いとおしい日々
一(七月下旬)
「久しぶり」
電話の向こうの声はなつかしかった。
「頼み事だろう。まあ、できることはしてやりたいが」
「頼ってくるやつが多いのか」
「それなりの数の人間が連絡してくる。高校卒業以来というのもいた」
「幸いにして頼み事はない。だが、こちらに戻ってきたことは確かだ。うちは母親が実家を守ってくれたからな」
「東京はひどいか」
「沈みつつあるな。こうも災害に弱いとは思わなかった。いや、災害がひどくなっている」
「台風があんなに居座るとはな。毎年のことになっているが」
「で、だな。家族を連れてこちらに戻ってきた。その挨拶だ」
「こちらも畑が半分やられてな」
「とりあえず手が空いているから、人手がいるなら手伝うぞ」
「長年の都会暮らしでなまっているやつが、役に立つかな。それでも、他の場所よりもましか。まあ、そのましな状況を落ち着いたら見にきてくれ」
「まあ、することもないからな。うちの畑はとっくに手放した」
「俺の方は、そういった離農する家の農地を借り上げて、それなりの規模の野菜農家になったが、この気候だからな」
「彼」は自嘲するように言った。
そうして付け加えた。
「あ、そうそう。ここいらあたりの道はあちこち通行止めになっている。すぐにカーナビにも反映されない。来るときは気をつけてくるように」
二(七月下旬)
引っ越しは、母親の住む実家に荷物を入れるだけで済んだ。
父親が死んで二十年近くになるので、ほとんどモノのない家になっていた。
いわゆる「終活」とかで、様々なモノを処分したらしい。それからまた何年もたっている。
「お前が戻ってくるとは思わなかったよ」
タワーマンションの荷物は概ね一軒家の半分に収まった。こんな広い家だったのか。
娘の麻那と息子の恭一は、作業員が置いた荷物から自分のものをより分けている。学校は夏休み中なので、まだ日数はあるはずだが、とりあえず自分の居場所の確保というところだろう。
二人には、自分と兄がそれぞれ使っていた部屋を割り当てた。
兄は帰ってこないだろうか。
引っ越しを伝えた時には特に何も言っていなかったので、そのつもりもなさそうだし、そもそも日本にいない。
「水は、そこまできたんだって?」
「お前が生まれる前の洪水の時以来だね。あの後は、ずいぶん堤防の幅も広げたから、こんなことはなかったんだけれども」
いつの話なのか麻那と恭一にはわからないだろう。
「お父さんは、中学の頃は堤防のところまで、朝、マラソンで走って帰ってきたんだ。後で案内しよう」
二人は、テーブルの上に、宿題を広げてなにやら書き込みをはじめている。生返事をして、あまり気乗りはしなそうである。
「後で自転車を買いに行こう。車と自転車がないとここでは暮らせない」
二人に言ったのか、妻に言ったのかわからない台詞だが伝わりはしたようだ。
母は冷蔵庫からジュースやらヨーグルトを取り出してくる。冷蔵庫の主導権はまだ握っているようだが、妻に渡してもらわねばならない。
妻は、臨床検査技師として車で十五分ほどの大規模な病院に既に就職が決まっている。職の目途があるから、自分が実家に戻りたいと言った時に反対はしなかったのだろう。
手に職とは良く言ったものだ。
職がないのは自分である。
東京は危ないと報道されるが、まだ、住めなくなったのは二十三区の十分の一程度で、都市機能は維持されている。東北の震災があった時の方がよほどインパクトはあった。
「あさってから出てほしいと病院に言われているけれど、いいかしら」
「ああ、荷物の片付けはやっておくよ。こちらの職探しはそれからだ」
三(八月上旬)
妻はどこへ行っても大丈夫だろう。問題は、子どもだ。特に下の子は線が細い。
恭一は、小学六年生だが、学級で一番背が低かった。小学三年生と並んでもあまり変わらない。引っ込み思案で外に出たがらない。
タワーマンションの子どもは外遊びをしないので孤立しやすいなどの言説があったが、その通りで本や漫画を読んで過ごすのが常だった。学習塾も習い事も嫌いで、小学校も時々休んでいるようだった。
一学期の通知表の欠席日数は二けたになっていた。
夏休み中の引っ越しで、転校というのはどんなものなのだろう。
元の学校が好きではなかったせいで、転校にもあまり抵抗はなかったようだ。
ただ、終業式の際には、引っ越しも決まっていなかったから、クラスのみんなに挨拶はできない形となる。
挨拶のために一度東京へ行こうかと聞いても、いい返事はしない。そのまま消えてしまいたいようだ。
八月の最初に引っ越しが本決まりになって、夏休み中の小学校に挨拶に行った。夏休みなのは児童だけで教職員は休みではない。
担任の若い女性教師は転校先と連絡をとって勉強の進み具合や教材について様々な調整をしてくれた。
使っている教科書は違いますが、進み方は概ね同じです。夏休みの宿題も、先方のものを押さえておきましょう。
転入するクラスもわかりましたので、担任と連絡をとりました。あちらは、八月の末からの二学期の開始になりますが、恭一君の理解ならば、授業には遅れないはずです。
妻の方が職場が先に決まったので、自分が麻那と恭一の学校関係の手続きをすることになった。
今の教師は皆若い。元の小中学校も、転校先の小中学校の教師もみな自分より年下だ。
若いのではなく、自分が歳をとったということか。
麻那の方は、中学の同級生と所属クラブのメンバーに連絡をとって、お別れ会を何度も開いてもらったらしい。母親と同じで、いつもグループの中心にいるタイプだ。心配がないわけではないが、恭一の方がより手がかかるので、ありがたいといえばありがたい。
元の中学校は、タワーマンションが林立した際に急遽開校した新しい学校だが、体育館は水没した地区の避難所として使われていて、クラブ活動で使えない。
熱中症の危険があるとのことで八月中はすべてのクラブ活動がなくなってしまったので、麻那は時間をもてあましていた。
転校は、むしろ友達と集まる機会をつくるネタとして使われたらしい。
四(八月上旬)
「カラオケに行っていい」
「お前、まだ中学生だろう」
「お母さんも行くから」
「いつだ」「日曜の朝」「ええ」「一日は二十四時間だから有効に使わないと」
そういう会話がなされ、娘は母親と日曜の朝からカラオケに行った。
残されたのは息子と私である。
「男同士でどうするか」
恭一は、こちらに来ても外に出たがらない。家が広く自分の部屋をもらったので、閉じこもり気味になっている。
これはよくない。
「お父さんの育ったところを紹介しよう」
と言って連れ出した。あちらで使っていたコンパクトカーをもってきたので品川ナンバーである。
そんなことをここで気にする者はほとんどいないだろう。まあ自分は失業者だし、それなりに金をかけた自動車を乗り回すというのは、世間体はどうなのだろうかとも思ったが、それを気にしても仕方がない。
気乗りがしなそうな恭一を横に車を乗り出した。まずは小学校か。夏休みのさらに日曜日だから小学生はいないだろう。恭一は同年代の子どもと会うのをいやがる。
