第二話 最初の天啓と泥まみれの奇跡
その村は、静かに、だが確実に死に向かって渇いていた。
ロッシュが苦々しい顔で教えてくれた現実。去年の夏が異常なほど暑すぎたこと。本来なら夏を越すための命綱となるはずの山の雪解けが早く終わり、川の水位が絶望的に下がってしまったこと。そして、今年の春になっても一切の回復の兆しを見せず、水路の半分以上が無惨に干上がってしまったこと。 村を取り囲む麦の畑では、本来なら青々と茂るはずの芽が、すでにその半分以上の水分を失い、悲鳴を上げるように茶色く枯れ果てていた。このまま猛烈な夏を迎えれば、収穫など期待できるはずがない。それはすなわち、この村の全滅を意味していた。
「……神様にお祈りするしか、私たちにはもう開かれた道がないんです」
夕暮れの迫る中、赤茶けた光に染まる村の中央。そこに取り残されたようにポツンと建つ、小さな石の祠の前に跪きながら、エリスは力なくそう呟いた。 神殿というにはあまりにも粗末で小さすぎる、ただの歪な石積みの社だった。しかし、その表面には奇妙な紋様が深く彫り込まれているのが見て取れた。同心円と鋭い直線の組み合わせからなる、よく見れば見るほど吸い込まれそうになる、複雑で神経質な幾何学模様だ。
エリスは泥で汚れた両手を固く胸の前で組み、祈るようにきつく目を閉じた。
「神様……どうか、神様。お願いです。お願いですから、この村に、私たちに水を……生きるための恩恵を、お与えください――」
少女の細く震える声、その悲痛な祈りの言葉を背後で聞きながら、アオイは祠に刻まれた幾何学模様を、まるで魂を奪われたかのようにぼんやりと見つめていた。
その瞬間だ。 唐突に、「それ」は起きた。
「……っ!?」
アオイの頭蓋骨の奥底、脳髄の中枢を、数万ボルトの電流が直接焼き切るような、凄まじい衝撃と熱が駆け抜けた。 「あああっ!」 思わず喉から引きつった悲鳴が漏れる。眼球の裏側で何かが破裂したような感覚。目の前に広がっていた夕暮れの風景が、まるでブラウン管テレビのノイズのように一瞬で弾け飛び、まったく別の「情報」へと書き換えられていく。
地面の下が、恐ろしいほどの解像度で「透けて」見えた。 否、見えたという生半可な言葉ではない。彼の脳内に、足元の大地の構造が、ミリ単位の三次元データとして強制的にダウンロード、いや、直接書き込まれたのだ。
表層土壌の構成成分。関東ローム層にも似た赤土の堆積。その下に這うように広がる強固な粘土層の厚さと、ミリ単位で計測された地層の傾斜角。そして……岩盤と岩盤の狭い隙間を縫うようにして、地中深くにひっそりと隠れ潜んでいる「伏流水の脈」が、鮮烈な青い光の筋となってアオイの視界、いや、脳裏に焼き付けられていく。
「がっ……はぁっ、はぁっ……!!」
オーバーヒートしたサーバーのように、アオイの体は激しい痙攣を起こし、たまらず地面に両膝を叩きつけた。あまりの膨大な情報の流入に、胃袋が痙攣し、酸っぱい胃液を土の上に吐き出した。
「アオイさん!? どうしたんですか、しっかりして!」
エリスが慌てて駆け寄ってくるが、アオイの意識は完全に地面のはるか下、地中深くの暗闇を這い回っていた。 村の中心であるこの祠から、南東へ約二百メートルの地点。岩盤の傾斜がそこへ向かって集中し、地底の水が集まる天然の『受け皿』を形成している。深さは……およそ六メートルから七メートル。 重機などないこの世界でも、なんとか人力で掘り進められるギリギリのラインだ。
