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OR Memory ―あるいは、記憶の旅―  作者: shw


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第十一話 悲哀の南大陸と伝承の歌

 巨大な帝国の旧体制が崩壊の産声を上げた日から、三週間後。  南へ下る交易船に乗ったアオイとエリスは、赤道に近い南方大陸の港町『カルミナ』に到着した。


 そこは、これまでのどの場所とも違う、原色の生命力に満ちた土地だった。  帝国側の深く暗い海とは違う、底まで透き通ったエメラルドグリーンの浅瀬。  空気を満たすのは、ねっとりとした甘い熱帯花の香りと、強烈な潮の匂い。真っ白な砂浜の向こうには、巨大なシダ植物や椰子に似た樹木が天を突くように群生している。


 「わあ……きれいな海……!」  エリスが船縁から身を乗り出し、感嘆の声を上げた。  アオイも目を細め、その鮮やかな色彩のコントラストを無意識のうちに脳内で映像情報として処理しながら、「確かに、悪くない造形だ」と呟いた。


 しかし、その美しい港町の光景は、船が波止場に近づくにつれて、醜悪な現実によって急速に塗り潰されていった。


 港の一角。巨大なガレオン船から、重い鎖の音を引きずりながら降りてくる人々の列があった。


 深い茶色や黒曜石のような肌を持つ、南方大陸の先住民・ウンブラ人たち。  男も女も、腰布一枚の粗末な姿で、うつむいたまま重い足取りで歩かされている。列の中には、まだ幼い子どもの姿すらあった。その虚ろな目には、一切の希望の光がない。  彼らの周囲には、革鞭を持った屈強な帝国人商人と、武装した複数の傭兵たちが立ち塞がり、見張りをしていた。


 「『労働力の輸入』だ」  アオイの背後から、同じ船に乗っていた商人が吐き捨てるように言った。  「帝国本国の政権は瓦解しかけているらしいが、ここら辺の末端の利権は手付かずのままだ。奴ら、南方大陸の原住民を安く買い叩いて、北の鉱山の使い捨ての『替え刃』として売り飛ばす気だ」


 アオイはピタリと足を止めた。  「あれは……」  エリスが手すりを強く握りしめ、顔面を真っ青にして言葉を詰まらせた。「……奴隷、ですか」


 「そうだ」


 「なんで……あんな小さな子まで……」  エリスの瞳からポロリと涙がこぼれ、彼女は口元を手で覆った。


 アオイの胸の奥底で、ドス黒い何かが静かに、だが急激に膨張し始めた。  怒りだ。激しく、純粋で、システム全体に対する強烈な怒り。


 この世界は、自然環境も、人の営みも、食事も、一見すれば美しく整っている。  だが、その裏側には常にこのような『構造的な理不尽』が組み込まれている。誰かを踏み躙ることでしか成立しない、致命的な欠陥。


 「……これも、お前が『幸福の舞台』として設計した箱庭の一部なのか」


 アオイは無意識のうちに呟いていた。  誰への言葉でもない。だが、確かに『誰か』――雲のずっと上の彼方で、この狂った世界を設計し、運用している存在への、直接的な憎悪だった。


 アオイは迷わなかった。  論理的に考えれば、ここで介入することは極めてリスクが高い。帝国の既得権益に手を出せば、旅人一個人の問題では済まなくなる。  だが、列の中で母親から無理やり引き剥がされそうになり、泣き叫んでいる七歳ほどの子どもの姿を見た瞬間、アオイの脳内のストッパーは完全に外れた。


 ドンッ、と甲板が鳴った。  アオイは船縁を蹴り飛び、波止場の石畳の中心へと音もなく着地した。


 「何だお前は!」  傭兵の一人が目を剥き、剣を抜いた。


 アオイは手も振らず、ただ視線を走らせた。  無詠唱の式術が発動し、ガレオン船と陸を繋ぐタラップが『見えない壁』によって完全に封鎖される。  傭兵たちが慌てふためく中、アオイはすでに数名の奴隷の足元に近づいていた。


