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OR Memory ―あるいは、記憶の旅―  作者: shw


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第四話 帝国の網と海への選択

 その報告は、ヴェルナ帝国辺境軍の駐屯地に、ひどく間の抜けた形で届いた。


 薄暗い石造りの執務室。巨大なマホガニーの机越しに、冷徹な銀色の目をした男――辺境鎮圧軍を統べる将軍ヴァルゴスが、血と泥にまみれた三人の徴税兵を見下ろしていた。


 「……もう一度言え。貴様らは、たった一人の『薄汚れた旅人』に、魔法ごと吹き飛ばされたと?」  ヴァルゴスの声は静かだったが、その底には氷のような殺気が張り詰めていた。


 「は、はいっ! ま、間違いございません将軍閣下!」  首を絞められたように声が裏返る先頭の兵士。「奴は呪文を一言も唱えませんでした! 私の放とうとした発火の術式を……奴は事前に『読んだ』のです! そして、目に見えない風の塊で我々を壁まで……っ!」


 「詠唱なしで、他者の術式構造を解体しただと?」  ヴァルゴスの眉が微かに動いた。  それは単なる敗戦の言い訳にしては、あまりにも常軌を逸している。帝国が抱える宮廷魔術師の最高位でさえ、そのような真似は不可能だ。伝説に語られる『式術師』……あるいはそれに類する、帝国の管理システムから完全に逸脱した未知の存在。


 (……もしそれが真実なら、皇帝陛下に献上するにふさわしい極上の『玩具』になる)


 ヴァルゴスの薄い唇が、三日月のように歪んだ。  「面白い。辺境のネズミにしては、気が利いた特技だ」  彼は卓上のベルを鳴らした。黒衣に身を包んだ猟犬のような隠密部隊が、音もなく影から現れる。  「東へ向かったといったな。あの男を生け捕りにしろ。連れの小娘は道端で殺して構わん。どんな犠牲を払っても、その『式術師』を俺の前に引きずり出せ」


 それからの五日間は、アオイとエリスにとって地獄のような逃避行だった。


 「……来るな」


 街道から外れた鬱蒼とした森の中。アオイはエリスを無理やり引き倒し、腐葉土と冷たい泥の溜まった窪みへと身を隠した。


 ドドドドドッ!!


 直後、彼らがつい先ほどまで歩いていた獣道を、黒い甲冑に身を包んだ帝国騎兵の小隊が土煙を上げて駆け抜けていく。馬の荒い鼻息と、鋼が擦れる冷たい音が、頭上わずか数メートルの距離を通り過ぎた。


 エリスは泥水の中に顔を押し付け、歯の根が合わないほどガタガタと震えながら、必死に悲鳴を噛み殺していた。  アオイもまた、泥にまみれながら目を閉じ、極度の集中状態に入っていた。


 (くそっ……執拗な奴らだ……!)


 奴らはただ闇雲に探しているのではない。地形と人間の移動速度を計算に入れた、極めて論理的で逃げ場のない包囲網を展開している。  正面切って戦うことは可能かもしれない。あの時のような奇跡がまた起きれば。しかし、そんなことをすれば、さらに強力な部隊が際限なく投入される悪循環に陥るのは明白だった。今の自分にあの魔法を自在に操る術はない。


 だから、ただ泥水に這いつくばり、息を殺して隠れてやり過ごすしかなかった。少しでも動けば見つかる。虫が這い、腐葉土の悪臭が鼻をつく中で、アオイはエリスをかばうように覆い被さり、祈るように時間を耐え忍んだ。


 「……っ、ぐ……」  騎兵の足音が遠ざかり、ついに完全に聞こえなくなった後、アオイは深いため息とともに泥の中に頽れた。  張り詰めていた緊張が切れ、全身の筋肉が痙攣するように痛む。胃の中のものを吐き出したくても、もう何日もまともな固形物を口にしていない。


 「アオイさんっ……!」  泥だらけのエリスが泣きそうな顔で覗き込む。彼女の足元の靴はとうに破れ、むき出しになった足先からは血が滲んでいた。  限界だ。この娘の体力も、自分の精神力も。


