サイコパス王子の襲来
デビュタントは終焉へと向かっていた。だが、このボックス席の中で始まった静かな駆け引きの序幕はまだ始まったばかりだ。
全員から向けられた訝しむ視線を浴びながらも変わらない冷淡な顔に変化が起きたのは、わたしに視線を移してからすぐのことだった。仮面のような作り笑顔を向けたエルヴィン王子がわたしに手を差し出すと穏やかな口調で話掛ける。
「王妃様ですね?お目にかかれて光栄です」
「初めまして。エルヴィン王子」
「父からあなたのことは聞いています。謁見には王子として出席する予定だったのですが、体調を崩してしまい出向くことが適いませんでした。非礼をお許しください」
「そうだったのですね。今はお変わりなく?」
「生まれつきの持病のようなものなので治ることはありません。だけど、今日はローゼンのデビュタントデビューの日なのでいつもより気分がいいんです」
ローゼンの話をしている間、平淡な目に光が宿ったのは一瞬の事だったけれど、ローゼンの存在が彼の中で要になる程度の影響を受けていることはすぐに伝わってきた。だが、イルシュタイトの顔は彼が現れた瞬間から強張ったままで、むしろわたしに近づいたのを境に眉を顰めた厳しい表情に変わっていく。
「お久しぶりですね。イルシュタイト殿下」
「そうだな。公式謁見の日以来だ」
「あなたと競り合う魔法遊戯楽しかったなぁ。最近顔を出されませんよね?忙しいんですか?」
「あんな物騒な遊びをまだやっているのか?」
「魔法遊戯は紳士の嗜みですよ?それに今はぼくがオーナーの倶楽部なので。何も危険はない」
「魔法遊戯は魔力を競い合い、無秩序で行う決闘のようなものだ。幼い頃や魔力が安定していない者同士が訓練の為にやっているだけならまだしも、成人し、一国の長ともなろう者がそんなクラブの代表になるなど王室の権威に傷がつくぞ」
「そうかなぁ?普段は品行方正な貴族や王族たちが魔法で相手を追い詰めて血眼になって駆逐していくのは、軍の演習とさほど変わらないと思うけど?」
「‥‥そんなことはどうでもいい。なぜおまえがここにいるんだ。お前をデビュタントに招いた覚えはないぞ」
「あれれ、おかしいな。ならばこの封蝋は偽造されたものなのでしょうか?」
そう言ってエルヴィン王子が胸元から取り出したのは、スズランの花が模された刻印が押された手紙で、イルシュタイトがその刻印を見た瞬間、息を飲んだのがわかった。差出人の名前にRと書かれている事実を見て虚脱したように背を壁にもたれる。
「ほんとう‥‥なのか?お前がローゼンの婚約者って」
「そんなにショックを受けるほどのこと?ぼくときみは同い年じゃないか。年頃なのだからこんなことが起きても不思議じゃない」
揶揄するように鼻で嗤いながら、視線の矛先はシュライスに向いていく。応えるように凝視するシュライスに、弧を描くように穏やかな目で返した。
「美しく聡明な王女を娶って戦勝国の王シュライス・ハイム陛下。世界中の花と冠される貴公子として君臨し続けるその威光と存在はぼくの憧れです」
「きみが書簡をくれたのはぼくがローズリーを攻め落としてすぐの頃だったね。サニタリア国には跡継ぎがおらず、王一代でその血筋は途絶えると言われていたが、突如としてきみが現れた。その奇妙な出来事に吃驚した日を今でも覚えているよ。そしてきみがミュゲ国の姫の婚約者にすることを前王の代が決めた不文律であったことも意外だった」
「‥‥どういうことですか?前代の王が決めた‥‥?」
「手紙に書いてあったことが真実だとするならば、前王の今際に決められた不文律。つまりは、ただの暗黙の了解であった約束がそのまま現実になっていたという事だよ」
「不文律って‥‥じゃぁ、ぼくたちが生まれる前から決まっていたという事ですか?」
「そうだよ。イルシュタイトお兄様」
「‥‥黙れ。サイコパス」
怒りで声を震わせるイルシュタイトに興味を示すこともなく、エルヴィン王子はダンスホールの中央を眺めた。
「確かに父上は色々やりすぎた。人体実験、動物実験、魂の蘇生、死体の改造、魔物の錬成、禁忌を侵すこと自体が快楽になりつつあるのは、傍にいるぼくが一番よく知ってる。だからこそ、王を止めたいとも思っているんだよ。そのためには、ミュゲ国の力が必要だ。ぼくが生み出すものに父上が求める以上の奇跡があれば、ぼくが王になってもサニタリア国は崩壊せずに済む」
「‥‥その為にローゼンと結婚すると?」
「ぼくは彼女を愛してる」
「お前がローゼンと話したのは数回程度のはずだろ」
「それでも、ぼくはローゼンを愛しているんだ」
張り付いたような笑顔を向けている言葉には想いがこもっている様子はなくて、むしろ逆に聞こえた。棒読みで感情のない声音はひどく不気味で背筋に冷たいものが流れるのを感じる。
「レオポルド・アラリックという男はどこに?」