小学校は、思ったより新しいコンクリート造りだった。自分が二年生の時に木造校舎からコンクリート校舎に建て替わったが、それがさらに建て替えられたようだ。
体育館はやや古くなった鉄骨造りで、こちらも全く見覚えがない。床下だろうとは思うが、半分浸水している。校庭もかなり水たまりが残ったままだ。
「ここが、おじさんとお父さんが卒業した小学校だ。すっかり変わってしまったがな」
校舎と校庭が見渡せる路肩に車を停めて、思ったそのままを恭一に伝えた。恭一は「半分沈んでいるじゃん」と言った。その通りで付け加える言葉がない。
河原には行けるのだろうか。学校の近所の神社の脇を通って、小川にかかる橋を超えて道を真っ直ぐ行けば、防風林のある農家が点々とある水田の広がる地域を通って一級河川が堤防をはさんで流れる処に出られるはずだった。
「だめじゃん」
神社の脇のところで既に交通止めだった。もどって、国道を通って回り込むか。車の方向を変えて国道に乗り替えた。
国道の両側は、ロードサイド店が立ち並ぶ日本のどこにでも見られる光景だった。
恭一とはコンビニでサンドイッチと牛乳を買った。
「ここのあたりのコンビニは駐車場があるんだ」と恭一は驚いたように言った。
「河原で食べよう」そう言うと「虫が出るからいやだ」と答える。
「まあ、川の景色でも見ながら。車の中で食べればいい。山も見えるぞ」
五(八月上旬)
国道を進むとスターバックスの新しくできた店があり、恭一が強く言い張るので、そこに入った。サンドイッチと牛乳は、車の座席においたが、今日は珍しく暑くないので大丈夫だろう。
スタバはどこにでもあるな。まだ珍しかった頃に、わざわざ赤坂か青山の店まで行ったが、あれはいつ頃のことだっただろうか。
息子は、クリームがたっぷり乗ったパフェ系のものが好きである。姉がいるとからかわれるのだが、今日は父親と二人なので好きなものを堂々と注文できた。
スタバの中は、スタバとしか言いようがないしゃれたデザインであり、もちろんそれは不愉快ではない。しかし、自分の生まれた町にスタバができるとは思わなかった。外へ出れば東京からはるか離れた平野の真ん中であるが、スタバはスタバである。
スタバにはもっとしゃれた街中にあってほしいのだが。それ自体いかんともし難い。いかんともし難く自分もここに身を置いている。
なんとかフラペチーノを恭一は食べて、自分は本日のコーヒーで、後は二人で一つのサンドイッチを分けた。 それでも町場の二人分の昼食代は超えた。
頭の中で預金残高の数字をこねくり回した。夫婦別口座で、妻の分は知らない。こちらの分は、それなりにあるはずだが、このまま何もしないわけにもいかないだろう。
その思考作業は、日に何度もやった。
恭一は、三色のクリームを容器のあちらこちらに寄せながら、なんとかフラペチーノを攻略している。
「まあ、いろいろあるが、がんばろうや」
と声をかけた。いろいろあるのは自分の方で、自分に向けたことばでもある。恭一は子どもらしい子どもだと思う。その子どもがいることで自分はなんとか立っている。
この子に特別な才能はなさそうだ。特別な才能といっても、テレビで見るような百桁の暗算とか、鉄道駅を日本の北端から南端まで言える、ということは最初から期待しなかったが、なにかちょっと特技をもってほしかった。
そろばんと空手はやってほしかったが、どうも運動神経がにぶいようだ。母親は音楽をやらせたかったようだが、オルガン教室のお試しにさえいくのを強固に拒んだ。
学習塾の公立中学進学コースの三クラスあるうちの真ん中、というのが定位置である。
それは東京の湾岸の話なので、こちらに移る際に駅一つ向こうの同じ系列の学習塾の試験を受けたら、また真ん中である。
自分は県立の高校しか選択肢がなかったが、近隣の市に有名私立大学が付属校を開校させ、かつて滑り止めだった私立高校が特進クラスを設置したため、近年一気にレベルが上がったのだそうだ。
当たり前だが、時代は変わっている。
六(八月上旬)
「うちは女の方が強いからなあ」
姉の麻那は、文字通りの通り強者である。保育園のころから仕切り屋だった。そいう行動をとる女の子が自分の娘とは信じられなかった。ヒラリー・クリントンみたいだ、と思ったが、自分はヒラリーも、ヒラリーの子ども時代にそう詳しいわけではない。
妻も引っ込み思案とは真逆で、どんどん知らないところに出て行って、どんどん仕切ってしまう。
「それは違うと思います」
PTAの会合か何かで、学校の校長が挨拶の中で少年犯罪が増えている、みたいな話をしたときに、手をあげてそう言った。
「なにか意見はありますかと聞かれて、意見があったから言っただけじゃない」
後で妻はそう言ったが、世の中そういうものではないのだ。ないのだが、妻には、そういうものにしてしまう力がある。
その場にはもちろん自分はいなかったが、後から聞いた話では、校長が謝ったそうだ。
謝ってその場を収めた校長は偉いと思うが、それも妻がねじ伏せたようにも思える。いずれにせよ、自分はあまり聞きたくないし、その場にも居たくない。
いや、妻のそうしたふるまいがいやというわけではない。むしろそれに惹かれて結婚したともいえる。
その高度の自立性というか場を変える力というか、その性格は、正直、職を失った今、頼りにしているといっていいだろう。
そんなことを昼過ぎのスタバで、小学生の息子を前にして頭の中で言葉にまとめている。
「恭一には恭一のいいところがあるぞ」
励ませば励ますほど、恭一の顔は心細そうになる。
お父さんも心細い、そう言いたい。
恭一は、細長いグラスの底までクリームをさらった。
「国道をずっとあがってだな、県境まで行けば、河原が見渡せるところがある。そこへ行ってみよう」
「もう、いいよ。家に帰りたい」恭一はグラスから目をはなさずに言う。「家に帰ってゲームしたい」
「じゃあ、ぐるっと回って帰ろう」
さすがに国道は通行止めになっておらず、県境の橋のたもとに車を停めることができた。
広い河川敷は、かつてと同じなのかどうか記憶が定かでないが、そう不自然な感じではない。多分、サッカーのゴールポストや野球のバックネットがあったのだと思うが、そういうものはなくなっていた。河原によくあるような草の塊はあちらこちらにあったが、泥にまみれていた。生乾きの様子で、降りていく気はしない。
「お父さんは中学時代にここまでマラソンで来たんだ」
恭一に言っても、ふうん、と答えるだけだ。
こんな風だったろうか。記憶はどんどん遠くなる。
変わらないといえるのは雲と空ぐらいか。
家に帰って、ネットで地図を検索する。今は画面上に疑似ドローンを飛ばして上空からの風景を見られる。
かなりやられている、というのはわかったが、自分でどうこうできるものでもない。被災地のボランティアに応募するほどの体力もない。まあ、寄付ぐらいか。
七(八月上旬)
妻と娘が帰ってきた。「こちらのカラオケはどんな感じ?」「ま、チェーン店だから機械は同じ。でも、一度潰れた店を新しくしたようなので、ちょっと造りが違うかな。結構、ゆったりとしている」