閃き、などという美しいものではなかった。 それは、過去の自分が持っていた狂気的なまでの計算能力と、この異常な世界がもたらした謎の知覚拡張が強引に結びついた結果生み出された、「絶対的な演算結果」だった。
「……東、南に……二百メートル、だ……掘れ……!」
アオイは胃液で口の周りを汚したまま、血走った目でエリスを睨みつけ、かすれた声で叫んだ。
「えっ? アオイさん、何を……?」
「そこに行けば……地下水がある……! 六メートル掘れば、必ず出る!! 俺を信じろ、ロッシュを呼んでこい!!」
息を乱して集まってきたロッシュと村の大人たちは、地べたに這いつくばる奇妙な旅人の言葉に、当然のごとく冷ややかで不信感に満ちた視線を向けた。
「いいか、よく聞け異邦人。記憶のない、どこから来たかも分からないただの迷い子が、地面の下に水脈があると? 俺たちが見捨てたこの枯れ果てた土地に?」 ロッシュの声には、疲労からくる怒りが滲んでいた。
「ある。俺の頭の中には、はっきりとその構造が見えているんだ」 アオイは泥だらけの顔を上げ、決して引かずに言い放った。
「どうして分かる! 魔法使いでもないあんたが!」
アオイは答えに詰まった。どうして分かるのか、論理的に説明しようがない。先ほどのあの超常的な知覚体験と、脳内で行われた一瞬の地質流体力学の計算結果など、この素朴な農夫たちに言葉で伝えられるはずがなかった。 だが、彼の胸の奥には、絶対にそこにあるという狂信的なまでの「確信」だけが鈍い炎のように燃えていた。
「俺を信じるかどうかは……お前たちの勝手だ。だが、このまま指をくわえて干からびて死ぬのを待つよりは、手足が動くうちに土を掘り返す賭けに出るほうが、ずっとマシじゃないのか!!」
アオイの血を吐くような絶叫に、村人たちは一瞬静まり返った。 村の長老は深く皺の刻まれた顔をしかめ、ロッシュは太い腕を組んで眉間を揉んだ。村人たちは互いに顔を見合わせ、誰もが面倒事に関わりたくないという拒絶のサインを出していた。
「……やってみましょう」
重い沈黙を破ったのは、エリスだった。 彼女は小さな拳を硬く握り締め、真っ直ぐに父であるロッシュの目を見た。
「お父さん。どうせ何もしなければ秋には死ぬんです。だったら、この人の言葉に賭けてみたい」 その少女の一言と、覚悟の決まった真っ直ぐな瞳が、絶望に沈んでいた男たちの心をわずかに揺らした。
翌朝。 太陽が再び容赦なく大地を焼き付き焦がし始める中、アオイは村の南東二百メートルの地点を正確に割り出し、粗末な木の柄のツルハシを強く握りしめた。 手伝うと言った村人は、たったの三人だった。ロッシュすらも「俺は畑の枯草の片付けがある」と、遠巻きに見ているだけだった。誰も、初日から本気で信じてなどいなかったのだ。
カキン、と、硬い赤土にツルハシが弾かれる。 アオイの、骨張っているが農作業などしたことがない肉体にとって、井戸掘りという作業は想像を絶する地獄の始まりだった。
一日目。深さは膝丈まで。 照りつける異常な直射日光が、アオイの背中から皮膚を剥がし取るように焼いた。借り物の服はすぐに汗と泥でどろどろになり、ツルハシを握る掌の皮は開始わずか数時間でベロリと剥け、柄は彼自身の赤い血で染まった。
二日目。深さは腰まで。 手伝っていた三人の若者のうち、二人が熱中症で倒れ、逃げ出した。 「やはり無理だ。こんな岩みたいな土、掘れるわけがない」 「あいつは狂ってる。神の罰が下るぞ」 村人たちの冷たい陰口が耳に突き刺さる。アオイの全身の筋肉は断裂したように激しく痛み、呼吸をするたびに土埃が肺壁を削り取っていった。それでも彼は、血の滲む手でツルハシを振り下ろすことをやめなかった。 「まだだ……まだ、届かない……!」
