ムチしかくれない厳しい彼女に別れを告げたら、とびきり甘いアメが投下されるようになった
俺の彼女は厳しい。
恋人らしい甘さなんてゼロで、家に呼んで、少しでもスキンシップを取ろうとすると──
「私はそんなことをするために、あなたの家に来たわけではないの。勉強しないなら帰らせてもらうわ」
いや、恋人の家って、むしろ触れ合うために来る場所じゃないのか。
手すら繋がないなら、おうちデートなんて言えないだろ。
朝、迎えに来たときの第一声も、
「どうして、そんなにゆっくりと支度をしているの? 早くしなさい」
甘いどころか、挨拶ですらない。お母さんや先生のほうが、まだ優しいくらいだ。
付き合い始めてまだ一ヶ月も経ってないのに、すでにかなり疲れていた。
一線を越えたいなんて思わない。ただ、楽しく笑い合えるだけでいいのに。
付き合う前に時折見せてくれていた柔らかい表情は、幻覚だったんだろうか。
(いや……俺が、思ったよりもだらしなかったんだろうな)
彼女——渚沙は、出会ったときから真面目な性格で、付き合う前は、その真っ直ぐさがとてもまぶしく見えた。
ノートは丁寧で成績は優秀、周囲からも一目置かれるタイプ。
(最初は、そういう自律心のあるところに惹かれたけど……)
でも——もう、疲れた。
渚沙の家のリビングで一緒に勉強している今も、甘さなんて一切ない。
だって、指先が触れるどころか、視線が合うことすらないんだから。
「綾人。ぼーっとしていないで、勉強しなさい。私はそのために、あなたを呼んだのよ?」
「あぁ……ごめん」
わかってる。学生の本分は勉強だ。
(でも、こんなのおかしい)
笑いも照れもなく、一緒に勉強するだけなら、恋人なんて呼べない。
だから、渚沙が休憩のためにソファーに座ったとき、意を決して隣に腰を下ろし、彼女の手を取ろうとした。
——パシッ。
触れたのは、温もりではなく拒絶だった。
「綾人、いつも言っているでしょう? そんなことをするために、一緒にいるわけではないのよ」
そんなことって、なんだよ——。
喉元まで出かかった反論を、なんとか飲み込む。
「でも、みんなこれくらいやってるし……俺たち、付き合ってるんだぞ」
すがるような言い方になってしまった。みっともないとは自分でも思う。
けど、これが限界だった。
渚沙は小さく息を吐いて、まっすぐ俺を見る。
「私を、そこら辺の人たちと同じにしないで。——くだらないことを言っている暇があるなら、勉強しなさい。私は集中するために休憩しているの」
もう、何度目だろう。渚沙に言われたその言葉。
正論だ。ぐうの音も出ない。だけど、胸の奥がどうしようもなく痛い。
(俺は、なんのために渚沙と付き合ってるんだろう?)
付き合えたときは、キラキラした日常が始まるのだと、胸を躍らせていた。
こんなはずじゃなかった。苦しい恋愛だけのなんて、あるはずがない。
(いっそのこと、告白なんてしなきゃよかった)
慣れないワックスに苦戦したり、必死にデートプランや告白の言葉を考えているほうが、ずっと楽しかった。
「何をぼーっとしているの?」
渚沙の声が、鋭く空気を裂く。
その瞬間、何かが音を立てて切れた気がした。
「……渚沙、別れよう」
その言葉は、自然と口をついて出た。
「えっ?」
渚沙が思わずといったように、こちらを見る。
「もう無理だよ。毎日毎日、怒られてばっかで……なんで付き合ってるのか、わかんなくなってきてる。ちょっと手を繋ごうとしただけで拒否されて、それで勉強しろって……そんなのおかしいだろ」
口調が荒れているのは、自覚していた。
けど、言葉を止められなかった。
「渚沙の言ってることが正しいのはわかってる。わかってるけど……もう限界だよ。それに、別れたほうが渚沙にとってもいいだろ。俺にイラつく必要もなくなるんだから」
声が震えた。抱えてきた思いを吐き出したはずなのに、胸の奥がざわついている。
苦しい。怒りか、悲しみか、自分でもわからなかった。
渚沙は何も言わない。
でも、その表情を確認するのは、怖かった。
「……ごめん。言い過ぎたな。それじゃ——」
沈黙に耐えられなくて、その場を立ち去ろうとしたところで、俺はぴたりと動きを止めた。
鼻をすする音が聞こえたからだ。
咄嗟に振り返り、俺は絶句した。
「な、ぎさ……?」
——渚沙が、ボロボロと涙を流していた。
口元をきゅっと結び、懸命に声を抑えている。だけど、頬を伝う雫は止まらない。
「……ごめんなさい……! 私、自分勝手だった……っ、綾人のこと、何も見てなかった……!」
「……はっ?」
(なにが……?)
