第十話 体制の崩壊と共食の夜
ヴェルナ帝国の崩壊は、拍子抜けするほど静かだった。
将軍レイヴンの麾下にある精鋭部隊が「アオイに従う」と帝国に反旗を翻した事実が、巨大な暴力機構の足並みを一瞬で麻痺させたのだ。 さらに、鼠人族マウスが指揮する『闇焔』の構成員たちが、帝都の通信網(連絡用術式)と主要拠点を同時多発的に制圧。 無敵を誇った軍事国家は、その巨体を支える骨組みを内部から完全に掌握され、血みどろの内戦を起こす猶予すら与えられずに機能停止へと追い込まれた。
アオイが皇帝と対面したのは、近衛兵が武装解除された後の、静まり返った玉座の間だった。
大理石と金箔で彩られた異常なほど広い空間の奥。 七段の階段の上に置かれた豪奢な玉座に腰掛けていたのは、アオイが想像していたような冷酷な暴君――ではなく、ひどく老いさらばえた、ただの疲れ切った老人だった。
玉座からゆっくりと立ち上がり、皇帝は重い足取りで階段を降りてきた。 そして、アオイの目の前で、床に崩れ落ちるように座り込んだ。 その濁った瞳に、怒りや復讐の炎はない。あるのは、ただ底知れぬ『虚無』と『諦めの色』だった。
「……神が、この世界を支配している」 老人は、ひび割れた声でひそやかに言った。「私は……ただの都合のいい道具だったのだ」
その言葉が、アオイの胸の奥底にある冷たい何かをチクリと突いた。 「皇帝家は、神から統治の権能を与えられたという『神授説』を信じていたのか?」
「信じていたとも。それが我が帝国の建国神話だ。我々は神の代理人として、世界を正しく統べる義務があると……そう信じて、手を血に染めてきた」 皇帝は重く目を閉じた。 「しかし今は……違う。お前のような理解不能なバケモノが現れた。神の子でもないただの旅人が、たった数日で大帝国を機能不全に追いやった。もし神が、貴様のような存在に新たな権能を与えたと言うなら、次の統治者はお前だ。……だが、もしお前が『違う』と言うのなら……」
老人はカッと目を見開き、アオイを見上げた。
「神授説そのものが、我々を踊らせるための『巨大な嘘』だったということになる」
アオイは無言で、目の前の老人を見下ろしていた。 国を治め、他種族を迫害し、数え切れぬ血を流してきた頂点。だが、彼自身もまた、世界の『設計者』が盤上に配置した「帝国の王」という役割を忠実に実行させられていただけの、哀れな駒に過ぎないのかもしれない。
「……玉座から退いてくれ」 長い沈黙の後、アオイは感情のない声で告げた。 「それだけでいい」
「……それだけ、か?」
「それだけだ」
老人は何も言い返さず、力なく頭を垂れた。 玉座がどれほど巨大で豪奢であろうと、そこに座る「意味」が上書きされれば、それはただの豪華な椅子へと成り下がる。数百年続いた血塗られた支配構造が、今この静けさの中で完全に終了したのだと、アオイは冷ややかに認識した。 そこに勝利の熱狂はない。ただ、古いプログラムが消去された後のような、空虚な余韻だけが残っていた。
翌日からは、嵐のような戦後処理が始まった。
闇焔の幹部たちが、帝国の崩壊による無政府状態を防ぐため、新たな『暫定協議体』の設立に奔走する。各地の部族や都市の代表を呼び寄せ、合議制の体制を構築する。それが機能し始めるまでの間、元帝国将軍のレイヴンと、反逆組織のマウスたちが暫定的に治安と調整役を担うことになった。
旧体制側の竜人族と、反体制側の鼠人族。 アオイはその二人が机を並べているのを見て、「互いのリソースを補うには、悪くないモジュール構成だ」と評価した。
しかし、アオイの役割は為政者ではない。 彼には、今すぐにやらなければならないことがあった。
暫定政府が立ち上がった初日の夕刻。 アオイは旧皇城の広大な厨房を占拠していた。
「……何をしている?」 作戦の報告に立ち寄ったマウスが、呆れたように目を丸くした。「休んでいい。今日は、我々にとって歴史的な勝利の日だぞ」
「だから飯を作る」 アオイは巨大な鍋に火を入れながら、短く答えた。
「……城には、我々に下った帝国の宮廷料理人が大勢いる」
「知っている。下準備は手伝ってもらった」
その夜、旧皇城の大食堂には奇妙な円卓が用意された。 帝国の宮廷料理人、闇焔のドルカ、獣人のマウスとコル、元将軍のレイヴン、そしてアオイにエリス。 さらに、武装解除されたあとも処刑を怯えていた帝国の旧将校たちが数名、おずおずと末席に座らされていた。勝者と敗者、多種多様な種族が、階級の区別なく同じテーブルに着くという、帝国時代にはあり得ない光景。