三日目。深さは胸まで。 ついに手伝いは誰もいなくなった。 深い穴の底は風が通らず、まるで灼熱のオーブンのようだった。アオイの唇は完全に干からびて裂け、目は窪み、もはや生ける屍のようだった。限界を超えた肉体は何度も警報を鳴らし、意識は幾度となく飛びかけた。 だが、その日差しの中で上から差し入れの水を落としてくれたのは、エリスだけだった。彼女は泣き出しそうな顔で「もうやめてください」と懇願したが、アオイは泥にまみれた顔で笑ってみせた。 「土が……重くなってきた。少し、湿っている……もうすぐだ……!」 その言葉に、見守っていたロッシュの目の色が、わずかに変わった。
そして、運命の四日目の昼。
穴の深さはすでに六メートルを超え、アオイは全身に泥と血をこびりつかせながら、酸欠で意識が朦朧とする中で、ただ機械のように土を掻き出していた。爪は割れ、指先からはとめどなく血が流れている。 その時だった。
ガキンッ!
ツルハシの先端が、これまでとは違う、分厚い岩盤の層を力強く打ち抜いた確かな手応えがあった。 次の瞬間。ごぽっ、という鈍い音が重い空気の底で響いた。 「……ぁ……」
アオイの足元、岩盤の割れ目から、どす黒い泥水が吹き上がり始めた。それはまたたく間に勢いを増し、泥を含んでいた水は数秒のうちに透き通った清冽な「青」へと変わり、穴の底を満たし始めた。
「水だ……! 水が出たぞおおおおっ!!」
地上でその変化にいち早く気づいたロッシュが、信じられないものを見たように目を剥き、そして狂ったように大声で叫んだ。 「水が出た! あの男が、本当に水を掘り当てやがった!!」
その叫び声は村中に轟き、大人も子どもも仕事の手を止めて、狂奔しながら穴の周りへと殺到した。 一気に膝まで冷たい地下水に浸かりながら、アオイは見上げ、泥だらけの手で顔を拭った。地上では、村人たちが互いに抱き合い、子どもたちが狂喜乱舞して走り回り、老人が地面にひざまずいて号泣していた。ロッシュは「信じら……信じられねぇ……!」と何度も呟きながら大男の目に涙を浮かべ、エリスは両手で顔を覆って声を上げて泣き崩れていた。
ロープで地上に引き上げられたアオイは、その熱狂の渦の中で、ただ静かに地べたに力なく座り込んだ。 全身の骨が軋み、指先は痛みに脈打っている。だが、限界を迎えた胸の中には、今までに感じたことのないほど、強烈で生々しい「達成感」が脈打っていた。
記憶はない。素性も分からない。 だが、俺は、泥水啜って、血を流して、この絶望しかけた村の運命を確かに変えてみせた。自分の手で、この世界の理を引きずり出してやったのだ。
「……ははっ……なんで、分かったんだろうな、本当に……」
干からびた唇から漏れた掠れた笑い声と呟きは、村人たちの歓喜の波にかき消され、誰の耳にも届かなかった。
その夜、死を覚悟していた村は、一転して狂乱の宴に包まれた。 ロッシュが、来たるべき葬式用にと隠して仕舞ってあった貴重な麦酒の樽を景気よく叩き割り、ナンシーがありったけの豆と大切に保存していた根菜を惜しみなく大鍋に入れて煮込んだ。 アオイは村の英雄として上座に座らされ、次々と注がれる麦酒を飲み、熱いスープを胃に流し込んだ。全身の筋肉痛と擦り傷がズキズキと痛んだが、それすらも生きている証のように思えて心地よかった。
騒ぎの輪から少し外れたところで、エリスが静かにアオイの隣に座った。 彼女の緑色の瞳には、炎の明かりが揺らめいている。
