黄昏のレクイエム
夕闇が、苔むした円形劇場跡の石段に静かに降りていた。パリ郊外の私有地にひっそりと隠されたその場所は、かつて子供たちの笑い声が響いた遊び場であり、今や二人の男の憎悪を飲み込む闘技場となっていた。アラン・ド・モルバンは、貴族の矜持を示すかのように背筋を伸ばし、傍らにマリー・アンヌ・ド・ヴァロワの視線を感じながら、手にするレイピアの切っ先を夕日の残光に煌めかせた。その細身の刃は、突きに特化した洗練された武器であり、彼の育った環境、そして彼自身の研ぎ澄まされた剣術を象徴していた。対するジャン=リュック・ルフェーブルは、土に汚れた外套の裾を翻し、重厚なブロードソードを構えていた。鍛え上げられた職人の腕を示すようなその大剣は、彼が積み重ねてきた努力と、内側に滾る荒々しい執念を映し出していた。
「さあ、始めようか、アラン。貴族の傲慢が、どこまで保つか見せてもらおう」
ジャンの声は低く、乾いていた。その憎しみに歪んだ瞳には、もはや幼なじみの面影はなかった。アランは答えない。ただ冷厳な表情で、レイピアの柄を握る指先に僅かな力を込めた。彼の手袋の下で、指の関節が軋む音が、張り詰めた静寂の中でひっそりと響いた。
最初の一撃は、ジャンから放たれた。地を蹴る音が鈍く響き、彼の分厚い革靴が湿った土に深くめり込む。その重い体躯をひねり、ブロードソードが風を切り裂き、唸りを上げてアランの頭上へと振り下ろされた。**「ヒュッ」**と、空気が震える音。それは単なる風切り音ではなく、長きにわたる憎悪が凝縮された鋼の咆哮のようだった。
アランは冷静だった。彼は一歩右へと踏み込み、わずかに重心を下げ、ブロードソードの鈍重な軌道を正確に見切る。そして、その振り下ろされた剣の横を、まるで踊るかのようにすり抜けた。同時に、彼のレイピアが電光石火の速さで閃き、ジャンの脇腹を狙う。「キンッ!」と、乾いた金属音が響いた。ジャン=リュックは寸でのところで剣を横に流し、辛うじてアランの突きを弾いたのだ。刃と刃が擦れ合う微かな「シュウッ」という摩擦音が、耳障りに響く。
アランの顔に、僅かな苛立ちが走った。予測よりも早く相手が反応したことに、彼の中の貴族的な余裕が削り取られる。ジャンの表情は、まだ変わらない。ただ、深く息を吐き出す音が聞こえた。
アランは即座に体勢を立て直し、再びレイピアを突き出す。今度はフェイントを織り交ぜた連続突きだ。「チィン、チィン、チィン」と、軽快な音が連続して響く。ジャンは、その全ての突きをブロードソードの広い刃で受け流し、あるいは逸らす。重い大剣を正確に操る彼の動きは、見た目の荒々しさとは裏腹に、驚くほど精密だった。アランの視界の端で、古びた石段の苔が、彼の軽やかな足取りによってわずかに揺れる。夕暮れの光が、石段の隙間から差し込み、ジャンの影を長く歪ませ、アランの視界をほんの一瞬だけ遮る。その一瞬の迷いも、この決闘では致命的になることをアランは知っていた。
ジャン=リュックのブロードソードが、低い姿勢から再び振り上げられる。それは斬撃ではなく、アランのレイピアを弾き飛ばすための強力な払いだった。アランは手首を巧みに返し、衝撃を受け流す。「カキンッ!」と、今度は鈍く響く金属音が、空気を震わせた。互いの剣が交差するたびに、わずかな振動が、柄を握る彼らの掌に直接伝わってくる。アランは、ジャン=リュックの腕の筋肉が、まるで岩のように硬く盛り上がっているのを感じ取った。このままでは、体力勝負に持ち込まれ、いずれ疲弊し、隙を晒すことになるだろう。
