姫と王の約束~デビュタント~開幕~
部屋の窓を開けると城下から立ち上る熱気と喧騒が流れ込んできた。
興奮、上気した声、歓談する会話の端々から華やかで高揚した会話が聞き取れるこの時間がわたしは好きだ。
シュライスがデビュタント用に用意してくれたドレスは上質なシルク生地の黒色のオフショルダードレス。自国ではないので少しラフなドレスに仕立てたと言っていた。
他国の王族関係者は主役よりも目立ってはいけないため、黒かグレーの色合いで華美な装飾はしないようにというのが暗黙のルールだ。合わせたのは、彼にもらったハイム家の紋章の入ったネックレスと結婚指輪。だが、纏う香りにバラの香水を選んだのは、わたしなりの意地だ。
―――コンコンコン
三回ノックされた合図で扉を開けるとそこにはロイドが立っていた。金糸の刺繍が施された純白の軍服に肩から赤のサッシュを掛けサーベルを携えている。普段香水をつける習慣がないはずのロイドが花の香りを纏っているただそれだけなのに、芳しい香りに酔いながら特別な夜になる予感がした。
「お迎えに参りました。兄上の席までエスコートさせていただきます」
「ありがとう」
「オペラグローブを付けられたのですか?」
「えぇ。公式行事だと聞いていたから‥‥変かしら?」
「姉上は指先も美しいから勿体ないなぁって。まぁ、仕方ないか。行きましょう。お手をどうぞ」
穏やかに微笑み手袋のかかった手をわたしに差し出す姿はさながら絵本に出てくる王子様そのもので、思わず笑みがこぼれる。
むせ返る程の熱気に包まれた通称「ルマノン宮」は、デビュタントやパーティーなどの公式行事を行うためにミュゲ国の一等地に建設され、会場内はオペラハウスのような円形に広がっていてネオバロック様式の装飾が美しく荘厳な雰囲気を醸し出している。
中央にはボールルームが整備され、その周りを三階建てのボックス席が取り囲んでいるが、席に着くのはデビュタントに参加する令嬢子息の親族である貴族、王族関係者など王家に赦された身分の人たちの席なことはどの国も同じだ。
男性は正装の燕尾服を着用し権力の象徴である徽章を胸に携えてシルクハットを被ることがマナー。
オペラグラスで子息や子女の様子を窺いながらャンパンを片手にボックス席で寛いでいる。
女性は美しいドレスに試行を凝らした帽子で秘かな美を競うというのがセオリーだ。
葉巻を薫らせながらお酒や食事を楽しみつつ貴族同士の駆け引きに心を躍らせる。 デビュタントとは、主役たちを差し置きながら行われる最高に刺激的な大人の戯れでもあるのだ。どの国のデビュタントでも同じなのだが、貴族達の席は舞台に近くなるにつれて値段が吊り上げられており、王族が座る席に近いボックス席は四桁は下らないことが多く、席から王室にアピールできる目立つ場所に紋章の入ったオーナメントを飾ることで、大枚をはたいてでも王室に自分たちの名家を売り込みにやってくることも珍しいことではない。
わたしは彼らを横目に見ながら国王の席の真横に位置する一等ボックス席にロイドと共に入り、赤いベルベットのカーテンを開ける。そこには純白のタキシードに赤のサッシュをかけたシュライスが微笑みながら佇んでいた。
「ごきげんよう。リリア」
「ごきげんよう。陛下」
わたしの手を取り甲に口づけをする。その姿は目の前や隣のボックス席からも丸見えだったようであちこちから女性の黄色い悲鳴が上がった。
「二人の時はシュライスでいいよ。リリア」
「‥‥俺いますけど。一応元帥やってますけど。あと、貴族に丸見えですけど」
「きょうも綺麗だよリリア」
「光栄です。陛下」
「一杯目はシャンパンでいいかな?」
給仕の人間から受け取ったばかりの冷えたシャンパンボトルを片手に必殺貴公子の微笑みで目くらましているようだが、陰に隠れるように控えている白ワインと赤ワインがクーラーに刺さっているのがちらりと見えたことに目を細める。
「酩酊だけは避けてくださいね」
ぴしゃりとわたしがそう言っても、彼はにこにことしただけでグラスになみなみとお酒を注いでいた。シュライスからグラスを受け取ると、高らかにグラスで杯を交わした。