娘はモノを知ったような口調で返す。
「データは、全部アップしてあるから、よければあとで聴いてみてよ」「お母さん、やだ、恥ずかしい」「保護者が未成年者のデータを管理するのは義務なのよ」
この頃は、あらゆる場面が記録される。地球の裏側にいても、妻と娘のカラオケをどんな(といっても限度はあるが)角度からでも見ることができる。
延々と何時間もの動画を見るのも大変だが、カラオケチェーンではインデックスをつけて、何を何曲歌ったかを整理して見せてくれる。うまさの得点づけをしており、上位から並べなおすこともできる。
「九十点以下のやつを見たらいやだからね」と娘が言う。
「新曲にチャレンジするから私の平均は低くなるのよ。お母さんは得意なのばっかり歌うから、点が高いの」「新しい曲に触手が動かないのは、年をとったからかしら。それとも、本当に魅力のある曲がなくなっちゃったのかしら」
どうなのだろう。
古い曲といっても、自分にはなじみがない。歌に心を動かされなくなってからどれぐらいたっただろうか。音と映像はあふれているのにこちらの心が応えなくなっている。
八(八月上旬)
月曜日になって、小学校を訪れた。夏休み期間中であるが、教師は出勤している。教育委員会から恭一の転入の通知は行っているはずだ。
受付で要件を告げると職員室の隣の小部屋に通された。
タブレット端末を持った若い男性教師が現れた。「恭一君の担任をさせていただくMです」
三十代前半だろうか。
「東京都中央区の○○小学校から、必要書類はすべてこちらで受け取っています。いまはデジタルなので受け渡しは一瞬ですが」画面に指をすべらせながら話す。
「教科書などはほとんど同じです。紙の教材については、帰りにお渡ししますが、一式、二学期が始まる前に時間をとって恭一君本人に説明したいと思います」
「ずいぶん丁寧ですね」
「アバターに動画で説明させることもできますが、やはり人と触れ合うことが小学生には大事です」
「人が説明するのも大変ですね」
「アバターも人もAIが振り付けることには変わりません。ただ、説明を聞いた時の反応は、AIが分析するとしても、私も感触として掴んでおきたいもので」
「恭一は、やればできるのに、引っ込んでしまうところがあります。うまく付き合ってくれる友達ができるといいのですが」
「今は、教室内の人間関係でさえ、パターン分析できてしまい、学習効率が最適な席順をAIが提案してきます。ただ、そうするかは教師の見識と責任です。AIがそういった、ということで動いていては、人がいる意味がないですから。ご心配は、主に友人関係ですか」
「あと、意欲と集中力ですね。好きなものと嫌いなものの振れが激しい」
「今は、教室内のカメラで一人一人の視線の動きまでチェックします。小学生としては、多動ということではなく、標準の枠内に入っているようですが、これも実際に見てみないと判断しにくいですね。今は子どもの数も減っているのでじっくりとみられるようになりました」
「前の学校は、結構過密だったのですよ」
「こちらは、これ以上、統廃合できないところまで小中学校の数は減っていますが、それは児童にとっては決して悪いことではありません」
それなりの厚さの紙袋を渡されて校舎を出た。水が溜まっているため、駐車場までは大回りしなければならなかった。
新学期まで雨が降らないとしても、水は引くだろうか。
九(八月上旬)
「半分やられた畑はこれか」
離れたところは車で、近いところはトラクターで、ぐるりと畑を案内された。
「水が引かないうちはなにもできなくてな」
「この状態でできる葉物の作物はないのか。蓮とかフキとか」
「それぐらい無知だと話を合わせる気にもならない。今は保険でカバーできるが、こんなことが続くと保険のシステムの方がおかしくなる。まあ、作付け農家の数が少ないから、農協が貯めこんだ資金で当分困ることはないが」
「残りの半分で、なんとか食っていけるとは聞いたが」
「やめた農家の土地と農機具を使いまわせば十分だ。お前の方はどうだ」
「生活の基盤はまあまあだ。収入が妻頼みで心細いといえばいえるが、専門職だから。当分、専業主夫でも問題はない。手が空いているといえば空いているので、何かあったら手伝おう」
「まあ、収穫作業とかは、その歳ではつらいな。新しく人を入れる際に監督がいるからその時は頼もう。人手も常に必要とは限らない。農家の形も変わってしまったからな。無人トラクターに、センサー、ドローンの組み合わせでかなりのところまでできる。パソコンをにらんでいる限りにおいて東京にいた時とは変わらない。出荷調整も市場の動きをみながら、まあ、ゲーム感覚だ」
ゆっくりとしたスピードで複数のドローンが畑の上を飛び交っている。
「今の時期は、一日一回、十五分程度、ざっとみるだけだ」と言う。
収穫時期になったら、熟度を見極めるため一日三~四回程度飛ばすそうだ。
「ドローンのコースプログラミングと画像分析を安くやってくれるところがあるといいのだけれど知らないか。農機具屋さんから進出したところと、IT屋さんから進出したところがあるのだが、どうもどちらも癖があってね。不要な情報までどんどん乗せてくる」
「農協は?」
「すごい農協もあるらしいが、うちのところはあまり使い物にならない。こちらが教えるぐらいだ」
「もう少し田園生活をエンジョイしていると思ったが」
「田園生活の意味が変わってしまったのさ。家庭菜園でもやるならば別だが、業としてやるならばこれが最低限だ」
「土と親しむ生活、ということではないか」
「まあ、俺はほとんど土に触らないね。もちろん田畑は毎日見て親しんではいるがね」
窓の向こうに視線を送りながら言う。
「まあ、がっかりさせるようなことを言ったが、いいぞ、農業は。こう、広々としていて。朝は特にいい。夏の朝の、こう、生き物が立ち上がる命の圧を感じられる」
なんとなく付け足しのようだが、相づちを打った。
「はあ」
十(八月中旬)
ネットワーク上に集まった請求書を仕分けして一気に処理を済ませた。それで午前中が潰れた。久々の達成感を感じた。
達成感がこれでは情けないと思ったが、これを処理しないと一歩も進めない。
しかし、一歩も進めないことを処理すると、また、同じような事柄が立ち上がる。それを処理すると、また、立ち上がる。モグラたたきのように処理を続けて、日々は処理で埋め尽くされる。
処理でない本当の仕事は遂に来なかった。少なくとも会社にいる間は。
処理の上手い下手で言えば、大事なところでしくじったから下手だったのだろう。最後は、そういったことも問われないポジションだったが。
かつて自分が使っていた部屋をもう一度、自分の部屋にした。
母親一人で、この広さの家を二十年以上維持したのだ。
過去形では失礼だろう。母親はまだ生きていて、リビングダイニング(台所と食卓)の横の部屋にテレビと鏡台と布団と一緒に陣取っていた。
他の部屋は既に空にされていて、そこに我々の一家がころがりこんだわけだ。
