神器の真名
組織を束ねる彼らにとってこの衝撃的な文言が指す意味は一目瞭然なようで、然して動揺は見られない。代りに、不敵な笑みが揃ってフォースタスに向けられていた。
「墓はない。アルトゥール家の地下に眠ってるよ」
「‥‥地下に眠っている?」
「カインの遺体の一部が呪術に使われることを想定し、俺が家の地下に保存しています」
「そんな話が流布していたのですか?」
「彼は子孫を残さなかった。ゆえにカイン・アルトゥールだけが知っていた秘匿魔法は門外不出となりました。アンダーヴィレッジを狙う者はすなわち、国の中で主権を握りたいという善からぬ思惑を持つ策士。どんな手を使ってもカインの秘匿魔法を奪う輩が出てもおかしくはなかった。それを守るための処置です」
「だから墓を暴くなんて物騒なことしなくていいですよ。おとーさん」
「畏まりました。では、カイン・アルトゥールのいる場所に案内していただけますか?」
「しかし、カインは遺品を残していない。彼の秘匿魔法に関する手掛かりはなかった。それでもよろしいのですか?」
「遺体があればそれで十分ですよ」
フォースタスの態度が合図のように、全員が立ち上がり室内を出て行く。
わたしはフォースタスに目で大丈夫かと伝えたが、漆黒の瞳は弧を描いて優しくわたしを見つめていた。
「リリア王妃様。神は、ジャトの目を今すぐに必要だとおっしゃっているのですか?」
アルドが少しの困惑の色を滲ませながら質問したのを見て、彼にはジャトの目を授かっているという大義名分があることを今更ながら自覚する。
この国にとっての神器とは、リーガル国との友好の証でもあるはず。
安易に渡すとシュライスにばれたときに危険だし、アルドから魔守り人という矜持を奪う事にもなってしまう。それだけは避けたい。でもどうすれば‥‥。わたしは神に乞うように考えを巡らせた。
「‥‥神?そうだ、神!!」
いきなり叫び出したわたしに周囲の瞠目した視線を浴びていることすら気が付かないまま、わたしはひらすらディミヌエンドの名前を心の中で呼んだ。
すると耳から一切の雑音が消え去り、代わりにほわりと背中にほのかな温かさが生まれたことに気が付く。振り向くと、ディミヌエンドがわたしを擁するように佇んでいた。だが、アルドもフォースタスも瞬きすらせず固まっているのを見て思わず無事か確認を取る。
「時間を止めただけだよ。ぼくが見えることで、彼らの運命がこれ以上かき回されてはいけないからね」
優しくそう言うと、ディミヌエンドは強くわたしを抱き寄せた。
「ディミヌエンド。ジャトの目はアルドの矜持です。彼からそれを奪いたくない」
「シュライスの目を欺くためにも、神器を彼の手元に置いておきたい?」
「はい」
「ならば、ジャトの目の真名を引き出しなさい」
「真名を引き出す?」
「リリアがこの神器の真の守護者であるという証を貰うんだ。そうすれば、きみが必要な時に神器を呼び寄せることができる」
「それにはどうしたら?召喚魔法ですか?それとも誘引魔法?」
「‥‥知りたい?」
「はい」
ディミヌエンドがいつも以上に妖艶な甘さを含んだ顔に変わったことに気が付く。ほぼ同時に、彼に腰を寄せられた。息がかかりそうな程の近さにある端正な顔が、わたしの様子を窺うように傾けられる。
「等価交換しよう。ぼくが望む事をしてくれたら教えてあげる」
「‥‥ディミヌエンドが望む事?なんですか?」
「リリアに愛されたい」
「愛‥‥されたい?」
「人間は愛し合う時にスキンシップをするだろ?愛を伝え合い分かち合って確かめ合う。ぼくもしたいなぁっておもって」
「そういうことか‥‥」
「どうする?」
蠱惑的な笑みを浮かべるディミヌエンドが引く気は無いことをここ最近学んだばかりのわたしは、他に打開策がないと自分を説得しつつ、「わかりました」と小さくつぶやいて首肯した。
