吸血鬼と血の契約
草木は眠り、生物すべてが寝静まる刻、丑三つ時。
暗闇に包まれた中で、「あらずの塔」の灯された光が、一縷の光明のように輝いて見える。
漆闇色に金糸を施した外套を肩に、大きく開かれた胸もとに在る金のカメオが、薄暗い室内の中でもわかるほど、その存在を顕示するように照り輝いている。
蝶番を解き、シュライスが窓を開け放つ。
レースのカーテンが漆黒の闇を孕んで、大きく揺れる。
夜更けの風にキャンドル靡き、晩餐の肉皿から立ち上る湯気が波立つ。
「いらっしゃいませ。王子様」
月光下に隠れた闇の向こうに、静かに声をかける。
霞む闇の向こうに、微かに見える黒髪が艶光り、赤い瞳がこちらを凝視していた。
バルコニーに腰掛け、青白い満月を見上げるブラムが、悠々と顔を傾ける。
「今夜の月は、暗いですね」
「体が、疼きますか?」
ブラムの眼光に、明らかな威圧が浮かぶ。
しかし、シュライスは微動だにしなかった。
二人の間を、障壁にように重く、強い風が吹き込み、月光は雲の帳に覆われた。
途端に、室内から漂った香りに、ブラムは鼻先を震わせる。
「肉の匂いか」
「きみとの逢瀬用に、良い肉を手に入れたんだ」
ボトルを手に取ると、すぐにグラスに注ぎ入れた。
血のような赤色が、グラスを染め上げていく。
ブラムは、目の前に並べられた肉皿を見つめていた。
皿の中では、最近絞めたと察せる程、鮮やかな緋色の血が滴る。
添えられているマッシュポテトの縁まで飲み込み、熱気を孕んだ湯煙が立ち上っている。
この光景を前に、微かにブラムが笑んだ。
「美しい。・・・・ジビエか」
「えぇ。王の皿は、鹿肉のグリエです」
意味を含んだ言い方に、ブラムは眉を顰める。
「・・・・おれの肉皿料理の名前は?」
杯にたっぷりと満たされた飲み物を差し出しながら、シュライスが妖異な笑みを湛えた。
「愚人のグリル。温かいうちにどうぞ」
ゆらゆらと。
赤い瞳を蝋燭が照らす度に、ブラムの表情が刻一刻変化していた。
淡々と見やる瞳には、怨嗟にも似た澱みが宿りつつある。
シュライスは、ブラムのグラスに杯を交わすと、グラスに口をつける。
目の前に座る、美しい貴公子の顔を見ながら、自分のグラスに注がれた、深紅色の液体の匂いを嗅ぐ。
「・・・・・血か」
「純潔の血というのは、吸血鬼の世界では、貴重な栄養源だと聞きました。普段はお目にかかれない代物でしょう?お代わりもありますよ。どうぞ遠慮なく。あ、わたしはワインで結構です。そういう趣味ないので」
「・・・・焚きつけて、なにがしたい?」
喉の奥から、唸る。
ブラムの目は充血し、先ほどまでなかった犬歯が伸びていく。
「怒るなよ。ちょっと戯れただけじゃないか」
無邪気な笑顔を湛える貴公子を、鋭く見据える。
しかし、ブラムを一顧だにせず、品よく肉を切り分け、食事を始めた。
ワインと共に飲み下すと、椅子に背をもたれたシュライスが、口火を切る。
「国を出てから、人を喰いましたか?」
「おれは、人間を捕食しない」
「ならば、どうやって飢えを凌いでいるのです?」
「血と同じ成分できた薬がある。それがあれば、吸血する必要はない」
「それを開発したのは、人間?」
「・・・・あぁ」
「それを売り捌いていたのは、昔日のローズリー国王ではないのか?」
動揺で見開かれたブラムの瞳に、確信を得たシュライスが、不敵に笑んだ。
「吸血鬼の始祖であるロミオ。そして彼の奥方が亡くなった後、ロミオと番の様に育った貴方の父上は、眷属を集めながら人間を襲い、種族を増やした。飢えを満たすため。そして、ブラムという息子を育てるために」
ブラムの瞠目する表情を見やりながらも、シュライスは、間髪入れずに話をつづけた。
「ロミオが森で出会った女の名前は、カシータ。彼女は人間だった。ロミオは、人間を愛してしまった。彼は彼女と約束する。じぶんを愛しているならば、吸血を止めて、一緒に人間に戻りましょう。そのためならば、共に生きると。彼は、悩んだ。一族は広がり始め、一代割拠を築き上げる目前まで眷族を増やしていたからだ。しかし、そこに、救世主が現れた」
お伽話をめくるように話すシュライスに、降参の表情を滲ませ、肩をすくめたブラムが続く。
「ローズリー国王は言った。きみの願いを叶えてあげよう。その代わり、ローズリー国を襲うな。約束できるならば、血薬を、未来永劫、一族に供給することを誓おう」
胸元から小瓶を取り出し、ブラムの前に差し出す。
七色に光るガラスの小瓶の中には、朱赤色の液体が入っている。