家族四人のそれぞれに空いた部屋がぴったりとあてはまった。
自分の部屋に、二十ぶ何年かぶりに入ったわけだが、片付けられてからも相当な年月が経っているので、全くかつての感覚はない。
元のマンションを出る際に、書籍の類はほとんど処分してしまったので、本棚の必要もなく、部屋に敷きっぱなしの布団でしばらく過ごした。その後、家具の量販店で座椅子と組み立て式のローテーブルを買ってきた。
どれだけここに居るのかわからないので、家庭用だが持ち運びのできるWiFiを申し込んだ。
故郷に帰ってきたのに、全く落ち着かない。
妻と子どもたちはどうなのだろう。そこまで気がまわらない。
十一(八月中旬)
タワーマンションを買ってから、転居もしなくなったので忘れていたが、自分は「引っ越し大好きの人」だったのだ、と改めて思い出した。
最初の引っ越しは、東京の予備校通いのため実家から下宿へ、だった。当然一年しかいるつもりはなかったので、備え付けの机と本棚がある部屋へ、布団だけ入れた。デスクライトだけ、駅前の丸井で買った。それでも何かを揃えて部屋をつくるのは楽しかった。
大学に合格して、下宿を探すのがまた楽しかった。あの頃は、現地に行くしか探す手段はないので、何日か安い宿をとって母親と探した。父親は出不精の人だったので全く口をださなかった。
母はずいぶんと張り切っていた。一年間浪人させてもらったし、また、大学生活というものがわからなかったので、母親の言うままにアパートを決め、家具を買った。机と本棚とタンスだが。それだけで六畳間は一杯になったが、さらに、炬燵まで買った。
親孝行だと思って、概ね受け入れた。
それからの四年間は、そのアパートから大学に通った。
当時は、携帯電話どころか室内の固定電話もなかった。どうやって連絡をとっていたか、もう思い出せない。
今は、経済全体が下がり気味で学生の下宿も減っているようだが、自分の頃はまだ先行きは明るい感じだった。
その後は、就職して、また、転居が多かった。地方勤務もそれなりに楽しかった。
そんなことを思い出しながら座椅子で寝てしまった。
十二(八月中旬)
麻那は手がかからないとはいえ、保護者として中学へは挨拶にいかねばならない。一応、転校生の保護者と生徒には、編入する学級の担任との三者面談の機会が確保されている。
その前に、事務手続きと制服の購入に付き合わされた。母親は転職したばかりなので、そうそう職場を離れるわけにもいかず、失業中で暇をもてあましている父親に役割が回ってくるのは仕方がない。
麻那は、父親の失業をどう思っているか、気にならないわけではないが、当面の生活が大丈夫であれば、むしろ手が空いている人間がいる方がよいぐらいの感じなのだろうと思った。
麻那も恭一と同じ系列の学習塾に通っている。麻那の成績は東京でさえも抜群に良く、しかも、安定していた。
全国チェーンの塾の上位者が掲載されるサイトの先頭の左肩にいつも載っている。上位者は大きめのフォントで掲載されるのだが、フォントが小さくなったことがない。
塾には、自分一人で行って挨拶をすませたら、教師がみな名前を知っていたそうだ。
「ツワモノだね」
と妻には、ことあるごとに言っている。
「ああいう子は、なにかあると脆いのよ」と妻は言う。自分の身に覚えがあるらしいが、あまり深くは聞かない。
制服の注文は、その中学専門の店に行ったが、標準の体形なので直しはいらないとのことだった。
あっけなく注文が終わって、また、国道沿いのスタバに寄った。恭一と入った店である。
同じなんとかフラペチーノを注文したので「さすが姉弟」と言ったらちょっといやな顔をして「でも、これが一番好きなの。東京でもよくオーダーしたわ」と言った。
「恭一のやつは、たまたまでしょう」
そうなのかどうかわからない。
恭一は恭一で心配だが、麻那は麻那で心配だ。
自ら鉄の女(の子)とか言っているが、母親の言うように脆いところもあるのだろう。母親には、それを明らかにしても、父親の自分には、最後の最後まで隠しておくような気がする。
といって、自分が麻那のそういう姿、具体的にどういうことで崩れるのか想像もできないが、それを見たら、自分は確実に動揺すると思う。絶対、おたおたしてしまい、ダメになるという確信がある。
娘の気の強そうな顔を前にしながら、このような形での関係がいつまでも続いてくれればいいと思う。十年後も二十年後も。
といっても、自分の身の振り方は決まらず、三か月後に何をしているかも、全くわからない。
なんとなく、今の家で、秋を迎え、冬を迎えているとは思う。
問題は何をしているか、だ。
十三(八月中旬)
暑いな。
気象庁の高温警報が連日のように大きく報道され、朝から外出を控えるように、町役場のスピーカーが警告を流すようになった。メールも頻繁に来る。
少し前までは、徘徊高齢者探しの依頼を流していたのだが、この暑さでは、徘徊する元気は若者でも出ない。
外気温が体温より高くなってしまえば、外に出ないに限る。新築の家が外に向かって閉じるような造りになってきた。移動は自動車でしかできない。まるでどしゃぶりの雨の中を移動するように、家の玄関から自動車に、自動車から店舗に、その間の移動距離を最小限にするようなしぐさが身にしみついてしまってきた。
新築住宅の「売り」が、台風に強く、車庫が建物に直結して駐車場から家に入れる、というのが多い。「まち」の形まで少しずつ変わりつつある。
外でのスポーツなど、もってのほかで、夏の甲子園大会が秋、それも十一月に移されてから何年もたつ。予選は、九月、十月の暑くない日を選んで行われるが、試合の日程が確保できず、くじ引きをする地方もある。
「大変だろう」
「遠隔でやるといっても、全く外にでないわけにはいかないからな。完全装備でいくから、そう危険ではない」
「農業も命がけか」
「屋外作業は皆そうだが、それでも装備と心構えができているからいい。高齢者が昔の感覚で、外にふらふらでるのが一番危ない」
かつては、間口の大きく空いた典型的な農家造りの家だったが、今は、リフォームしてがっちりとした木製サッシをはめ込んでいる。外にはシェードが下りている。
「朝顔とかへちまとか這わせれば風情があるんじゃないか」
「この暑さでは、みんな干からびてしまう。高温すぎるんだ。太陽光発電はフル稼働だが、これも高温過ぎると効率が落ちる」
それでも今いる室内の空調は、十分効いている。
「リフォームでばっちり断熱材を入れたからな」
応接の向こうの机の上に、モニターがならんでいて、画像が自動的に切り替わっていく。
「ここが赤いのは、まずい。水を自動でかけて温度を下げるのだが、水の温度も上がってしまっていて、お湯をかけているような感じになっている。工夫のしどころはたくさんあるぞ」
Tシャツ、短パンで冷たい麦茶をすすりながら、言っていることは、工場経営者そのものだ。
「砦を守っているようなものだ。敵にがっつり囲まれている。来年までにまた、武装のレベルアップだ。どこまでついていけるか、わからないが」
どこかの時代の地方軍閥みたいだ。