 「……大丈夫だ。まだ動ける」  アオイは震える足で泥まみれのまま立ち上がり、血の味がする唾を吐き捨てた。「網は抜けた。このまま東へ急ぐぞ。休んでいる暇はない」


 そして数日後。  彼らはついに、帝国大陸の最東端に位置する巨大な城塞都市『ラシュポート』に辿り着いた。


 そこは、世界を二分する境界線だった。  数十メートルもの高さを持つ分厚い防壁。その内側には、東方から運ばれた香辛料のむせ返るような匂いと、魚の生臭さ、そして人間の多様な言語が混ざり合う、狂騒的なエネルギーが満ちていた。  アオイはこの喧騒の只中に立って、奇妙な懐かしさを覚えた。「物流のハブ」という概念。知っている。どこかでこれを構築した記憶がある。


 だが、今は感傷に浸っている余裕はなかった。


 「……選択肢は二つだ」  薄暗い路地裏に身を潜め、アオイは壁に貼られた大まかな広域地図を見ながらエリスに告げた。


 「一つ。ここから東の大陸を目指し、陸路で進むルート。だが、防壁を出た瞬間に広がるのは、熱と渇きの『砂漠地帯カラン』だ。距離的には最短ルートだが……」


 アオイは隣で肩で息をするエリスを見下ろした。彼女の体力ゲージはすでにレッドゾーンを振り切っている。水筒の残量もない。この状態で砂漠へ踏み込めば、エリスの生存確率は論理的に計算して「ゼロ・コンマ以下」だ。


 「二つ目の選択肢。ここから出ている商業船に乗って、海から東方大陸へ迂回するルートだ。風次第で四十日から五十日かかるらしいが、砂漠の直射日光でミイラになるよりはマシだ」


 「ふ、船……ですね。絶対にそっちがいいです……」エリスは青白い顔で即答した。


 「俺もそう思う。だが問題は……」  アオイは懐から、ロッシュから受け取った銀貨と、道中で稼いだわずかな小銭を取り出した。  「聞いてみないと分からないが、乗船チケットのコストだ。一番安い貨物船の底倉でも、これだけじゃ心許ないかもしれない」


 追手はすでに街の中に入り込んでいるかもしれない。帝国兵の足音が、いつ後ろの角から響いてきてもおかしくなかった。


 「アオイさん、どうする気ですか!?」  「港に行って、交渉してくる」


 港湾区画は、むせ返るような潮の匂いと、出航準備に追われる船乗りたちの怒号に満ちていた。  アオイは東方へ向かう大型商船のタラップの前に立つ、赤ら顔の恰幅の良い船長を見つけ、単刀直入に交渉を持ちかけた。


 「東方大陸まで、二人乗りたい。だが銀貨は一枚しかない」


 「あぁ?」  船長は鼻で笑ってアオイと、遠くの物陰に隠れるエリスを交互に見た。「冗談だろ、浮浪者。大の大人が二人で銀貨一枚? 海の底に沈めてほしいならタダで乗せてやるがな」


 「航海中、船の雑用をすべて引き受ける。掃除でも、帆の張り替えの手伝いでも何でもやる」  アオイは冷たい瞳で船長の目を真っ直ぐに見据えた。「飯も最低限でいい。ただ船底の隅に置いてくれればいいんだ」


 「……本気か? 嵐が来れば甲板に出して働かせるぞ。死ぬかもしれないんだぜ」  船長は値踏みするようにアオイの泥だらけだが引き締まった体を見て、少し考える素振りを見せた。  「……まあいい。ちょうど下働きの水夫が一人逃げ出して手が足りてなかったところだ。銀貨一枚と、航海中の『奴隷労働』で手を打ってやる。ただし、そのお嬢ちゃんにメシを食わせたきゃ、お前が死ぬ気で働けよ」


 「……交渉成立だ」


 その日の夕刻。空が禍々しい赤に染まる頃、アオイとエリスは東方へ向かう大型商船の甲板に立っていた。


 防壁の向こう側、港の入り口付近には、こちらを血眼で探す黒い帝国兵の姿が小さく見えた。間一髪の出港だった。


 帆船が風を受け、波を裂いて進み始める。徐々に小さくなっていく巨大な大陸。  エリスは船縁の手すりを白くなるほど強く握りしめ、陸地を見つめていた。初めて村を離れ、初めて乗る巨大な機械。彼女の顔には、追手から逃れた安堵と、未知の海への恐怖が入り混じっている。


