第30話 蟄虫戸を坏ぐ ─古琴─
「残念だったね」
ユイの言葉にアオは文机に突っ伏していた身体をもたげて頷く。
「は、はい。まさか秋祭り用の衣裳は、海の向こうの御国の意匠を完全に倣っている、とは思いませんでした」
てっきり先日の交流会での服装がその御国の伝統だと思っていたが、あれはそれを見倣って独自に作り上げたこのクニの伝統だったとは。
つまり交流会での衣裳は使えないというわけだ。秋祭りをはじめて迎えるアオの衣裳もすべて作らなくてはならないと思うと、尚服局の負担はかなり大きい。
「でも……わたしにできるのは人前できちんと振る舞うこと、なんですよね?」
「そうだね」
「秋祭りはいつですか?」
「確か、十日後くらいじゃないかな」
やはりアオにできるのは、与えられた場所で与えられたことをこなすことだ。
アオは文机に頬杖をついて、まだすらすらとは読めない草子に指を這わせた。
本来であれば交流会は春に行うため、秋の目玉行事は秋祭り一強なのだそう。そうは言っても秋祭りはムラ人も参加するので、大変な思いをするのはこちら側だけだが。アオは少し忍びない。
「日の沈む前に祭壇脇に座る必要がある。それからはムラ人が叩頭したら、頷く。それの繰り返し」
「わかりました」
「あと、話してはいけない」
アオは付け加えられた言葉に顔を歪めた。
「向こうも話しかけては来ないだろうけど……でも話しちゃ駄目」
「どうしてですか?」
「宮廷とそれ以外とで差をつけるため。一線隔てた相手だって見せつけないと、危害を加えてきたりする可能性も上がってくる」
アオは首を振った。ついこの間まで頭を下げる側だったのだ。そんなことを言われても頷けない。
「アオ、これは宮廷全体に影響するんだ」
黙ったまま、頷くことだけはしない。
「……随分後宮に慣れてきたと思ってたけど。そうやってわがままやってると、貴妃に舐められるよ」
ユイは呆れたようにため息と一緒に言葉を吐いた。
「それは……困ります」
アオは折れるしかなかった。ちょっとしたことだがそれで反感を買えば大事に繋がる。それは嫌だった。
頷きたくはないが、頷かないと話は進まないらしい。
ユイはアオがこくりと控えめに頭を動かしたのを確認して、続きを口にした。
「もう一つ重要なのは、できるだけ周囲に座っている人と会話をすること」
「ムラ人とは喋っちゃいけないんですよね?」
「アオと同じように座ってるのは、上級妃嬪か上級官吏。出来るだけ話をして、仲の良さを見せないと」
「初対面なのに、仲良く?」
「都の人は安心したいんだよ」
妙な決まりが多い。
交流会では作法や礼儀をみっちりだったが、ムラ人が関わってくると違う部分が厄介に顔を出してくるのだ。
「あと当日は縁日が出るけど……」
「縁日!」
アオは顔を輝かせる。幼い時に一度だけ行ったことがある。あれは夏だったが、きっと同じようなものだろう。
いろいろな果物の飴掛けや、氷菓の屋台が所狭しと並んでいるのだ。
「言っておくけど、遊べないよ」
「じゃあ食べ……」
「られないよ」
ユイにばっさり切り捨てられて肩を落とす。
「それで倒れられたら首が飛ぶんだ」
「誰のですか?」
聞きたくはないが義務的に尋ねておいた。
「作った人と持って来た人」
「それってつまり……」
「屋台の責任者と僕」
やめておこう。不用意に関わってはいけない。きっと普段口にしている食事なども、アオが体調を崩せば責任者がどうにかなってしまうに違いない。
背筋が伸びる思いで、アオは「わかりました」と小さく言った。
それで話は終わったかと思われたが、ユイはアオが覗いている草子の頁を捲る。そこには見慣れない道具ようなものがたくさん描かれていた。
「なんですか、これ」
「楽器だよ。右上はミコト様が得意としてる二胡という楽器。寝かせて置いて弦をこすって音を出す」
他にも、板胡という二胡とよく似ているが素材が違うものや、三弦や琵琶という指ではじいて音を出すものもある。
「アオが練習するのは」
「練習するんですか?」
「たしなみだからね」
次の頁には厚みと丸みのある木製の板に弦が張られたものが描かれていた。ユイは立ち上がると、隣の部屋から両腕で抱えられるほどの楽器を持ってくる。
「一、二曲ほど弾けなくちゃいけない。これは……」
「古琴、ですね」
「知ってるんだ」
アオは見覚えのある形にぼうっとして見上げる。目の前に置かれたそれに手を伸ばすと、アオは壊れ物に触れるような手つきで弦を抑えた。
ユイがそばで声を上げる。
「確か……こうですよね」
アオは記憶をたどりながら弦を左手で抑えつつ右手で軽く弾く。次第に思い出しはじめ、音階を辿りながら徐々に曲が紡がれていった。
小指はまっすぐに、肩の力を抜いて。アオは幼いころに口酸っぱく言われてきた、注意に耳を傾けながら最後の音を弾き終えた。
「どこで鴉鷺正伝を教わったの?」
ユイが不思議な顔をして尋ねてくる。アオは少し言い澱んだ。それも曲自体は教わっていないのだ。弾き方や作法は母親によるものだが、曲は母親がたまに弾くのを聞いていて次第に覚えたのだった。
「母が古琴の奏者だったんです」
「それは──」
ユイが何かを言いかけた時、部屋の障子が強く開け放たれた。訪問を告げる声もなかったので、アオは驚いてユイへ手を伸ばす。いったいどんな曲者が──。