「まあ、今朝採れたトマトだ。持っていけ」
持たせてくれたその果実の重さとみずみずしさは、今聞いた殺伐とした話とは別の生命力にあふれたものだった。
十四(八月中旬)
朝、新聞を読むと、I副社長の訃報が掲載されていた。紙の新聞は母親がとっていたのを継続している。ほとんどの全国紙が、朝刊のみとなり夕刊はネット配信になっている。夕刊という概念が残っているのが不思議だが、紙の縮刷版でまとめるために必要らしい。
朝刊の訃報欄は昔と変わらない。
退社してそう時間は経っていないはずだ。死因は心筋梗塞とのことだが、本当のところはどうなのだろう。
まあ、もう関係ないといえば関係ない。会社の部署や人間からも連絡はない。
告別式はオープンで誰でも参加できるようだが、どうするか。香典ぐらいは持っていくか。会場は渋谷から横浜方面へ電車で行くことになるが、遠くはない。
暑いのはいやだな。喪服も引っ越し荷物から出していない。
義理はあるが、本人が死んでしまったので、果たしようがない。行けばいやな顔をされるのはわかっている。難癖をつけるやつもいるだろう。
招かれたわけでもない。何も言わず行かないでおこう。
十五(八月中旬)
自分がいた都心のビルは地下鉄から地下でつながっていて雨にぬれずに入れると言っていたが、今は、外を歩かずにすむということは別な意味でメリットとなっている。
公立の小中学校も、教室に空調があるにもかかわらず、登下校が困難ということで暑さ対策休校が五月から
十月までの間にとられることが増えた。短期・長期の天気予報をにらみながら授業スケジュールが決められる。外で行う行事は、十一月から二月までに集められた。
ネットを通じての双方向授業の出席にカウントされるようになったので、学校生活のあり方が変わったとも言える。
小学生の恭一にはタブレット、中学生の麻那にはパソコンが配布されているが、これは東京からこの町に持ってくることができたのでありがたかった。
「新しいのがもらえると思ったのに」
麻那は文句を言ったが、彼女のパソコンは、それなりにカスタマイズしてしまったので、新しいものをもらうよりはスムーズに移行できたはずだ。授業出席のポイントづけも当然引き継がれた。
「なかなか気分一新とはいきませんな」
恭一はぶつぶつ言う。教材はそれなりに変わったはずだが。
十六(八月下旬)
だらだらと暑い暑いというだけの日を過ごしているうちに八月末となり、子ども二人は新学期で学校に通うことになった。
妻は隣の市の病院に勤め始めた。
とすると、日中、自分は家に母親と二人である。仕事と言って、二階の部屋に籠るが、本当に仕事があるわけではない。
ネットにつないであるので、孤立しているわけではない。といって、誰かとメールをやりとりするわけではない。SNSも読むだけである。
株のネット取引をやって、今は多少のプラスであるが、大きく張る相場ではないと思っている。ということで、ネットをふらふらしている間に、新学期(ただし、娘、息子の)一日目が終わった。
朝からTシャツに短パンの恰好は変わっていない。
妻も帰ってきて、食卓を囲んだ。自分の母親もいるので五人の食卓である。
引っ越してきてからなんとなく五人で食べるようになった。食事は、自分の母親がつくってきたが、それがいかにもがんばってます、というメニューだったので、そろそろ妻が引き継ぐといっている。この年になって、嫁姑問題か、と思ったが、自分が引き金を引いてしまったので仕方がない。
そもそも妻も忙しい。手が空いている自分がつくるのが一番合理的で、今はネットでレシピを引っ張り出せるのでなんとでもなるのだが、そうもいかないだろう。
娘は、父親の境遇に同情はしているはずだが、具体的に、食事の準備でも掃除でもやれるのにやらない、という状況になってしまっては、何か言い出すだろう。男女平等との教育をしていたのに、言うこととやることが違っていては、父親の威厳もあったものではない。
といって、自分が毎日の料理をすることに、母親が何とも思わないはずはない。父親が亡くなって十五年は経っていてその間、一人暮らしだった。食事は自分の分のみをつくってきたが、野菜や肉をこまめに加工してパックする形で、ある種、一人暮らしの完成形を築いていたようだ。
そこに、息子が妻子を連れて転がり込んできたわけである。しかも職なしで。
妻が専門職でよかった。これで家にいられたら最悪だった。
で、何とか外にでなければならない。
夏休み(ただし、娘、息子の)の間、怠けすぎた。これはよくない。
ということで、やっぱりI副社長の葬式でも行ってみるかという気になった。
関係者には、遠隔で見られるような仕組みもあるらしいが、そこまでする気もない。坊主の後頭部を見てお経を聞いてもな。まあ、どうしたものかね。
十七(過去)
この不祥事をどうするつもりだ。
二重三重にまずい。
トップレベルの問題になるだろうが、わがセクションは関係ないで押し通すか。
大きな組織だから潰れることはないだろうが、どこまで腐っているかわからない。
不祥事は何度も発覚し根絶できない。
こんなことを繰り返しているうちにずるずると国際競争に負けていくのだ。
他人事のように思った。
大きな組織の中で潰し合いをしているうちに、結局、優秀な人間は残らない。組織の中での潰し合いに最適化した人間ばかり残る。
部分最適であり、全体最適ではない。
自分も、その全体はもはや見通せない。朝、オフィスに行ってやることはわかっている。
保身と言われても、ここでしくじっては次はない。そういって、いくつかのイベントのクライマックスを超えて自分がある。
誇れない選択をしたことも何度もあった。
そう考えながら車に乗った。こうした時に社用車があるとありがたい、というか一度楽をしてしまうとやめられない。
定期券をもたなくなってからずいぶんとなる。ICカードになってからはしばらく持っていたかもしれないが、今は、改札を自分一人で通る自信がない。
こういう形での人としてダメになる、ということもあるのか。
十八(八月下旬)
I副社長は自分が就職した時の面接官だった。
もう、その時の風貌は思い出せない。最後に会ったのはいつだったろうか。
会社もスキャンダルと再編続きで、副社長というのは、いつの肩書だったろうか。最後は、子会社の会長か顧問で終わったはずで、それは本人にとって本意だったとは思えないが、とはいうものの、自分が本意を推し量れるほど近くにいたのは、はるか昔だ。
社葬ではなかったが、実質会社で仕切っているらしかった。なんとなく見た顔が、前の方に陣取っている。
やはり、気後れするな。まあ、帰るか。
帰ろう。
I副社長の自宅がある高級住宅街の近くの大きな寺での葬儀なので、土地鑑はない。
一番近いターミナル駅は渋谷である。駅構内で来るときもずいぶん迷った。あれで完成系なのか。
周辺の再開発は延々と続いているようだが、構内の動線は混乱するばかりである。