マリー・アンヌは、わずかに唇を震わせた。彼女の頬には、夕暮れの冷たい空気が触れるが、その肌は汗で僅かに湿っているようだった。彼女の視線は、二人の剣先から一瞬たりとも離れない。しかし、その瞳の奥には、彼らの過去が、そして失われた全てが、影のように映し出されていた。
アランの顔に浮かんだ苛立ちは、一瞬の隙となりかねなかった。ジャンはその機を逃さず、重いブロードソードをまるで風車のように振り回し、連続攻撃を仕掛けた。「ゴォッ!」「ガキィン!」剣が空気を切り裂く唸り声と、鋼と鋼がぶつかり合う鈍くも破壊的な音が、円形劇場跡にこだまする。ブロードソードの一撃一撃は、アランのレイピアを弾き、その腕に痺れるような衝撃を伝えた。アランは流麗な足捌きで間合いを取り、ジャンの猛攻をかわし続ける。その動きはまさに舞踏のようだが、一歩間違えば、あの重い刃の餌食となる綱渡りだった。
ジャンの眼は、怒りの炎を燃やし、血走っていた。彼の呼吸は荒く、吐き出す息は白く、冬の空気のように冷たかった。彼の右腕の筋肉が、ブロードソードを振り回すたびに隆起し、汗が額から顎へと伝い、土埃と混じって頬に筋を作った。一撃ごとに、彼は「なぜだ!」と心の内で叫んでいるようだった。その激しい攻撃は、技術よりも、彼の中に渦巻く深い恨みが剣に乗せられているかのようだった。
アランは、その憎悪の塊のような攻撃を冷静に受け流していた。彼のレイピアは、ジャンのブロードソードが振り抜かれるたびに、その死角から鋭い突きを繰り出す。「キンッ!」と、狙い澄まされた一撃が、ブロードソードの腹を叩き、軌道を僅かに逸らす。それは直接的なダメージを狙うものではなく、相手の体勢を崩し、動きを封じるための牽制だった。しかし、ジャン=リュックの剣は止まらない。アランがカウンターを仕掛ける一瞬の隙にも、彼は体を捻じり、ブロードソードの重さを利用した防御で、レイピアの突きをことごとく防いだ。
円形劇場跡の地面は、苔と湿った土が混じり合っていた。アランの軽やかなフットワークが、時折、滑りそうな足元に危険な揺らぎを生む。彼は重心を低く保ち、滑り落ちそうな足元を瞬時に立て直す。一方、ジャンは、その重い体躯を地面にしっかりと根付かせ、力任せの攻撃でアランを追い詰めていた。彼の踏み込みは、土を深く抉り、「ズシン!」と鈍い音を立てる。その振動が、アランの足元から全身に伝わり、彼の平衡感覚を揺さぶった。
アランの額には、すでに細かな汗が浮かんでいた。レイピアを握る手は、何度も剣と剣がぶつかり合う衝撃で、微かに震え始めていた。彼の呼吸は、まだ乱れてはいないが、確実にそのペースは速くなっていた。彼の脳裏には、ジャンとの友情を壊した過去の出来事が、フラッシュバックのように現れては消える。その幻影が、一瞬、彼の集中力を乱しそうになる。
マリー・アンヌは、まるで彫像のように静かに立っていた。彼女の白い顔に血の気はなく、その瞳は、二人の男の剣が交錯する一点に釘付けになっている。彼女の耳には、剣がぶつかり合うけたたましい金属音と、二人の荒い息遣い、そして自身の心臓が早鐘を打つ音が、重なって響いていた。彼女は、どちらが倒れても、そしてどちらが生き残っても、この決闘がもたらす結末が、いかに残酷なものであるかを知っていた。彼女の胸の奥では、何か熱いものが込み上げてくるのを懸命に抑え込んでいた。この激しい打ち合いは、互いの命を削り取るだけでなく、彼らの魂そのものを引き裂いているようにも見えた。
