とある番犬の話
沈みかけの夕日を眺めながら、爽太はひとり坂道を上っていた。
住宅街へと伸びる、爽太にとっては高台の公園へと至る坂道。今年小学校に入学したばかりの爽太にとっては、この坂道をえっちらおっちら上るのはなかなかに辛い道のりである。しかし、この先にある公園、そこに辿りつくためにはこの程度の苦労は何のことはない。
高台の公園は爽太にとってお気に入りの場所である。
爽太はこの空間が好きだ。高台から自分の住む町を眺めるのも好きだし、硬く締まった土と容赦なく生える草の匂いも好きだが、何より好きなのは、この公園の持つ雰囲気だった。しんと静まり返った空気。それが時折、不意にピンと張りつめたような空気に変わる。身体に絡みつき、纏わりつくような空気を感じる時もある。それは決して心地よいものではないが、不思議と嫌いにもならない。家や学校とは違う、通学路のどの場所でも味わえない感覚。
そんな、この公園独特の雰囲気が爽太は好きだ。
しかし、親からは危ないからあまり近づかないように、との注意を何度となく受けている。こんな日暮れに子供がひとりで出歩くこと自体もそうだが、この公園に来ることは余計にいけない。親に知れれば渋い顔をされるのは確実だ。
実際、この公園は怪異の出現頻度が高いらしく、それを十分わかっている町の人間たちは当然足を運ぶこともない。爽太が公園に来ても、人の姿を目にすることなど滅多にない――どころか、思い返してみれば一度たりともなかった。
幸い、人はおろか怪異に出会ったこともないため、爽太は身の危険を感じたこともなく、小言に素直に従うこともせず公園に通い続けている。
しかし、
「…………あれ?」
今日は違った。
苦難の坂道を乗り越え、公園の入り口に辿りついた爽太が見たのは、こちらに背を向けて立っているひとりの男の姿だった。
柵に手をつき、やや身を乗り出すようにして町を眺めている。全身黒一色の衣服は、学ラン。父と同じくらいの背丈から察するに、高校生だろうか。
その背から一瞬たりともも視線をそらさず、そろりと公園に一歩を踏み出す。普段は初対面の相手にも物怖じしない爽太だが、場所が場所だけに多少の警戒はある。相手が人間とも限らない。人間型の怪異などいくらでもいる町だ。
爽太の気配に気づいたのか、不意に男が振り返った。爽太の足が止まる。
「ん? …………迷子か?」
細身の体に、切り揃えられていない長い髪。落ち窪んだような目が印象的な男だ。
爽太はぶんぶんと首を横に振った。
「大丈夫。帰るところはわかってる」
「じゃあさっさと帰れ。ここは危ないぞ」
平坦な声で無造作に放られた言葉だったが、その一言で爽太は確信した。
――怪異でも、悪い人でもない!
よって、
――善い人だ!
爽太の警戒は一瞬にして解けた。
「それもわかってる。何回も来てるし大丈夫」
言いながら、爽太は止まっていた足を動かした。
「はあ? わかってるならなんでここに来るんだよ。しかも何回もって、わけがわからん」
「ここが好きだから」
ずかずかと公園内を進みながら、爽太は断言する。相手が無害とわかれば、物怖じしない心は最大限に発揮される。年長者の男であろうと、びくつく要素は一切なく不遜な態度も出ようというもの。
そんな爽太の態度に、しかし対する男は怒りを覚えた様子もない。そればかりか、爽太の言葉を受けて僅かに見開いた目の奥には、どこか嬉々とした感情が見えていて、
「好きって……この場所、ここの空気がか?」
声も上ずっている。
「うん」
爽太が首を縦に振ると、男はにんまりと笑った。
「だよな! ここはいいよな! 唯一無二の空間。最高の癒しのスポットだよな!」
先ほどまでと一転、張りのある声が公園に響く。
「この、身体を覆う何とも言えない空気感。墓地とか神社とかも結構近いんだけど、やっぱり違うんだよなあ。何か惜しい」
饒舌に語る。
「ただ心地いい訳じゃないんだよな。身体に悪そうだし、ちょっと嫌な気もするけど、やっぱり好きっていうか……、あれだな、ガソリンの臭いみたいなさあ――」
「それはわかんない」
高揚している男の言葉をバッサリと切り捨てた時には、柵のすぐ手前に辿りつく。真横にいる男に視線を向けることなく、爽太は柵に寄りかかる。
視界に広がる町並み。ぽつぽつと家に明かりが灯り始め、そこかしこに帰路に着く学生の姿も見える。
「好きなのはいいけど、こんな時間に来るなよ。怪異が出るぞ、怪異が」
「お兄さんも帰れば? 危ないのになんでこんなとこにいるの?」
「ここが好きだからだよ。落ち着いて考え事するのにはもってこいだからな」
「考え事?」
「そう。俺ぐらいの年齢になれば、自分の行く道を深く思案する時間が必要になるんだよ。決められた医者という道を歩むのが正解なのか、俺は何をするべきか、ってね」
へー、と、形だけの相槌を打つ。訊いておいてなんだが、特に興味はなかった。意識も視線もまっすぐ前に、男の方に向くことはない。
ふと、その視界の中、夕暮れに染まる空に一点の黒が見えた。遥か遠く、立ち並ぶ住宅の上に突如現れたその黒は、点というにはいささか大きく、一塊という方が適当に思える。
――なんだあれ?