渋谷というからには谷であり、地下鉄が高架を走って駅に入っていく構造だったと思うが、周辺に巨大なビルがそびえるばかりで、人はその卑小さを思い知らされるように、人込みの濁流の中でなぶられた。毎日その波に乗ってきたが、もうテンポが合わない。
うんざりだ。
そうでなくとも喪服の上着はしわにならないように抱えたが、それさえも暑さの中で煩わしい。
十九(過去)
「まあ、もらっておくしかないな。役得ということだ」
「記録はどうします」
「記録はしておく。これは悪弊とは認識している」
「背任でしょう」
「背任だ。過去からずっと続いてきた。どこかで切らねばならないと思っているが、今、切るとプロジェクト全体に支障がでる」
「コンプライアンス室は」
「あそこの室長は、私の前任者だ」
「マスコミは」
「この間、支局長の歓送迎会をやったろう。そこで引き継ぎ済みだ」
上司の口調は淡々としていた。この人は、尊敬してきた上司だった。
「役所は、県も市も、国の出先も押さえてある。警察もだ。反対派にも撒いている」
反対派で新聞記事に出ている主婦の名前を挙げた。
「実家と旦那の勤務先から手をまわしている。反対運動はしているが、まあ、スパイに近くなっている」
その人の生活に根差しながらも歯切れのよい言説には心揺さぶられるところもあったので、ちょっとショックだ。
「まあ、がっちりと押さえてられてしまい、是正のしようがない。いろいろなところが絡みすぎて、全体がわからない。とにかくプロジェクトをまわすということで一致はしているのだが」
「そんなことでいいのですか」
「良くはない。上が腐ると、影響がでるのは現場だ。手抜きが過ぎる。何らかの事故が起こるのは時間の問題だろう」
上司はつらそうに言う。腹の中はわからないが。
「その事故ができるだけ、小さいことを祈る・・・こういう環境はよくないことはわかっているが、私には何もできない」
しかし、破綻はいつかくる。その時まで逃げ切ればいいが。
子どもたちに、次の世代に申し訳ない、とは思う。
少しずつでも情報はリークしよう。中にいるものとしては、とにかく記録に残しておくしかない。
二十(九月下旬)
お父さんは家にいる。いや、書斎にいるんだよ。仕事をしているんだよ、ということにして、パソコンに向かう。
株式のトレーディングをしたが、相場は見ているので、大儲けはないがそれなりに儲かる。
それで、家計にカネを入れて面目を保つか。
妻はそんなことは気にしないだろうが、それは自分と自分の母親の問題である。
カネがあることを示すために、母親にも現金を渡す。これも、それなりに渡世の能力があることを示したい。
母親はもう足が弱り、銀行の支店や出張所のATMにたどりつけないから実際に意味はあるはずだ。
ただ、保険やら配当やら、なんやらかんやらで母親からこちらの口座にカネが振り込まれてくる。
亡くなった父親がバブル期に土地を売り抜けた関係で、結構な資産をもっていて、それを相続対策で小分けにしているのを移しているわけだ。
麻那と恭一の口座にもこれまた結構な残高がある。こちらも会社に居る時は、それなりの額を振り込んだが、それだけではあり得ない残高がある。
まあ、喜ぶべきことだろうな。それなりの資産があって自由の身であるとも言える。ある意味では理想的な境遇である。
まだ、年相応だが体も動く。
問題は自分の身の振り方である。
今から何をしようか。
大学に戻る手もある。早々にあきらめた音楽と文学か。法曹や国際貢献活動というのもあるぞ。
二十一(十月上旬)
台風がきて、この町もあちらこちらで冠水した。
水はなかなか引かない。
全国各地ではかなりの被害が起きているが、報道は続かない。
情報番組は、新しくできるテーマパークや商業施設と流行りの食べ物、芸能人の結婚・離婚ばかり報じる。政治も、首相が外国に行くところとか、外国の首脳と日本でパーティに興じる場面ばかりが報道される。
被災地は多すぎて、それゆえ忘れ去られるのかもしれないと思った。まあ、不幸などうにもならない話よりも、いつものちょっと浮き立つような話がテレビから流れる方が安心する人間が多いのだろう。そうした人間の方が消費をし、日々の報道に直接、間接に金を払ってくれるのだ。
ある日、初めて自分の育った町の地図をモニター上でしみじみと見た。
子どもの頃は、地図などは見なかった。かつて赴任した地方都市では、初めての土地だったので道路地図を買って、あちらこちらを回った。東京本社に戻ったころにネットが普及して、あれやこれやの地図をネットで見るようになった。
川の形はこうだったのか。ただ、この間、恭一と回ったところでは、大きく地形が変わってしまっている。
今は、航空写真の方がよりタイムリーだろう。航空写真といっても、衛星写真と航空写真とドローンからの写真、そして地上での様々な画像をAIで組み合わせた詳細だが現実ではない映像である。
第一、全く人も自動車も写っていない。個人情報の扱いの煩雑を避けるため、皆、消してしまっているのだ。
視点をかなり自由に動かせる。
ありとあらゆる映像を取り込み再構築している。再構築した画像を定点からのカメラ画像でさらに修正しているが、最新のものは2日前である。さすがにリアルタイムとはいかない。
スクリーン上で疑似ドローンも飛ばせて自由な視点から風景を見られる。もちろん個人住宅の上は無理だが、河原は周回できる。川の水位や流れもみられる。
このあたりは一級河川だからだろう。
これで確認してから、恭一を連れ出せばよかったか。
河川敷にあったテニスコートや野球場は当面、利用不可との表示が出る。
この自宅の航空写真もそれなりの解像度で見られる。周りと比べると小さな家だが、それでも都内の家と比べれば十分に大きい。こんな広い家に母親は一人で住んでいたのだ。
隣の家も、その隣の家も高齢者だけであり、夫婦そろって元気という世帯は少ない。どちらかが、入院やら施設に入っている。
母親よりも、もう一回り年下の高齢者が、町内会を仕切っているそうだが、こちらも役員を引退しないうちに長期入院をしているとのことだ。
母親は近所の話をするが、息子を連れて正式に挨拶に行こうなどということはしない。
息子が昔から人見知りで、近所づきあいを嫌っていたことを覚えているのだろうか。
確かに自分は恥ずかしがり屋だったが、一方でこんな町はすぐでてやると思っていたので、そうした付き合いに重きをおかなかった。実際に十八で東京に出て、長期間の予定で帰ってきたのは、今回が初めてだ。父親が入院した時、そして亡くなった時には、まだ、独身だったので、家から通うかと母親に打診したが、母親は断った。
母親としては、息子に自由にさせてきた。そしてそれは父親の意思でもあったらしい。
父は、若いころ、東京で音楽家になりたかったようだが、早々と自分の才能に見切りをつけてすることがなくなり、祖父の圧力もあっていやいや故郷に帰り会社を継いだと聞いた。会社の経営は父の夢ではなかった。
その不動産業を処分した資産で今は、息子は、そこそこやっているわけだが、この有様は、そうした両親の気持ちにこたえているのだろうか。
二十二(十月上旬)
