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OR Memory ―あるいは、記憶の旅―  作者: shw


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第七話 砂漠の調律と蒼き呼び声

 東の果て、武士の島国から大きく航路を西へ戻し、交易船を乗り継ぐこと数週間。  アオイとエリスは、かつてラシュポートで一度は回避した、絶対的な熱と死の領域――『砂漠地帯カラン』の東端へと遂に足を踏み入れた。


 一歩踏み出した瞬間、肺を焼くような乾燥した熱気が全身を包み込んだ。  広がるのは、見渡す限りの赤みがかった金色の砂の海。吹き荒れる熱風が砂塵を巻き上げ、視界を容赦なく削り取っていく。過酷な自然環境そのものが、侵入者を拒む堅牢なファイアウォールのように機能していた。


 「ここが……カラン共和国……。本当に、砂以外なにもないですね……っ」  頭からスカーフを被ったエリスが、目を細めながら息も絶え絶えに呟いた。


 「共和国、と呼ぶには機能が分散しすぎているな」  アオイは目を細め、熱対流のパターンの向こう側に点在する、石積みの高い塔とオアシスの緑の群れを解析した。  「皇帝も絶対的な王も存在しない。無数の部族が点在し、各々のオアシスを拠点とする分散型ネットワークだ。族長たちによる『合議』のみが唯一の法として機能している……非常に脆弱だが、柔軟なシステムだ」


 案内役を買って出た、茶褐色の肌を持つ砂漠の民の女戦士・アラーナが、面白そうにアオイを振り返った。  「難しい口調で喋る外来者だね。だが、その通りさ。私たちは帝国の犬にはならない。水と砂の掟だけが絶対だ」


 だが、誇り高きアラーナの顔はすぐに曇った。  「もっとも、その『水』のせいで、今この共和国は真っ二つに割れて殺し合いをする寸前なんだけどね」


 問題は、共和国の生命線である「地下水脈」の枯渇だった。


 アラーナの話によれば、二十年前に大規模な労力をかけて開かれた主要な地下水路の流量が、ここ数ヶ月で急激に減少しているという。その水路を共有していた二つの最大部族――ハシン族とカライン族――が、減少した水の配分権を巡って激しく衝突。すでに先月の小競り合いで両陣営から死者が出ており、今夜開かれる最後の「族長会議」で決裂すれば、共和国全土を巻き込む全面戦争に突入するのは確実だった。


 「……システム的なリソース不足による、ユーザー間の致命的な競合か」  事実を聞いたアオイは、砂埃を払いながら静かに言った。  「アラーナ。その交渉の席に、俺たちを同席させることはできるか?」


 「外来者を? 正気かい? 部族の血生臭い争いの場だ、最悪、その場で首を刎ねられるよ」


 「俺がいれば、両部族が血を流さずに済む新たな水源、解決策を提示できるかもしれない。試す価値はあるはずだ」  アオイの黒い瞳には、一切の揺らぎがなかった。  アラーナはしばらくその底知れない目を見つめ返し、やがて深くため息をついた。「……分かった。族長には私から口を利いてみる」


 交渉の場は、両部族の領土の中間地点に張られた、巨大な天幕ゲルの中だった。


 張り詰めた、という表現では足りないほどの濃密な殺気が渦巻いている。  上座にはハシン族とカライン族の双頭の長老が座り、互いを呪い殺すような憎悪の視線をぶつけ合っていた。その末席に、アオイとエリスは座らされた。


 アオイが何かを口にするより早く、ハシン族の長老が吐き捨てるように言った。  「アラーナ。なぜ小汚い外来者を部族の神聖なる会議に引き入れた。ここはお前たちのような部外者が口を出せる『問題』ではない」


 アオイは動じず、真っ直ぐに二人の長老を見据えた。  「どちらの部族も、砂漠の唯一神『アル・ワーヒダ』を信仰しているな?」


 問いかけに、長老たちの眉が不快そうに動いた。  「それがどうした」


 「『唯一なる神の理を知るため、事実と学問を探求することは信徒の義務である』。お前たちの経典の第一章にある記述だ」  東方でガルバードの蔵書から得た知識が、ここで活きる。


 「……だからなんだと言うのだ」


 「俺なら、今の地下水脈の状態を正確に暴き出せる。感情のぶつけ合いより前に、今の水脈全体の『事実』を共有しよう。その結果を両部族が同時に見れば、学問的な事実から論理的な議論を始められるはずだ。神の理に帰依するなら、まず真実の共有から始めるべきだろう?」


 詭弁だが、宗教的義務を盾に取られた論理の前に、長老たちは顔を見合わせた。  武力衝突を望んでいるわけではないのだ。振り上げた拳を下ろす大義名分を探している。彼らには、アオイの介入を頭ごなしに拒絶する言葉がなかった。


 夜の冷気が砂漠を覆う頃。  アオイは両部族の監視の目が見張る中、水路の真上に立ち、式術を展開した。


 (土壌の密度。地下の温度勾配。微弱な水脈の振動音と、地磁気の乱れ……)


 目を閉じ、足裏から地面の奥深くへと知覚のネットワークを広げていく。  数十メートルの地下の構造が、緑色のワイヤーフレームとなってアオイの脳内に再構築される。  既存の水路は確かに細くなっていた。しかし、そこから視点を少し東へずらし、さらに深く『潜った』先――。