「……神様が、運命を動かしたんだと、そう思います」 エリスは、ポツリとそう呟いた。
「俺をか? それとも、あの地下の水をか?」 アオイは、喉を焼くような雑味だらけの苦い麦酒の木杯を傾けながら、わざと意地悪く返した。
「いいえ。アオイさんを、です」 エリスは真っ直ぐにアオイを見つめて言った。
アオイは杯を下ろし、夜の闇に沈む荒野へと視線を向けた。 酒のせいか、頭の奥が妙に冴え渡っている。地平線の向こう側に、広大で残酷な、だが無限の未知を秘めた世界が広がっている。あの地中の水脈を見抜いたように、自分の脳にはまだ解き明かされていない「世界の裏側のデータ」へのアクセス権が眠っているような気がしてならない。
「エリス。お前は……この狭い村の外、本当の『旅』をしてみたいと、そう強く渇望したことはあるか?」
アオイの静かだが芯のある問いに、少女は一瞬、ハッと息を呑んだ。
「旅……あります。ずっと、ずっと……本当は、この村の境界線の外側が、この世界がどうなっているのかを、私のこの目で見てみたいと……」 彼女の声は微かに震えていたが、そこには押し殺してきた確かな熱があった。
「そうか」 「アオイさんは? アオイさんはこれから、どうするんですか? 旅に出るんですか?」 すがるようなエリスの瞳。
アオイは夜風に吹かれながら、短く笑った。 「当たり前だ。記憶のない俺には、立ち止まる理由すらない。失った自分を取り戻すためか、それともこれからの自分を創り上げるためか……どっちにしろ、旅に出る以外の道はないんだ」
エリスは、ハッとして口を噤み、沈黙した。 そのわずか数十秒の間に、少女の胸の内側で、世界が大きくひっくり返るような凄まじい葛藤が吹き荒れた。 優しい母、不器用な父、見慣れた枯れ草の景色。村の北側、あの見えない稜線の向こうにすら行ったことがない自分。安全なこの場所に留まる理由は、片手では数え切れないほどある。だが、それらすべての理由を焼き尽くすほどの凄まじい衝動――アオイという、世界の理をこじ開けた男の背中を追いたいという『たった一つの理由』が、彼女の心の中で烈火の如く燃え上がってしまったのだ。
エリスは、震える両手を強く握り締め、腹の底から絞り出すような声で言った。
「……私も、私を、連れて行ってください!」
宴の騒音すら切り裂くような、悲痛で鋭い声。その言葉は、少し離れた場所にいたロッシュとナンシーの耳にも、はっきりと届いていた。
「エリス! お前、何を馬鹿なことを言ってるんだ!」 血相を変えて飛んできたのはロッシュだった。その手から木杯が滑り落ち、地面に麦酒がぶち撒けられる。ナンシーもまた、顔を完全に青ざめさせてエリスに駆け寄り、その細い肩を力任せに掴んだ。 「エリス、頭を冷やしなさい! 旅だなんて、そんな恐ろしいこと……! この村の他に、私たちが安全に生きていける場所なんてないのよ!」 「お母さん……ごめんなさい。でも、私……!」 「ごめんなさいじゃない! 確かにアオイさんは村の恩人だ……だが、どこから来たかも分からない、命知らずの異邦人でもあるんだぞ! どうして彼に付いていくなんて……!」 ロッシュは怯えたようにアオイを見ながら叫んだ。その目には明らかな親としての恐怖と、娘を失うかもしれないという切実な焦りが渦巻いていた。さっきまで命の恩人として称えていたはずの男が、愛娘を彼岸へと連れ去る死神のように見えたのかもしれない。
