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怪異と守護精霊

 夏の日差しが降り注ぐ住宅街を、少女はひとり歩いていた。

 夏休み真っ只中。正午も回り、暑さのピークに達する時間帯だが、周囲から聞こえてくる小学生たちのはしゃぎ声がやむことはない。

 そんな声とは対照的に、少女は眉間にうっすらと皺を寄せ、重い足取りで道を進む。このうだるような暑さの中、容赦のない直射日光を受け続ければ無理もない。

 そんな少女の眼前に、黒い影が現れたのは突然だった。

「――――ッ!」

 それは音も光も発することなく、まさに出し抜けに現れた。

 一見すれば人型をしてはいるものの、腕はなく、足のあるべき場所は太い木の幹のような下半身で形作られている。頭部と思しきものもあるが、そこには目も、鼻も、口も、耳も、何もなかった。大の大人よりも頭一つ分は大きいその身体は、全身をぬらりとした黒い影で覆ったような姿。

 それは、黒い皮を纏った化物だった。

 少女は目を見開き、息を飲んだ。眉間の皺など消え失せている。

 化物の頭部に、にんまりと三日月形に口が開く。

「――やあ、お嬢ちゃん」

 猫なで声を発したのは、笑みの口元。

 それが友好の印の笑顔でないことを、少女ははっきりと理解していた。

 強張る身体。ぞわり、と背筋に寒気を感じる。

 しかしそんな少女の顔にあるのは、恐怖の色ではない。驚きと、いましがた付与された嫌悪の感情のみだった。

 それを知ってか知らずか、同じ調子で化物は言葉を紡ぎ、

「叫ばないとは偉いねえ、お嬢ちゃん。偉いついでに、ボクに大人しく食べられておくれ」

 ゆらりとその身を揺らす。

「お嬢ちゃんの精気が欲しいんだ」

 その笑みの隙間から、黒一色の身体には不釣り合いな真っ白な歯と、その奥でうねるエンジ色の舌が覗いた。

「~~~~ッ!」

 少女は二度目の悪寒を背筋に感じると同時、肩に下げたバッグに右手を突っ込んだ。

 その顔からは最早驚きの感情は失せ、再び眉間にくっきりと皺が寄っていた。

 がさごそと音を立て、バッグの底を目がけて指を伸ばす。そして、数秒の間も待たずに、入れる時と同様に勢いよく右手を引き抜いた。

 びしっ、と、頭上に高々と掲げるようにまっすぐ右手を伸ばす。

 その手に握られていたのは、一本の白い棒だった。真っ白な、傷もくすみもない一本の棒。ごうごつと、若干歪な形をしたそれは、

「――骨?」

 疑問を持って発せられた化物の言葉通り、骨だった。小ぶりのナイフ程度の大きさの、何のどこの骨かもわからないが、確かに一本の骨である。

 それが何であるのか、何を意味するものなのか、それは化物の知識の範疇外だった。

 少女の顔には元より恐怖はなく、今や驚きもなく、身体の強張りもとれている。あるのはただ、目の前の怪物に対する嫌悪の情のみ。

 そして少女は、ぽつりと呟く。

「――守護犬」

 直後、辺りに響く地鳴りの音。同時に、化物の背後に突如真っ白な塊が降ってきた。

 化物が瞬時に振り返る。いや、振り仰ぐ。

 化物の背後に降って湧いたのは、少女は勿論、化物をも遥かに凌ぐ巨体の持ち主だった。頭だけでも化物を優に超える大きさ。身体全体を見れば、小さな一軒家と同程度の巨大さを誇る。純白の体毛を纏い鋭い牙を持ち、首輪をつけているそれは、一頭の犬だった。

