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OR Memory ―あるいは、記憶の旅―  作者: shw


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第十五話 世界の亀裂と狂将の変生

 巨大な石板に赤い亀裂が走った瞬間、世界そのものが悲鳴を上げた。  空を覆っていた分厚い雪雲が不自然な直角の幾何学模様にひび割れ、禍々しい赤い光がオーロラのように極北の空を裂いた。アオイが直感で理解した「世界の理」が、今まさに崩壊の危機に直面している証だった。


 「何が起きている……? 魔法の脈動が、狂っているぞ!」  ガルバードが杖を構え、周囲の魔力の激流を抑え込もうと顔をしかめた。  気象、重力、熱量。それらを制御する大元の法則に、致命的な淀みが発生している。


 直後、足元の凍土が雷に打たれたようにひび割れ、そこから赤黒い泥のような塊が次々と這い出してきた。  それらは不定形の泥塊から、やがて四肢を持つ獣や、顔のない歪な巨人へと姿を変えていく。  「なんなんだ、あれは……生き物じゃない!」  アオイは咄嗟に身構えた。物理法則の綻びから生じた「世界の歪み」そのものが実体化した存在。  「信じられん、おとぎ話が現実に這い出てきおったか……! あれが古の伝承にある『魔人族』だ!」ガタガタと震えるエリスを庇いながら、ガルバードが悲痛な声を上げた。


 限界点を超えて増大し続ける魔人族の群れが、アオイたちへ一斉に襲い掛かろうとした、その時だった。


 「……退け、雑魚ども。そいつの首は俺のものだ」


 地を這うような低い声とともに、横殴りの風圧が雪原を薙ぎ払った。  巨大な戦槌の一振り。ただそれだけで、群がっていた魔人族の半数が、紙屑のように空の彼方へ吹き飛んで消滅する。


 「え……? 吹雪の向こうから、誰か来ます……!」  エリスが、嵐の向こうを指差して声を震わせた。


 真っ白な視界の中から、巨大な影がゆっくりと歩み寄ってくる。  極寒の地だというのに、その男は上半身裸だった。いや、正確には「肉体そのものが異質に変異」していた。  黒い泥のような斑紋が全身を覆い、所々から不気味な赤い魔力光が漏れ出している。顔の古傷は引き攣れ、もはや人間のそれではない、獣のような――いや、「歪みそのもの」のような異様な気配を放っていた。


 「ヴァルゴス……!」  アオイは息を呑んだ。新世界大陸への長い航海の間も、背後から追尾していた最悪の猟犬。


 「カハ……、ハハハハハ……!!」  ヴァルゴスは喉の奥から、複数の声が混ざったような不快な笑い声を響かせた。彼が引きずる巨大な戦槌もまた、どす黒い魔力を帯びて脈動している。  「追いついたぞ……アオイ。この果ての果てまでな……! 素晴らしい力だ……南の神殿で見つけたこの澱んだ『力』は、俺を真の無敵にしてくれた!」


 狂将ヴァルゴス。彼はアオイを追う過程で、力への果てしない渇望から、自らの意志で魔人族の因子――世界の歪み――をその身に取り込んでいた。旧時代の『他者を搾取して力を得る』という生き様が、世界の混沌と最悪の融合を果たした姿だった。


 「あの男、完全に理の歪みに正気を食われておる!」  ガルバードが警告するより早く、ヴァルゴスが地面を蹴った。  常軌を逸した速度。彼が踏み込んだ地点の空間そのものが、物理法則を無視してモザイク状に欠落する。


 アオイは咄嗟に防壁の術式を展開した。  完璧な論理で構成された「光」と「土」の複合障壁。どんな物理的打撃も、計算されたベクトルで受け流す最強の盾。


 ――バキィッ!!