だが、エリスは両親の必死の制止に、泣きながら、それでも強く首を横に振った。 「違うの、お父さん、お母さん! アオイさんが無理に連れ出すんじゃない! 私自身が、選んで行きたいの!」 「エリス……っ!」 「ここで一生、ただ枯れていくのを待つだけの運命を……私はもう、このまま終わらせたくないのよ! あの熱い泥の中で、アオイさんが血を流しながら水を引きずり出したのを見た時……私の心にも、抑えきれない何かが湧き出してしまったの!」
その悲壮なまでの絶叫に、ナンシーは言葉を失い、泣き崩れた。 ロッシュもまた、ギリッと強く歯を食いしばり、娘の決意の前に立ち尽くした。親への反抗でもなく、ただの好奇心でもなく、魂の根底から燃え上がってしまった娘の熱情。それは、愛という名の庇護ではもう二度と抑え込めない「炎」だった。
「……本気なのか、エリス。俺たちの元を離れて……荒野で干からびて死にかけても、誰も助けちゃくれないんだぞ。後悔しないのか」 ロッシュの太い声が、ひどく震えていた。 「はい……馬鹿な親不孝娘で、本当にごめんなさい……お父さん」
エリスは涙を流しながら深く頭を下げ、そして再び、真っ直ぐにアオイへと向き直った。
アオイは静かに、その一部始終を見ていた。十六か七の少女。一生をこの狭い農村で終えるはずだった少女。親の愛情という鎖さえも断ち切り、ただ「知りたい」という原初の渇望だけで、得体の知れない異邦人の背中を追おうとしている。
「馬鹿を言え。遊びじゃない、いつ死ぬか分からない野垂れ死にへの旅だ。危ないぞ」 アオイは冷や水を浴びせるような、冷酷で厳しい声で突き放した。
「知ってます! それでもっ!」 「喉が渇いても、腹が減って胃液を吐いても、絶対に泣き言は聞かない」 「言いません! 決して!」 「戦いになってはぐれても、俺はお前を探しに戻るような甘い真似はしないぞ」 「はぐれません! あなたに絶対に食らいついてみせますから!」
全身を小刻みに震わせ、大粒の涙をいっぱいに溜めながら、それでも決して目を逸らさないエリスの意地に、アオイの胸の奥で何かが弾けた。 アオイは、包帯を巻かれた傷だらけの手で顔を覆い、そして――深く、腹の底から、清々しい笑い声を上げた。
「……ははっ、いい覚悟だ。上等じゃないか」
アオイは立ち上がり、エリスを見下ろした。 「出発は明日の朝だ。無駄なものは捨てろ。荷物は、己が背負えるひとつの袋だけに収めろ」
翌朝。 ロッシュは無言のまま、手押し車の上に道中の食料となる麦の包みを積んでいた。ナンシーは目を真っ赤に腫らしながら、固く焼き締めたパンとチーズ、貴重な干し肉を布に包んでアオイに手渡した。村の老人たちが「神の御加護を」と祈り、子どもたちが遠足にでも行くようにはしゃいで彼らを取り囲んだ。
出発の直前、ロッシュは太く不器用な指で、ずっしりと重い革の小袋をアオイの胸元に押し付けた。
「……受け取れ。あんたが血と泥にまみれて掘り抜いてくれたあの井戸のおかげで、この村の命は先の冬まで繋がった。これっぽっちじゃあ、あんたが起こした奇跡への恩返しとしてはあまりにも釣り合わねえのは分かってるが……せめてもの、旅の最初の路銀にしてくれや」
アオイは一瞬ためらいかけたが、ロッシュの真剣な瞳を見て、無言でそれをしっかりと受け取った。袋の中では、銅貨が十数枚と、明らかに村の備蓄を削って捻出したであろう大きめの銀貨が二枚、重い音を立てていた。その重みが、彼らの命の重さだった。
「……また、いつか気が向いたら、もっと深い井戸でも掘りに来てやるよ」 アオイが軽口を叩くと、ロッシュは泣き笑いのような顔で肩をすくめた。 「勘弁してくれ。あんたが来る前にまた水が枯れるってのが、一番恐ろしいんだからな」