ブロードソードの猛攻は止まない。ジャンの剣は、もはや技術ではなく、怨嗟と疲労が入り混じった本能的な振り回しに変わっていた。彼の息は喉の奥から絞り出すような喘ぎとなり、額からは汗が滝のように流れ落ちる。頬の土筋は、血の滲んだかすり傷と混じり、見るも無残な有様だった。それでも彼は剣を振り続け、その眼はアランの動きを捉えようと必死に焦点を探していた。
アランもまた、限界に達していた。彼の洗練された剣術は、疲労によって精度を失いつつあった。レイピアを構える右腕は、微かな震えが止まらない。手袋の中の掌は汗で湿り、幾度もの衝撃で関節が鈍く痛んだ。彼の呼吸もまた、規則性を失い、苦しげな吐息が混じっていた。意識の端では、貴族としての矜持が、疲労に霞む視界の中で薄れていくのを感じていた。互いの剣がぶつかる金属音は、もはや澄んだ響きではなく、「ガツン」「ゴトン」と、鈍く重い打撃音に変わっていた。
ジャンが、大きく踏み込んだ。その足は、円形劇場跡の苔むした石段に乗り上げ、バランスを崩しかける。しかし彼は、その不自然な体勢から、渾身の力を込めてブロードソードを横薙ぎに払った。それは、もはや防御も回避も考えず、ただ相手を切り裂くことだけを目的とした、捨て身の一撃だった。「グオォォ!」と、肺の底から絞り出すような唸り声が上がる。
アランは、その捨て身の一撃に、一瞬、身を硬くした。彼の脳裏には、過去の悲劇が鮮明に蘇る。あの時と同じだ。彼の傲慢さが、無辜の者を巻き込んだあの事故。その罪悪感が、疲労困憊の精神を蝕み、剣の動きを一瞬だけ鈍らせた。レイピアを上げて防御しようとするが、体は限界だった。
「やめなさい!」
張り詰めた沈黙を切り裂いたのは、マリー・アンヌの澄んだ声だった。その声は、二人の男の耳に、まるで雷鳴のように響き渡った。彼女は、それまで微動だにしなかった体で、数歩前へと踏み出していた。その顔には、もはや無表情の仮面はなく、悲痛なまでの嘆きが浮かんでいた。
アランの動きが、その声によって寸前で止まる。ブロードソードの切っ先が、彼の頬を掠め、熱い痛みが走った。数滴の血が、彼の顔から首筋へと伝い、シャツに赤い染みを作る。だが、その一撃は、致命傷とはならなかった。
ジャンのブロードソードは、アランの頬を掠めたまま、地面に勢いよく突き刺さった。**「ズブリ!」**と、重い音が響き、剣が地中深く食い込む。彼は息を切らし、肩で荒く呼吸をしながら、剣を地面から引き抜こうとするが、もうその力も残されていなかった。彼の眼から、怒りの炎は消え、代わりに虚ろな諦めが宿っていた。
マリー・アンヌは、二人の男の間に割って入った。彼女の視線は、まずアランに向けられ、次にジャン=リュックへと移る。彼女の唇が震え、そしてゆっくりと紡がれた言葉は、決闘の場にいた誰にとっても、予想外のものだった。
「これ以上、貴方たちが互いを傷つける姿を見るのは、耐えられない。…全ての真実を、話しましょう。あの事故は、誰もが望まなかった、不運な偶発だったのです。」
彼女の言葉は、まるで魔法のように、剣の間の緊張を解き放った。アランのレイピアが、カランと音を立てて地面に落ちた。ジャンは、地面に刺さったままのブロードソードにもたれかかるようにして、その場に崩れ落ちた。彼らの間にあった憎悪の炎は、彼女の言葉によって、ゆっくりと消え始めていた。