 錠前の物理的な噛み合わせを術式の『目』で瞬時に解読する。  カチャリ、カチャリと、一切の物理的接触なしに、重い鋼鉄の錠前がつぎつぎと弾け飛び、鎖が砂上に落ちた。


 「き、貴様ッ! 我ら帝国商人の正当な取引を邪魔する気か!」  恰幅の良い奴隷商人が顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。


 「帝国は現在、大規模な再建中だ」  アオイは冷ややかな声で告げた。「今、帝都の真ん中で暫定政府を立ち上げているのは誰か知っているか? かつてお前たちに泥を舐めさせられてきた獣人や亜人たちだぞ。彼らが、同族以外の他種族だからといって鎖で繋ぎ、尊厳を奪うような旧帝国のやり方を、この先も認めると思っているのか? 今すぐ全て停止しろ。でなければ俺が新政府の代理として、ここでお前たちを切り捨てる」


 「戯言を! やれ、術師共!」


 商人に雇われた三人の術師が、一斉にアオイに向けて攻撃魔法を放った。炎の矢と岩の槍。  だが、アオイはその術式の構造を指先一つで撫でるように読み解き、構成要素を反転させた。魔法はアオイに届く直前で、ただの赤い光の粉となって霧散した。


 「なっ……!?」


 アオイがさらに奥の数十人の鎖を解こうと右手を上げた、その瞬間だった。  背後から、見えない糸で引かれたような微小な牽制の魔力が飛んできた。


 『――そこまでにしておけ、西の式術師』  アオイの脳内に直接、あの感情の読めない硬質な声が響いた。帝都から同行してきていた鼠人族の『マウス』による念話術式だ。


 『これ以上やれば、本格的な国際問題に発展する。今の暫定政府には、末端の商人ギルドと正面から戦争をするだけの外交的・軍事的な体力がない。今あいつらを全滅させれば、報復として他の集落のウンブラ人が虐殺されるぞ』


 アオイの右手が、空中でピタリと止まった。  冷徹な論理思考が、マウスの警告の正しさを証明していた。目の前のエラーを力でねじ伏せても、国を覆う大元の仕組みを正さなければ、歪みはもっと大きな被害を出して膨れ上がる。


 (……くそっ)  アオイは手を下ろし、ギリッと奥歯を噛み締めた。


 救えたのは、タラップの手前にいた十数人だけだった。  船の中には、鎖に怯える何十人もの命がまだ残っている。  そのどうしようもない無力感が、アオイの胸の中に重苦しい鉛となって淀んだ。


 解放した十数人のウンブラ人を安全な隣の港まで避難させると、一人の老婆が泥だらけの手でアオイの手を固く握りしめた。  彼女は深い感謝を伝えようとしたが、共通の言葉を持たなかった。だが、その深く皺の刻まれた顔からこぼれる大粒の涙が、痛いほどの感謝と悲しみを伝えてきていた。


 アオイは何も言えず、ただその老婆の手を無言で握り返すことしかできなかった。


 その日の夜、ウンブラ人の小さな隠れ集落で粗末な食事を振る舞われた。


 食材は極めてシンプルだった。数種類の芋のような根菜と、野生の果実、そして少しばかりの小魚。  しかし、一口食べた瞬間、アオイの舌は驚きに跳ねた。  塩が使われていない。代わりに、強烈な潮の香りを持つ海草から抽出された旨味と、十種類近い野生の香草が重層的に絡み合い、驚くほど深く複雑なハーモニーを生み出している。


 「アオイさん……これ、すごく美味しいです」  目を丸くするエリスの隣で、アオイは静かに料理を見つめ直した。  「……見事な設計だ。自然環境の制約を、知恵による最適化で完全に乗り越えている」


