風評被害が酷い吾輩
吾輩はサメである。
会う前から怖がられている。
これはなかなか不本意なことである。
第一、まだ何もしていない。
ただ泳いでいるだけである。
それなのに、こちらが背びれを少し見せただけで、向こうは勝手に顔色を変える。ひどい時には悲鳴まで上がる。失礼ではないか。吾輩にも感情というものがある。たぶん。
そもそも、吾輩らサメの一族は、世間が思うほど単純ではない。国立科学博物館の展示紹介では、サメ類は八つの目に分類されるほど多様で、深海から浅海までさまざまな環境にくらす種類がいるとされている。つまり、こちらはかなり幅広い一族なのである。なのに世間は、全部まとめて怖い顔の肉食漢として扱いたがる。雑である。
原因に心当たりがないわけではない。
某映画である。
題名はあえて言わぬ。
言わぬが、だいたい皆の心に同じものが浮かんでいるはずだ。
海。
悲鳴。
大きな背びれ。
不穏な音楽。
そして、やたらこちらに悪意があるように描かれる吾輩。
あれ以来である。
吾輩らの評判が、妙な方向に固まってしまったのは。
もちろん、映画というものに誇張はつきものだろう。
それは分かる。
分かるが、限度というものがある。
こちらとしては、巨大で、執念深く、海辺の人間を選んで襲う専門職のように思われるのは、だいぶ心外である。サメは多様な姿かたちを持つ仲間の集まりであり、博物館の展示でもラブカやミツクリザメやシュモクザメのように、見た目も生息場所もかなり違う種類が並べて紹介されている。全員を同じ役柄に押し込めるのは無理がある。
吾輩など、ただ海を流していただけの日にも警戒されたことがある。
あの日、海は穏やかだった。
潮の流れも悪くなく、光もきれいに差していた。
吾輩は機嫌よく泳いでいたのである。
別に何かを企んでいたわけではない。巡回である。海の者として自然な移動である。
すると少し離れたところで、人間たちが何やら騒ぎ始めた。
「あれ、サメじゃない」 「うそ、やばいって」 「早く上がって」
やばいとは何だ。
失礼にもほどがある。
吾輩はまだ遠い。
しかも進行方向も微妙に違う。
むしろそちらが騒いでばしゃばしゃするので、何事かと思って少し見ただけである。なのにその視線ひとつで、まるで海の殺意そのもののように扱われた。心外である。
ひどい時には、こちらが近くにいるだけで物語が始まってしまう。
静かな海。
不安げな視線。
さざ波。
背びれ。
逃げ惑う人間。
いや、待て。
誰がその筋書きを許した。
吾輩にも都合というものがあるのだ。
腹が減っている時もあれば、そうでもない時もある。
急いでいる時もあれば、ただ漂っていたい時もある。
海中の予定というものを、陸の者はあまりに軽く見ている。
それに、サメと一口に言われても困る。
大きさも違えば、顔つきも違う。暮らす海域も違う。国立科学博物館の資料では、展示で二十五種に及ぶサメが紹介されたこともあり、ひとまとめにできない多様さが強調されている。にもかかわらず、吾輩らはまとめて一匹の悪役として処理されがちである。ずいぶん乱暴な話だ。
もっと言えば、海には吾輩よりよほど気性の読めぬ者もいる。
群れで動く者。
妙に好奇心の強い者。
毒を持つ者。
見た目からして近寄りたくない者。
だが世間は、そういう複雑な事情をいったん脇へ置き、とりあえず吾輩に緊張感を背負わせる。便利な役回りである。便利すぎて腹が立つ。
とはいえ、少しだけ分からぬでもない。
吾輩は自分の姿を知っている。
流線形で、無駄がなく、ひれは切るようで、目つきもやや鋭い。
背びれなど、海面に出ればだいぶ絵になる。
あれで温厚そうに見えろというのも無理があるだろう。
自覚はある。
あるが、それとこれとは話が別だ。
見た目で損をしているのである。
ある時、吾輩はふと思った。
もしもあの映画が存在しなかったなら、世間はもう少しこちらを冷静に見てくれたのではあるまいか。
速く泳ぐ者として。
古くから海にいる生き物として。
多様な姿に進化した一族として。
せめて、会う前から悲鳴を上げられることは減ったのではないか。
だが、考えても詮ない。
海は今日も広い。
吾輩は今日も泳ぐ。
そしてたぶん、明日も誰かが背びれを見て身構える。
仕方がないので、吾輩は少しだけ姿勢を正すことにした。
どうせ誤解されるなら、せめて美しく泳ごう。
背びれも、ひれ先も、尾の振りも、できるだけ無駄なく整えよう。
風評被害にさらされる身としては、最後に頼れるのは品格だけである。
もっとも、品格を保って泳いでいたところで、向こうにはたぶん伝わらぬ。
せいぜい、
なんだか立派で余計に怖い、
くらいの感想が関の山だろう。
まことに遺憾である。