そう思考すると同時に、爽太の視界からその黒塊が消えた。一瞬で。突如として。
そして次の瞬間、公園に大きな地鳴りが響いた。
「――ッ!」
「なんだおいッ⁉」
耳に飛び込んできた轟音に、爽太と男は顔を振り向かせた。音の発生源は、公園の隅にある椎の木の周辺。
音の主を、爽太の目はすぐに捉えた。
「え?」
それは、一頭の巨大な犬だった。
濃紺の毛色をした、爽太はおろか隣に立つ男でさえ一口で呑み込めそうな巨体を持った獣。爽太も何度か目にしたことのあるそれは、この町の人間を守る守護犬だった。
身を伏せるようにして四肢を投げ出し、木の根もとに頭を寄せている。爽太にとって、こんな無防備な状態の守護犬を見るのは初めてだった。いつも町を駆け回っているか、怪異に襲いかかっている姿しか見ることはない。
ぽかんと口を開け、目の前の守護犬の姿に目を奪われる。
しかし、そんな爽太とは対照的に、
「おい番犬、何を派手な登場してんだよ」
横に立つ男は驚いた様子も初めだけ、守護犬に向かって気軽に言葉を投げかけた。
番犬というのは、この町の人間の守護犬に対する呼称のひとつである。比較的使うものが多い呼称で、『犬』、『あれ』、と並んで耳にしやすいものである。そんな呼称を男が使うことにはなんの疑問も文句もないが、しかしそれ以前に、守護犬に対して話しかける人間というのを爽太は初めて見た。
当の番犬は男の言葉にぴくりと耳を動かし、ゆっくりと振り向いた。
「――なんだ、遠見のバカ息子か。……ん? その横のはなんだ? お前の子分か?」
低く、刺々しい響きを持った声。初めて耳にした番犬の声に爽太が持った印象は、そんなものだった。
「子分なんて作らねーよ。せめて弟とか言えねえのか」
「お前に弟がいないことなんて知ってるからな。――じゃあ、あれか。とうとう将来に悲観して営利誘拐でもしちまったか」
「違う」
「無念だな」
「違うって言ってんだろ」
会話が成立している。しかも内容はとてもくだらない雑談である。人間と守護犬が織りなすまったく以て特別でない普通極まりない会話に、爽太は驚いていた。
「この公園が好きでよく来るってことで、いまここで偶然会っただけだ。名前も何も知らねえよ」
「ほーお」
番犬の視線が爽太に向けられる。
「こんなところに好き好んで来るなんて変わってるな。そんな変人はお前だけかと思ってたわ」
「誰が変人だ」
「変人だろ。俺とまともに喋ろうって奴なんざなかなかいない。ここ百年ぐらいいないんだから、変人と呼ぶには十分だろ」
番犬の言葉に、爽太は心の中で頷く。確かにそんな人間はいない。
親を含め、周りの大人たちが番犬に気さくに声をかけ、親しげに会話をするところなど、見たことがない。
守護犬はこの町に発生する怪異を除去するシステムであり、それ以上でも以下でもない。愛情込めて育てている愛玩動物ではないし、崇め奉っている守り神の類でもない。ただこの町に自然発生し、そこに存在するものであり、いわば自然現象、空気のようなものである。
だから町の人間は守護犬に関わろうということはしないし、むしろ必要以上の接触は避ける傾向にある。
小さい頃から教えられているそんな常識を、爽太は特に不満も抱かず、そういうものとして受け入れていた。ただ時折、町を駆ける番犬の姿を見て、背中に乗ったら気持ちいいだろうな、とか、話しかけたらどんな言葉が返ってくるんだろう、とか、そういった好奇心は湧いていた。当然それは実行に移すことなどできなかったが、この公園から町を眺める時、遠くにぼんやりとした番犬の姿を見つけるたびに、思いは繰り返し湧いていた。
「まあ、変人でもいい。無個性よりはよっぽど魅力的だからな」
「人、それを開き直りと言う」
「うるせえ、犬が人を語るな」
容赦ない言葉の応酬であるが、それが却って親しさの表れのようにも見える。
目の前の光景は、爽太が生まれてからいままで、この町で一度も見たことのないものだったが、それはごくごく当たり前の、何も違和感のないものに思える。
――普通に喋れるんだ。
これは背中に乗せてもらうことも案外簡単かもしれない、とさえ思えてくる。