一段と低くなった声に剣気のような鋭い視線で会場を探しだしたエルヴィン王子を、嘲笑うように喉からくつくつと笑っていたのはロイドだった。何がおかしいと言わんばかりにエルヴィン王子の狂気を孕んだ目が射貫くように彼を見ている。
「一国の王子が、元帥ごときに何用ですか?」
「彼はローゼンの幼馴染で許嫁だと聞いたんだ。婚約者として会っておきたくてね」
「それは傑作だな。心配しなくても策士で性悪なアラリック元帥にはあなたの邪魔ができるほどの力はありませんよ。俺が保証します」
「力がないことは知っているんだ。問題は、彼がどの程度の衝撃と圧力で屈するかのサンプルが欲しいんだよね」
「精神的なことで?それとも物理的なことですか?」
「ミュゲ国は自然力と精霊に守られた国だ。超常的な力の庇護を受け軍を引率いる魔法軍師が、科学の力に対抗し得るのかを見てみたいんだよ。彼の強靭な精神に宿る矜持や愛が何をしたら無になっていくのか。そのトリガーは何なのか。興味があるんだ」
舌なめずりをしながら恍惚と話すエルヴィン王子にその場にいただれもが狂気を感じていたのが肌を通して伝わってくる。彼からすればそれすらも王族の権威なのだと思っているのだろう。その場にいる王や王子や妃という身分の人間からの訝しげな視線を受けても、彼の態度が変わることはない。
「それはそれは‥‥粋狂なご趣味だこと」
ロイドの返しに満悦な笑みを浮かべる。エルヴィン王子の興味がロイドからわたしに移ったことに心臓が跳ねる。王子越しに見えるシュライスの口が、「大丈夫だよ」と動いたが、目の前の平淡な瞳に見据えられると、蛇に睨まれた蛙のように心が固まり底知れぬ恐怖に身がすくんだ。
「あなたの祖国も心とかいう得体のしれない精神が軸になっていたと聞きます。心ってなんですか?脳内物質の一種ですか?それとも魔力があるものだけのバグみたいなものの変化なのでしょうか」
幼い子供が親にするような無垢な質問は容赦なくわたしの中にえぐるように入り込む。怒りを通り越して哀しみに変わったのがわかった。
「ローズリー国における心は脳内物質でもバグでもございません。魔法を扱う者も扱えない者も等しく持つ魂の心根のことです。愛や希望、情や念、懐旧や未来を見る精神そのものなのです」
「へぇ~。そんな非科学的な世界だったんですね。それらの生み出される源泉は?」
「源泉は人それぞれに宿る魂の中にあります」
「そんな不安定な均衡の中で、あなたたちは魔法や武器の最先端を生み出していたんですか!素晴らしい!ローズリー国が己を削り効率化も無視したその自己犠牲の精神の上に成り立っていた幻想の楽園だったなんて」
「幻想の楽園‥‥?」
「だから王室は崩壊し政は早々に瓦解したんだ。そうか‥‥納得だ」
わたしの言葉は彼の耳には届いていないのか、自分の言い放った言葉に納得したようにぶつぶつと何かを言い零している。その姿はイルシュタイトが言ったようなサイコパスそのものだと思った。
「ぼくのお姫様をこれ以上なじらないでもらえるかな?」
「失礼いたしました」
我に返ったように大きく瞳を見開いたままシュライスに謝罪をするエルヴィン王子は、身を退くように下がっていってしまう。
「リリアに会えてよかったね?エルヴィン王子」
細まっていくシュライスの瞳の奥に鋭い閃光が宿ったのを見逃さなかったのはわたしだけではないようで、戒める様な視線を向けられたエルヴィン王子の顔には狼狽の気配が漂っていた。
「サニタリア国は今年も魔法博覧会を開催する予定なのかな?」
「はい」
「王妃と共に伺いたいと王に伝えてもらえるかな?」
「えっ‥‥はい‥‥承りました」
瞠目する瞳は動揺で右往左往している。その様子を余裕の笑みを湛えながら眺め見るシュライスの視線をあびながらエルヴィン王子は俯きがちに室内を後にした。
「あの王にしてあの王子アリ、だね」
シュライスはグラスに残ったお酒を一気に飲み干した。わたしの隣にいるイルシュタイトの顔面が蒼白になりつつ、今にも倒れそうな体を項垂れるように椅子に預けたのを見て、そのショックの衝撃差に同情した。実の妹の婚約者が決められていて、それが王子である自分にだけ知らされていなかったという事実はすぐに受け入れられるわけはないのだろう。
「それはそうと、彼女は相変わらずだね?イルシュタイト」
頬杖を突いてデビュタントを眺め見ているシュライスは眉をひそめた。憧れの人の不満そうな様子にイルシュタイトの瞳が不安定に揺れ、彼女が誰であるかが分かった瞬間さらに体がうなだれていく。
「‥‥ローゼンには厳しく言って聞かせます」
「いや。ぼくが彼女に窘めるよ。今、ここで」
シュライスからの提案に驚いたイルシュタイトと同じようにわたしの目も丸くなった。
「今‥‥とは?」
「イルシュタイト。おまえ、どれくらい眠っていないんだ?」
王然とした顔つきに変わり低い声色で諭す様に投げかけられた言葉に、イルシュタイトの蒼白した顔色がさらに白くなったのが分かった。