「リリアのデビュタントにいけなかったことだけがぼくの人生最大の後悔だよ」
深くため息をついたシュライスは眉間にしわを寄せる。 各国のデビュタントは、その国の者以外は参列できない。しかし、観覧は自由だった。 シュライスはわたしのデビュタントデビューを見届けるつもりで休学届けまで出してローズリーに来る予定だったそうだが、当日になって父上から膨大な量の仕事を任され、来ることができなかったという。
「あれは、きみの母上とぼくの父上の策略だったのかな。ぼくはずいぶん、君の母上に嫌われていたようだったから」
「嫌っていたんじゃないわ。怖かったのよ」
「怖い?このぼくが?」
「いいえ。当時のリーガル国が」
シュライスはわたしの短い言葉から当時を回想したような顔をした。 昔の話を投げかけると、彼の黄金の瞳はたちまち曇り影を落とす。 長いまつげが黒雨の様に降り注ぎ、深い闇に入ったような表情になるのだ。 そんな彼の手にじぶんの手を重ねる。
「リーガル国でもデビュタントを再開しましょう」
「そうだね。その時はおまえがファーストエスコート役をするんだよ、ロイド」
「俺はいいです。デビュタントなんて出席している暇はない」
腕を組んだまま柱に寄りかかりつついつもの軍人の眼光を光らせていた。護衛も兼ねているから仕方ないけれど、ロイドにも年相応の楽しみを味わってほしいと、こういう時、本気で願ってしまう。
「お目通りよろしいでしょうか」
鈴の鳴るような高い声が辺りを包み込むように響く。わたしの周囲では聞き覚えの無いほど可愛らしい声の主は、カーテンの向こう側でお辞儀していた。
金髪の毛は肩まで伸び美しくウェーブがかけられている。誂える様に付いている純白のリボンと同じドレスを着た黄金色の瞳の少女の視線の先には、シュライスしかいないと感じ取ったのは女の勘だろうか。
彼女はずんずん進み出ると高揚した表情でシュライスの前でお辞儀をした。
「お久しぶりでございます。シュライス陛下」
「久しぶりだね。ローゼン・ムエット姫」
「はいっ!お会いできて光栄ですっ!」
嬉々とした声でそう叫ぶ彼女の後ろからぬめった顔のイルシュタイトが現れ彼女の肩を掴み自分に向き直らせた。
「ローゼン。許しもなく他国の席に入るとは。無礼にもほどがあるぞ」
「お兄様だって、許しもなく入っているじゃない」
「ぼくは王子だからいいんだ」
「なら、わたしも姫だからいいんだわ!」
綺麗な顔で百面相しながらぷりぷり怒る顔が可愛くておもわず頬が緩んでしまう。
姫ということはイルシュタイトの妹だと紹介されなくてもわかる程顔の作りが似ていて、天が二物を与えるってこういうことかを見ている気分だ。
「‥‥申し訳ございません。シュライス陛下」
「構わないよ。ローゼンは今日がデビュタントデビューか」
「はいっ!シュライス様に見ていただけるなんて光栄でございますっ!」
「ぼくが結婚したことは知っているね?ローゼン」
窘める様なシュライスの言葉にローゼンと呼ばれた少女はじっとりとした目でわたしを一瞥した。
「‥‥存じています。誠におめでとうございます‥‥」
「リリア。彼女はこの国の姫ローゼンだ」
「初めまして、ローゼン。リリア・ハイムです」
「‥‥ドウモ」
片言な上平淡な目つきで傍視する様を見ながら仲良くなるには時間がかかることを覚悟した。お人形のような顔に小さな体と細い腕は絵に描いたお姫様で、わたしが勝てる要素はどこにもない。彼女が大人になったら潔く白旗を振りたくなるほどの美少女は、頬を赤らめたままシュライスに向かった。
「あの‥‥わたしもう大人になるんです」
「うん。そうだね」
「だから‥‥その‥‥小さいとき約束してくれた‥‥その‥‥」
「約束‥‥?あぁ。あの事か」
「‥‥覚えていてくださったんですね‥‥」
「大人になったらデートしてあげるって約束の事かな?」
「はいっ!!!」
「‥‥ローゼンお前なんて差し出がましいことを‥‥」
「いいんだよ。ミュゲにいる間にデートしようか」
「‥‥よろしいのですか?」
「うん。約束だからね」
「‥‥ありがとうございます。陛下‥‥っ」