「血薬の原料は、人間や魔法使いの血。大量に検体が必要なわけではなく、数滴の血のみで大量生産も可能。栄養分、抗体は、吸血したものと変わらず、渇きを満たすには充分な濃度だ。この小瓶一つで、吸血衝動は半月は治まり、魔法で圧縮しているから、保存も効く」
「そうだ。この薬が、ほしかった」
懇願に満ちた眼差しで小瓶を見つめるブラムに、シュライスは蠱惑的に笑んだ。
「早急なようだね?」
「封印が解かれた今のシルヴァニア国は、飢饉に陥っている。皆、人間でも、動物でも、吸血したいはずなんだ。だが、吸血一族は、血判の誓いが交わされていて、王族がいいと言わない限り、吸血はできない。そのことを苦に、陽光に免疫のない者たちが、次々に自死している」
「封印されている間は、血薬が足りていたのか?」
「いや、ぎりぎりだった。おれは、少しだけ魔法が使える。突然変異だから根拠はないが、血薬の成分を調べ、模造品を創って耐え忍んだんだ」
シュライスは、細く息を吐く。
次いで、ブラムは、深く息を吐いた。
「始祖ロミオは、この薬を使って人間らしい営みを始めた。愛する女の言う通り、吸血せず、眷属も増やさず、人間に戻るための研究をしていた」
「そこに現れたのが、ソワン・ルクロワ。彼は、血薬の開発者はじぶんだと言って近づき、彼の研究を手伝ってやるといって取り入ったという。同姓同名なのか。数百年前の男が、現世の史実に載っていることに、少々驚いたよ」
シュライスは、カトラリーのナイフの切っ先を凝視しながら、逡巡していた。
「先祖には、じぶんは千年生きていると言っていたそうだ。そして、この世を創りかえる研究を続けていると」
「彼は、何者だと思う?」
「おれは会ったことがない。しかし、この薬の開発者だとするならば、命の恩人だと思う」
「仇にならなければ、ね」
グラスに残った僅かな酒を煽り、沈重した表情のシュライスがブラムを眺め見た。
「きみの父上は、ソワンに強い嫌悪感があったそうだね。そのため、一族は仲たがいし、二派に分かれた。そのすぐあと、ロミオとカシータが死んだと聞かされた。そこで真実を知る。ソワンは、吸血鬼を研究の材料にした研究をしていたんだと」
「人間との悲恋は相いれない。父上はそれ以来、人間を極端に拒否するようになった。今回の彼女たちの受け入れも、もめたよ」
――――でも、受け入れた。
そう言いたげなシュライスの、射貫く様な視線に、ブラムは黙り込む。
「吸血鬼一族は、魔法が使えるものが少ないと聞く。それは、魔法使いに対しての畏敬の念があったからだという。しかし、一部の愚かな吸血鬼たちが、魔法使いまでも吸血したことが発端となり、人間と魔法使い、両方の怒りを買ってしまった。この愚行に終止符を打つべく、当時の大魔法使いたちと共に、シルヴァニア国全体に古代魔法、死壁結界を張り、きみたちは浮世と完全に隔離されたんだ」
窓辺に視線を移したまま、ブラムは沈黙を貫いている。
彼を見やり、穏やかに微笑するシュライスの目は、鋭い。
「結界を創り上げた術者の中には、ローズリー国の大魔法使いであるフォースタスもいた。きみたちがこの国を選んだ動機は、術者への復讐ではないのか?」
「言ったはずだ。恩を返しに来たと」
雲隙に洩れた蒼白い光に照らされたブラムの青白い横顔には、青筋が立っていた。
「恩って、リリアに返すの?それとも、国民に?」
「リリア妃殿下に恩義を示すことは、国民に忠義を示すことになると考えてる」
「もう白状しろよ。リリアが、欲しいんだろ?」
シュライスの透徹した瞳に、ブラムは、観念したように表情を緩めた。
深い溜め息を漏らした後、グラスに入った血を、ごくりと飲み干す。
「・・・・美味いな」
ブラムは唸ったあと、堰を切ったように杯におかわりを注ぐ。
――――本能には、抗えない、か。
策通りだと微笑みながら、シュライスは、彼の様子を機嫌よく眺める。
「もう一滴も薬がない。だから来た?」
「・・・・あぁ」
「現在のシルヴァニア国の人口は?」
「三万だ」
「全盛期より減ったね」
「吸血鬼が理性を保ったまま一生を終えられるのは一握りだ。人の血肉を得られなければ、枯渇し、自死するものも多い」
「ブラムは、あの薬をだれが作っていたと思う?」
蝋が溶け、炎が一段と燃え上がった。
シュライスの顔が、燃えているように見え、ブラムには一瞬、背中に悪寒が走った気がした。
「魔法使いたちが、創っているのではないのか?」
「リリア一人で作っていたんだよ」
ブラムは、グラスを持ったまま硬直していた。
――――数万人分を、一人で?
