら文句もないけどさ」
「ソウタも同じ程度には高慢だからですか?」
「えッ⁉ いやいや、僕は違うよ。みんなに愛される末っ子気質だよ」
「無謀にも怪異を説得しようというのは、ある種高慢であると言えますよ」
「そこはしょうがないよねー。やるべきことだからねー。――っていうか無謀じゃないし。手の届く位置にあるって」
イナシはひとつため息を吐く。
「自分の身を危険に晒すのだけはやめてくださいよ?」
「それは、う…………ん? う~ん」
爽太は腕を組み、眉間に皺を寄せて唸りだした。今度は何を言いだすのかと警戒するイナシに、爽太はそのままの状態で口を開く。
「今回の件で、説得には攻撃的なスタイルも大事だというのがわかったんだよね。時には腕力に訴えることも必要っていうことがさ。説得は別に議論の場じゃないから、言葉だけに頼るんじゃあ駄目だよね、うん。――――ということは、今後はより身体を張って、危険な――」
「絶・対・禁止です」
ぎらり、と、昼間だというのにイナシの両目が鋭く光った。さすがにそこまでいくと、イナシも放任するというわけにはいかないようである。
「じゃあ、ギリギリオッケーのところでうまいことやるからさ」
「そんなバランス感覚ありますか?」
「あるある。大丈夫大丈夫」
無根拠に言ってのける。
特段自信があるわけでもないが、いつものこと。
受けるイナシの方もまったく信用していないが、それでもあえて否定はしない。可能性はゼロではないし、否定する理由がないからだ。
だから、爽太はいつも通りの言葉を口にして、いつも通りの思いを抱いて、いつも通りに行動する。
「ということで、早速行こうか。時間も勿体ないし。イナシ、背中借りるよ」
言っている途中ですでに身体に手をかける。
「乗り回す気満々ですね」
「え~、だって保護者同伴だしぃ」
「異論はありませんがね。目の届く範囲にいた方が守りやすいです」
「イナシのそういうドライなところ好きだなー」
「――行きますよ」
跳ぶ。
眼下に広がる街並みへ、イナシは跳んだ。
そして駆ける。
「さーて、今日こそ交渉成功第二号だね!」
頬に受ける風の心地よさを感じながら、期待に満ちた柔らかな笑みを浮かべる。
爽太は今日も行動する。望むもののために行動する。
思いはひとつ。
ただ――――守護犬がこの町を駆け回らなくて済むように。




