ノットノンフィクション
この世に流布する物語の類型の一つ。
フィクション(虚構)に対するノンフィクション(事実)に対する言葉である。詳しくは後述するけれど、もろちん僕の造語である。こんな言葉は辞書にも載っていないはずだ。ググっても出てこないはずである。でも、もしかするとそのうちに辞書登録されるかもしれない。誰かが提唱して初めて概念化されるのが言語であり、つまり言ったもん勝ちなのが言葉って奴の性質だとするのなら、たとえ今はまったく市民権を得ていないにしても、僕が首唱することでいつの日か一つのジャンルとして認識されるような日がこない……とは、必ずしも言い切れないだろう。まあ、こないだろうけれど。
フィクションは虚構・作り話で、ノンフィクションは事実・実際に起こった出来事だ。どちらも文学的には創作である事に違いないけれど、一応、そういう対比が一番分かりやすいだろう。ならば、よりニッチな需要を開拓するべく、虚構でもないし事実でもないという、隙間というか狭間的なもの、よく言えば両義的なものを取り上げようというのがノットノンフィクションである。
事実の中に少しだけウソを混ぜると「上手な嘘」をつけると言うし、事実だけれど余りにも現実離れしすぎていると「下手な作り話」と受け取られてしまったりもする。つまり完全にフィクション(作り話)ではないけれど定義的にノンフィクション(事実)かと言われるとそうでもない、英語にするならneither A nor B(AでもなくBでもない)の構文を使って、neither fiction nor nonfictionという感じの概念規定である。英語はそんなに得意じゃないからこれが正しいかどうかは分からないけれど、そんな嘘か真か分からないし正しいか間違ってるかも曖昧で、適当で、いい加減な話をノットノンフィクションと捉えてみるのはどうだろうか。
要するに、話の真偽や正誤は一先ず置いておいて、とりあえず文学的創作として楽しんでしまおうという読書姿勢のようなものである。これならどんな些細な話もノットノンフィクションにカテゴライズできるだろう。そしてこのような概念をつくる事によってノンフィクション作家により精緻な作品を作る努力を要求するのである。少しでも作り話が混じっていたらノットノンフィクション。つまりノンフィクションとは認めないぞ、と言う岡目八目で高飛車な姿勢である。なにを偉そうにと思われるかもしれないが、とりあえずそれも棚の上に置いておいて、そんな取るに足らない戯言もノットノンフィクション(与太話)として楽しむのである。
戯言も戯言もノットノンフィクションとして楽しむ。そうすれば若しかすると後々に、何かの弾みで創作の素材として棚から牡丹餅のように降ってくるかもしれない。自分の無知を晒すような恥ずかしい言動だって、ちょっとした文章を書くネタくらいにはなるものだ。芸能人は白い歯が命、随筆家は黒い歴史が命と古来より言うではないか。そういえば昔は鉄漿が美しいとされていたらしいから、美人と物書きに求められたものも今とは間逆だったかもしれない。美人は黒い歯が命、物書きは白い歴史が命。白い歴史つまり正史を編纂するのが昔の物書きだ。黒い歯も白い歴史も、命というよりも命懸けだっただろうから、与太話のつもりが斬った張ったの真剣な話になってしまった(なってない)気もするけれど、ともあれ、そんな価値観の逆転というのもノットノンフィクションに含めてもいいだろう。ということは「嘘から出た実」なんていうのも、もちろんありだとおもう。ちなみに冒頭の「戯言」は「ばかばかしい話」という意味と「ふざけて言う言葉」の意味とちゃんと区別して使いました。だからどうしたって話なんだけど、こんな戯言でも文字数を稼ぐのが今の文筆家のノウハウだ(もちろん嘘だ)。ちなみに今の「戯言」、あなたはどっちの意味に解釈します?