震えた声でそう言いながら大きな瞳から大粒の涙がこぼれ次々と涙がドレスに滲んでいく。この後デビュタントがあるというのに水滴の跡がついてはいけないと咄嗟に思ったわたしは、胸元にあったハンカチで彼女の涙が落ちないようにと拭った。驚いたローゼンが目を見開きながらわたしを見ている。
「今日はハレの舞台‥‥でしょ?」
「‥‥ありがとうございます」
意外にも素直に受け入れてくれたローゼンはハンカチをもって残りの涙を拭う。彼女はシュライスに恋しているんだ。それも本気の恋を。それがわかってしまったわたしができることは一つしかない。
「明日のパレス視察はわたくしが参ります。陛下はローゼン姫とデートをされてください」
「そうだね」
シュライスはローゼンの手を取り優しく包み込んだ。たったそれだけのことなのに彼女の顔はみるみるうちに上気して茹蛸のようになっていくのを見ながら、シュライスは彼女の甲にキスを落とした。
「美しい姫君。わたくしと束の間の逢瀬の時間を過ごしていただけますか?」
「‥‥喜んで」
長い睫毛が立ち上がり瞳が弧を描くのを見ているとちくりと自分の胸が痛むのが分かって、おもわず顔を俯ける。
「行くぞ。ローゼン」
イルシュタイトに剥がされるように連れていかれ名残惜しそうにわたしたちを見ながら部屋を出て行ったと同時に、会場の照明がだんだんと暗くなっていき、わたしたちのいる一等席の隣に座っているはずのルルノア王にピンスポットが当てられた。
「ようこそおこしくださいました。これより、ミュゲ国デビュタントパーティーを開催いたします」
開幕の一声に皆が沸き立ち王へ向けて盛大な拍手が起きる中、白いドレスに赤いサッシュをかけた令嬢たちが品よく歩み出るのをエスコートするように子息たちが各々のパートナー女性の手を携えている。
緩やかに流れだすワルツの音に合わせて中央に集まった紳士淑女が規則正しく踊りだしたはずなのに、多くの令嬢たちの目はお互いのエスコート役の男性には向いておらず、彼女たちの目が王と王子に、そしてシュライスに向けられていることに気が付いた。
デビュタントは自分よりも身分の高い貴族や王族へのお披露目会であり、各家紋を印象付ける絶好のチャンス。 ここで見初められれば王室貴族になることも夢ではない。王は彼女たちからの熱い視線を和やかに躱し、イルシュタイトはいつもの物調面を崩さずワインを飲みながら眺めていた。
当のシュライスはというと、わたしの手に指を絡めながら彼女たちからの熱目線を受け取っている。こういうとき、彼は女性への機嫌の取り方とあしらい方や手練手管を熟知していることを思い知らされる。 女性関係に関して詮索したことも、またこれから先も詮索する気はないが、経験値だけはわたしよりも高いことは確かだ。
そんなことを考えながら滑らかに動くドレスの群像を眺めていると、中から鋭い目線の令嬢を見つけた。
百人はいるであろう人間の坩堝にいても、輝く金髪と人形のように美しい顔に吸い込まれそうになっていると、彼女の大きな瞳が諫めるようにわたしを睨んだ。ローゼンの明らかな嫌悪は彼女から充分離れた場所にいるわたしの全身を硬直させ、おもわずシュライスの指を握りこんでしまった。
すると、シュライスは絡めていた指を引き寄せ、彼女を挑発するようにわたしを抱き寄せてみせた。美しいローゼンの顔が憤怒の色に染まっていくのを眺めながらシュライスは満足そうにクツクツ笑う。
「ローゼンはローズリーで言う神子ほどに魔力が強い。彼女が育ってくれればイルシュタイトの負担も減る。今回はミュゲに来たのは、あの子の教育のためでもある」
「教育?必要ないくらい、美しくてしっかりしたお嬢さんだと思うけれど?」
「今のローゼンは王族や貴族の目の前で紳士的にエスコートする男性の品位を無下にし、ぼくへ心を向けている。王族の人間としての品位に欠けているし無礼だ。彼女には望むと望まざるにかかわらずに生まれ持った権力がある。己の地位を自覚できない幼さと権力は同居させるべきではない」
シュライスは彼女の視線を一警するようにかわすと、わたしに向き直り蜂蜜のようにとろりとした目線でわたしを見据える。
「そろそろぼくが君をどれだけ愛しているか。周囲に分からせなきゃね?」