「あの薬は、処刑された人間の血を精製し、栄養分が枯渇しないように魔法で合成しなおした調合薬だ。レシピは、ローズリー国の秘匿合成。創り上げていたのはリリアだ。この薬は特殊でね。数百人分を精製した場合、魔力の半分が必要になる。繊細で、自己犠牲を伴う作業だ。そんな彼女への、王からの命令はこうだ。リリア、国民の為に勤めてくれるね?」
「・・・・国民?おれたちに創っていたのではないのか?」
「リリアはシルヴァニア国の名前すら知らなかったよ。要は、王と王妃の洗脳だ。この薬は、国内の病人や恵まれない人たちの輸血のために必要だから、大量につくることは、ローズリーの国のためになるんだよってね」
哀愁を帯びた面持ちで呟く。
先ほどまでの確乎たる態度とは別人の様で、ブラムはその変わり様に驚いていた。
「血薬を創るたびに、リリアは死んだように眠る。その姿は、さながら吸血された後に様で、生気がなく、痛々しいんだ。ぼくは、その姿を見るたびに思った。いつか、全員殺してあげないといけないなって」
戦勝国の王の暗影。
その真の残虐性を帯びた部分が、今目の前にあるようにおもえたブラムは、息を殺しながらも、気持ちを落ち着けるため、グラスに口をつける。
「なぜ、マリーとエリーを助けた?彼女たちの愚行は、国外中に流布したはずだ」
ブラムは、煽っていた杯から口を離す。
口元から、一粒、血が滴る。
「封印が解かれ、しばらくして、彼女たちはシルヴァニア国へやってきた。理由は知らない。吸血衝動を抑えられない輩に襲われている、身なりのいい女を見つけたんだ。助けてやると、匿ってほしいと徽章を見せられた。行く場所がないというから、わが国で保護していたんだ」
「彼女らと、婚約を?」
「考えていないよ」
「この国にいる間に、リリアに彼女らを引き合わせたら、その場で全員殺すからな」
怒気を含んだシュライスの声に、固唾をのむ。
「すまなかった」
「いいよ。赦してあげる。血薬も差し上げよう。リリアではなく、違う魔法使いに任せるから、質の担保はないがね」
ブラムは、すんなりと望みを汲んだシュライスに、拍子を抜かれる。
先ほどまでの浮き沈みのある彼の様子から、一変した穏やかさが、ひどく不穏を掻き立てた。
「父上に伝える」
「さぁ。そこで提案だよ。王子さま」
男でも惑わされそうな色香を纏い、妖艶に微笑んだ。
シュライスは、ブラムの真横にゆらりと佇む。
「我が国の属国となり、きみの体を研究検体として提供してほしい」
「・・・・・応じなければ?」
「一族もろとも、皆殺しにする」
ブラムはやっと、じぶんが悪魔と取り引きをしていることに気が付いた。
深い戒めに浸り、己の判断を悔恨しながらも、目の前の歴戦の王からの威圧から逃れるように、応えた。
「王に判断を仰ぐ」
「朝までには返事は聞けそうかい?」
「問題ない」
ブラムが指をパチンと弾くと、カーテン越しに、気配が漂い始める。
「オーフェン。父上に、いまの会話を伝えろ」
「・・・・よろしいのですか?」
「一族の存続がかかっている。おれ一人で済むならば安い」
「・・・・・御意」
震える声で短く言葉が放たれると、気配が闇に溶けるように消えた。