「しかし、ここに来るのは勝手だが、今日はもう帰った方がいいぞ。怪異が来るからな」
「来る? ……って、まさかお前――」
男が慌てた声を上げた矢先、突然二人の前に黒い影が現れた。
それは音を立てることもなく、風を起こすこともなく、そっと静かに姿を現した。その姿を知覚するよりも早く、爽太の身にぞわりと鳥肌が立つ。
しかしそれもつかの間、
「死んどけ」
低く響く声とともに、影が、視界から消えた。
代わりに視界に入ってきたのは、濃紺の獣の前足。そして、舞い散る血飛沫。
さらに、それもまた視界から消えた。
次いで聞こえたのは、轟音。先ほどと同じ、なにかが地面にぶつかる衝撃音だった。
爽太の目は、同じように音の方向に向けられた。
「……げ」
男の口から漏れた声を聞きながら、爽太は自分の視界に映る光景を見た。
それは、地面に力なく伏せる影の身体を喰いちぎり、飲み込もうとする番犬の姿。
「間近で見るもんじゃねえな」
影はピクリとも動かず、番犬は慌てる様子もなくそれを黙々と喰っている。
それを見ながら、爽太はいまの一瞬で何が起こったのかをなんとなく理解した。
突如として現れた怪異。その怪異の手から自分たちを守るため、番犬が瞬時に対応。前足で刈り取るように怪異を薙ぎ払い、吹っ飛んだそれを地面に叩きつけて仕留める。動かなくなったところで、自分の腹に収めて処理する。
それは怪異を祓う番犬がとる、当然の行動。
しかし、なかなかに衝撃的だった。
普段怪異に襲われた際は、番犬が現れた時点でその場を離れるのが常である。わざわざ怪異が祓われるところを見たがる人間などいない。だから、その実際の現場を見たことがある人間は非常に少ない。爽太も、最終的に喰うということは耳にしたことがあったが、いざ目にすると衝撃は大きい。
「それ、もっとマシになんないのかよ。一口で丸呑みにするとか」
男の声に、番犬は動きを止めずに答える。
「無理だな。丸々一体分じゃ、消滅させられねえ。そんな力は俺にはねえよ。完膚なきまでに
痛めつけて、その上で細切れにしてからちまちま喰うのがベストだ」
反論しようもない言葉に、男は渋い顔をする。
その口ぶり、表情から察するに、男がこの現場を目にするのは初めてではないようだ。爽太とは違い動じる様子は微塵もない。
しかし、不意に男の眉間に皺が寄った。
「おい、お前怪我したのか?」
「あ?」
「腹から血が出てるぞ」
「あー」
見れば、確かに番犬の濃紺の毛の一部が濡れ固まり、赤黒く変色している。
「いま、ちょっとな。窮鼠猫を噛むってやつだ。まあ問題はない」
番犬は最後の肉片を飲み下し、ふう、と息をついた。
「問題なくはないだろ。それ結構傷が深くないか?」
男の言葉通り、血で染まった箇所は徐々にその範囲を広げている。それどころか、ぽたぽたと雫になって、地面に血だまりを作り始めてもいた。
「でも問題ねえんだよ」
言いながら、番犬の身体が揺れた。がくりと前足が折れ、その勢いそのままに肩から地面に倒れ込む。
三度目となる衝撃音とともに、番犬は地面に横たわった。
「どこが問題ねえんだよッ……!」
慌てて、男が番犬に駆け寄る。爽太もそれに倣った。
「問題なし。これでいいんだ」
「訳わからん」
男は番犬の傍に腰をおろし、怪我をしたと思しき腹の辺りを手で探る。毛をかき分け、露出して見えた肌には、ざっくりと刃物で切り裂かれたような傷があった。
「先に言うが、手当てはいらねえぞ。このままでいい」
男に顔を向けてそう告げた番犬の声には、弱弱しさは微塵も感じられなかった。
「ふざけたこと言ってんじゃねえよ。放っておかなきゃ死ぬような怪我じゃない。大したことはできないが、応急手当ぐらいはしてやる」
「無理だぜ、俺を治すのは」
「は?」
「俺はいまから死ぬ。怪我でじゃねえぞ、寿命だ」
そう言って、番犬は薄く笑った。
「医者の息子ならわかるだろ? どんな怪我や病気を治そうとも、寿命ばかりはどうにもなんねえ。いまからじゃあ伸ばすのも無理だ」
くっくっく、と笑い声が漏れる。
愉快そうな番犬とは対照的に、男の顔には笑みなどなかった。
「どこが寿命だよ。昨日も今日も、町の中を走り回って、怪異を喰って、見た目も全然変わらねえじゃねえか」