「はいっ。じゃぁどうぞ」
ディミヌエンドは手を大きく広げて見せるが、どうぞ、の意味が解らないわたしはそのまま立ち尽くし瞠目していた。その様子に彼は不満顔で頬を膨らませている。
「えーっと‥‥なにをしたらいいのか‥‥」
「いつもシュライスとしてることでもいいよっ!」
「シュライスと‥‥閨を共にしたことがない‥‥ので」
「‥‥夫婦仲よくないの?」
「いや‥‥多分ラブラブではあるんですけど」
「なにそれ。焼けるなぁ。‥‥リリアが思い浮かばないならぼくからしてもいい?」
「‥‥はい」
「そんなに緊張しないで。リラックス~」
そう言いながらも強引に抱き寄せ、ディミヌエンドはわたしの唇に口づけた。
薄い唇が重なり冷たかった温度同士に熱がこもっていくのが伝わる。ふいに傾けられた顔に気を取られた瞬間、息すらままならない程の狂おしい深さで口付けられる。
その間も、見開かれたディミヌエンドの瞳はしっかりとわたしの動きを捉えていて、まるで自分が与える甘美にどう反応しているか愉しんでいるように見える。その証拠と言わんばかりに、息が漏れた瞬間彼の口端からほのかな笑みが零れる。
絶対に逃がすまいと体を引き寄せる力強い腕はやがてわたしの後頭部を押さえ、唇は口内を食べ尽くそうと深くなる。目を細めながらわたしの動向を窺うディミヌエンドは、息苦しさと羞恥心で真っ赤になったわたしの顔を眺めたあと、満足したように身を剥がした。
「けほっ‥‥はぁはぁ‥‥」
「苦しかった?ごめんね。リリア」
心配しているのは声色だけなようだ。彼の目は悪戯っぽく笑んでいる。そのことを咎めようとも責めようとも考えが及ばず、わたしは息を整えるためにしゃがみ込む。
真上から見下ろす影が地面に落ち、その主は喉奥からクツクツと笑っていた。
「シュライスには、こんな風にされたことがない?」
「‥‥そう‥‥ですね‥‥なので‥‥慣れていなくて‥‥すいません‥‥」
「おいで、リリア」
優しい声音に顔を上げると、ディミヌエンドがふわりとわたしの体を持ち上げた。お姫様抱っこの形になり、気恥ずかしさから足が勝手にパタパタと動いて抵抗を試みている。その振動にも物怖じせず、部屋の奥に佇んでいる扉の前で立ち止まると、アルドのいる方向へ手かざした。
彼の手に握られていたジャトの目がするりと抜け出し、ディミヌエンドの手の中に納まる。
「真名よ我に従え」
底鳴りする低音と共に唱えられた言葉は室内の隅々に響き渡る。ジャトの目から眩しい光が放たれたかと思うとディミヌエンドの言葉に呼応するように扉が開かれた。現れたのは、小さな男の子。黒いローブを身にまといジャトの目と同じ創りの杖を持っている。深海のように青い瞳の奥には金紋が走っていて、吸い込まれそうな程綺麗だ。
「久しぶりだな、シン」
「‥‥我の眠りを妨げるとは。どういう了見だ、ディミヌエンド」
「ジャトの目の真名をリリア・ハイムに譲受する。承諾願いたい」
「この女はただの魔法使いだろ?」
「大魔法使いの儀は完了している。実力はわたしの名を冠して推挙できるよ」
「この世界には飽き飽きしている。この女程度で崩壊が止められるわけがないだろう」
「リリア・ハイムは神の嫁になる予定の女なんだ。ぼくとしては、これほど玄妙な運命をたどる者の末路を見るのも一興だと思うけどね」
「ははは‥‥お前が嫁を取るだと?禁忌を侵して魂ごと瓦解するつもりか?」
揶揄る言葉を聞き入れながらもディミヌエンドは顔色一つ変えずただ口端に笑みを浮かべている。
それが彼への答えだったのか、暗黙知の会話に帳のように沈黙が落ちた後、シンフレスカと呼ばれた少年はわたしを凝視している。
「シン‥‥フレスカって‥‥」
「知っているのか?」
「はい。アルドやディミヌエンドから逸話を聞いて‥‥」