そして、ここに恭一がいる。麻那は、自分でなんとかするだろう。少なくとも、娘・息子には、自分が受けた恩恵を同じように渡してやりたい。資金的には、父母から継いだものをスルーした分を含めれば、いい勝負だろう。
ただ、自分が受け取ったような希望を受け渡せるかというと、どうだろう。
あの希望のようなものは何だったのだろう。何の根拠もない自信で未来はきっと良くなり、世界は自分の前に開けていると信じていた。
そうした希望を父と母は支えてくれた。
具体的になにを教えてくれたわけではないが、好きなことをさせてくれた。今思えば、それだけで十分で、それだけで自分は恵まれていたと思う。
父親だって、祖父の会社を引き継いでから、よく言えば堅実に、悪く言えばちまちまと切り回していただけで、この町から一歩も出たわけではない。
同じような出自で、財閥系に次ぐ総合不動産業になった会社はいくらでもあり、父親にはその意欲が欠けていた。
父親が、部屋に籠ってクラッシック音楽ばかりを聞いていたのを覚えている。
しかし、自分がこの年になって周りを見渡してわかるのだが、同じような出自で破綻した会社は、その数十倍あるだろう。右肩上がりの不動産相場ではあったが、無理をせずゆるやかに資金を回転させた経営は、それなりに巧みだったといわざるを得ない。
多分、父親は、二代目の零細企業の社長としては、十分な経営をした。死んでしまったから伝えられないが、今ならばそう言おう。言っても父親は喜ばないだろうが。
さて、父親の立場になって自分は娘・息子に何と言ってもらえるだろうか。
何のかんのいいながら日本経済が右肩上がりの時代までに大学を終えられた自分と、失われた何十年かの中で生まれた娘・息子とは、全然背景が違う。
特に近年は、列島のあちらこちらで災害が続き、そこから立ち上がらないうちに、次の被災が生じ精神の方がすり減るような世相が続いている。
まだ、父親のようにあきらめて、子どもに好きにさせるだけになるのは早いと思うが、さて、何をしよう。
二十三(十月上旬)
新学期がはじまって、しばらくして、そう、あれは九月の半ばぐらいから、恭一は学校を休むようになった。
朝、起きてこない。起きてきても、お腹が痛いという。または、頭が痛いという。
夜は元気になる。でも、朝がだめだ。
十月になっても暑い。台風も毎週のように来る。
海外からは感染症の流行のニュースが伝えられる。国内でも水際対策や隔離の件が伝えられる。
それを口実に、学校に行かないという。
毎朝、母親ともめる。自分が間に入る。
いいじゃないか、学校なんかたまには行かなくても。
母親は、毎日行くべきだと言い張る。
急患を扱う部署ではないので、技師の仕事は定時に終わる。職場までは二十分ほどなので、夜は空いていて恭一の勉強を教えるのは妻の役割である。
小学生の勉強だから自分が教えられないわけではないが、恭一が母親からしか教えを受け付けないのだ。
そのくせ、朝のもめる際には、父親を盾にとる。
まるっきり行かないわけではない。
ちょっとしたことが学校であると、もうヘタレて翌日行かなくなるだけである。
グループから外されたとか、文房具を隠されたとか、そんなことで学校を行くことを拒否する。
頑としていかないわけではないところが、また、困りもので、なだめたりすかしたりすると行くこともある。
目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食い得ることもあるのである、と芥川龍之介は嘆き、こう云う無法則の世界に順応するのは何びとにも容易に出来るものではない、とした。
恭一の不確実なぐずぐずには、父母は容易には対応できず、精神状況をひどく悪化させた。といって、まだ三回に二回は学校に行くだけましだが。
もう知らない、と母親が匙を投げた日は、一度、寝床に戻して起きてきたら連れ出すようにしている。
とりあえず、国道を走り、県境の橋のたもとに車を停める。十月になるのに秋らしくない。土手には、夏草が茂っている。あれから何度も豪雨を経験し、川の水は岸を荒々しく削り、その跡がむき出しになって近づく気にならない。
恭一は車から出ることさえいやがる。
「気持ちがいいぞ」と声をかけたが、草いきれが身をつつむような風が吹き、全然気持ちがよくない。
ただただ暑いだけである。
「スタバへ行くか」
この平日の日中、子どもを連れて歩けるところは限られている。
恭一も、同年代の子どもと会うような、小学生が出歩くような場は避けたいと思っている。
まだ、昼食には早いが、慣れてしまったスタバに行く。ここは、大学病院からの帰り道でもあり、病院に行ってきました、という顔をしていれば良いようだ。本当に病院に行った子どもと会うと恭一は委縮するだろうが。 恭一が入口で中をうかがってOKサインが出たので中に入った。
「面白いな」恭一の身振りがひょこひょことしていたので、思わず言った。恭一は、気にせずいつもの窓際の席にすわった。
メニューをちょっと開いて、これまたいつものなんとかフラペチーノを頼んだ。それは慣れたしぐさである。
慣れては困るのだがな、と思ったが、自分も平日のスタバでだらだらと過ごすのに慣れて困ったものだと思う。こちらも一番安い今日のコーヒーを頼んだ。
今日のコーヒーが何だかは気にしない。どうせ自分にはわからない。
さて、夕方までどこで時間を潰そうか。
二十四(十月上旬)
自分もこの自宅では、居場所がないのである。
母親はマイペースで、食事も自分でおかずのようなものを妻の留守に作り、タッパーで冷蔵庫に保存している。
妻は、四人分強ぐらいのおかずを作り、そのおかずから母親に分けるのと、母親の作ったおかずからとりわけるのとをうまく調整している。
不思議と台所での二人の動線はきれいに別れて重なるところがない。片付けは、自分が母親に言いつけられて以来、やっている。
まあ、水ですすいで、食洗器に入れるだけだが。
そこの分担は、妻と母親でいかなる話し合いがされたのかわからないが、スムーズに行っている。
しかし、隣国との合同軍事演習を思わせるような硬さもある。公海上は自由に振る舞うが、微妙に互いの領空を侵犯しそうになりつつ、ゆるやかに旋回して離れる、そんな感じだ。無論爆音はしないが、家庭のくつろぎの雰囲気からはかけはなれている。
麻那は、そんなありさまを粛々と受け入れている。
一番、右往左往しているのは自分であり、麻那と恭一の茶碗を下げるのさえびくびくしている。
二十五(十月下旬)
「え、何それ」
私は思わず叫んだ。
「町長選挙に出るって」
この町に来て、まだ三か月だぞ。
「日本国民で満十八歳以上であり、 引き続き三カ月以上その市区町村に住所のある者、というのが市区町村長の被選挙権の要件よ」
すらすらと妻が答える。
「いや、まだ住民票を移して三か月だろう。いや、そういうことじゃない。ここは俺の生まれ故郷で、お前とは縁もゆかりもない」
「今は町民よ」
「そういうことじゃなくて、当選するわけないでしょうが」
「この町の状況をあなたは知っているの」
どういう状況だ?
