第十三話 長き航海と新世界大陸の衝撃
南方大陸で狂将ヴァルゴスの強襲を退け、命からがら港へ逃れ出たアオイたちは、そのまま西へ向かう大型の長距離航海船に乗り込んだ。 目的地は、東方の狂える賢者・ガルバードが地図の最果てに記していた未知の大陸だ。
そこからの航海は、果てしなく単調で、同時に神経をすり減らす日々の連続だった。 帝国大陸から東方大陸、あるいは南方大陸への航行とは次元が違う。地図の空白地帯である「新世界」へと至る海は、潮の流れも風の性質も全く異なっていた。 時には何週間も凪が続き、照りつける太陽のもとで水と食料を切り詰める日々。またある時は、天を突くような黒い大波が数日間にわたって船を弄び、アオイが不眠不休で術式による姿勢制御を強いられることもあった。
「ここなら、ヴァルゴスたちもすぐには追ってこられないでしょう」 甲板で潮風に吹かれながら、エリスが安堵の息をついて言ったのは、出航からひと月が過ぎた頃だった。 だが、アオイの表情は晴れなかった。 「……奴は、一度嗅いだ獲物の血を諦めるような男じゃない」 背後に迫るあの狂気の猟犬の気配は、この広大な海を隔ててなお、見えない刃のようにアオイの首筋を撫で続けていた。
そうして海の上で何十日を過ごした頃だろうか。 ついに水平線の彼方に、鬱蒼とした緑の塊が姿を現した。
新世界大陸の沿岸は、アオイが見た中で最も原初的な景色だった。
鬱蒼とした熱帯の森。川幅の広い大河。見たことのない色の鳥たちが空を飛び、川岸では巨大な生き物が寝そべっている。帝国大陸の整備された道路も東方の石畳もなく、ただ自然だけがある。
「夢の中だけに現れる都市がある、という伝承があるそうだ」
新世界大陸近くまで同行した海人族の船乗りが言った。「いくつかの先住民族がそれを信じている。夢を見る者だけが行ける場所がある、と」
アオイは夢を見た。
赤い光。無数の光の帯が交差する空間。そこに何者かがいた。
「蒼」
声だった。女性の声で、どこか無機質な響きを持ちながらも、ひどく温かい。
「ARIA?」
その名前が自然に出た。知らない名前のはずなのに。
「はい」
「……お前は誰だ?」
「あなたのことを、ずっと見ていました」
「俺を知っているのか?」
「あなたが忘れていても、私は覚えています。あなたが最後に言った言葉を。全部」
アオイは夢の中でARIAに手を伸ばした。触れようとした瞬間、赤い光が弾け、声が途切れた。
目が覚めた。
船が細い支流を遡上する甲板の上。夜が明けて、オレンジ色の光が森の輪郭を染めていた。エリスが心配そうに横に座っていた。
「うなされていました」
「……夢だ」
「何の夢?」
アオイは少し考えた。
「誰かと会話していた気がする。その誰かは……ひどく懐かしい声だった」
エリスが空を見た。「神様……かな」
「かもしれない」
太陽皇国は、未開の森の奥深くにある文明国だった。
段々と都市の規模が大きくなり、石積みの巨大な階段状の神殿が見えてきた。色彩が鮮やかで、赤と金と碧が混ざり合った装飾。砂漠の神殿とも、帝国の神殿とも、東方の神殿とも全く異なる意匠。
太陽神殿の前に立った時、アオイは術式の感覚を広げた。
違和感があった。
この神殿の術式構造が、他とは根本的に違う。他の神殿は全て、同一の設計者が引いた「根幹の設計図」から派生している。しかしここは――違う。
神殿の中で、儀式が行われていた。 そして彼らの魔法を見た時、アオイは息を呑んだ。
「血の術」だ。
術師の手首から引き出された血が、空中で光り、術式として展開している。それは確かに魔法だった。しかし通常の魔法とは全く違う構造をしていた。属性魔法でも、式術でも、仙術でも、星術でもない。アオイが今まで見てきたどの術とも、根底の原理が違う。
式術で読もうとした。 読めなかった。
「……おかしい。俺の知っている世界のルールの外にある」
血の術は「世界の深部」に直接アクセスするのではなく、全く別の階層に干渉していた。世界には複数の設計層があるのか? それとも、世界の設計者が意図していない『例外の術式』が生じたのか?
