大賢者の解呪
「お体に支障はございませんか?リリア王妃様」
荘厳な煙が漂う雲の中のような部屋に佇み申し訳なさそうに顔を顰めるレイ王に笑顔で応え、相変わらず獣を潜ませたような目のままわたしを睨んだリヒターにも笑顔で返し、わたしは2人の間合いに入った。
「リヒター様。時渡りの儀の時間は何時ですか?」
「月の満ちる時間。幽玄の刻だ」
「今は宵の口。つまり、時間はありません‥‥ご理解ください」
間に入ったことを律するように言い切ると、わたしは自分の中に意識を集中させた。ふわりとわたしの足元に顕われた魔法陣の中から二人の顔を交互に見やる。
「これより、リヒター様の呪いと妖精王冠の呪いを解かせていただきます」
リヒターが狼狽え、レイ陛下が満面の笑みを浮かべるのを見ながら、こちらを心配そうに眺め見るフォースタスに微笑み返す。シュライスやイルシュタイトの気配が濃くなっていることは、この場にいる全員がわかっている。つまり、時間はない。
「神からの神託を受けた乙女の寵児の証‥‥か。静観していても構いませんか?」
「はい」
神の代行者であるレイ陛下にとってわたしはどんな存在なのか未だ判然としない。だけど一つはっきりしていることは、彼はわたしではなくディミヌエンドの味方であるという事実だ。話しの端々で向けられるわたしへの訝しげな視線がそれを物語っている。彼の目は神の目。そう思う事にして、目の前にあるやるべきことに集中することにした。
「あなたの呪いは神器と繋がっている。あなた呪いを解き、神器が吸い込み続けた瘴気を浄化します」
「わたしの呪いが何かわかったのか?」
「はい。マリアさんへの懺悔。悔恨。それがあなたの呪いです」
断言したわたしを凝視するリヒターの猜疑の念で曇っていた目が、なにかを赦したようにだんだんと透き通っていく。
「妖精王冠は、平和故に蔓延る安寧の闇を吸い込み続け、わたしの呪い迄も引き受けた。相当の呪力のはずだ。それでも解けるか?」
「努力‥‥します」
いざ問われると言い淀んでしまった。アンダーヴィレッジではディミヌエンドが解いてくれたから呪いを浄化できたけれど、この国に来てから彼の気配は一切感じない。あの日の手ほどきを復習する間もなくこの日がやってきたことに気圧されていた。震える唇で自信のない言葉を放ったわたしに、リヒターがそっと近づく。
「わたしも支えよう」
優しく綻ばせた笑みと共にリヒターの手が重なる。温かい手からジワリと伝わる確かな魔力は指先がびりびりするほど強力で、流れ込んでくるその刺激に背筋が伸び、勢いのまますっと息を吸い込むと、わたしは天井に向かって問いかけた。
「マリアさん。聞こえますか?」
応えるようにカーテンが揺れる。文机の上の羊皮紙や万年筆の羽が揺れ、流れるように風が部屋を舞った。
【器】
言い放たれた魔法の言葉に全員の目が見開かれたのが見えた。だが、彼らの止めようとする手を阻むように風が靡いてわたしの体を包み込む。体が浮き上がる程の豪風の中、脳の中に何かが侵入してくる感覚で支配される。風が体中に入り込み、自分ではない何かが覚醒して意志を持つのが分かった瞬間、パンッと弾ける音共に風が止み、凪を打ったような静寂が訪れる。
「自分の体にマリアを降ろしたか」
静まり返った部屋で静かにこぼした。レイ王の笑みを含んだ言葉に、わたしとわたしではない何かが同時に彼を見やる。
「リリア王妃様は準禁忌魔法を使ったみたいだけど、これを教えたのはきみだろ?フォースタス」
揶揄るように言った先にいたフォースタスは、脂汗を垂らしながら狼狽えている。事前に相談もしていないこの状況に動じているのだろう。禁忌魔法は師匠、または師と慕う魔法使いから教わる習わし。器は、その名の通り器になるという禁忌魔法だ。だが、魂自体を死者に受け渡さなければならなず、憑依した魂に意識ごと乗っ取られると持ち主自体が死に至るというリスクがあるため、禁忌魔法とされている。わたしがこの魔法を知っている理由、それは‥‥。
「‥‥リリア様がご両親と話したいと言ったからです」
「まさか、死者蘇生をしようとしたのか?」
レイ王の眉間に深く皺が寄る。場合によっては容赦はしないと言わんばかりの形相だ。だが、力なく項垂れ言葉を返す気概さえないフォースタスの姿にレイ王は憫笑を浮かべた。
「神に選ばれた女の貞潔な決意。お手並み拝見と行こうか」
文机に腰かけながらこちらに向けて挑戦的に笑うレイ王を見定める。わたしの中にいるマリアさんも、レイ王を縫い留めるように凝視していた。その光景を傍観していたリヒターがよろよろとわたしに近づく。
「マリア‥‥なのか?」
そう問いかけられた瞬間、わたしの意識が薄くなり、自分の脳のはずなのに何かに操作されそうな感覚の中、唇が勝手に動き出す。
「そうよ。リヒター・ウルフレッド」
少し高い女性の声。明らかにわたしの声音ではないのびやかで美しい声が反響する。その声を聞いた途端、リヒターの目がキラキラと輝きだした。
「マリア‥‥!!」
ガバッと抱き着かれ体が揺れる。彼の服に染み付いた香草の香りで鼻中が支配されて息苦しさを感じる中、細い腕はわたしの体を力強く抱き留めながら僅かに震えていた。
