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第33話 水始めて涸るる ─紫姫─

 炎の隣にえられた壇にはいくつかの楽器が用意されていた。

 その内にはアオが練習で用いたきんも置かれている。

 鴉鷺あろ正伝せいでんは四章に分けられる。緩やかな音楽に語りを加えた形式で、アオは披露ひろうしなければいけない一章と二章の語りを脳内で反芻はんすうしていた。

 それはたった十日で完璧に仕上げるのは困難だろう、という配慮の上に生まれたものだった。三章や四章はアオの古琴と並べられている二胡や琵琶で演奏される運びとなっている。


 日の落ちてきた頃、アオは登壇するように言われた。

 十日間の鍛錬を思い出しながら、アオは衣裳いしょうすそを持ち上げて段を上る。何とか間に合わせることができた衣裳は萌黄もえぎ色で、春の色らしいが火の隣で映えるもので他の妃嬪に被らないのはこれだけだった。暗がりの下では色もよく分からないので、いかに見栄えするかが大事なのだそう。


 後ろから帯を持ち上げてくれた人は後宮の伎楽ぎがく師というものらしく、ユイは炎の管理を言い渡されてから姿を見ないし、サキもまたどこかに行ってしまっていた。

 頑張ると言ったのだ。一人でもこなさなくては。

 伎楽師はアオの目の前に古琴を設置すると、壇を降りていった。アオの視界にはムラ人がひしめき合って、上級妃嬪(ひひん)や上級官吏に叩頭こうとうしている。アオはあまり注目されていないことに胸をなでおろしながら、弦に中指を這わせた。


 語りまでは徐々に速度を上げながら。短期間で立派な肉刺まめができるものだ、とアオは思った。人差し指の先の硬くなった部分で弾くと綺麗な音が鳴るのだ。


「──昔々、天と地の境が曖昧あいまいであった頃のお話……」


 アオは不意に上げた視界にいる人々がこちらを注目しているのに気が付いた。しかし不思議と緊張はない。落ち着いた調子で、心音に合わせて音を響かせる。

 そうしてアオは鴉鷺正伝を二章まで弾きあげた。






 三章を琵琶で弾くのは見知らぬ人だった。伎楽師の一人なのか、アオはひとまず終えた役目にほっと息を吐きながら、座るべき席に戻って脚を曲げた。ここは演奏用の壇とは別で設けられた、ムラ人らが挨拶をするための場所だ。アオの後ろには貴妃とは違う妃嬪が腰を下ろしていて、隣は壮年の男性だった。


 アオは少しだけ辺りを見回してから、ちょうど真下で叩頭する老女を見つけた。たしか会話をしてはいけないのだ。ユイに言われたことを思い出しながら、アオは一つの頷きを与えた。しゃらり、と頭の飾りが音を立てて揺れる。すると女性は嬉しそうに破顔し、縁日のにぎわいへと戻っていった。

 演奏中は頭を動かさないのが作法であるので、音が鳴るような飾りであったことを今初めて知った。この音が顔を上げていいという合図になるのだ。アオは耳の横に垂れている金の飾りに目を向けて、手を伸ばそうとした。


「素晴らしい演奏でした」


 慌てて手を引っ込める。そして膝の上に重ねて置いた。

 アオはにっこりと隣に座る男性に微笑む。幸薄さちうすそうだが柔らかい印象のその男性は特に偉い上級官吏の方だろう。


「ありがとうございます」

「古琴の奏者は少ないので、あれほどまでに仕上げるのは難しかったでしょう」

「……ええ」


 アオははっきりと答えることなくにごす。


「まるでむらさきひめのようでした」


 紫姫、という聞き馴染なじみのない単語にアオは少しだけ動きを止めた。男性はアオの様子に勘付いたのか、紫姫はと続ける。


「今代のかんなぎさまの再従姉妹はとこにあたる方でした」

「でした、ということはもうこの世にはいらっしゃらないのですか」

「はい。遠い血族にしてまだらを持っていたのですが、二十歳になってから嘘のように消えてしまわれたんです。それ以来は辺境のムラに追いやられたとか。……彼女は腕利きの伎楽師も褒める古琴の奏者だったのですよ」


 どういった経緯で亡くなったのか。大方病気といったところだろう。

 アオは普段百年ほど昔の歴史ばかりを聞いているので、ここ二十年ほどの話は貴重だった。


「どうしてその方は紫姫と呼ばれているのですか?」


 アオは続けて聞くと、彼は少し困ったように視線を逸らす。


「……気づいたころにはすでに呼ばれていましたから。おそらく彼女の黒髪があまりに艶やかで紫に見えるから、とかではないでしょうか」

「なるほど」

「貴女も綺麗な黒髪を持っていますね。よく似ています」


 指摘にアオは目を丸くする。

 まとめ上げられている耳の後ろの髪に触れる。しばらく触れていなかったので気づかなかったが、洞窟どうくつ暮らしの時と比べて格段に滑らかになっていた。日頃の手入れのたまものだ。


