蛙の灯火
水の音
昭和十六年、六月。
龍雄へ。
この間、お前が書いて寄越した一年生の話、笑ってしまった。
「先生、月は夜になると誰がつけるんですか」と聞かれたそうじゃないか。
それでお前は何と答えた。
まさか大学まで出た男が、月は誰にもつけられないんだ、などという夢のないことを言ったんじゃないだろうな。
俺なら「料理人だ」と答える。
毎晩、空の台所で大きな卵を焼いているのだと。
そうすれば、その子はしばらく月を見るたび腹を空かせるだろう。
こちらは相変わらずだ。
朝から魚を捌いて、大根を切って、親方に怒鳴られている。
先週ようやく煮物を任された。
お前には分からんだろうが、煮物は難しい。
火を強くすれば早く出来るが、味が入らない。
弱すぎればいつまでも出来ない。
人間も同じかもしれん。
お前は昔から弱火だったな。
俺は強火だった。
だからお前は教師になって、俺は包丁を握っている。
妙に納得する。
今度帰ってきたら店に来い。
俺が作る。
金は取る。
友達だからといって、そこは別だ。
陽一
*
陽一へ。
月の話だが、私は「知らない」と答えた。
するとその子は、
「先生なのに知らないの」
と言った。
教師というのは難しい。
子供は先生なら何でも知っていると思っている。
しかし先生になって分かった。
私は知らないことばかりだ。
月を誰がつけるのかも知らない。
なぜ人は生まれるのかも知らない。
なぜ人は死ぬのかも知らない。
大学では随分と本を読んだはずなのに、不思議なものだ。
お前の月の答えを明日、その子に教えてやろうと思う。
ただし「私の友人の料理人が言っていた」と付け加える。
お前が馬鹿だということも一緒に教えておく。
煮物は楽しみにしている。
金は払わない。
龍雄
*
八月。
龍雄へ。
赤紙が来た。
母が泣いた。
親父は泣かなかった。
俺も泣かなかった。
親方はしばらく黙って、それから「そうか」と言った。
それだけだった。
妙なものだな。
あれほど毎日怒鳴っていた人が何も言わないと、怒鳴られるより苦しい。
俺は行く。
心配するな。
お国のために働けるのだから、男としてこれほど立派なことはない。
俺は昔から体だけは丈夫だったからな。
お前みたいな青瓢箪より、俺が行った方が役に立つ。
それに、案外すぐ帰ってくるかもしれん。
帰ったら煮物を作る。
今度は本当に金はいらん。
陽一
*
陽一へ。
返事を書くのに三日かかった。
何を書けばいいのか分からなかった。
教師なのだから、立派な言葉の一つくらい書けると思ったが、何も浮かばなかった。
だから普通に書く。
帰ってこい。
煮物を食べさせろ。
龍雄
*
九月。
龍雄へ。
お前の手紙は短すぎる。
切手がもったいない。
もう少し何か書け。
学校の話でもいい。
あの月の子はどうした。
俺の話をしたのか。
こちらでは毎日訓練だ。
銃というものは重い。
包丁なら一日握っていても平気なのに、銃はどうにも手に馴染まない。
同じ鉄なのにな。
不思議だ。
包丁は魚を殺す。
銃は人を殺す。
どちらも命を断つ道具なのに、握った時の感じがまるで違う。
包丁を持っていると腹を空かせた人の顔が浮かぶ。
銃を持っていると、誰の顔も浮かばない。
いや。
浮かばないようにしているだけかもしれない。
こんなことを書いたら怒られるだろうか。
お前だから書いた。
燃やしてくれ。
陽一
*
陽一へ。
燃やさない。
お前が帰ってきたら返す。
月の子は元気だ。
お前の話をした。
「空の料理人が月を焼いている」と言ったら、しばらく考えてから、
「じゃあ、三日月は誰かが食べたあと?」
と言った。
私は笑った。
お前もきっと笑うと思う。
ところで陽一。
お前の手紙を読んで、私は今日一日「道具」について考えていた。
鉛筆も道具だ。
包丁も道具だ。
銃も道具だ。
しかし道具そのものには、きっと何の意味もない。
握った人間が意味を与える。
ならば人間はどうなのだろう。
人間にも、誰かから与えられた意味があるのだろうか。
それとも自分で決めるものなのだろうか。
教師なのに、やはり私は知らない。
龍雄
*
十月。
龍雄へ。
怖い。
この二文字を書くのに、一時間かかった。
怖い。
死にたくない。
俺は死にたくない。
笑うなよ。
お国のためにと言っていた男が、一月もしないうちにこれだ。
情けないだろう。
