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喰うか喰われるか

「――明くる朝、私は新たな守護犬として、公園で生まれました。同時に、番犬の身体を元に構築された『骨』が町に住むすべての人間の手に渡りました」

 以来、人間たちは怪異に遭遇すれば骨を取り出し、イナシを呼ぶことが可能となった。番犬までの守護犬は自らの鼻を頼りに怪異を捜索していたが、これにより、人間を守り、怪異を祓うことの効率性が数段上がったのである。

「この骨はいわば先代守護犬そのものですから、多少腕に自信がある怪異でも太刀打ちできないのは当然です。納得できましたか?」

 エルテスラは無言を返す。

「そして番犬の死後、私は公園でトオミと顔を合わせました」

 遠見は言った。

『この町にもう守護犬なんて必要ない。脅威は自分たちで払い除ける』

 当時のことを、爽太はよく覚えている。

 番犬の突然の死を目にした数日後、あの公園で爽太はイナシと顔を合わせた。

 その姿を見ると同時、爽太の脳裏には、目の前で消えていった番犬の顔が浮かんだ。そして、思わず訊いてしまったのだ。

『きみも消えるの?』

 イナシはそれに対して気の利いた返しをするでもなく、

『いずれは消えるでしょうね』

 端的に答えた。

 それは、当時の爽太にショックを与えるのには十分な答えだった。爽太の目には僅かに涙が滲んだ。

『駄目! 消えたら駄目!』

 ただそれだけを叫んで、その日爽太は公園を後にした。

 そして、それからさらに幾日かが過ぎたころ、遠見と同じように、爽太もイナシに宣言したのである。


『僕、怪異と仲良くなる。そしたら、戦うことなんてなくなるよね? 消えないよね?』

『残念ですが、そんなことはできないでしょうね』

『やらないとわからないじゃん』

『できたとして、すべての怪異と仲良くなど、どれだけ時間がかかるんですか』

『じゃあ、とりあえず仲良くなって一緒に戦ってもらう』

『は?』

『そしたら、その間イナシは休めるでしょ?』

『…………』

『いっぱい休んだら、消えない? いっぱい長生きできる?』

『それは…………どうでしょうね』

『あ、でもそんな時、たまに背中に乗ってもいい? そんで町を走り回るの』

『休めていませんが』

『だから、たまには!』


「爽太が怪異との交渉を望む理由、それは自己の利益のためではありません。それは、私の負担を減らすため」

 それは事実だ。

 守護犬は、休む暇もなく町の住民たちを怪異の手から守っている。数多いる怪異を相手に、たった一頭で立ち向かっている。それは、これまでの守護犬たちも当たり前にこなしてきたことだが、その行き着く先が、誰に看取られるわけでもない寂しい死。それを、爽太は受け入れたくはない。それ自体は、イナシにとって当然のことであり、何でもないことだというのは承知している。それを可哀想だというのは、人間である爽太の勝手な感情だ。

 だが、それでも爽太は受け入れられない。だから、イナシが長く生きられるために、そのために必要だと思うことをする。百年後など自分はとうに死んでいるだろうが、そんなことも関係ないのだ。

 そして、遠見も明言することはないが、理由は同じはずだ。傍から見れば変人と言われるような事を大真面目にやっている。疲れ、苦しみながら死んでいく守護犬の姿を見たくはないから、自分が怪異と戦う役目を負おうとしている。

「私はそんな行為も考えも、望んではいません。いますぐにでも止めてほしいぐらいです。――――しかしその思いには、私は感謝しています」

「だから不満はないと……?」

「ええ。理解できましたか?」

「出来んッ!」

 咆哮。と、言わんばかりの大声。

 エルテスラは歯を剥きだしにし、怒りをあらわにイナシを見下す。

「たかがその程度のことが何だ。それが我の主張にどれほどの影響を及ぼす? 結局のところ、貴様の置かれている現状は我の言ったものと寸分違わぬ。たかだかふたりの人間にその身を案じられて、それで満足か? そんなものはただの哀れみ、同情でしかない。立場が上のものが見せる一時の気まぐれだ。そんなもので満足だと言うならば、やはり貴様は、人間どもに飼いならされている犬でしかない!」