「元々変化しねえんだよ。生まれた時からこの姿で、死ぬ時もこの姿だ。能力も、死ぬ直前まで失われも衰えもしねえ。これでも百年近く生きてきたんだ。そろそろ潮時でも不思議はねえだろ?」
番犬の笑みはそのままだったが、その言葉が冗談やからかいのそれだとは爽太には思えなかった。
それは男も同じだったのか、
「本気で言ってるのか……」
漏らした声には切迫した響きがあった。
「先代と先々代はもっと長く生きたみたいなんだがな。怪異の数は年々増えて、厄介なのも増えて、俺も下手打つことが多かったからな。もうちょっとのんびりしてりゃよかったかな」
はっはっは、と今度は快活そうに笑う。その顔は、とても寿命を迎えて死に瀕しているものの顔には見えなかった。
それに引き替え、男の顔は悲痛なものに変わっていた。
「悪いな、小僧。妙な所に居合わさせちまって」
告げられた言葉に、爽太は何も反応を返せない。
正直、爽太は目の前で起きていることに頭がついていっていなかった。
いつも通り公園に来てみれば、謎の男がいて、番犬も来て、ふたりは親しげに会話をしていて、怪異が出て、喰われて、そして番犬が死を迎えている。ほんの僅かな時間に、いままでに体験したこともないことが、目の前で展開されている。
番犬の死も、ほとんど面識のない相手であることに加え、誰かの死に接すること自体が初めてのことで、いまいち現実味を感じていないのが現状である。
「まあ、そんな惨たらしい死に様にはなんねえからよ。最後は、ぱあっと散るように消えちまうだけだ」
「なんで……なんでそんなに平気な顔をしてんだよ……」
「そんなのは簡単なことだ。人間と違って、守護犬ってのは死が怖くはねえんだよ。もう動き回れねえのは寂しいが、大して辛くも悲しくもねえ。最後の最後に怪異を喰って、人間を守って、それで死ぬんだ。十分満足していい死に方だと思うぜ、我ながらな」
「そんな終わり方でいいのかよ。百年もこの町の人間を守ってきて、それでとうとう死ぬって時に、最期を看取る人間はたったのふたり。感謝の言葉も何もないんだぞ」
「そんなものはいらねえよ。俺は、俺が生きる意味を全うした。それだけだ」
「納得してるってのかよ」
「してねえ面に見えるか?」
番犬は、にっ、と笑う。
それは虚勢でも仮面でもない、嘘偽りのない表情。混乱している頭でも、爽太にはそれだけはわかった。
男の、次の言葉はなかった。
番犬に向けていた顔を俯かせ、ただ無言で地面に目を落とす。
「俺が死んでも、すぐに次の守護犬が生まれる。俺よりも強力なのがな。だから、死んだあとの心配もないってこった。お互いにな」
「そんな問題じゃないだろ」
「そんな程度の問題だ、俺らにとってはな。守護犬と人間だから、価値観なんて根っこから違う。無理に共生する必要なんてねえだろ。お前らはお前らの世界で生きればいいだけだ。――なあ、小僧」
呼びかけられた声に、反射的に爽太はこくりと頷いた。
言っている意味を、理解したわけではない。子供ながらに、場の空気に押されて思わず頷いてしまっただけである。
「それでいいのかよ。毎日駆けずり回って、体中傷だらけになって、終いにゃ腹を切られて血を垂れ流しながら死んでいくんだぞ。そんな一生で満足かよ」
「お前はお前が満足できるように生きろよ。問答はここまでだ。小僧を見習って、素直に受け入れな」
「受け入れてたまるか」
力のこもった男の声。ただそれは、少し震えていた。
番犬は、やれやれといった風にため息を吐いた。
「あとの文句は俺じゃなく、次の守護犬に言ってくれ。俺の持つ記憶はすべて引き継がれるからな。どんな奴かわかんねえが、話ぐらいは聞いてくれるかもしれねえぞ」
番犬は男から視線を外し、そのまま顔を地面に伏せた。
「俺はもう逝く。あばよ、遠見のバカ息子」
瞼を閉じる。
番犬の身体が、淡い光に包まれる。気付けば日も完全に沈もうという頃合いで、暗さを増した周囲の中、番犬の身体がぼんやりと浮かび上がる。
それを爽太と男が呆然と見つめる中、不意に光はその強さを増し、
「――――!」
弾けるように、消え去った。