 「大丈夫か」  アオイが横に立つと、エリスは無理に笑って見せた。  「怖くないです。これで……あの恐ろしい帝国から、逃げられますよね」


 「嘘をつくな。手が震えてるぞ」  アオイが指摘すると、エリスは恥ずかしそうに下を向き、「……少しだけ、怖いです。アオイさんは?」と聞き返した。


 「俺は……」  アオイは波立つ海原を見た。船の揺れ、潮の匂い。  「前に乗ったことがある気がする。どこかで」


 「記憶が、戻ったんですか?」  「いや。ただの感覚だ。心配ない、船の挙動は把握できている」


 しかし、その言葉を最悪の形で裏切ったのは、出港から三日目の夜だった。


 前触れはまったくなかった。  急速に黒い雲が空を覆い尽くし、風が悲鳴を上げ、海が黒い牙を剥いて隆起した。  鼓膜を破るような雷鳴と、家屋ほどの高さがある波涛。


 「嵐だぁぁっ!! 帆を畳め!! 折れるぞぉっ!!」


 甲板の上で船員たちが怒号を交わし、パニックに陥っていた。  船の揺れは常軌を逸していた。上下左右の概念が崩壊する暴力的なローリング。エリスは完全に船酔いで青ざめ、船底の柱にしがみついて激しく嘔吐していた。


 「船長! 羅針盤が狂いました!! 北が……どっちか分かりません!!」  びしょ濡れの操舵手が、絶望的な声を張り上げた。  船長は血の気を引いた顔で空を仰いだ。分厚い暗雲が世界を黒く塗りつぶし、星一つ見えない。星が見えなければ、この狂った海の上で進むべき航路は絶対に分からない。


 「終わりだ……! 暗礁に突っ込むぞ!!」


 絶望の連鎖。  完全に制御不能に陥った瞬間。  だが、その狂乱の甲板に、アオイがゆっくりと上がってきた。


 強風に服を千切られそうになりながら、アオイは揺れる甲板に両足でしっかりとパスを通し(接地し)、嵐の空を見上げた。


 ここだ。ここでやらなければ、エリスもろとも海の底に沈む。  アオイの脳波が、極限のトップギアへと跳ね上がる。先日の無理な使用による頭痛がフラッシュバックするが、無理やりオーバークロックして抑え込んだ。


 (大気の成分。湿度の分布。気圧の急激な勾配。雲の厚さから逆算できる光の屈折率……)


 アオイの両目から、人間の感情が消え去った。  そこにあるのは、純粋な演算力。


 (星の軌道は時刻と季節からあらかじめインプットされている。その軌道上に『あるはず』の恒星の位置を、現在の劣悪な大気の屈折補正係数を代入して割り出す……!)


 「……式術、展開」


 アオイの口から低く紡がれた言葉。  同時に、彼の指先が宙に目に見えない複雑な数式を打ち込む。  物理法則に対する強制ハッキング。雲を超えた遥か上空の星の反射光を、光の屈折率を微細にコントロールすることで地表まで強制的に引き延ばす。


 真っ暗なはずの嵐の空。  だが、アオイの網膜にだけ、緑色のグリッド線と、そこに正確にプロットされた数点の「光の座標」が浮かび上がった。


 「北北東だ!!」


 嵐の轟音を切り裂き、アオイの声が甲板に響き渡った。


 船長が「何を血迷って――星などどこにも……!」と怒鳴り返そうとした。  しかしアオイは振り返り、その黒い瞳で船長を射抜いた。


 「俺の計算(式術)は狂わない! 航路の最適解は北北東だ!! 舵を切れ、波に飲まれたくなければ俺のコードを信じろ!!」


 狂気じみた、しかし絶対的な確信に満ちたその瞳。  生か死か。狂った海の中で、船長は三秒だけ息を呑み――そして、血を吐くような声で決断した。


 「……取り舵いっぱい!! 針路、北北東ぉぉぉっ!!!」


 巨大な帆船が軋み音を立てながら、怒り狂う黒い波を裂いて、アオイが指し示した暗闇の先へと強引に旋回を開始した。

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