第5話 草の露白し ─宦官の青年─
アオは広い湯船の中で目を開いた。
「それで終わりですか?」
「そう、これで終わり」
巫の帯を常に抱えていた青年が石鹸を泡立てながら言う。奉納祭では暗がりでよく見えなかったが、彼はかなり端正な顔立ちをしていた。少し女性的な繊細さも兼ねた顔つきは、過渡期と言ったところで若干の危うさがある。
「つまりわたしは神の子……」
青年もまた下半身にはタオルを巻いているもののほとんど裸だった。歳の頃を聞くと、十七歳。アオの二つ年上だ。
彼は曰く、宦官というやつで、後宮に出入りできる数少ない男子だという。アオに彼があてがわれたのは、ちょうどそこにいた世話のできる人間が彼だったからだそうだ。歳のわりに華奢な体格なのは、宦官というものに関係しているのだろうか。
青年は泡立てた石鹸をアオの頭の上に乗せた。そして頭を差し出すように言う。アオは言われた通りに、首を湯船の淵に預けた。間もなく、頭皮が指先で揉まれていく。
「それでここは……まだ都じゃないんですよね?」
「そう。ここは鼠入村の端。都はこのムラの中にあるけど、まだ都の中じゃない」
そいりそん。
聞き馴染みのないムラの名に、アオは随分遠くまでやってきたのだなと思った。
それもそのはず、空腹で気絶寸前だったアオにはすぐに水が与えられ、青年の走らせる馬に乗りながら二回も日の出を見た。まさか動物の上で朝焼けを見る日がこようとは思いもしなかった。
獣とは殺す以外に人がどうにかできるものではないと思っていたのだが、馬は人間に従順にアオたちを運んでくれた。賢い生き物だ。
そして小休止、都の外の宿らしき場所で肌を清めることになった。馬たちも走り通しで疲れただろう。
先刻、アオは空腹に初めてコメという穀物を口にして、驚いたところだった。
「これから、わたしどうなるんですか?」
アオは聞いてばかりだ、と思った。
しかし青年は特に気にする素振りもなく、淡々と告げる。
「わからない」
丁寧な手つきで暖かい湯で髪の石鹸を流されてから、アオは彼を振り返る。
「わからない、って?」
「わからないものはわからない。僕は政治に関与していないし、ミコト様もそんな僕に多くは話さない」
話を聞くに、巫さまと呼ばれていた女性はミコトという名らしい。そしてこの青年はミコトの側でお付きの役を担っていたようだ。
「……そう、ですか」
「──一つ」
死を逃れられた、と安堵した時点で自分はまだあの世へ行きたくなかったのだと感じつつも、アオはこれから何が起きるとも知れない不安に気を揉んでいた。それを断ち切るかのように青年がアオの言葉を少し遮った。
「一つ僕が知っているのは、ミコト様はもう子供を望めないということ」
「つまり?」
「巫という役目は代々、血縁者同士の間の子が担ってきた。そうしていたら、徐々に子供が生めない体質の女性が増えてきたんだ。あとはどこか体の一部が欠けているとか、知能が赤子並みから成長しなかったり」
アオは小さく息を飲んだ。
「ミコト様は次の巫にふさわしい人を探していた。そこに君が現れた。どういうことがわかるでしょ?」
「……わたしは、次の巫になるために連れてこられた……?」
「と、僕は思ってる」
話を終えた青年は湯船に足を差し込み、アオの正面に腰を下ろした。アオは自身の肩を抱えながらそっぽを向く。
なぜ年頃の男女が同じ風呂に。
彼は女だらけの後宮に従事しているからか抵抗がないようだし、アオもまたこの年にしては性別について疎かったが、さすがに。
しかしアオは目のやりどころが悪かったようで、意図せずタオルの下にある彼の傷痕を目にしてしまった。顔が赤くなるよりも先に、心の臓が冷える。
「……宦官、って《《そういうこと》》なんですか?」
次に青年の厚みのない上半身を見て、アオは青ざめた。対して彼は一瞬驚いたように目を見張ると、すぐに顔をしかめる。
「……本気? 君、今までどうやって生きてきたの? 宦官が何たるかも知らないで、よく毒に中らず山でやって来れたね」
「それは親切な人が教えてくれたので……」
青年は湯船の中で息を吐くとその長い髪を掻き上げた。男子にしては長いまつげから雫が落ち、風呂の水面に波紋を作る。
「もしかして読み書きもできないとか」
彼の問いにアオはこくこくと頷いた。
習ったことはない。両親は辺境のムラのわりに知恵者だったようで、骨になる数か月前に、あともう少しお姉さんになったら教えてくれると言っていた。しかしそれも叶わず、それ以外の師もいないので、未だにアオは字が読めない。
「食事の作法もたいして知らなかったし、たとえ後宮で上級教育を受けて来ていないとはいえ、そこまでの子供は初めて見た」
「後宮って、賢い人が行くところじゃないんですか?」
「大人の女官は賢くないと入れないけど、奉公に来たような小さい子供なら中で教育されるから心配ない。とはいえみんな読み書きぐらいできた」
「じゃあ、あなたもですか?」
「ユイ」
「ユイも?」
彼はさらりと名を告げると、音を立てて湯船を上がった。腰に巻いているタオルを抑えながら、乱雑に置かれていた風呂桶に石鹸を落とす。
「僕は……生まれた時から後宮にいる」
「男子禁制の後宮で、どうやって生まれるなんてことがあるんですか?」
「知らない。でも母親は後宮から追放された」
ユイは他人事のように言うと、片腕に風呂桶を抱えて、アオへ手を伸ばした。素直にその手を掴んで湯船を出る。
「明日もまた馬に揺られるわけだし、早く寝よう」
ユイはあまりこの話をしたくないようだと悟り、アオは一つ頷くだけをするとそれ以降は口を噤んだ。




