一日目
あ〜、そこの町はね〜、変な人しか住んでないよ。頭がパーなの。……うん、パー。だから婆ちゃんの話って、案外、妄想じゃないんじゃないかな〜。間違いなく婆ちゃんも呆け掛ってるけどね。でも、それって事実だと思うよ。私も聞いた事あるから。壁を、どんどんどんどんって叩く音。いつだろう? 何年も前だね。あの時は隣におばあさんが住んでたから、きっと、あのおばあさんが壁を叩いてたんだと思うな。……え? 何でって? だからパーなの。頭が。あんた、人の怖さって知らないでしょ。頭壊れてるんだから常識なんて通用しないよ。地域で支えましょうとか言ってる人いるけどね、地域の人がみんな壊れてたら終わってるでしょ。怖いよ〜。
ある人の家にね、近所のおばあさんが昼時に訪ねて来た事があってさ、社交辞令で言ったんだって。「お昼でもどうです?」って。そうしたら喜んで食べていったのはいいんだけど、それから毎日だって。お昼になったら必ず来るの。雨が降ろうが雪が降ろうが嵐であろうが絶対に。365日だよ。凄いでしょ。来られる方がおかしくなっちゃって入院したはずだよ。継続は力なりって言うけどさ、凄まじいエネルギーだよね。そこまできたら呪いとしか思えないでしょ。
そこの町は昔から変だよ。私が高校生の時なんて、しょっちゅうお風呂覗かれたからね。犬の散歩しながら、ご近所さんば軒並み覗いて回ってるんだって。……誰がって? 近所に住んでた50過ぎのオジサン。まだ呆ける歳でもないのに目が変だった。そう、パーなのパー。お風呂の窓に人の頭の影が映るの。だいたい決まった時間だったから、私、その時間帯に外で見張ってた事あってね、そうしたら近所のオジサンが犬連れて片っ端から覗いてんだよね。……え? 勿論言ったって。何やってんのって。でも全然逃げないで普通に歩いて行ったわ。堂々と。それからだよ、毎日嫌がらせが続いたのって……あんた知らないの? ほんと鈍いよね。毎日、うちの玄関前に犬のウンチあったでしょ。理由? そんなの決まってるでしょ。パーだからだって。……いいや、普通のサラリーマンだった。……え?? 曇りガラスなんだから入ってるの女かどうか分からないだろうって? だーかーらー、パーなんだって!パーーーー!! 年寄りだけじゃないからね。そこの町の住人はパーだらけ。
電話口で、「パー、パー、パー、パー」と連呼しているのは俺のアネキだ。とにかくこの町を嫌っているアネキは、口を開けば立て板に水とでも言うのか、いつまでも喋っている。
いささかうんざりしてきた俺だが、どうにも電話を切るタイミングを逃してしまい、欠伸を噛み殺しながら耳に携帯電話を当てている。TVでは、誰が誰だか分からない多勢の女の子が、短いスカートを翻しながら聞き覚えのある唄を歌っていた。
そんな時だ。隣の部屋から凄まじい音が。
ーーーどんどんどんどんどん
長椅子に寝転がっていたが、思わず上半身を跳ね起こす。
ーーーどんどんどんどんどんどん
音は移動しているように聞こえる。
隣の部屋は襖が閉められているせいで良くは分からないが、外から壁を叩かれているように感じた。
「ねえちゃん、音だ!」
まだ、パーだの変だの言い続けている電話口のアネキが、「え……なに?」と聞き返す。
「だから、誰かが壁を叩いてるんだって! 隣のババーか?」
「確か施設に入ったはずだよ。違う人でしょ」
「違う人? 人の家の壁叩く奴が他にもいるのか?」
「いっぱいいるんじゃないの。みんな頭パーだから」
ダメだ。こいつと喋ってても埒が明かない。「電話切るぞ」と言い残し、立ち上がって勢い良く襖を開け放つ。
ーーーどんどんどんどんどんどん
明らかに何者かが外から壁を叩いている。歩きながら叩いているのか、音が移動しているのがハッキリと分かった。
近所の誰かがやってると言うのか。
結構な勢いで叩かれている壁。唖然と音のする方に視線を向けたまま立ち竦んでいると、音は西壁を北から南に移動してゆく。
止んだ。
どこに行った?
なんなんだ?