「おまえの気配はわかっていた‥‥なぜエレノアと同化していない?」
「彼女とわたしは違う。だから、離れているの」
「前世と現世の魂の器は同じものなんだ。分離したら生まれ変われなくなる。それどころか、このまま行ったら消滅してしまう。いますぐエレノアと同化しろ!」
「あなたは、それでいいの?」
「・・・・・・・・」
「エレノアはパレスを案じているわ。そして、この国の王の企みと王子と王女の純真な心を憂いている。このままこの状況が進行すれば、ミュゲは滅びてしまうから。だから森を彷徨っているの」
マリアさんは胸の奥が軋むような痛みを覚えながらリヒターの頬を撫でていた。今にも泣きそうな彼の目を見ると、彼女の心が愛おしさで満ち温かくなるのが伝わってくる。
「わたしを今でも愛してくれているなら、わたしの願いを叶えてほしいの」
「‥‥願い?」
「あなたにはお役目があります。この国を守るという大賢者としての役目です。その運命を全うしてほしいの。あなたがミュゲの国を守ると約束してくれるなら、エレノアを説得して同化します。彼女の願いもわたしの願いと同じなの。だから、きっとわかってくれるわ」
「だが‥‥この国は腐りつつある。わたしに出来るかどうか‥‥」
「誰があなた一人でやれと言いましたか?」
綺麗な声が急に低くなったことに驚きで見開かれる。全員の目が集中する中、マリアさんが怒っているのが電波のようにわたしに伝わってくる。
「見ず知らずの女のリヒターと話したいという想いを汲んでくれた。禁忌魔法を使ってわたしを自分の体に降ろしてくれたリリア王妃様のあなたへ向ける敬慕の念は本物よ。お酒を飲ませていじめたり、彼女を昔の名前で呼んだりする意地悪をするくらいには、あなたが彼女がお気に入りなことくらいお見通しです」
ふんと鼻を鳴らして見せるマリアさんの顔を目をぱちぱちしながら見ているリヒターの顔が可笑しくて、意識の隅で笑ってしまった。
「ほら。リリア王妃様もそうだっておっしゃってる」
焦ったわたしの意識の中を宥める様な温かさが包み込んだ。頭に浮かんだ「ごめんね」と言う言葉はマリアさんのものだとわかったとき、意識や脳は既に彼女に飲み込まれつつあることに恐怖を感じつつも、彼女が本懐を遂げられるのならばと耐えられる自分もいて、なんだか不思議な心地がした。
「恨んでいないのか?お前ではなく、祖国を選んだわたしを」
「魔法使いは、心で決めた事を裏切れない。その証拠に、あなたは、大賢者になると決めたとき、わたしと国を天秤にかけなかった。ちがう?」
リヒターの俯いたまま黙り込む姿を見やりながらもマリアさんの意識はずっと怒っている。その怒りは彼を責め立てる様な強いものではなく母親のような慈愛に満ちた温かいもので、その温かさに包まれながらわたしは成り行きを見守っていた。
「それで正解なのよ。あなたがしたことは魔法使いとして間違っていないわ」
「だが、わたしのせいでお前は破滅を‥‥」
「わたしは、あなたの依り代になれて幸せよ、リヒター」
満面の笑みを浮かべるマリアさんをリヒターは泣きそうな顔で見返していた。その瞳の奥から次々と溢れる涙を見ながら、マリアさんの心が震えているのが伝わってくる。
「もう自分を責めないで、リヒター」
「‥・・・マリア」
嗚咽交じりの声で名前を呼ぶ。息子の姿を凝然として見つめるレイ陛下とフォースタスを目に入れながら、マリアさんはリヒターの肩に触れた。
「この国の行く末をエレノアと一緒に見守らせて?」
「‥‥わかった。マリア、愛していたよ」
「わたしもよ、リヒター」
マリアさんの細い指がリヒターの頬を撫でながら離れていくと、彼女がわたしに語り掛けてきた。
「(リリア様、今です。リヒターの呪いを解いてあげて)」
「(もう、いいんですか?)」
「(えぇ。充分よ。ありがとう)」
彼女の穏やかな声と共にわたしの意識が体中に戻っていく。血が全身に巡るように重くなっていくのを感じながら、わたしは目の前で泣きはらした目を向けるリヒターを見据える。
「リヒター様。神器を真名で呼び寄せられますか?」
「‥‥城内が騒がしくなっている。シュライスたちに気取られるぞ」
「俺が奴らに気取られぬよう幕を張ってやる。リリア様の言う通りにしろ、リヒター」
フォースタスが足元に魔法陣を張りつける。
【欺幕】
魔法陣から揺ら揺らと立ち上る黒く重厚な布が壁伝いに外へと引きずるように出て行く。文字通り覆い尽くされ部屋中に張り巡らされた。
「時間は5分です」
鋭い視線のまま魔法陣から魔法を放ち続けるフォースタスに頷いて返す。リヒターは小さく息を漏らすと、意を決したように勢いよく宙に手をかざした。
「ミュゲ国の大賢者の名の元に命ずる。真名よ我に従え」
リヒターの手から眩い光が放たれると部屋中が光に包まれた。青白くなった視界の中から立ち上るようにぼんやりと現れたのは、屈強な体つきのシルエット。そして、漂う香りはリヒターが魔よけに使っていた薬草と同じ香りだった。
「久しいな、エフィラ」