「この地に生まれ落ちたのはもう昔の話だ。この世界は変わりすぎた」
シンフレスカは懐古するように目を細める。その姿が纏う雰囲気には哀しみが滲んでいて寂しそうにも見えた。
「おまえは、この世界が好きか?」
「‥‥はい。好き、です」
「前世の世界よりも好きか?」
「はい。好きです」
「俺は嫌いなんだ。早く崩壊したらいいと思う」
「‥‥そうですよね。世界の情勢を見ていたらそう思いますよね」
「こいつの嫁になるのは地獄だぞ」
「‥‥えっ?地獄?」
「大食漢だし手籠めにするのがうまいし女癖は悪いし精霊を直ぐこき使うし軽率に人を裁く。神の風上にも置けない」
早口でまくし立てる彼の言葉を聞きながらディミヌエンドの顔色を窺うと、彼は頬を指で搔きながら居たたまれなさそうな表情をしている。シンフレスカは「だが」とつぶやいた後、気まずそうに顔を俯いた。
「こいつがいなくなった世界はつまらん」
消え入る様に小さな声でそう言うと、シンはわたしの手に触れた。もみじのように小さな手は柔らかくて、触れられただけで気持ちが柔和になるような心地がする。
「アルドは命を賭して我を護ってきた。その矜持を汲んでの裁量に感謝する。我の名はシン・フレスカ。ジャトの目の守護者。おまえの神託に導かれた世界の行く末、しかと見届けよう」
笑顔のシンは光の粒となって砂塵のように消えていく。まだ残る小さな手のひらを壊さないようにできるだけ優しく握り返すと、消えかかる掌が微かに呼応した。彼の力強くなにかを訴える瞳を見ながら、決意が沸く。世界も、自分の国も、シュライスも救いたい。全部がまるっと平和になる道は必ずあるはずで、そのために出来ることはすべてやり遂げたい。
そんなわたしの想いが伝わったのか。ディミヌエンドは愛しいものを見る様にわたしを眺め見ていた。
「どの神器にも彼のような守護神がいる。彼らはこの世界の精霊王たちだ。真名を捕まえてしまえばこっちのものだよ」
「わかりました」
「フォースタスのいう事をいい子に聞くんだよ?」
「はい」
「行っておいで。ぼくのリリア」
ディミヌエンドは名残惜し気にわたしの頬を撫でると霧のように消えてしまう。
彼の気配が無くなった途端、室内の時間が動き出したかと思うとアルドとフォースタスがわたしを見ながら驚きを向けている。
「‥‥リリア様?」
「なんでしょうか?」
「その‥‥頬に‥‥」
「頬?」
「‥‥通路に鏡があるから見て来い」
アルドに言われて通路の鏡で自分の姿を見ると、口紅で象られたキスマークがついていた。
「何これ!!!」
わたしの叫ぶ声に出入り口から外に出ようとしていたボスの面々が振り向いた。
「あー?浮気ですかー?王妃様ぁ」
ヘドニスがにやにやした顔で鏡越しのわたしを揶揄る。無理もない。ここまであからさまにキスマークがついていればそう思われるだろう。胸元からハンカチを取り出して頬をごしごしと拭くと消えてくれたことに心の底から安堵した。
「あの神の仕業か?」
アルドがため息交じりに言う。わたしは静かに頷くと後ろにいたフォースタスからため息が聞こえた。
「最近の彼は煩悩の神と化していますね」
「そう‥‥かもしれないけど彼には感謝しなきゃならないわ。今も、これからも」
「えーっなになにぃ?神様にまた会ったの?いいなぁ~王妃様といちゃいちゃできて~」
「ベルベッタ。それ以上言うならカインの墓前で爪を剥がすぞ」
「おーこっわ。粛正だ!」
まるで昔から知っている人たちのような錯覚さえ起こさせるのは、彼らがあまりにも人に対して警戒心がないからだ。王妃であるわたしの権威に唆われず、対等に話してくれる彼らをぜったいに裏切りたくないと思った。
賑やかな彼らと共に、わたしはカイン・アルトゥールの眠る屋敷に向かった。