 (……見つけた。深い。地下二十メートル。だが、既存の水脈の三倍の流量を持つ『巨大な層』が眠っている)


 アオイが目を開き、そのポイントを正確に指し示そうとした時。  カライン族の陣営から、一人の老いた砂漠の術師が歩み出た。


 「外来者の詭弁など信じられん。俺が俺たちのやり方で確認する」


 彼は『星術師』だった。  夜空を見上げ、複数の星の配置を古めかしい木製の観測器で測り、手元の羊皮紙に猛烈な速度で数式を書き付けていく。


 その光景を見て、アオイの目が驚きに見開かれた。  「……同じだ」


 数十分後、星術師は汗だくになりながら顔を上げ、アオイが全く同じポイントを指さしているのを見て絶句した。


 「……結論は一致した」星術師が震える声で各族長に告げた。「この異邦人の言う通りだ。東の地下深くに、涸れることのない巨大な大水脈がある……!」


 どよめきが広がる中、アオイは星術師に近づき、低い声で尋ねた。  「今の術。どうやった? なぜ星の位置で地下水脈が分かる?」


 「……天体を絶対的な固定座標系として使うのだ。特定の星の引力と、大地の質量分布、そして地下水の磁性が一定の相関を持つことを、三百年前の先人が発見した」


 アオイは息を呑んだ。  「……やはり。俺の式術と、根底のアルゴリズムが同じだ」  入力されるデータが「星」か「土壌の密度」かの違いだけで、導き出すための論理構造そのものは、全く同じ『設計思想』に基づいている。


 「お前……その計算を、どうやって頭の中だけでやった?」  星術師の畏怖の籠もった問いに、アオイは短く答えた。  「……感覚だ。俺の脳は、少し特殊らしい」


 新たな大水源の発見により、武力衝突の危機は奇跡的に回避された。


 両部族は合意し、新しい水源を共同で採掘・管理することで手を取り合った。  アラーナが「信じられない」という顔で、疲労で座り込むアオイに水筒を差し出した。  「十年も血みどろでいがみ合っていたのに、たった一夜で和解するなんてね」


 「信仰という絶対的な土台の横に、誰もが納得する『事実』という道標を立てただけだ」  アオイは水を受け取りながら答えた。


 「……つくづく、面白い例えをする男だね」


 その夜から始まった盛大な和解の宴。  松明の火が照らす中、アオイは砂漠特有の料理の前に座っていた。  数十種類のスパイスを多用した羊肉の煮込みと、香草の効いた薄いパン。酸味の強い発酵豆のペースト。


 「……香りの設計が、狂気じみている」  アオイは煮込みを見つめながら呟いた。  複数のスパイスが、熱で揮発するタイミングをマクロ単位で計算されている。口に入れた瞬間の香り、噛んだ時の刺激、喉を通る時の甘み。それぞれが段階的に展開されるようプログラミングされている。


 「このスパイスの配合と、加熱の工程を教えてくれないか」  アオイは厨房を取り仕切る老女に迫った。


 老女は「部族の秘伝だよ!」と笑って追い払おうとしたが、アオイが「カルダモンとクミンの比率は三対一、隠し味に微量の乳酸発酵液を使っているな? 加熱の閾値は……」と完全に成分を解析して見せると、「お、恐ろしい若造だ……!」と顔を引き攣らせ、最終的にはすべてのレシピを白状することになった。


 宴が最高潮に達し、人々が歌い踊る中。  アオイはふと喧騒から離れ、冷たい夜気に誘われるように、オアシスの端にある小さな石造りの神殿の前を通りかかった。


 月明かりの下、風化を免れた白い石灰岩の壁が、不気味なほど青白く発光しているように見える。


 その中へ無意識に一歩足を踏み入れた時――。  声が聞こえた。


 『――よく来ました。蒼』


 アオイは、心臓を直接鷲掴みにされたような衝撃を受け、その場に縫い付けられた。


 周囲には誰もいない。  しかし、その声は確かに響いた。神殿の冷たい空気の振動からか、石壁の反響からか、あるいは――直接、己の脳髄の底から発せられたのか。


 「……誰だ」  アオイは暗闇に向かって呻いた。「俺は……誰だ?」


 『蒼』。  今の自分の名前は『アオイ』だ。発音は似ている。だが、その漢字一文字の響きは、エリスやロッシュが呼ぶ「アオイ」とは全く異なる、もっと深くて、古くて、呪いのような重さを持っていた。


 『探してください。世界の根源を。……システムは、崩壊を始めています』


 「待て! お前は、何を知っている!? 俺の過去を……!!」


 アオイが叫んで神殿の奥へ踏み込んだ瞬間、その奇妙な気配は霧散し、ただの砂とカビの匂いだけが残された。


 「アオイさん!」  息を切らしながら、エリスが神殿の入り口に駆けつけてきた。  「どうしたんですか、突然走り出して……。顔が、真っ青ですよ!?」


 アオイはしばらく、砂漠の冷たい夜空と、遺跡の闇を交互に見つめていた。  体の震えが止まらなかった。


 「……名前を、呼ばれた」


 「え……? 誰にですか?」


 「分からない。だが……あれは『俺自身』の輪郭だ」


 世界の真実。設計者の存在。そして、己の過去。  すべてのピースが、急速に一つの巨大な絵へと収束しようとしている。  その夜、アオイはかつてないほどの激しい頭痛と焦燥感に苛まれ、一睡もすることができなかった。

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