「……な」

 塊の正体を化け物が視認したのと、犬の口が大きく開かれるのは同時だった。

「に――」

 一瞬で、影の姿はその口内に吸い込まれるように消えた。

 ごくり、と、犬は喉を鳴らし嚥下する。

 その様子を見ていた少女の眉間の皺は、化物が犬に呑みこまれるのを確認してようやく消えた。

「怪我はありませんか?」

 そう問うたのは、犬だった。眼前の少女に向かい、低くはあるが柔らかさを持った声で、問いかける。

「…………」

 しかし、少女が返したのは沈黙。

 犬から目線を外し、会釈とも、単に俯いただけとも取れるような、そんな風に微かに頭を動かす。その顔には特段何の表情もなく、安堵や感謝の念も感じ取れないものだった。

 そしてそのまま、少女は無言で駆け出した。

 犬は、走り去る少女の背中に向かって、

「また、いつでも呼んでください」

 決して届きもしない囁き声で、そう告げる。

 眉尻を下げた笑みでしばし少女の後ろ姿を眺めたのち、

「行きますか」

 不意に跳躍し、その場から姿を消した。



 立ち並ぶ家々の屋根よりもさらに上、足場など何もないはずの空を飛ぶように駆けていく巨大な犬の姿を、雨瀬爽太は笑みを浮かべて眺めていた。

 住宅街になっている高台に位置する名もなき公園。ここは町をほぼ一望できる場所で、小さな頃から爽太のお気に入りの場所でもある。ここから眺めていれば、時には町を駆け回るイナシの姿を見ることもできる。

 小学校に上がる前から中学生になった今でも、爽太はこうして街を眺めるためにこの公園に足を運んでいる。

「ねえ、見た? 見た?」

 爽太は振り返り、背後の人影に親しげに声をかける。

 しかし、その視線の先にいるのは人ではないもの。体躯は人間と変わらぬように見えるが、その肌は灰褐色の褪せた色を見せ、妙に筋張った体は黒い法衣で覆っている。頭部には毛髪はなく、その代わりとでもいうように、額から角が三本伸びている。落ち窪んだ目に、小さな牙を覗かせる口元。

 それは、一般的に悪魔と呼称されるものだった。

 悪魔は爽太の問いかけに対し、眉根を寄せた表情とともに、言葉を返した。

「あの犬が、なんだと言うのです?」

 その外見によらず丁寧な口調で発せられたのは、単純な疑問の言葉。そして、その裏に僅かばかりの不安が隠れた言葉でもあった。

 そんな悪魔の応答に、爽太は笑みを深める。へへへ、とどこか得意気に声を漏らし、

「あれはイナシっていってね、この町の人間を守ってる守護犬なんだ」

 誇らしげに、そう告げた。

「どんな怪異も一発撃退。一声呼べば颯爽と現れて、悪しき怪異を一口でごくり。いわば僕らを守ってくれるヒーローだね」

 世の中には、怪異と呼ばれるものがいる。

 ヒトではなく、生物ですらない異形。そんな存在を、人々は怪異と呼ぶ。幽霊、妖怪、妖精、悪魔、魔獣、精霊、獣人、などなど、人ならざるモノは世にあまねく存在するが、それらの内、人に害なす存在のものが怪異と呼ばれ、人々から恐れられていた。

 世間的には、その存在自体を認めない者も多く存在しているのだが、ここ森江町では怪異の出現が日常茶飯事で、住民の中にはその姿を目にしたことのない者はおろか、襲われたことのないものなどひとりも存在しない。

 そんな怪異たちを祓う存在、それが守護精霊と呼ばれるものたちである。

 怪異は、人間を筆頭とした他の生物の精気を主食としており、結果として相手を衰弱させ、死に至らしめることもある、いわば人間にとっての天敵である。普通の人間であれば対抗する手立てもなく襲われてしまい、精気を奪われるだけ奪われ、死に至るのは必定。それを防ぐため、大地より生まれて土地に根づき、そこに住まう生物を怪異から守る守護精霊が存在しているのである。