状況が掴めず、俺は呆然と立ち尽くした。
渚沙はうつむき、両手をぎゅっと握りしめる。
「自律してるところが好きって言ってくれたから、ちゃんとしなきゃって……失望させたくなくて、どんどん意地になってた……。綾人がそんなに苦しんでるなんて思わなくてっ……本当にごめんなさい……!」
「えっ……」
俺は言葉を失った。
(そんな風に、思ってたのか……?)
まさか、あの厳しさの裏にそんな想いが隠れていたなんて——
嘘をついているようには見えない。けど、すぐには信じられなかった。
そんな俺の心の揺れを感じ取ったのか、渚沙は一度深く息を吸い込むと、か細い声で言った。
「……部屋に、来て」
「えっ……いいのか?」
「えぇ……見てほしいものが、あるから」
渚沙の部屋はきれいに整っていた。几帳面な彼女らしい、無駄のない配置。
だけど——
「……な、これ……」
机の横の棚。
そこには、小さなフォトフレームに丁寧に飾られた、俺の写真の数々が並んでいた。
「隠し撮りして、ごめんなさい。でも、すごく好きで……止められなくて……」
照れくさそうに言う渚沙は、いつもの彼女じゃなかった。
さらに、机の引き出しから取り出されたノートを開くと、そこにはびっしりとつづられた日記。
『もっと甘えたい。でも、綾人に嫌われたくない。私らしく、ちゃんとした彼女でいたい』
『今日、綾人がやっぱりしっかり者だなって、褒めてくれた。もっとしっかりしなきゃ』
『手、繋ぎたかった。でも、我慢した。好きだからこそ、そういうところはちゃんとしていないと』
そこに一貫して込められていたのは、しっかりしていなきゃという渚沙の想い。
俺が、そういうところしか、褒めていなかったから。
——肝心なことを、何も伝えていなかったから。
「私、変に意地を張ってた。自分の中で『正しい彼女像』みたいなのに縛られてて……本当はもっと、一緒に笑っていたかったのに、馬鹿みたいよね……っ」
渚沙が再び涙を滲ませ、視線を落とす。
本当はもっと、一緒に笑っていたかった——。
その言葉が、脳内で何度も繰り返される。
「っ……」
俺は知らずのうちに、指が手のひらに食い込むほど、拳を握りしめていた。
「……違うよ」
「……えっ?」
渚沙が目を瞬かせた。
「馬鹿なのは、俺のほうだ。渚沙のちゃんとしてるところも、もちろん好きだけど……それ以上に、ふとしたときに見せる笑顔とかに、俺は惹かれたんだ」
「えっ——」
渚沙が目を見開いた。
「そう……だったの?」
「あぁ……それなのに、恥ずかしくて、言えなかった……俺が、渚沙を縛りつけてたんだ。ほんとに、ごめん……!」
自然と、涙があふれた。
「いえ、綾人のせいじゃないっ……私が意固地になってたのが悪かったのっ。だから——」
渚沙が、ぎゅっと俺のシャツを握り、潤んだ瞳で見上げてきた。
「だから、お願いっ……別れるなんて、言わないで……!」
「っ……!」
胸が締めつけられて、呼吸が苦しくなる。
「許して……くれるのか? あんなに、ひどいこと言ったのに……」
「私のほうが、もっとひどい態度取ってたから……」
「……そっか」
唇を噛みしめ、こぼれそうな涙をこらえ、渚沙のほうへそっと腕を伸ばした。
指を絡めようとすると——彼女はパッと手を引いた。
「っ……やっぱり、いやなのか?」
「そ、そうじゃないけどっ、こ、心の準備が……!」
「えっ……そんなに?」
思わず、肩から力が抜ける。
「だ、だって、ふ、触れ合うって……そういうことでしょう? しかも、部屋でなんて……っ!」