儀式の間、祭壇の上に人が倒れた。
供犠だった。
アオイは思わず身を乗り出して止めようとした。しかしエリスが袖を掴んだ。「止まって」
「しかし――」
「ここは彼らの地です。彼らの論理があります」
アオイは動きを止めた。 エリスの言葉は正しい。この文化の中で、これは「神への捧げもの」であり、血を流さねば太陽が昇らないという切実な祈りの形だ。外から来た旅人の論理で、それをいきなり否定して良いのか。
しかし胸の奥深くに、静かで暗い怒りが湧き上がっていた。人の命が、術式を発動させるための「燃料」として消費されることへの、本能的な拒否感。
「彼らの論理を、俺が否定できるのか」
自分に言い聞かせながら、答えは出なかった。そして脳裏をよぎるのは、南方大陸で見た奴隷貿易の凄惨な光景、そして純粋な暴力を楽しんでいたヴァルゴスの狂気だった。 世界は美しいだけではない。この痛みに満ちた構造は、誰が許したのか。
神殿を出た後、皇国からさらに離れた、精霊を信じる先住民族の集落に招かれた。
祭壇の奥に座るシャーマンの老婆がアオイを見た瞬間、目を見開いて立ち上がった。 何かを鋭く叫ぶ。その未知の言語は、アオイの脳内では即座に『この人の体に精霊がいる』と自動で意味が変換されていた。かつて異世界に落ちた日から彼にだけ備わっていた、理不尽なまでの言語翻訳能力だ。 一方、言葉が分からないエリスが戸惑っていると、傍らにいたシャーマンの若い助手が、拙い帝国民言葉で慌てて訳して聞かせた。
アオイは「迷信だ」と思った。しかし老婆は言葉を続ける。助手もその後を追うように、エリスに向けて丁寧に言葉を拾った。
「……この旅人は、精霊の言葉を生まれつき受け取れるよう作られている。我らが『イヤウ・アニム』と呼ぶもの――精霊の源、大いなる母の声――を、直に聞ける器官を持っている、と」
助手がさらに「イヤウ・アニム、というのは我々の言葉で"全ての精霊を生んだ存在"という意味です」と付け加えた。
アオイの全身に鳥肌が立った。
全ての精霊を生んだもの。意思を持つ小精霊たちの「設計者」。世界を維持する大いなる意志。 頭の中で、名前が浮かんだ。
(ARIA。それはARIAだ)
「お前は今、何と言った?」
老婆の言葉を助手が重ねる。「大いなる母に会いたいのなら、世界の物音が消えた場所へ行くがいい。極北だ。そこに"大いなる声"の出口がある」
極北。 ガルバードの地図に、赤い点がついていた最果ての場所。
先住民の集落で、長老とともに食事を作った。
トウモロコシと豆と鹿肉。シンプルだが完成している。獣脂の使い方が巧みで、素材の旨みを最大限に引き出している。「無駄がない」とアオイは感嘆した。
長老が深みのある声で語りかけた。「お前の術もそうだ」 エリスには通じていないようだが、アオイにはその言葉がはっきりと理解できていた。
「大いなる母が、俺に全ての言語を理解できるよう設計したのか?」
己の脳に組み込まれていたその構造的設計の根源的な意味を、アオイは初めて真剣に考えた。
夜、アオイは星を見た。
世界の北端にいる何かが、ここまで印を送ってくれている。ガルバードが知っていた地図の赤点。シャーマンが言った「極北へ行け」。そして背後からは、狂将ヴァルゴスの追撃がいつ来るかもわからない焦燥。
全てが一点へ向かっている。
「次は北だ」
アオイは炎を見つめながら、静かに決断した。
時を同じくして、はるか遠く離れた南方大陸の密林。 アオイたちが立ち去った後も、ヴァルゴス率いる独立軍閥は『始まりの神殿』の深部を徹底的に蹂躙していた。 無数の先住民の亡骸が転がる祭壇の最も奥深く。そこには、世界の理から逸脱した禍々しい「赤黒い澱み」――物理法則の綻びから漏れ出す、魔人族の因子の源泉――が渦巻いていた。
「カハ……ククク……」 傷だらけの剛腕を、ヴァルゴスはその澱みの中へと躊躇いなく突っ込んだ。
接触した瞬間に精神を汚染し、肉体を崩壊させるほどの『歪み』の奔流。 並の人間なら即死するその致死的な魔力に焼かれながらも、ヴァルゴスは異常なまでの執着心と狂気だけでそれに耐え切り、あろうことか自らの肉体へと強引に同化させていく。 力への際限ない渇望。アオイという極上の獲物への飢え。それこそが、理の外にある魔人族の因子と最悪の親和性をもたらしていた。
「見えるぞ……。あいつが向かった場所が……」
ヴァルゴスの筋骨隆々たる半身が、赤黒い斑紋に侵食されていく。 獣のように歪んだ狂将の咆哮が、血の匂いが立ち込める密林の夜にこだました。