 一息に言い切り、怒り冷めやらぬ様子で荒く息を吐く。

「理解できないのであれば、それで構いません。誤解されたままなのが嫌だったというだけで、伝えたいことは伝えられましたから。――では、戦いましょうか。私にとって、怪異は祓う対象でしかありませんからね」

「祓う? 貴様、我を祓うつもりでいるのか?」

「勿論です。それが役目ですから」

「我に勝てると思っているのか?」

「勿論です。二度も言わせないでください」

 瞬間、イナシの姿が爽太の横から消えた。

「なッ⁉」

 驚き、声を上げる。そのエルテスラの身が、背後からの影に覆われる。それが何を意味するのかをエルテスラが理解するより早く、その身体は地面に向かって叩き落された。

「がぁッ!」

 硬い地面に全身を打ちつける。背後からの一撃に、真正面から受けた衝撃。身体を余すところなく走る苦痛に、エルテスラは悶えた。

「き……さま……、何故……動ける」

「舐めて治しましたから、腹の傷は塞がっています」

「なに…………?」

「出てきたのが腹からで助かりましたよ。もし背中から出ていたら、舌が届きづらくて、治癒にはもう少し手間取っていたでしょう。幸い、ソウタが稼いでくれていた時間で十分動けるまでにはなりました」

 エルテスラは腕だけで身体を支え、空中のイナシに顔を向けている。その表情は、驚愕のもの。

「そんな……、あれだけの傷だぞ。天使の一撃を……。あの一撃をあの短時間で治癒だなど、そんな馬鹿なことが」

「あるんだよ、それが」

 相当ショックだったのか、空を見上げ呆けた声を出すエルテスラに、爽太は言った。

「天使の一撃とは言うけどさ、天使だって守護精霊の一種でしかないでしょ。その特徴から、人間が勝手に神聖視しただけでさ。何も特別なことはないよ」

「貴様……!」

 エルテスラの顔が爽太に向いた。地に這いつくばる姿勢はそのままだが、一転して怒りを湛えた目で爽太を睨みあげる。

「我を……天使を侮辱するな! 人間風情が!」

「――ラさん、ちょっと調子に乗ってない?」

 エルテスラの恫喝に対する爽太の言葉は、いつもと変わらぬ笑みとともに口から出ていた。

 それは怒りも熱も伴わない、自然体で紡ぎだされる言葉。

「質問した手前黙って聞いてれば、好き放題に演説してくれちゃったけどさ。最後のイナシへの反論まで全部聞いてみてわかったよ。――何のことはない。ただ人間に感謝されたいだけでしょ」

「な……ッ!」

「あーだこーだと理論武装して言葉を並べ立てて、虚勢を張って、結局何が目的かって言ったらそれでしょ」

 爽太の言葉は止まらない。

「人間は滅ぶべき? ああいいよ。その考え大いに結構だよ。その結果、堕天使になって人間を殺しつくそうってんならいいさ。でも本当にそう?」

 怒りも熱も伴わない、自然体で紡ぎだされる言葉。しかしそれは、あくまで表面上のこと。

「言ってたよね? 自分の役目が正しいのか、そこに疑問を持ったって。疑問を持って、それでどうしたらいいかわからなくなった。自分のやるべきこと、いま正にやっていることが意味があるのかわからない。何をするのが正しいのか、何を選択するべきか、それで悩んだ結果、堕天使に堕ちるっていう逃げの選択肢を取っただけでしょ」

 爽太の内には、明確な怒りの感情があった。

「あんたが持った悩みなんて、人間は皆当たり前に抱えてるんだよ、バーカ!」

 びしっと指差し、言ってやる。

「何が正しいのかなんてわからないけど、それでも僕は選んだ」

 守護精霊は自然の摂理が生み出したもの。だから、そこに介入することなど容易ではないし、誤りであるかもしれない。しかし爽太は、傷つき疲弊するイナシの姿は見たくないと思い、そのために自分ができると判断した最善を実行している。未だに大した成果はないが、それでも望むもののためにもがいている。遠見だって同じだ。