テーブルの中央に運ばれてきたのは、大皿に盛られた巨大な肉と野菜の煮込み料理だった。
帝国の宮廷料理で使われる最高級の肉をベースに、東方大陸の運河都市・廉州で買い込んだ発酵調味料で旨味の土台を作り、砂漠地帯(カラン共和国)の老女から完全に解析したスパイスの猛烈な香りを重ね、さらに北方部族の『長船』でもらった強い酸味を持つ乳飲料を隠し味として全体の味を調和させる。 世界中の「バラバラの要素」を、アオイの圧倒的な計算能力によって完璧な関数として組み合わせた、奇跡のような折衷料理だった。
最初に宮廷料理人がスプーンを口に運び、絶句した。 「……信じられない。東の臭い油と、南の泥のような香辛料が……我が帝国の至宝の肉と、これほど完璧に融合するとは……!」
それを合図に、皆が一斉に皿に向かった。 帝国軍の旧将校の一人が、無我夢中で料理を口に運びながら、ぼろぼろと涙をこぼして言った。 「……こんな終戦は、聞いたことがない」
アオイは静かに自分の皿の肉を噛みしめながら、答えた。 「食卓は、誰にとっても一番平等な場だ。これが俺なりの、対話の第一歩だ」
レイヴンが「お前は式術師より、料理外交官の方が向いているんじゃないか」と鼻で笑った。 コルが声を上げて笑い、エリスが心底ホッとしたような、柔らかい笑顔を見せた。 マウスは相変わらず感情の読めない顔のままだったが、誰よりも早く皿の中身を空にしていた。
『式術師』という謎めいた異名が、帝国大陸のみならず、世界中に広がったのはその後のことだった。 帝国最強のレイヴン将軍を呪文なしの魔法で下し、たった数日で冷酷なる皇帝を玉座から引きずり下ろした、闇色の瞳を持つ旅人。 まるで神の代理人のようなその噂は、アオイたちの歩く先を常に追い越して広がっていった。
だが、当のアオイの頭の中は、名声や権力ではなく、すでに『次の目的地』のことで占められていた。
「……『新世界大陸』」
東方の狂える賢者・ガルバードが、地図の最果てに記していた未知の大陸。 そこにはまだ見ぬ常識外の魔法があり、そして神殿ではない『別の巨大な何か』が隠されている予感があった。
「次は、どこへ向かうんですか?」 エリスが、アオイの横顔を見上げながら尋ねた。
「その前に、南方大陸のさらに奥地へ寄る。世界の本当の姿を知るには、まだ足りない手がかりがある」 アオイは遠い空の先を見つめながら答えた。
「……まだ、行くんですか?」
「旅に終わりはない」
エリスは静かに微笑んだ。 出会った頃の、村で怯えていたただの村娘の顔はもうない。彼女の瞳には、世界の真実を知る者としての、静かな自信と覚悟が宿っていた。
翌朝。 帝国の旧体制が瓦解し、新たな歴史が動き始めた熱狂の街を背に、アオイとエリスは次なる地、南方大陸の果てを目指して出発した。 真の設計者を引きずり出し、己の過去を証明するための旅は、まだ終わらない。
帝都から遠く離れた、帝国東部国境の荒野。 砂塵の舞う巨大な辺境鎮圧軍の駐屯地に、帝都陥落と皇帝退位の急報が届いたのは、暫定政府が立ち上がってからしばらく後のことだった。
薄暗い天幕の奥。書簡を読み終えた将軍ヴァルゴスは、蝋燭の炎でその紙片を無造作に燃やした。 「……あの『式術師』が、帝都を落としただと?」 口の端を歪め、ヴァルゴスは低く笑った。かつて彼が東の海へ追いやった、得体の知れない旅人。その男が海を越えて舞い戻り、皇帝を玉座から引きずり下ろしたというのだ。
副官が青ざめた顔で進み出た。 「将軍閣下……帝都の暫定政府は、我が部隊にも武装解除と恭順を求めております。我々も直ちに本国へ戻り――」 「馬鹿を言え」 ヴァルゴスの冷徹な銀色の目が、副官を射抜いた。 「素性の知れん亜人や反乱分子どもが作った寄せ集めの政府など、誰が従うものか。それに、あの極上の玩具を野放しにしておくには……少々惜しすぎる」
ヴァルゴスの薄い唇が、三日月のように歪む。その狂気じみた笑みに、副官が息を呑んだ。 帝国というくびきが外れた今、彼が率いる辺境鎮圧軍は、そのまま独自の強大な独立軍閥へと変貌を遂げる。 「全軍に告げよ。我々はこれより本国からの独立を宣言する。……そして、あの『式術師』を捕らえるための、我々独自の狩りを再開するぞ」