 ここ森江町にも巨大な犬の姿をした守護精霊である守護犬が存在し、百数十年単位で代替わりを繰り返しながら住民たちを守っている。そして、現在その役目を負っているのが、守護犬イナシなのである。

「この町に守護精霊がいるというだけのことでしょう? それをわたくしに伝えて、あなたはどうしたいのですか?」

 若干の困惑を隠しきれない声。

 それもそのはずである。

 この悪魔が、今現在この公園にいる理由。それは何も、知人である爽太と何気ない立ち話をしているからではない。彼は人間の精気を欲して町を彷徨い、そして偶然爽太に目をつけ、その前に姿を現したからである。

 そうである以上、突如襲われた身である爽太は恐れおののき逃げ惑うのが当然で、平気な顔で笑みまで見せて、悠長に話をしていていいはずがない。そんな対応は、どう考えても普通ではないのである。

 よって、悪魔が言い知れぬ不安を感じていたとしても、それはおかしなことではない。

「無駄だよ、ってこと」

 爽太の唐突な言葉に、悪魔は虚を突かれた様子で驚いた顔を返す。

「あなたは僕の精気が欲しいんだろうけど、それは適わぬ願いですよ、って話」

 わかる? と言いたげに、爽太は小首を傾げる。

「なるほど。あなたを襲えば、それをあの犬が敏感に察知して駆けつけ、わたくしを一息にたべてしまうと。つまり、あなたはわたくしに警告を発しているわけですね。自分に手を出すな、と」

 悪魔の声から、不安の色は消えた。代わりに含まれているのは、ほんの少しの怒気。

「人間の餓鬼の分際でわたくしに警告とは……。しかもこの、交渉を司る悪魔ヘルベルを相手にねえ」

 悪魔――ヘルベルの顔に歪な笑みが浮かんだ。

 そんな悪魔を前に、爽太の顔には、ぱあっ、と笑みが広がった。

「その通り!」

 一段と大きな声で、

「僕は交渉がしたいんだ。お互い無駄な消耗をしないように、互いに利益を得られるように」

 ヘルベルの言葉や態度に臆する様子もなく、爽太は言った。

「いやー、理解が早くて助かるよ。それに交渉が専門なら、しっかりメリットデメリットを考えて、建設的な会話の応酬ができるよね? 期待しちゃっていいよね?」

 嬉々として言葉を紡ぐ。そこにはヘルベルに対する恐れは微塵もなく、むしろ期待に満ちていた。

「その様子だと、自分の身の安全に大分自信があるようですが、あなたには懸念はないのですか? あの犬を呼ぶよりも早く、あの犬が辿りつくよりも早く、わたくしに精気を奪われることはないか、と。そんな懸念は?」

「ないよ」

 答えは簡潔かつ迅速に。

「そんな心配はいらないよ。――だって」

 爽太はズボンのポケットに右手を突っ込んだ。そして、

「ほら」

 ちらりと、何かを覗かせる。

 それは、白くごつごつとした、骨。一本の骨の、先端と思しき部分。

「これをポケットから出せば、一回瞬きする間……ってぐらいの早さでイナシは来るよ。そして同時に、あなたはイナシの腹の中」

 骨に添えた手をそのままに、爽太はにっこりと微笑む。この骨は町の住民であればだれでも持っているものであり、怪異に襲われた際にイナシを呼ぶための道具である。怪異の出現が多いここ森江町では、自分の身を守るために携帯しているのが常である。。

「これが根拠」

 ヘルベルは、口を噤んだ。

 目の前の少年を値踏みするように、ぎょろりとした目で全身に視線を這わせる。

「――それであなたは、何が目的なのですか? 交渉の内容は?」

 怪異にとってのイナシの恐ろしさは理解してもらえたようである。爽太の顔がさらに緩んだ。

「簡単なことだよ」

 爽太の声は弾んでいる。

「僕と友達になってよ!」

 ぴくっ、と、ヘルベルの片眉が上がる。

「仲間とか、同胞っていうのでもいいよ。相棒――も、まあ、善処する。さすがに恋人っていうのは、残念ながらお断りさせてもらうけど。まあ、どんな呼び名の関係であれ、友好的な関係を築きたいな、と、そう思う次第です」