「しかし、貴女は私の思っていた風と違いました」


 男性の言い分に彼の顔を見上げる。口元を羽扇うせんおおい隠して、表情はよくわからない。


「もう少し天真てんしん爛漫らんまんな方かと。もしくは世間知らず、と言いますか、無邪気と言いますか」


 アオは彼の物言いに顔色を暗くした。

 思い出した。この人は交流会でアオの正面に座っていた人物。いわゆる外朝がいちょうのまとめ役、宰相さいしょうだ。


「短い間に学ぶことが多くありました」


 アオは冷静に答える。

 本当にいろいろなことを学んだ。そしてこれらをいいように変えられる可能性があるのは、アオだけかもしれないということも。


「なるほど。貴妃きひ殿が仰っていたので、失礼いたしました。随分ずいぶん貴女は大人びている」


 アオは宰相の評に、思わず彼の顔を見返した。


「彼女は……やはり、偏見強いお方ですね。あまり信じるものではありません」


 にっこりと笑って言う彼の顔は嘘をついているようには見えない。最も彼が手練てだれの嘘つきと言うなら見破れないのも無理はないだろうが、その感想は嘘に聞こえなかった。嘘にしてはあまりに率直なのだ。


「……そう、仰っていいのですか。貴妃さまは宰相さまの好い人なのでしょう?」


 アオがさりげなく尋ねると、宰相は少し驚いた顔をして頭を下げた。


「名乗り遅れ、失礼いたしました。私はこの国の宰相を務めております、辰廻シンカイと申します。非礼をお許しください」

「こちらも名乗っていませんでした、お互い様です。天子てんし宮のアオと言います」


 辰廻。それが彼の名。姓はあるのかないのか知らないが、伝えてこないということはそう呼べと言うことだろう。しかしアオは彼を名前で呼ぶ気はなかった。

 アオはそれで、と前置きをして話を戻す。


「貴妃さまは宰相さまのことをお慕いしているように見えましたが」

「……昔に一度、優しくしたことがありました。それだけです」


 宰相はアオが名で呼んでこなかったことに少し眉を曲げるが、しかし何も尋ねることなく答えてくれた。


「本当ですか?」

「ええ。あとはたまに二人で会って、話を」


 全くそれだけではなかった。しかも二人で、となると貴妃も勘違いをするだろう。しかし宰相にはその気はないらしい。

 けれど彼と貴妃は結ばれるべき立場同士だ。そう考えると貴妃が思い違いをしていても恋は必然と実るはず。

 アオは返答を考えながら、叩頭しに来た幼い少女に頷こうとした。


 しかし礼から顔を上げた少女は舌を大きく突き出してみせた。アオは目をみはる。


「まだらだけの浅学せんがく女は生贄いけにえに帰れ!」


 問題は突然にというわけだ。

 アオは言葉を失った。隣で宰相が袖で口元を隠して目を細めている。聞き間違えではないらしい。


「浅学、などという言葉、よく知っていますね」


 宰相は口を開いた。ムラ人とは言葉を交わしてはいけないはずだ。しかし宰相は躊躇ためらいがなかった。


 暴言を吐いた少女は指摘に言葉を詰まらせると、焦りを顔全体に表して屋台の方へ走り出した。宰相は控えの武官を呼ぶと、すぐに少女を追わせる。そして生かしたまま連れて来いと、指示をした。

 おそらく少女は首が飛ぶか、それ同等の処遇がなされる。アオは宰相の方を向いて首を振った。


「やめてください、子供のしたことです」

「あれは誰かの入れ知恵ですよ」

「入れ知恵」

 アオは鸚鵡おうむ返しをしてふと思い返す。

 浅学、という少女の身の丈に合っていない悪口。確かにこう言えと刷り込まれ、言って来いと言われたのなら。それに舌を突き出したような格好もどこかぎこちなかった。


 それならば余計に、少女に罪はない。


「お願いです、殺さないでください」

「……それは約束できませんが、黒幕はまくりましょう」

「約束してください」


 宰相の曖昧な返しにアオは納得しなかった。

 自分のせいで誰かが死ぬのは耐えられない。少し前の自分は酷くしいげられていたが、その復讐と言って裁ける立場を乱用できるほど強くもない。


「……言っておきますが、殺すかどうか判断するのは巫さまですよ」


 アオは動きを止めた。

 それはどうしようもなかった。

 アオが黙ったのを見て何を思ったのか、宰相はため息を一つついた。


「一つ言うのなら、貴女が巫になればこれは無くせます」


 横目でそうでしょう、と同意を求められてしまった。アオはぐっと押し黙る。それまでは我慢しなければならないのだ。


「もう一つ言いましょう。貴妃さまは決して巫になれない、と」


 アオは双眸そうぼうを瞠ったまま、宰相の目を見た。やはり嘘をついているようには見えない。

 けれどユイは言っていた。宰相は巫のいない独裁になりたがっていると。もしくは、貴妃を巫に置きたがっていると。アオはこの会話を聞いて、後者はどうしても違うように見えた。


 サキやアオが彼女の策を浅はかと言ったように、宰相もまた彼女を見下しているようなのだ。気に入っているならこんな物言いはしないはず。


「……ご健闘ください、天子さま」


 宰相はそう言い残すと、声をかけてきた一人の武官について行った。秋祭りの途中にも関わらずアオの隣は空席になってしまった。

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