第26話 雷乃ち声を収む ─想い人─
女官たちを解散させると、その波に飲まれてしまったのかサキの姿はなかった。サキもまた、アオはユイと一緒にいるのだろうと思って、天子宮に戻ったのだろう。
アオはあまり好きではない四阿で身を小さくして座った。ムラ娘の彼女もまた下に池があることが気になるようで、そわそわと落ち着かない。
ユイがそんな二人の様子を見て、話を切り出した。
「名前を教えて貰ってもいい?」
「……ルリ、と言います」
「きれいな名前です。瑠璃硝子ですか?」
「漢字は違うの。たしか……流れるという字に鯉」
ルリは四阿の下の池に目を向けた。そこには美しい白に赤や黒のまだらの模様がある三色の鯉が優雅に泳いでいた。
「でも今はただのルリ」
鯉から目を逸らして彼女は言う。
いいところの生まれだ。名前に漢字があると言うのは親に学があるという証になる。しかし「今はただの」という口ぶりから、生みの親からは離れているのだ。
「貴女は?」
「わたしはアオと言います」
アオが名乗るとルリは納得したように頷いた。そして話は本題に入ってゆく。
「話を戻すけどが……私が会いたいって人、ここにはいそうにないってことなの?」
「わかりませんが、特徴を教えて貰ってもいいですか?」
アオはおかしなことを聞いたつもりはないが、ルリはその質問にみるみる表情を暗くした。
「わからないの」
「わからない?」
「その人、黒い外套で全身を隠してて……赤みがかった茶髪が長かったってことと、声が少し高かったことしか。あと背も」
ユイは髪こそ長いが、赤みががっているというより少し黄みが強い。それにそこそこ色素も薄いので茶髪という印象は抱きにくいだろう。やはりユイではない。
ダンは黒々とした短い髪なので無論違う。
「外朝とお間違えじゃないですか?」
「違うと思う。その人は宮廷で働いていると聞いたのだけれど、主人に見放されたって言ってたの。それで後宮じゃないかって」
ルリは否定した。きちんと根拠があるようだ。
ならばあとは一つしか思い浮かばない。
「……男性のふりをしていた可能性はありませんか?」
アオはおそるおそる尋ねる。
「……誰が?」
「うちの女官の誰かが」
これ以外は思い当たらない。背の高い女官を集めようにも、女官自体数が多いので骨が折れる作業だ。
そもそもルリは酒瓶を持ってなぜ後宮にやってきたのか。その理由を知らないわけには、骨の折れる作業を骨を折ってでもやる必要がなかった。
「ルリはその人にあってどうするんですか?」
アオの質問に、ルリはみるみる顔を赤くする。ユイは何かに気づいたのか、嫌なものを見たように顔をしかめた。
「す……好きになってしまったんです」
「……」
「その方のこと。一目惚れで……」
アオは面食らってしまった。
大層な行動力だ。アオはしばらくして我を取り戻すともはや感心した。
後宮はムラ人にとってかなり遠い存在であろうに、押しかける勇気を与えるほどの恋心とは。
「でも、本当に女官かもしれませんよ?」
「それでもいいの!」
ルリは勢いよく立ち上がる。性別を厭わないとは、範疇の広いことだ。アオはまだ初恋を知らないが、このような人もいるものだと知った。
「ではその人に会って、好きだと伝えたいということですか」
「そう。それからあわよくば……」
恋人になりたいというわけだ。
しかし困った。もしその骨の折れる作業も、無駄になってしまう可能性は高い。そもそもこの後宮内の人間は宦官であれ女官であれ、もちろんアオや妃嬪もここを出ることは許されていない。つまり、彼女の想い人を探し当てるということは、違反者を見つけ出すことと同義になる。
なにか騒ぎを起こしたわけでもないなら見逃したいところだ。
「その人と何か話はしなかった?」
ユイは足を組み、ルリに尋ねる。ルリは相変わらず鈍い反応で首を傾げる。
「したわ。でも、私が一方的に話をしていたから……あ」
思い出したように自身の手のひらを見つめた。
「とんぼが可愛い萌黄色の巾着。それから……さっきも言ったけれど、主人に見放されたって。だから私はここに酒を届けに来たの。慰めになればと思って。ちょうど私がはじめて漬けたのができたところだったの」
「萌黄色の、とんぼ柄?」
ユイは眉を曲げて聞き返す。
「そうよ。知ってるの?」
「……萌黄のとんぼ柄は、八年前にミコト様のご衣裳の裏地に使われたその時限りの希少な布なんだよ」
ルリはミコト様、という名前に首を傾げた。
しかしアオはなんだかユイの考えていることが見えてきた気がして、口を手で抑えた。
「ここ最近、異動が行われた女官の内で、八年前に後宮やってきたのは一人しか知らない」
「で、でも、朝の様子は普通でした」
「誰か見当がついてるの?」
ユイとアオが意見を交わしていると、ルリは前のめりになって会話に押し入ってきた。しかし違反者がサキだなんて考えたくない。
「わかるなら教えて。私が鶏内の出身だと言ってからかわなかったのはあの人だけなの」
ルリは必死になって訴えた。しかしその訴えは逆効果で、ユイは点と点が線でつながる感覚に顔ををゆがめた。
「君、鶏内村の出身? 名前に鯉が入ってるって」
「……なんでそんな怖い顔するの?」
おもむろに立ち上がるユイを二人で見上げる。
「帰って」
ユイの強引な話の終わらせ方に誰も納得するわけがなかった。どうしてとルリは尋ねるが、ユイは絶対に口を開こうとしない。
「ユイ、急にどうしたんですか」
「悪いようだけど、ルリ。君はその人に一生会えないと思った方がいい」
「どうしてよっ!」
「僕が会わせないようにする」
ルリの腕を強引に掴むユイの帯をアオは引っ張った。
「ちゃんと説明してください」
「後でアオには説明するよ」
ユイは邪魔者のようにアオを見下ろすと、門番にルリを突き出した。ルリは持って来た自作の酒を両腕に抱えさせられて、両手が塞がった状態で格子は閉じられる。
「ねえ、待ってよ!」
「……ごめんなさい」
アオはどうしようもなく、ルリに謝るしかできなかった。