真っ赤な顔でバタバタと手を振る渚沙を見て、俺はキョトンとしたあと——吹き出してしまった。
「な、なにがおかしいのよ!」
渚沙が睨みつけてくる。
俺は必死に笑いを堪えながら、首を振った。
「あのな、渚沙。いくら恋人でも、スキンシップがそのままそういう意味になるわけじゃないぞ」
「えっ……そうなの?」
今度は、渚沙がキョトンとした。
「そうだよ。高校生だったら、一気にそこまで行くやつらのほうが少ないって。……もしかして、それでずっと、避けてたのか?」
渚沙は真っ赤になりながら、こくんと小さくうなずいた。
「だから、その、厳しく言わなくちゃって思って……」
「なるほどな」
そんなことをするために、私は一緒にいるわけではないのよ——。
あの言葉も、そういう勘違いをしていたのなら、うなずける。いや、それでも厳しいは厳しいんだけどさ。
「大丈夫だよ。ちゃんと段階踏むし、渚沙が嫌がることは絶対しないから」
微笑みかけると、渚沙がおずおずと見上げてくる。
「……本当に?」
「あぁ。約束する。だからさ——手、繋いでいいか?」
「え、ええと、それは……」
渚沙はオロオロと視線を泳がせたあと、顔を背けたまま、こくんとうなずいた。
俺はドギマギしながら、指を絡める。渚沙の肩がビクッと震えるのが、伝わってきた。
彼女は顔を背けたまま、視線だけでチラチラと繋がれた手、そして俺の顔を交互に見ては、頬を染めている。
(かわいすぎるだろ……!)
とたんに、鼓動が早くなった。
でも、俺はハッと気づいた。
(こういうのを、言わないと)
俺が最初からちゃんと想いを伝えていれば、すれ違うことなんてなかった。
「——渚沙」
「なに?」
「その……好きだよ」
「っ……⁉︎」
渚沙の肩がピクリと震えた。
顔を赤くしたまま、目をぱちぱちさせる。
「え、えっと、い、いきなり、どうしたの……⁉︎」
「大事なことなのに、ちゃんと言ってなかったから。渚沙のこと、すごく、大切に思ってる」
言葉にすると、想いが溢れて止まらなかった。
「勉強ができるところも、真面目なところも好きだけど、それだけじゃなくて……笑った顔とか、恥ずかしがってるところとか、全部、好きだ」
「っ〜!」
渚沙は目を伏せ、顔を真っ赤にしながら小さく息を呑んだ。
ややあって、俺の手をぎゅっと握り返してきた。
「私も……」
「ん?」
渚沙はおずおずと視線を上げ、潤んだ瞳で俺を見つめる。
「……私も、その……綾人のこと、大好き、だから……っ」
その言葉に、心の奥がじんと熱くなった。
気づけば、咄嗟に彼女を抱きしめていた。
「きゃっ……!」
渚沙が小さく声を上げ、驚いたように固まる。
「あっ、ご、ごめん……! 段階踏むって言ったそばから……!」
慌てて離れようとした瞬間、渚沙の腕が、俺の背中に回される。
「……だいじょうぶ、だから……っ」
その言葉とともに、そっと体を預けてきた。
胸元に感じる鼓動が、俺のものと重なる。お互いの体温が、心まであたためていく。
(俺、耐えられるかな……)
思わず心の中で苦笑いしながらも、華奢な体を優しく包み込んだ。
◇ ◇ ◇
それからというもの、渚沙の厳しいお言葉には、一言付け加えられるようになった。
「いつまでチンタラしているの? ……おしゃべりする時間がなくなるじゃない」
「早く勉強しなさい。私はそのために来たのよ。……終わったら、綾人の好きにしていいけど」
「高校生なのに、こんなのはしたないわ。……綾人だけだから」
俺の彼女は厳しい。
けど、それを乗り越えた先には、とびきり甘い一面があるって、俺はもう知ってる。