私はアンブレラ
私の生まれたところはロンドンです。
もう少し詳しく言いますと、トッテナムコートロードに店を構えるスミスさんのお宅で生まれたのです。何という家でもないのですが、道の角にあって、19世紀の中頃にはもうあったというからたいそう古い家ではあるんです。
そこへ、私のご主人になる方がやってきました。
私のご主人は、遠くアジアの東の果ての小さな国からやってきて、ブリティッシュ・ミュージアムの近くに宿を取り、しばらくここロンドンに滞在していた方です。
ご主人の国では、このミュージアムのことを「大英博物館」とたいそうな呼び方をしているそうです。
笑ってしまいます。だって、誰だって、ただで入れる博物館ですよ。
そのご主人が好んで歩いていたのが、ミュージアムのあるカムデンからコベントガーデンまでの往復の道なんです。
いくつもの、そして、ありとあらゆる店がそのルートにはあります。小さな果物屋さんまであるんです。それに、ところどころに大きな樹が植えられていますから、日差しの強いときなど良い日陰が作られます。ちょっと一休みするにはちょうどいいのです。そして、この樹にはいっぱいの鳥たちが暮らしています。夕方など賑やかさを超えて、うるさくさえあるのです。
そんな中、ご主人はよくリンゴだとか桃を一つ二つ買って、かじりながら歩いていたのです。
コベントガーデンには、マーケットがあります。
どうやら、ご主人のお目当ては、ここコベントガーデンで、一軒のパブに入って、一杯のビールを飲むことのようです。
そのついでに、古本やアクセサリー、ハーブやちょっとした小物などを売っている露店を冷やかすのです。そういうのが好きなんですね。それに、ここには交通博物館もあるんです。
きっと、ウインドーショッピングを楽しみ、露店の主人とさりげない会話をし、交通博物館で時間を費やして、ロンドンでののんびりとした生活を満喫していたのだと思います。
そのご主人が私のいる店にやってきたのは天気のいい日の夕方でした。
手にはかじりかけのリンゴを持っていました。
いきなり、私の前に立ち、リンゴを床に置き、手をズボンでこすり、私を手に取ったのです。どうやら、私を気に入ってくれたようです。
そういえば、私、何度かショーウインドウの向こうにご主人が立っているのを見ました。道の端により、ショーウインドウに鼻をこすらんばかりに寄せて、私を見ていたのです。
「私が欲しければ、向こうのドアーから入って、スミスさんに、これくださいっていうのです。」と私は何度声をかけたかしれません。
でも、なかなかご主人は入ってきませんでした。果物をほうばり、まるで関心がないかのように、一度も振り向かずに立ち去っていったのです。そういうことが何度かありました。
そして、今日、やっと、ご主人は店に入って、私の前に立ったのです。
スミスさんは、異国の地からやってこられたご主人に、丁寧に私のいいところを説明してくれていました。
そうそう、私のことを少しお話しします。
私は、ソリッドスティックアンブレラと言います。
ヒッコリー、つまり、クルミの木一本でできているのです。その木を曲げたり、穴を掘ったりして、この道何十年という職人が、とても丁寧に作っているのです。
この国の紳士たちは、少々の雨では、私を開くことはしません。私をステッキとして使うのです。それだけ丈夫ということですね。そして、それがまた、とてもオシャレなんです。でも、最近のロンドンっ子はそういう風情を楽しまなくなり、寂しく思っています。その分、この国の素晴らしい文化を外国の方が好んでくれますから、嬉しい限りです。
どうやら、東の国から来られたご主人は私を引き取ってくれるようです。
スミスさんの息子さんが私をご主人の身長に合わせて、少し長めの足、足と言ってもわかりませんね。「石突き」と言われる部分です。傘の先端にあるあの棒のことです。私たちはかなり長い石突きを持って店におかれているのです。それを引き取ってくれる方の身長に合わせてカットし、鉄で出来たカバーを被せるのです。
さて、私もご主人の背丈に合わせて、石突きが切られました。これで、私はすっかりご主人のものとなりました。
以来、私は遠く西の果ての小さいが大きい国イギリスから、東の果てのこれも小さいが大きい国にやってきたのです。しとしとと降る国から、ザアザアと降る国へとね。
今朝、私はウッドデッキの陽のあたる心地よい場所で日向ぼっこをしています。昨日、大変な雨の中、ご主人と出かけ、いっぱい働いてきたご褒美です。
そして、広げられた私が作る日陰に、一輪の百合の花が清楚な花瓶に入れられておかれているのです。
懐かしいなと私は思いました。
実はスミスさんは百合の花が好きで、トッテナムコートロードの店によく飾っていたのです。
シーボルトという人が日本の百合を欧米に紹介して以来、この花はロンドンの人たちの羨望の的となりました。細い茎に大きな花をつける百合は、きっと、小さな傘をさす貴婦人のようだったのでしょう。
ですから、今、私、少し心をときめかしていんです。
大きく手を広げた私の中に小さな貴婦人がおられるのですからね。
……東の国の小さいが大きい国に来て幸せですかって、それはもちろんです。
了