「別に無理に選ばなくて、逃げてもいいよ。でも、自分が逃げたことの理由を、僕やイナシに擦りつけるな。わからなくて逃げ出すんなら、ひとりで自分探しでもしとけ!」

 瞬間、光が爆ぜた。

 それは、エルテスラが無言で放った光矢を、爽太が骨を受け止め生まれた光。

「知った風な口を利くな、小僧!」

「文句があるなら反論しろ!」

 エルテスラに負けず啖呵を切った爽太の目の前、地に伏せていたエルテスラの身体が無造作に宙に舞った。

「――終わらせましょうか」

 代わりに立つのは、腕を逆手に振り上げた格好のイナシ。

 鮮血が舞う中、イナシの視線はエルテスラを捉えている。爽太はその背中に駆け寄り、よじ登った。

 その僅かな間に、エルテスラの翼が大きくはためいた。空中で体勢を整え、眼下の爽太たちに視線を返す。荒い呼吸を繰り返すその口元からは血が流れ落ちている。

「いきますよ」

 イナシが跳ぶ。

 爽太が乗っているため、先ほどのような上限ぎりぎりの速度ではないが、その巨体も相まって一瞬と言っていい間でエルテスラに迫る。

 が、同時に四方から光矢が襲う。

「くッ!」

 光矢は爽太の骨で難なく防がれたが、その隙にエルテスラは距離を取った。

「我は……我は崇高なる天使であるぞ!」

「そんなの人間が勝手に作ったイメージでしょ。そこに頼る根拠なんて、それこそ何もない!」

「五月蝿いッ!」

 幾つもの光の束が空を走る。

 骨を構える爽太を背に、イナシは跳ぶ。

 光の間を縫うように、駆ける。

 ――天使どころか、よっぽど人間らしいよ。

 爽太は、コンビニに行っている間の守護精霊同士の会話の内容をイナシから聞いていた。

 互いに互いのことを人間らしいと評した両者だが、より人間らしいのはエルテスラの方だろう。爽太の見る限りでは、エルテスラは人間と同じ悩みに頭を抱え、解消できずにいる。

「我らがいなければ、為す術なく怪異の手に落ちる被食者の分際で、何を偉そうに! 我と貴様を同列に扱うな!」

「同列? どっちかと言えば、そっちが下だと思うけど」

「――ッ!」

 優に十を超えた数の光矢が、発射される。エルテスラの手から放射状に拡散されたそれは、かくかくと折れ曲がり方向を修正。四方八方から爽太たちに襲い掛かる。

 爽太は骨を掲げ、イナシも速度を上げる。

「議論は苦手なのかな? 反論できないと実力行使に出がちみたいだけど」

 止めどなく襲い来る光を軽やかに避け、イナシは足を前へと向ける。標的を見失い虚空を突き進む光は、程なくすれば消失していく。しかし、エルテスラも新たな光矢を放ち、イナシに休む間は与えない。

「でもまあ、やれ崇高だなんだって言われて、批判されることに慣れてなければ、それも仕方ないかもねえ」

「我を見くびるな! 批判など、怪異どもから嫌というほど受けてきたわ! 人間を助ける必要などないと、そんなことは無意味だと、そんな言葉を聞いてきた! しかし我は屈しなかったのだ!」