夜になると考える。
銃弾が腹に入ったらどれくらい痛いのか。
足がなくなったらどうなるのか。
母はどうするのか。
親方は俺の代わりを雇うのか。
店の裏に置いてある俺の包丁は錆びていないか。
それから、
俺が死んだら俺はどうなるのか。
何もなくなるのか。
二十六年生きて、魚を捌いて、飯を作って、お前と馬鹿な話をして、それで終わるのか。
だったら何のために生きてきたんだろうな。
死ぬためか。
最近、そればかり考えている。
龍雄。
人間は何のために生きる。
お前は教師だ。
教えてくれ。
陽一
*
十一月。
陽一へ。
分からない。
申し訳ない。
何度考えても分からない。
お前は私を教師だと言うが、教師は答えを知っている人間ではない。
少なくとも私は違う。
ただ、今日こんなことがあった。
一人の子が転んで膝を擦りむいた。
隣にいた子が、その子の手を握った。
それだけだ。
誰に言われたわけでもない。
褒められるわけでもない。
何の役にも立たないかもしれない。
それでも手を握った。
私はその光景を見ながら、もしかすると生きる意味とは、最初からどこかに書かれているものではないのかもしれないと思った。
腹が減った人に飯を作る。
泣いている子の手を握る。
友人に手紙を書く。
そういう小さなことを後から振り返った時、
「あれが生きたということだったのか」
と気付くものなのかもしれない。
だから私は、お前が何のために生きてきたのか知らない。
だが、
私はお前の料理を食べた。
美味かった。
私は覚えている。
それでは足りないか。
龍雄
*
十二月。
龍雄へ。
足りる。
驚いた。
足りた。
お前の手紙を読んで笑ってしまった。
俺は随分難しいことを考えていたらしい。
料理人になった最初の頃、親方に言われたことを思い出した。
「食ったらなくなるものを作るのが料理人だ」
その頃の俺は、それが嫌だった。
何時間もかけて作ったものが十分で消える。
皿には何も残らない。
絵なら残る。
本も残る。
建物も残る。
料理だけ、腹の中に消えてしまう。
だから親方に聞いた。
「それじゃ、作った意味がないじゃないですか」
親方は笑った。
答えは教えてくれなかった。
今なら少し分かる。
なくなることと、
なかったことは、
違うんだな。
陽一
*
昭和十七年、一月。
龍雄へ。
出発が決まった。
場所は書けない。
たぶん、この国から離れる。
不思議と今は落ち着いている。
怖くなくなった、と書けば格好いいのだろう。
でも嘘になる。
やっぱり怖い。
死にたくない。
帰りたい。
店に戻りたい。
包丁を研ぎたい。
母の味噌汁が飲みたい。
お前と酒を飲みたい。
月の子にも会ってみたい。
やりたいことだらけだ。
だから俺は、生きたい。
昔の俺なら、死ぬ覚悟が出来た人間を勇敢だと思っただろう。
今は違う。
生きたいと思いながら行く人間も、同じくらい勇敢なんじゃないかと思う。
ところで、
ずっと考えていた。
生きる意味は、お前の言う通りなのかもしれない。
では、
死ぬ意味は何だ。
戦って死ねば意味があるのか。
誰かを守って死ねば意味があるのか。
立派な理由があれば、死ぬことは怖くなくなるのか。
俺には分からない。
ただ一つだけ決めた。
俺は、
死ぬ意味を探すために死ぬのはやめる。
生きるために行く。
それでも死んだなら、
その意味は生き残った奴らが勝手につければいい。
俺は知らん。
俺の仕事じゃない。
俺は料理人だからな。
陽一
*
二月。
陽一へ。
今日、月の子がまた妙なことを言った。
「先生、人は死んだらどこに行くの」
私は答えられなかった。
以前なら何か答えようとしただろう。
教師だから。
今日は、
「先生にも分からない」
と言った。
するとその子は、
「じゃあ、生きてるうちに考えればいいね」
と言った。
子供には敵わない。
帰ってきたら、お前にも紹介する。
龍雄
*
三月。
返事は来なかった。
四月。
来なかった。
五月。
龍雄は毎日、学校から帰ると郵便受けを見た。
何も入っていない日にも手を入れた。
指先で底をなぞった。
六月。
一通の知らせが届いた。
陽一の字ではなかった。
*
龍雄は、その紙を机の引き出しにしまった。
泣かなかった。
次の日も学校へ行った。
月の子は二年生になっていた。
昼休み、その子が龍雄のところへ来た。
「先生」
「何だ」