TVの音が何事も無かったような喧騒を伝える中、足音を忍ばせ、一歩、部屋に足を踏み入れた。
その部屋は畳が敷き詰められた10畳間で仏間として使っている。壁には死んだ爺さんの顔写真が、息を止めて身を屈めるようにしている俺を見下ろしているはずだ。
襖が壁に入り込む造りのために間口が狭い。更に、居間の明かりを背負う位置にいるせいで、その部屋は酷く暗い。電気を点けようか。
天井から吊り下がった笠を被った丸型の蛍光灯。スイッチに繋がる紐が垂れているはずだ。右手を伸ばし左右に動かしながら、一歩、また一歩と、部屋の中央へと向かう。
ーーーどん、どん、どどどど、どどどどどどどどどど
「うわ!」
俺が部屋の中央へ向かうのを待っていたかのように、壁を叩く音が再び現れた。南から始まった音が激しさを増しながら北へと一気に走り、そして消えた。動けなかった。
北に走り消えた音が、いつ戻って来るかと耳に全神経が集中される。
闇の中で息を止め、首を竦めて壁の方に目を向けていた。
「お……」
言葉にならない声を漏らし、そのまま腰を落としてしまった。俺以外は誰も家には居ない中で、唯一の音はTVだけだ。
「今……何時よ?」
自分の独り言で我に返った。時計を見ると夜中の2時を過ぎている。どうする?
外を見に行くか? そんな考えも頭に浮かぶが、その気になれない。夜中だ。さすがに気味が悪くて家から出る気が失せていた。
武器になるものを置いておけば良かったと悔やんだ。バットやゴルフのクラブが物置にあったはず。
腰を落としたままで暫く考えた。いったい誰が? 誰なんだ? アネキの言葉が思い出される。
「パーなんだって、パー。みんなパー」
冗談じゃねぇぇぞ。頭のおかしな奴がそこらじゅうにウヨウヨしてんのか? もし、壁を叩いてるとこ見ちまったらどうすりゃいいだよ。やべーだろ。……とりあえず様子をみよう。
動悸が治まらない。後ろを振り向き振り向き居間にもどり、周りを窺いながら長椅子に腰を下ろすが、とても寝そべる気になれない。
何気に襖が開いているのが視界に端に入った。真っ暗だ。
「2階に行って寝ようか……」
再び声に出して言ってはみたがムリだ。居間で夜を明かそう。TVのリモコンでチャンネルを変える。気晴らしになるような番組やってないのか?
R指定の洋画が放送されているのが見つかり音量を上げる。女同士の濃厚な口づけが続いているが、向こうの部屋の闇が気になる。立ち上がって襖を閉めた。
TVでは、全裸の女二人が互いの身体に舌を這わせ合う場面に変わっていたが、閉めた襖の向こうが気になる。
再び立ち上がり襖を開けると闇と目が合った。
何も見えない。電気を点けたい。両手を突き出して前に進むしかないのだが、何かに触れてしまいそうだ。
いったい何に?
バカな。俺は何を考え、何を怖がってる。
すり足で進んだ。もう、電気の紐に触れてもいいはずだ。おかしい、どうして……
また壁を叩かれるかもしれないとの思いが頭をよぎり、その気持ちが俺自身を焦らせる。進む方向を変えたが紐は見つからない。振り返った。
自分が思っていた方向とは違った位置に居る事を知る。これでは紐が見つかるはずもない。だが、振り返った先から目が離せなくなっていた。
闇の部屋から見える居間ーーー小さな間口から見える居間は、ずいぶんと遠くにある。あれは、さっきまで俺がいた部屋なのか。
「くだらん」
声を出したが、見える居間から視線を剥がせない。深い闇の中に立ち竦む自分一人が、周りの世界から切り取られたように感じる。
どうしてこの部屋はこんなに暗い。
居間とを繋ぐ小さな間口が部屋の端に造られたせいで、居間の灯りはこの部屋の片隅だけを照らす。あとは、空間の広ささえも分からなくしてしまう闇が占拠していた。暗すぎる。
時計の秒針の音が耳につく。うるさい。どうして聞こえる。TVは消したんだったか?
俺はまだ見ている。開け放たれた襖から見える居間を。暗い十畳間からじっと見ていた。秒針の音を聞きながら。
まるで静止画像を見ているようだ。動く物がない。
意識が取り込まれていた。俺は何をしてる?
「やめろ!」
無意識に怒鳴っていた。
その声で解けた。視線を動かすことが出来るようになっていた。
再び部屋の中央へと腕を動かしながら歩を進めると、いとも簡単に紐が手に触れるではないか。下に引っ張ると、カチっと音がして闇が消えた。何も無い十畳間で電気の紐を握りしめた俺がいる。仏壇が異様に目を引く。
急に居間から喘ぎ声が耳に届いた。