嘘は、その時点ではフィクションである。けれど、なにを間違ってか実現してしまってノンフィクションとなってしまう場合がある。そんな時にそれらの変容をも包含する新しい概念としてノットノンフィクションという言葉を提唱したい。嘘が真になるというコペルニクス的転回は、言霊信仰を持つ我々にとっては理解に不自由しないものだろう。言葉には霊力が宿っていて口に出すと実現してしまうというような世界観を構築してきた我々からすれば、ノットノンフィクションとは具現前の言霊であり言葉の霊力そのものとでもいえるものかもしれない。その時点で嘘だろうと何だろうと言葉は実現する可能性を手放してはいない。だから、もしかすると嘘を実現するために密かに何かを頑張った人がいるのかもしれないし、命を張った人がいたかもしれない。たとえば寝ている間に宿題を済ませてくれる妖精さんだって、見たことないだけで本当にいるのかもしれない(見たことないけど)。
そういえばコペルニクスと言えば天動説と地動説だけど、天動説が常識だった時代に地動説を説いた人たちは、天動説を信じる人たちからは嘘吐き呼ばわりされていたのだろうか。天動説が主流の時代に地動説を唱えるような人たちのことを、今ならフィクション作家(むしろSF作家?)と呼べるのかもしれないけれど、実際にはノンフィクション作家だったというのだから、人間のやること成すこと考えることっていうのは、ホントに曖昧で、適当で、いい加減だ。嘘吐きも事と次第に寄っちゃあ立派な正統派になるのだから、いっそ毒を喰らわば皿までという感じだろうか。まあ、僕は毒を喰うよりも、どっかの国の首相のように、人を喰いたいけれど。んでもって、人を喰いつつ、愚零闘武多のように毒を吐きたいけれど(みんなも真似したことあるよね?)。
虚構でもそれを信じる人が多ければそれが真実としてまかり通る。人の世とはそういうもの……と言ってしまえばそれまでだが、どうせならそういうものも創作として楽しんでしまおうジャマイカ。そういう考えの下に造ったのが、このノットノンフィクションという言葉である。だからお分かりのことと思うけれど、すげえ主観的な言葉である。客観性は……あるんだろうか? 賛同者が現れてくれたら若しかすると客観性を持つこともあるかもしれないけれど、どうなんだろう? まあこれは書き手にも読み手にもすげえ都合の良い解釈が出来る言葉だから、一億二千万人の内の一人くらいは賛同者が出るだろう。問題は一億二千万の内の三十ユニークユーザー位にしか読まれないことくらいだろう。まあ正直、僕はこの話だけでお腹いっぱいだから、あとの掘り下げとかは他の人にまかせるけれど。そしておそらく後に続く人など誰も現れないだろうけれど。だからこそ僕が唯一の提唱者として、後世に語り継がれることも知られることもないだろう。むしろそれが望ましい。僕はこんなくだらない与太話が出来ればそれでいいのである。
ということで、僕は唯一無二で唯我独尊のノットノンフィクション作家を自称する事にしよう。オンリーワンだからといって全然名誉なことでもないし、かといって別に不名誉でもなく、まあ自称ってところが相当にお寒い話ではあるけれど、それで誰かに迷惑をかけるわけでもないし、人の迷惑になるような文章を書くつもりもない。つまりは健全且つ不健全に表現の自由を謳歌した素人の言葉遊びであるから、目くじらを立てられるようなこともないだろう。人畜無害とはまさにこのことだ。まあ、むしろ糞の役にも立たないと言うべきなのかも知れないけど、その点が天動説とか地動説とかとは雲泥の話で、二つの説は与太話というには関係者の本気度が段違いで命に関わる話だったし、だからこそお互いに譲れない実情があったのだろうけれど、僕にはそんな真剣さは皆無だし、そんな必死にならざるを得ない立場でもないので、彼らのしたように強固な理論を戦わせる必要もなく、安全なところでのんびりと、漫筆というか漫文というか漫録というか、平たく言えば自己表現に勤しめる。それがノットノンフィクション作家である(我ながらてきとーだなぁ)。
ってか、そもそも、なんでこんなことを考えているのかと言えば、「人間は考える裸足である」という名言を残した人がいたけれど(嘘ではない。事実でもないけど)、それに習って「我思う故に技あり」の精神で世の中を歩き始めたときに(貴方のツッコミとあわせ技で一本になります)、人は元々ノンフィクションの中に住んでいるのか、それともフィクションの中にノンフィクションを見出すのかという命題にたどり着いて(ウソのようなホントの話)、むしろ、どちらでもあってどちらでもない状態にいることが人の自然な有様なのではないか、なんていう感想を抱いたので(べつにどーでもいいとか思ってないよ?)、フィクションとノンフィクションという二元論で割り切ってしまうのではなく、ノットノンフィクションという虚実渾然とした状態を在りのまま享受するのが楽しいし楽だよね、という気がなんとなくしたからである(ホントかよ?)。裸足で技ありを取ろうとする辺りで柔術家のような気分になったので、そんなノリで柔の道を「この橋、渡るべからず」という逸話にもある柔軟な発想をしながら二元論の間で綱渡りたいということである(どういうことだろう?)。つまりノットノンフィクションとは中二的に言えば「渾然」といえるだろう。まあ、僕のこの文章には「渾然」というよりも「混沌」という名を与えるべきなのかもしれないし、僕自身は「渾然」というよりは、予定が未定の「婚前」なのだけれど……。
