二日目の午前中
TVの音で目が覚めた。朝だ。
どうやら居間の長椅子で眠ってしまったようだ。
のろのろと起き出しカーテンと窓を開けると、光と新鮮な空気が居間に溢れ、昨夜の事が遠い昔の出来事のように思えた。だが、頭の中にへばり付いているのも事実だ。気になる。認めたくは無いが恐怖を覚えた。
暫くの間、開けた南向きの窓の前に立ち、何処を見る訳でもなく外を眺めていた。変わった土地だ。南側一面が未だ宅地化されてなく、家が建っていない草地が広がっている。きっと町の土地なのだろうが、見るからに湿気が多そうで、夏になるとカエルの合唱が家の中まで聞こえてくる。そのおかげで見晴らしはいい。
湿地のような土地の向こうには舗装された道路が見える。だが、何時まで経っても人の姿を見る事が出来なかった。車も通らない。今日って何曜日だ? 確か水曜日だったはず。
高校があって特急列車も停まる町だが活気がない。きっと、高校生や小中学生の通学時間であれば、もう少しましなんだろうが、時計を見ると、もうすぐ9時だ。歩いている人が見えない。
その道路と平行にJRの線路が走っている。夜中だろうが、列車が通る度に踏み切りの音と共に家が揺れる。だが、今は何一つ聞こえては来ない町だった。
タバコに火をつけ長椅子に腰を下ろす。昨日のあれは何だったんだ。夜中の2時だぞ。徘徊する痴呆老人の話は聞いた事があるが、あの叩き方は年老いた老人のそれとは思えない。それに異様な何かを感じた。
どうしても考えてしまう。何年も前にアネキも聞いたと言っていたが俺は初めてだった。
タバコの火を消した。コーヒーが飲みたい。どうせ、この家にはインスタントコーヒーすら置いてないだろうと、パック式のドリップコーヒーを持ってきていた。俺はカフェイン依存症かもしれない。などと考えながら立ち上がり台所へと向かう。ヤカンは簡単に見つかった。
昔の家は台所の流しの横に洗面台がある。そこで冷たい水で顔を洗うと何時もの自分に戻った気がした。出しっ放した水道の蛇口に口をつけるーーーコップを探すのも、後で洗うのも面倒だったから。でもコーヒーは別だ。この町の水は美味い。
コーヒーを飲み終える頃には三本目のタバコに火をつけていた。俺はヘビースモーカーではない。立て続けに吸うと美味くはないし、車に乗っている時も吸わない。だが、考え事をすると不思議と咥える癖があった。
外に出た。家の北側の道路に立ち、西隣の家との間を改めて見てみる。そこは記憶していたよりもずっと狭いのに驚いた。家と家との間が2メートルもない。
こんなに狭かったか?
ここに誰かが居たのか?
真夜中に、何のためだ?
壁を叩くため……誰が?
北から南に向かって、まるで廊下のように伸びる家同士の隙間。昼間であっても陽が直接入ることが無いそこは、ひんやりとした空気を絶えず溜め込んでいる。
北側に道路がある土地に建てた家は、庭を裏手に造らざるを得なくなる。その結果、表玄関と道路との距離は極めて近い。
私有地だろうと誰でも入って来れそうだ。通り掛かりの酔っ払いか?
西側の壁ーーー狭い西隣との間を通って裏庭へ行くと、花壇やら野菜畑の隣に物置がある。既製の物置ではなく、大工が建てたまるで家のような物置。
木製の引き戸は多少は引っかかったが、それでも案外スムーズにレールの上を動いてくれた。
この物置、基礎はどうなってんだ? こんだけ古くて、何度も地震にあってんだろうけど、どんだけ頑丈なのよ。
柱と板と釘だけで建てられた物置は、家がダメになった後もそのままの姿で在りそうだ。
物置の中に入ると、探す事も無くそれは直ぐに目に入った。
入り口の横に立て掛けられている木製のバット。俺が小学生の頃に使っていた物だ。それを手に取り物置を出ると、野球の要領で振ってみる。ブンと、空気を切る重い音。
「おっ、いい音するじゃん」
なんとなく気を良くした俺は、ブンブンブンブン振り回していた。そのうち汗ばんできて止めた。俺は何をやってんだ? 今更、朝野球でも始めるつもりか?
バットを片手に東隣との間に回ってみる。やはり狭い。こっちの方がもっと狭いのではないだろうか。
東側の壁を伝って元いた道路に出ていく途中で小さな窓が目に入る。西側も東側も隣の家とぴったりとくっつくように家が建っているせいで、当然、窓など無いのだが、唯一、道路寄りの東壁には無意味な窓がある。それが、この風呂の窓だ。
建てた大工のセンスなのか、それとも風呂には窓が付き物だとの固定観念からなのか、どう見ても無駄としか思えないが、もしかすると湿気を逃がすためには必要なのかもしれない。
アネキが昨夜の電話で騒いでいたのがこの窓だ。勿論、曇りガラスが入っており、外から覗いたところで薄っすらとしか見えはしない。近所のオヤジが覗いていたと言っていたが、誰が風呂に入っているかも分からず覗いていたのか。俺も覗かれていたのかもしれないなどと、窓を見ながら考えていると思い出した。
俺は高校を卒業するまで、この家に住んでいた。それは中学生の頃だ。
ある夜、両親は何故か居なかった。
居間で長椅子に寝転がってTVを観ていると、憤怒の顔をしたアネキが風呂からずかずかと出てきたのだ。そう、ずかずかとだ。
素っ裸でずぶ濡れのアネキが腰に手をあてて寝そべっている俺を見下ろす。
唖然と言葉を出せない俺は、至近距離にある、黒々としたアネキの股間に視線が固定されてしまった。一瞬、時間が止まっていたが、次の瞬間、スナップの効いた凄まじい平手打ちが俺の頬に襲い掛かり、鼻血が真横に飛んだ。
「どこ見てんの! あんたも覗き魔とおんなじかい! そんなに女のアソコが見たいんだったら、ほら見ろ! 見せてやる!」
放送禁止用語を連発させて股間を突き出すバカ女。
どうやら風呂を誰かに覗かれたのだろうが、意味も分からず、鼻血を滴らせ、あんぐりと口を開けているマヌケな俺は、その場では何も言い返せなかった。
そのまま、物凄い足音を響かせて2階の自分の部屋に入って行ったアネキ。確か20歳前だったはずだ。
「ふざけんじゃねぇぇ! いつテメェのアソコなんか見てぇぇって言った! 金貰ったってお断りだ! 偉そうに毛ぇ生やしやがって、ビックリしちゃったんだよ! テメェが勝手に広げて見せたんだろうが! 奥まで見せやがって、目ぇ腐ったらどうすんだ!」
などと、誰もいない居間で一人で騒ぐ俺は余計にマヌケだった事を、今思い出した。黒い思い出だ。
くだらない事を思い出したと、頭を振りながら玄関に戻ろうとした時、自分の足音に気が付いた。
ーーージャ、ジャ、ジャ、ジャ
下を見ると全部が砂利で雑草の1本も生えていない。相当に深い砂利。俺は慌てて西側へと走っていた。
ーーージャジャジャジャジャ
足音が付いてくる。
見ると、西隣との間にもビッシリ砂利が敷き詰められていた。
昨日の夜、砂利を踏む足音……聞こえたか?