一方、ナンシーは娘のエリスを荷車の影に引っ張っていき、ただひたすらに強く、骨が折れるほど強く抱きしめていた。何を言っているのかは聞き取れなかったが、ナンシーが必死に嗚咽を漏らしている声はアオイの耳にも届いた。エリスもまた、母の肩に顔を埋め、ボロボロと大粒の涙を流して何度も頷いていた。
ロッシュはその様子を止めることもなく、ただ背を向けたまま、不器用に荷物の紐を何度も何度も結び直していた。 その丸めた大きな背中が、最愛の娘の無謀な旅立ちを「許す」という、父親としての不器用で最大限の愛の形なのだと、アオイには痛いほどに伝わってきた。
別れの時間が来た。 アオイはロッシュとナンシーに向かって、深く、深く頭を下げた。
「短い間だったが、本当の世話になった。あんたたちのおかげで、俺は命を繋げた」
「……あんたちってのは、本当に底知れなくて、クソッタレに変わった男だよ」 ロッシュが鼻をすすりながら笑った。 「過去も記憶も名前すらもろくに持っちゃいねえくせに、誰よりも真っ直ぐに、世界の外側へ行こうとしてやがる」
「そういうものだろう?」 「どういうものだってんだ」
アオイは太陽を見上げ、確信に満ちた声で言い放った。 「旅ってのはな、帰る場所も、行き先の明確な理由も持たない馬鹿のほうが……誰よりもずっと遠くまで歩いていけるもんさ」
ロッシュはそれを聞いて豪快に吹き出し、そして娘の手を強く握ったあとに、アオイの肩を力強く叩いた。 「達者でな、アオイ! 俺たちの自慢の娘を、絶対に死なせんじゃねえぞ!」
朝日が大地を照らし出す中、アオイと、小さな荷物袋を背負い目を赤くしたエリスは、振り返らずに東へと続く荒野の道を歩き始めた。
その道のはるか先に、何が待ち受けているのかは誰にも分からない。 だが確かなことは、あの絶望的な岩盤の底に命の水が隠されていたように、この広大で残酷な世界には、彼らがまだ知らない、隠された真実と理が数え切れないほど満ちているということだ。そして、アオイの失われた脳髄のシステムは、それをすべて暴き出してやろうと、静かに、だが熱狂的に脈動を始めている。
「ねえ、アオイさん」 数時間歩いた後、エリスが横から控えめに声をかけてきた。
「神様に、さよならとお礼、言わなくてよかったんですか?」
アオイはふっと息を吐き出し、意地悪く笑った。 「神様なんてものと、マトモに会話した記憶がないからな」
「でも、あの水脈の場所が見えたのは……もしかしたら、神様があなたに与えてくれた最初の『天啓』だったのかもしれませんよ?」
「もしそうなら、姿も見せない神様に感謝するより先に、まずはお前に感謝しなきゃならないな」 「えっ? 私に?」 「ああ。あの日、お前が必死に空に向かって祈って泣いている姿を見なかったら……俺の脳内スイッチが切り替わることはなかった。あの奇跡の引き金を引いたのは神様じゃない、間違いなくお前自身の足掻きだ」
エリスはパッと顔を赤く染め、口をぱくぱくさせた後、恥ずかしそうに下を向いて早歩きになった。
見上げれば、雲ひとつない、どこまでも深く暴力的な青空が広がっていた。 その空のずっとずっと高い場所、サーバーの向こう側から、誰か、巨大で絶対的な存在が自分たちを俯瞰して見下ろしている。そんな息苦しいほどの予感。
アオイはその視線をはっきりと感じ取りながら、挑発するようにニヤリと笑い、再び力強く大地を踏みしめて歩き続けた。