ノットノンフィクションとは渾然であり混沌である。秩序のない状態ということも出来るかもしれない。少なくともどちらにも割り切れない、曖昧で、適当で、いい加減な話である。そういう意味で真実も虚偽もどちらも含まれている。ノットノンフィクション……長いから略して「ノノン」で。いや、ひらがなで「ののん」の方が字面が可愛らしくて良いかな? まあ、どっちでもいいとして。「ののん」は混沌であり、無秩序であり、嘘も真も両方含む概念だ(そしてカワイイは正義だ)。だから嘘から真だけでなく逆の方向性も持っている。たとえば、不都合な事実を嘘にしてしまいたい場合に、事実をもとにしつつ嘘で塗り固めるというのも「ののん」としてはありだ。事実は事実として、そこに大量の嘘を混ぜるのである。いや、別に大量でなくてもいい。事実を覆いつくす大風呂敷のような一枚物の嘘でもいい。肝要なのは事実に嘘が混ざっているということだ。上手下手も問わないし、無理に意図して嘘をつく必要もない。大切なのは真実を適切に言語化して表現できていないという状態なのだ。そんな状態だからこそ人は真実を誤解するし曲解する。そしてこれは良く考えなくても分かるように、現実的には、ごくごくありふれた光景なのだ。
僕は、言葉は真実を表現するのには向いてないと思っている。それでも人が真実を表現しようと思ったら、全身全霊、命懸けであるべきだし、たゆまずに自己表現を磨き、それにあらゆる時間を割くべきだと思っている。でもそんな真剣さを他人に求めるというのは何か違うし、別に求めたいとも思っていない。そもそも人間というのは本質的に表現を欲する生きものだから、僕がとやかく言わなくても常に自己表現に勤しんでいるし、そんな自分のためだけの表現に没頭したとしても、それが普遍的な真理を象徴的に示すということは十分に起こりうるし在り得ることなのだ。そのなによりの証拠に、言葉がその可能性を否定していない。言葉そのものは嘘も真実も駆け引きさえも否定していない。まさにグレイである。言葉はあらゆる可能性を否定するものではなく肯定できるものなのだ。
そもそも言葉自体は存在論的には絶対的な善である。存在論的に悪というのは、言葉は存在すべきでないという価値判断を伴うものだが、しかし言葉は必然性がなければ生まれない。逆に言えば必要だからこそ言葉は生まれたのだ。そんな言葉に差別的だとか不謹慎だとか不適切だとか色んな理由をつけて否定しているのは、言葉を解釈する人間の方なのだ。そうであるなら、人間はあらゆる言葉を使って真実を適切に表現できるように勤めるべきなのである。適切に表現するというのは、時と場合を考慮してとか、相手に配慮してとか、そういう話ではない。言葉は先にいったように絶対的な善なのだ。だからどんなに汚いとされる言葉を使ったとしても意味内容が通ればそれでよいのである。それを解釈するのは他者の領分であって、表現者本人の領分ではない。ただ、他者にその内容をより正確に把握してもらうためには、書き手がそれに自覚的でなくてはならない。何をいいたいのか目的を自覚していなくてはならないし、どうすればより効果的に表現できるのか勤めなければならないという意味である。
もし仮にいいたいことを表現するのにわざわざ汚い言葉を選んで伝えることを好む人がいるとすれば、それは言葉の問題ではなく、その人の人間性の問題なのであって、言葉自体を自粛したり禁止したりする必要などどこにもない。もし人間性を磨きたいというのであれば言葉は選ぶべきだと思うが、言いたいことを適切に表現したいと願うならば、それがどんなネガティブな意味内容を持つ言葉であっても使うべきときには使うべきなのである。いや、多くの人はそうやってかなり自覚的に言葉を使っている。だからこそ言葉よりも人間性のほうを問題視しているのであって、そういう言葉を吐く人を軽蔑する延長として、言葉そのものを禁止したがるのである。で、そういう言葉に限って、元々の言葉の意味以上の意味を付与されていたりするものだ。たとえば部落とかは良い例であろう。これも一種のノットノンフィクションだ。事実に別の意味を付与して真実を覆い隠す。僕はそれも創作として認めよう。創作としてなら認めよう。人には物語が必要だから。そしてその中にしか真実はないから。人は真実の中ではなく、嘘と真の真っ只中に生きている。だからこそ渾然とした混沌の中に真実を見出したいと願うのだし、だからこそ僕は、真実の素材としての「ののん」を是認するのである。