「月って食べられるの?」
龍雄はしばらく黙った。
それから言った。
「食べられるよ」
「本当?」
「ああ。私の友達が言っていた」
「料理人?」
「そうだ」
「その人、どこにいるの?」
龍雄は窓の外を見た。
春の空には月はなかった。
「遠いところだ」
そう答えた。
*
その夜、龍雄は陽一から届いた手紙を全部並べた。
くだらない話ばかりだった。
魚を三枚に下ろす話。
近所の猫が店から鯵を盗んだ話。
初めて給料を貰った日の話。
好きだった女に振られた話。
学校の先生は偉そうだから嫌いだという話。
月を料理する話。
そして、
死ぬのが怖いという話。
龍雄は何度も読み返した。
最後の手紙を開いた。
――その意味は生き残った奴らが勝手につければいい。
龍雄は腹が立った。
勝手な男だと思った。
自分で問いを投げておいて、
答えをこちらに押しつけて死んだ。
「ふざけるな」
誰もいない部屋で言った。
初めて涙が落ちた。
手紙の上に落ちた。
慌てて袖で拭いた。
陽一の文字が少し滲んだ。
*
昭和十八年。
龍雄は教師を続けていた。
教室から何人もの子供を送り出した。
昭和十九年。
食べ物が少なくなった。
月を見ても、卵焼きには見えなくなった。
昭和二十年。
空から火が降った。
それでも朝になれば、龍雄は子供たちの名前を呼んだ。
返事が減っていった。
そして戦争が終わった。
*
ある春の日。
龍雄は故郷へ戻った。
陽一が働いていた店は焼けてなくなっていた。
跡地には草が生えていた。
しゃがむと、黒く焼けた金属が土から覗いていた。
掘り出してみる。
包丁だった。
陽一のものかどうかは分からない。
龍雄はしばらく握っていた。
錆びていた。
刃も欠けていた。
もう料理には使えそうになかった。
それでも捨てずに持ち帰った。
*
数年後。
龍雄の教え子だった少年が訪ねてきた。
あの、月を誰がつけるのかと聞いた子だった。
もう青年になっていた。
「先生」
「なんだ」
「俺、料理人になろうと思います」
龍雄は驚いた。
「なぜ」
青年は笑った。
「昔、先生が言ったでしょう。空で月を焼いている料理人がいるって」
龍雄は何も言えなかった。
「ずっと覚えてたんです」
青年はそう言った。
「馬鹿でしょう」
龍雄は首を振った。
「いや」
窓の外を見た。
夕方だった。
細い月が浮かんでいた。
誰かが一口だけ食べたような月だった。
*
その夜。
龍雄は陽一に手紙を書いた。
陽一へ。
お前が死んでから随分経った。
返事が遅くなってすまない。
お前は最後の手紙で、
死ぬ意味は生き残った者が勝手につければいい、
と書いた。
ずっと考えていた。
だが私は、お前の死に意味をつけることが出来なかった。
お国のためだったとも、
誰かを守るためだったとも、
未来のためだったとも、
私には言えない。
そんなことを私が決めれば、
お前が最後まで怖がっていたことまで嘘になってしまう気がする。
だから、
お前が死んだ意味は、今でも分からない。
ただ、
お前が生きた意味なら、
少しだけ分かる。
今日、一人の青年が料理人になると言った。
昔、お前が言った月の話を覚えていた。
お前は知らないだろう。
お前が冗談で言った一言が、
何年も経って、
一人の人間の人生を少しだけ動かした。
お前が作った料理は、
もうどこにも残っていない。
お前の店もない。
お前もいない。
でも、
なくなったことと、
なかったことは、
やはり違った。
陽一。
私は教師になって、
たくさんの子供に答えを教えてきた。
けれど、
生きる意味だけは、
今でも教えられない。
死ぬ意味も、
教えられない。
ただ最近、
それでいいような気がしている。
意味というものは、
生きる前から用意されているものではないのだろう。
生きて、
誰かに会って、
くだらない話をして、
何かを残して、
いつかいなくなる。
そして、
残された誰かの中で、
思いもしなかった続きを始める。
もしかすると、
生きるというのは、
それだけなのかもしれない。
お前の煮物を、
もう一度食べたかった。
金なら払ったのに。
龍雄
*
手紙に宛先は書かなかった。
封筒にも入れなかった。
龍雄は窓を開けた。
夜だった。
月が浮かんでいた。
どこかで、
水の音がした。
龍雄は顔を上げた。
それが何の音だったのか、
確かめには行かなかった。