 食事中、ふと不思議な音が聞こえてきた。  別の大きな鍋を焚き火にかけてかき混ぜていた料理人の老婆が、低い、呪文のような抑揚で歌を口ずさんでいたのだ。  アオイは耳を澄ませた。


 (……ただの歌じゃない)  それは、音楽の中に精緻に組み込まれた『レシピ』だった。  何種類の香草を、どの順番で、どのタイミング(何小節目のリズム)で火に投入するか。文字を持たない彼女たちは、音とリズムという情報媒体に、部族の命を繋ぐ高度な『論理構造』を書き込んでいたのだ。


 「……伝承歌(口伝の術式)、か」  アオイは呟いた。言語も違う、文字すら持たない。だが、そこにある情報の伝達構造は、アオイが知る魔法やシステムのコードと全く同じだ。この世界の人々は、与えられた理不尽な環境の中で、必死に自分たちの『プログラム』を最適化して生き抜いている。


 「……次の大陸へ行く前に」  食後、焚き火の炎を見つめながら、エリスがぽつりと聞いた。  「この人たちのために、私たちができることは、もう『ない』んですか?」


 アオイは炎を見つめたまま、静かな声で答えた。  「マウスに頼んでおく。鼠人族の諜報網を使って、あの船で運ばれた奴隷たち全員の名前、特徴、そして売却先を裏から追跡し、完全に記録させる」  そして、エリスの目を見た。  「証拠となる記録を残しておけば、帝国の新政府が安定した時、必ず彼らを正規の交渉で買い戻すための切り札として使える」


 「……今は、それだけですか?」


 「ああ。俺個人の武力による強制介入は、これ以上は逆効果にしかならない。……理不尽な世界の仕組みを、個人で無理やりねじ曲げることはできないんだ」


 正直な、そして冷酷なほどの論理的結論だった。  エリスは何も言い返さず、ただ悲しげに頷いた。


 翌朝。  アオイたちはウンブラ人の案内のもと、カルミナの集落を後にし、南方大陸のさらなる奥地――密林深くへと足を踏み入れた。  老婆が語った伝承歌の中に、この世界を設計した何者かの決定的な痕跡、『始まりの聖所』の存在が示されていたからだ。


 (今のままでは……到底届かない)


 鬱蒼とした密林の湿度を肌に感じながら、アオイは拳を強く握りしめた。  この無力感すらも、神が与えた試練だというのか。  システムに踊らされているだけの自分への苛立ちと、この理不尽な苦しみを世界に敷き詰めた設計者……あの遠い記憶にある『ARIA』という存在に対する絶対的な怒り。


 「……首を洗って、待っていろ」


 深緑の迷宮を見据えながら、闇色の瞳の式術師は、冷ややかな声で世界システムへの宣戦を布告した。


 時を同じくして、帝国東部の旧領地。  独立軍閥と化した元辺境鎮圧軍の野営地に、南方の商船団から一つの報告がもたらされていた。


 「……南方大陸の港町カルミナで、奴隷船が何者かに襲撃されただと?」  天幕の中で報告を受けた将軍ヴァルゴスは、銀色の目を細めた。  「はい。目撃者の証言によれば、襲撃者は黒髪の男で、詠唱もせずに魔法の構造を書き換えるという、聞いたこともない特異な術を使ったと」


 「クク……」  ヴァルゴスの喉の奥から、歪んだ笑いが漏れた。  「間違いあるまい。あの男だ。あのような芸当ができる化け物は、世界広しといえどあいつしかいない。南の商人ギルドは暫定政府に脅されて泣き寝入りしたようだが、我々には関係のない話だ」  将軍は立ち上がり、鈍く光る巨大な戦槌を肩に担ぐ。


 「全隊に通達しろ、南の密林へ向かう。地の果てまで追い詰め、あの極上の力を解体してやる」  狂将の双眸が、血の飢えに爛々と輝いていた。

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