人は常に、嘘と実、建前と本音、客観と主観の間で揺れ動いている。それゆえ常にあらゆる場面で人間性を試される生きものである。そんな人が自己の人格を造る術として、そして守る術として持つに至ったのが「ののん」である。そしてそれを駆使して造られたものが「仮面」である。本当の自分ではないけれど、偽りの自分でもない、仮の自分だ。人はそのような「仮面」をして生きているらしい。嘘と本当を混ぜて捏ねた土で造った「仮面」だ。フィクションとノンフィクションを綯交ぜにした「どちらでもないもの」が素材の「仮面」だ。だから人は嘘と実の両方の性質を持っている。だからどちらの方向へも向う。嘘へも走るし真実へも走る。その走った方向と距離を測ることで、個性と看做したり看做されたりしているのが人間だ。五十歩百歩というのは、同じ穴の狢と同じような意味だろうけれど、それでも五十歩逃げた者と百歩逃げた者とでは、その個性が違うと捉えることができる。けれど現実にはどちらも同じ似たようなものと看做されたりするのだから、自分を誤解されたと感じることは誰にでも起こりうるし、同じように他者を誤解していたという経験をすることも大いにありうることだろう。
「仮面」はそんな誤解の一つの要因として考えられるだろう。本物ではないけれど贋物ではないのだから、言ってみれば、当らずとも遠からずという状態に常に置かれるようなものである。真ん中を射抜きたい者からすれば実にもどかしいし、急所を隠したい者からすれば実に都合が良い。そういうものである。ならば「ののん」というのは、嘘の方向へ走れば「虚構」となり、真実の方向へ走れば「事実」となるようなものだろう。それが「作り話」なのか「実際に起こったこと」なのかを知る者は、本来的には本人のみであり、事件の当事者と目撃者のみである。事実を事実として知るというのは、本来的には事件を目の当たりにした者にしか出来ないことである。それに加えて、人の記憶は常に「仮面」によって捏造され続けるのだから、真実を暴くことは容易なことではない。第三者はそんな彼の話を聞いたうえで「虚構」と判断するか「事実」と判断するか、その決断をするのみだ。真実とは、この決断の正しさにある。そしてそれを証明できるのは当事者たち以外にはいないのである。だからノンフィクションというのは、当事者の退場と第三者の誤った決断によって、畢竟、フィクション化する運命にあるといえるのではないだろうか。そんな風に真実性を失ったノンフィクションというのも「ののん」であるといえるのかもしれない。
そんな風化した「ののん」にも文学的価値を見出すことは出来るであろう。価値観の変遷は既存の文化に変革をもたらすものだ。それが事実か否かは関係なく、それに触発された人間が活動することで歴史は紡がれてゆく。だからたとえそれが捏造的な行為だとしても、そこに文学的価値を見出すことは可能だろうし、また、そういう見方をする者が一人くらいはいても良いだろう。虚構だって文学的創作として認められているのだ。捏造を文学的創作として是認する読者がいてもいいではないか。だから僕は、新しい概念として、物語の楽しみ方として、「ノットノンフィクション」というジャンルを提唱したい。
……そんな「ののん」の例として「嘘から出た実」の物語を語るとき、僕は消化器官の末端付近で繰り広げられる役人と旅人の物語を思い出す。旅人が関所を通るために自分の素性を騙し、役人がそれを信じて通してしまう、あの物語である。結果として実が出るのであるが、騙された役人の上司としては折角溜めていたところなのに、まったくたまったものではない。リアル世界で大いに頭を悩ませる事になるわけだが、その時に作り上げる虚栄こそ「ののん」である。「いや、出てない、出てないよ!」と簡単に腹の中を見透かされてしまうような主張をするものの、実際にはお腹の中身は既に空という、実に虚しい主張である。実に空しい現実である。……まあ、なるほど出したくないのに出してしまったらリアルに大問題なので、便宜的にお察しください。
そして其処に! この世のものとは思えぬ美しい人が現れて「具合悪いの? 一緒に医務室へ行こう」といって辛く厳しい現実から連れ出してくれるのだ。そして二人は諸々の処理を済ませた上で、二人きりベッドの上で、泡沫の恋におちるのである。そんなお腹を下した後のくだらない話のような晴れやかな御伽噺。それをいったい誰がどうして避妊……もとい、否認できようか!
……あー、あぶなかったー。というか、よかったー。
与太話のつもりが途中なんか真面目路線に変更しそうになってしまったけれど、最後はうんこの話で〆ることができた。これで小学生にも笑ってもらえるな。よしよし。いわんや大学生をや。