 さらに、放たれる光矢の数が増える。そして、幾本かの光は凝縮され、極大の光線となって爽太たちを襲う。

「怪異を退け、祓い、人間の身を守ってきた。しかし、そんなことも知らずに人間たちは…………ッ!」

 イナシの身体を丸ごと包み込むほどの巨大な光を前に、爽太は怯えた顔ひとつせず、ただ骨を突き出す。

 ――ごめんね、番犬。もうちょっとだけ使うね。

 光が、爽太たちを避けるように割れる。奔流は半球状の膜に堰き止められ、流れ、散っていった。

「これすらも、駄目なのか…………」

 爽太の耳に微かに届いた声は、絶望というに相応しいものだった。

 天使の力を、自分自身で信奉しているからこそ生まれる絶望。戦闘において後れを取ること自体が初なのかもしれない。

 自分の力の及ばぬ相手。自分の信条を揺るがす相手。どちらも、天使であるエルテスラにとってそう出会うものではない。

 さらに追撃してくる光矢を避けながら、イナシが口を開く。

「そろそろ一気に行きますか? 明らかに光矢の動きが散漫になっています。持ち直す前に叩くのが得策かと」

「だね」

 もう余計な言葉はいらない。

 必要なことはひとつだけ。ただ、祓えばいい。

「ひとおもいに、呑みます」

「よろしく」

 イナシが、加速を得ようと足に力を込めようとしたその時、

「――おまえ、何やってんだコラッ!」

 声が響いた。

 眼下、境内に視線を下ろせば、そこにあるのは見知った姿。

「イナシ、おまえこんなところで何やってんだッ! 人様の敷地で暴れてんじゃねえ!」

 空を見上げ、怒声を上げているのは遠見だった。

 

 

「あれ?」

「なぜここに……?」

 虚を突かれた爽太とイナシが揃って頭に疑問符を浮かべる中、

「なんか空が派手に光ってると思って来てみれば、何をドンパチやってんだ! それに、そっちにいるのは天使様じゃねえのかッ⁉」

 遠見は目を吊り上げ、怒りもあらわに声を張り上げる。

 爽太たちと同じようにエルテスラも不意の乱入者に困惑しているのか、攻撃の手を止めて遠見の方を注視している。

「この状況…………。イナシ、てめえまさか天使様に危害を加えようってんじゃねえだろうな、おい」

「なんだか面倒なことになりそうですね」

「まず説明するところから面倒くさそうだよね」

「おいコラ、話聞いてんのかッ⁉ 何の因果か、せっかくこの町に降り立って下さった救世主たる天使様に、お前はなにをしてるッ⁉ 天使様は、お前みたいにただ怪異を片っ端から喰ってるだけじゃなく、その慈悲深い心で人間を見守り、時にはそっと道を正してくれる、そんな素晴らしい方なんだぞ! 出会い頭で丸呑みするだけなら飽き足らず、今度は何をしようってんだッ! お前がまずすべきは、テスラ様の爪の垢を煎じて飲ませてもらうことだろうがッ!」

「――だって」

「反論は聞いてもらえるでしょうか?」

「う~ん……」

 顎に手をあて、思案顔。

 遠見から外れ、宙に向いた爽太の視界に、ふとエルテスラの姿が入る。

 向こうは変わらず遠見の方に視線を落としているが、その口元が微かに動いていた。僅かに聞こえる声。

「我は…………我は、天使として…………」

 表情は、先ほどまでの絶望とは少し違う。

 目は虚ろで、遠見を見てはいるはずだが、それを通り抜けてどこか遠くに向いているようでもある。顔には覇気もなく、怒りも苦渋も見られない。

 それは、呆然という言葉が適当な表情だった。

「力を……行いを…………」

 呟く言葉は誰に向けられたものでもなく、ただ自分の心の内に渦巻いていく。そんな様子である。

「――イナシ」

 イナシの顔は、すでにエルテスラの方に向いていた。

「行こうか」

 不意の乱入者は、意外なことに本人の意図せざるところで爽太たちに味方したようだ。先ほど以上の絶好のチャンス。それが目の前に転がった。

 逡巡も躊躇も必要ない。遠見の相手をしている場合でもない。

 やるべきことをやる。

「はい」

 爽太以上に、イナシもわかっている。

 言葉は短く、行動は迅速だ。

 いまだ眼下で騒ぐ遠見の言葉を聞き流し、イナシは動いた。

「――――ッ!」

 爆発的な瞬発。

 要する動きは一歩のみだった。一歩で、エルテスラの背後を取る。

 そして、

「さらばです」

 イナシの口が大きく開かれ、

「…………誰かに……………………」

 エルテスラの口から漏れる言葉も、地上で喚きたてる遠見の声も無視し、

「みと――――」

 呑み込んだ。

 爽太の耳には、遠見の声にならない叫びが聞こえた気がした。

 そして、ごくりとイナシが嚥下する音。

 何の抵抗もなく、恨みの言葉すらない。一瞬の幕切れ。

「これで終わり」

 爽太が呟く先に、天使の痕跡はもうない。

 真っ白な一枚の羽が、叫ぶ遠見が跪く境内の、その地面の上へ舞い落ちていくのみだった。

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