 だが、ヴァルゴスの振り下ろした戦槌は、アオイの防壁を「術式の構造ごと」粉砕した。


 「なっ……!?」  アオイは衝撃で後方に吹き飛ばされ、氷の壁に激突した。  「アオイさん!!」エリスの素っ頓狂な声が響く。


 口から血を吐き出しながら、アオイは信じられない思いでヴァルゴスを見た。  (術式の構造が、書き換えられた……? いや、違う。あいつの攻撃にはそもそも『法則』が存在しないんだ!)


 歪みの塊と化したヴァルゴスの暴力は、アオイが用いる「世界の正しいルール」を強制的に破壊し、無効化していた。正常な理の術では、世界を壊す混沌には勝てない。


 「どうした、あの時の力はそんなものか! 俺をもっと楽しませろ!!」  ヴァルゴスが狂ったように戦槌を振り回す。その一撃ごとに、極北の氷河が不自然な四角形に抉り取られ、空間の景色そのものが剥がれ落ちていく。


 アオイは必死に回避を続けながら、思考を極限まで加速させた。  (このままじゃ勝てない。奴の存在自体が、この世界の法則の『外』にある致命的な狂いだ。正規の術式では干渉できない……!)


 背後の石板が、再び不気味な赤い光を放ち始めた。  世界の根幹が、歪みの増大に耐えきれず悲鳴を上げている。このままではガルバードもエリスも、空間の崩壊に巻き込まれて消滅する。


 (俺が……この世界の設計の雛形なんだとしたら)  アオイは、血を拭いながら立ち上がった。  (俺には、この理そのものを根底から書き換えるだけの『特権』があるはずだ!)


 「エリス! ガルバード! 石板から離れろ!!」  アオイは叫ぶと同時に、かつてないほどの深さで、自身の意識を世界の深淵へと沈めた。  思考の限界突破。感情も、痛みも、恐怖も、すべてを切り捨て、ただ一つの絶対的な「創造の管理者」として理の奥底に干渉する。


 「……禁術、解放」  アオイの周囲の空間から、一切の音が消えた。  吹雪の咆哮も、ヴァルゴスの狂笑も。


 アオイの右手に、目にも止まらぬ速度で光の数式が凝縮し、一本の輝く刃を形作る。  それは世界のルールに従って現象を起こす魔法ではなく、ルールそのものを強制的に書き換えるための、根幹への直接干渉の形だった。


 「消滅しろ、理の外の淀み」


 ヴァルゴスが獣のような咆哮を上げ、全方位から空間を削り取るような一撃を放つ。  アオイはそれを避けることなく、真っ直ぐに踏み込んだ。


 光の刃が、ヴァルゴスの戦槌と激突する。  だが、音は鳴らなかった。  光の刃が触れた瞬間、ヴァルゴスの戦槌に纏わりついていた赤い歪みの奔流が、根本から分解され、無数の光の粒子となって雲散霧消していく。


 「ガァァァァッ!!? 俺の……力が……!!」  ヴァルゴスが初めて恐怖らしき声を上げた。


 アオイは無言で刃を振り抜き、狂将の胸に深々と突き立てた。  「お前の執着も、俺たちの設計の責任だったのかもしれない。ここで終わらせる」


 途端、ヴァルゴスの肉体を侵食していた歪みそのものが、アオイの禁術によって強制的に消去・浄化されていく。  狂将の赤い目は大きく見開かれ、やがて、その異形の巨体は音もなく崩れ落ち、ただの灰となって氷の世界へ溶けていった。


 終わった。  アオイが安堵の息を吐こうとした、まさにその時。


 ――ピキィィィィィンッ!!


 周囲の空間が、巨大なガラスのように砕け散る音が響いた。  理の書き換えという強引な禁術。それは確かに眼前の淀み(ヴァルゴス)を消し去ったが、同時にこの脆くなっていた世界の基盤そのものに、決定的な亀裂を入れてしまったのだ。


 極北の大地に、幾千もの底知れぬ暗黒のヒビが走る。  「アオイ……! 世界が、割れるぞ!!」  ガルバードの悲痛な叫びが、崩壊していく現象の中で虚しく響き渡った。

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