 爽太はつらつらと言葉を並べた。

 しかしヘルベルの返す言葉は、

「あなたの目的は何ですか?」

 先ほどと変わらぬものだった。

 えー、と、口をへの字に曲げ、爽太は不満げな声を漏らす。

「あなたの言葉を要約すれば、つまりはわたくしを使役するつもりですか。特別な力も、人ならざる能力もないように見えますが、わたくしを使役しようというのがあなたの求めるところですか?」

 警戒を含んだヘルベルの言葉に、爽太は慌てるわけでもなく、むしろ不満の色を濃くした顔で、

「そんなこと言ってないじゃん。なんで皆そういう風に考えるかなぁ」

 半ば独り言のように呟いた。

「ストレートにそのまま受け取ってくれればいいのにさ。やっぱり種族の壁は厚いってことかなぁ」

 ふう、とため息ひとつ。

「――そうですね。種族の壁は、厚い」

 瞬間、何の前触れもなく、ヘルベルがその身を動かした。

 それは音もなく、素早く。しかしほんの僅かな殺気を伴って。

 と、同時、爽太は素早くポケットから骨を引き出した。爽太に迫るヘルベルの眼前、その行為を阻むように真っ白な骨が突き出される。

「――――ッ!」

 ヘルベルは瞬時にその身を捻り、跳ねた。爽太の視界が、光も通さぬような黒い法衣に覆われる。

「わっ、とと」

 ばさばさと布のはためく音がする。

 爽太は慌てて、視界を遮る法衣を払うように腕を振った。

 しかし、その手には何の感触もない。視界からは、すでに黒の色が消えていた。辺りには最早ヘルベルの姿はなかった。

「逃げた?」

 誰に言うともなく、微かに発せられた爽太の声。

 次いで、それをかき消す轟音が響いた。それは獣が生んだ、大地を踏み鳴らす音だった。

 爽太の視界に、一面の白が広がる。

 それは、巨大なイナシの身体。

「――怪異は?」

「逃げた」

 開口一番、端的なイナシの問いに、端的な爽太の回答。

 その回答に、イナシは一瞬の逡巡を見せる。

「また……話していたのですか?」

「うん」

 爽太はこくりと頷いた。素直に、無邪気に頷いた。

「危ないですよ?」

「それは知ってるよ。でもやりたいんだもん、しょうがないよ」

 楽観的に過ぎる爽太の言葉に、イナシはひとつため息を吐いた。

「また襲われたのですよね?」

「話の途中でね」

「成功する可能性はあったんですか?」

「そりゃあ、ゼロではないよ。見た瞬間から、狡賢くて人を騙そうとするタイプかなぁ、とは思ってたけど」

「……相手は選びましょうよ」

 イナシの呆れたような声。

「そんなことしてたら望む結果は得られないよ。チャレンジあるのみ。とにかくできることをやる!」

 爽太に、イナシの言葉に従う様子はまったく以て見られない。

 イナシはまたひとつため息を吐く。

「まあ、それを止める権利は私にありませんからね」

「心配しなくても大丈夫だって。危なくなる前にイナシを呼ぶから」

 言いながら、爽太は右手の骨をぶんぶんと振り回す。

「これがあれば大丈夫。イナシは何時だって何処にいたって助けに来てくれるでしょ?」

「それは否定しませんが、もしものことというのがあり得ますから。くれぐれも用心は怠らないでくださいよ?」

「そこも大丈夫。わかってるって。怪異の怖さは知ってるつもりだよ」

 にっこりと、爽太は笑ってみせた。

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