国政についてはテレビを見てネットで記事を読んでいるが、町の政治状況などどこで情報が手に入るのか。
「議会の騒ぎを知らないの?」
母親は新聞を取っているようだが、紙の新聞はずいぶんと見ていない。
「まあ、とりあえず話を聞こうじゃないか」
リストラされた夫の故郷で、三か月住んだだけで町長選挙に出る妻など、あり得ない。娘は受験生で、息子は不登校気味だ。町長選挙は、次の四月にあるとのことだが、中三と中一の子どもがいて、どうするつもりだ。 それに夫は求職中だ。
「あと、二十歳若ければ私が出るんだがね。まあ、男どもはだめだよ」
母親が言った。
「一番だめなのは、あんただ。いや、これは逸子さんには失礼だったかしら」
何だ、これは。後ろで糸を引いていたのは自分の母親だったのか。そういえば、商工会の婦人部会やらの団体関係の封筒や手紙が多くちらばっていたが。
「だめだ、だめ。ややこしそうなところに、うちの家族を巻き込まないでくれ。そういうのは嫌いなの」
「あなたに別に何をしろというのじゃないのよ」
「家の中がごたごたする」
「選挙事務所は、家とは別にするわ」
「そりゃ空き家も空き店舗も一杯あるだろうから、事務所はいくらでも手に入るだろう。そういうことじゃなくて、麻那の受験はどうする。恭一も学校を休み気味だろう」
「麻那には了解はとってある。食事の面倒はおばあちゃんが見るし、応援してくれるって」
まあ、麻那ならばどこの高校でも受かるだろう。学習塾がいろいろな規模で開催する模試を「狩猟場」と呼んでいる。受験は「狩りに行く」といって出かける。成績上位者の賞品狙いで、それをはずしたことはない。
「恭一はどうするんだ」
「あなたがいるじゃないの。あなたは何をするのよ。いや、何をしてるのよ」
一番痛いところをつくなあ。
姉が出来過ぎて、母親がきびきびしすぎるので、どうもダメな父親の方に親近感を抱いて、学校に行きたくないと訴えるのが自分になってきている。
突き放すべきか、受け入れるべきか迷いつつ、三回に二回は学校に送り出し、一回は、スタバでなんとかフラペチーノを飲むことになる。
「俺は選挙活動みたいな、ごたごたするのは嫌なんだよ」
「誰も手伝えとは言っていないわ。選挙運動の車に乗れとか、応援演説をするとか、そもそも期待していないわ」
「そんなことをするわけないだろう」
その点は一致している。
「仕事はやめるのか」
「病院の院長がこちらの人で、選挙は応援してくれるって」
みんなぐるなのか。
「一応、休職扱いで、落選しても職場復帰を認めてくれるって。今、人手不足だから」
母親によると、妻の勤めている病院は、この町から出た一族の経営で、院長は市との境のでかい家に住んでいるそうだ。当然、母親とは懇意で、院長の親の世代から孫まですべて知っているとのことだ。
なんだか自分を外して世界がぐるぐると勝手に回っているようで不愉快だが、これは止めようがなさそうだ。
「どうせ、俺のところに話す前に全部、決めているんだろう。外堀も内堀も全部埋めて、詰め将棋みたいにがちがちに詰め手を詰めているんだろう」
妻は、にっこりと笑った。
二十七(十月下旬)
議会の騒ぎとは、議員の過半数が選挙違反で逮捕されるという前代未聞というか、よくあるというか、典型的な地方政治のごたごたらしい。町長もそれに絡んでいて、とても次の選挙には出られないとのことだ。商工会の青年部とか、消防団とかの若手も、目ぼしい人間は皆、関係しており、とても表に立てるような状況ではない。こんな人口数万の町なのに、中央の週刊誌記者まで跋扈しているは、そのごたごたの種が、政権党の大物までつながっているからだ、そういった情報を集めるには地元の人脈がない自分ではだめだが、農家をやっている「彼」が話してくれた。
二十七(十一月上旬)
その土曜日は、小学校の学校開放日だった。
妻の町長選への出馬の話は、それっきりで、どうなっているのかわからない。
妻は、家事をいままで通りこなしているが、病院には行かず、どこぞで何かをしているらしい。と形容してしまうと怪しそうだが、連絡はSNSやネット会議で行えば場所と時間はあまり関係なく、事は進む。
実際に事が進んでいるか知らないが、
「俺は関わらん」
と言い切った関係上、聞くわけにもいかない。知る限り、妻の生活のリズムは今までと全く変わっていない。まだ、五か月ほど投票日まであるようだが、どんなものなのだろうか。
だいたい出馬表明というのは、いつどのようになるのだろうか。九月議会は、ほとんどの議員が逮捕されてしまったために、実質開かれないで終わったようだ。皆、辞職してしまうと議会が崩壊してしまうので、表面的な辻褄は合わせたと「彼」から伝え聞いた。
現職の町長もそこに巻き込まれているが、とりあえず事態の推移を見守るとか何とか言ってごまかして、十二月議会までは持たせるようだ。それも「彼」情報だが。
そんな中で、どうしてど素人の、住民票を移して三か月の四十路の女性が立候補するというのだろう。
そもそもそんな町長と議会ならば、江戸時代のようにお取り潰しとか改易とかしてしまえばいいと思うが、現代の制度はそうなっていないようだ。
母親もSNSをタブレット端末ではじめたらしく、台所のコンセントにつながった無線充電器のパネルの上が混雑している。
で、今日は学校開放日で、恭一の授業が二時間見られるのだ。
妻も一緒に行くという。
東京にいた時もできるだけ授業参観やら保護者面談は二人で行っていた。
妻とは決して仲が悪いわけではない。理解を超えるところはあるが、一緒にいて不快だったわけではない。どこか一線を引かなければならないときには、それなりにもめるが、決まってしまえば、その通りに動くことに不満はない。
ということで小学校に出かけた。あの半分水に浸かっていた小学校である。
少子化でクラスは二つしかなく、浸水していない側に使う教室を集めたので、廊下はそちら側が立ち入り禁止のテープが張られている。三階建てが二棟あるが、使っているのは、一棟の三分の二というところだろうか。
校舎に接している水が濁っていて、気分のよいものではない。この暑さだとボウフラが繁殖するのではないだろうか。
配られたプリントを見ると、感染症対策の項目があって水たまりの消毒は徹底している、とは書いてある。
アフリカとアジアのあちらこちらで新型の感染症が発生して、WHOの緊急事態宣言も、日本で出されるようになってしまった。日本の特別措置法に則った緊急事態宣言も毎年のように出されて、現時点で発出中なのか解除されたのかがすぐには思い出せないような状況になってしまった。
温暖化が進めば起こると予想されていたことが、次々と現実になりつつある。
恭一は、今朝も、行きたくないとごねたが、妻が諭して重い足をひきずりながら出かけた。
保護者が参観できる授業は一時間目と二時間目で、恭一の学級は国語と算数だった。
あの転入時の相談にのってくれたM教師が担任で、教室の前で二十人強の児童を教えている。もう少し児童数が少なくなれば一クラスになるとのことだが、ゆったりとした机の配置だ。
恭一は、思ったよりしっかりと授業を受けている。休み時間には、後ろと横の女の子と楽しそうに手遊びをしている。
なんだ、結構、うまくやっているじゃないか。
そう思った。
うまくいっていないのは、自分だけか。
息子に嫉妬しても仕方がないが、肩身は狭い。
「うまくやっているじゃないか」
帰りに助手席の妻に話しかけた。
「休み時間に女の子たちと楽しそうに遊んでいたぞ」
あれはね、その前に男の子たちの輪に入れなかったから。
妻が返した。
それほどほめられたものじゃないわ。
でも、俺は、隅の方で暗く本でも読んでいるかと思っていたから、よかったと思ったんだよ。
まあ、ね。
妻は、あなたは何もわかっていない、という感じで言った。
多分、自分の分からない形で世の中は進んでいくのだろう。
同じものを見ているのに、見えているものと見えていないものがあって評価も違うのだ。それは仕方のないことだろう。
あきらめた。
二十八(十一月上旬)
それでですね。
若い義理の甥は言った。
甥は二十代の後半で、妻の姉の息子にあたる。おもちゃメーカーに勤めていて、訪問時にはいろいろ会社の製品をもってきてくれるので、恭一がすごく歓迎する。
まあ、おもちゃは生活必需品ではないし、景気の変動も受けやすい。
甥は、自分の仕事の説明をする。
恭一が憧れの目でみるので、照れ隠しか自嘲気味に言う。
定番の商品ラインで底堅くファンを作って、一方で新規開拓をしなければなりません。
子どもはどんどん大きくなって、おもちゃから卒業してしまいますから。まあ、近頃は卒業しないで、大人買いしてくれる大人も増えましたから。それに、昔のように、男の子向け、女の子向け、との区分もなくなり、長い間愛されているおもちゃは、ユニセックス化しましたね。今はそれが当たり前です。
電子機器的なものの組み込みは難しいですね。小さい子ほど思わぬ使い方をして事故につながるおそれもあります。強度も必要ですしね。
新規の製品ラインの立ち上げが今ので三つ目です。一つ目は、ほら、二年前の夏に大ブームになった例のやつですよ。テレビとコミックとおもちゃでメディアミックスをするのは当たり前ですが、ネット動画のカリスマへの働きかけが鍵です。テレビは三年目に入ったので、まあ、安定期といえますか。
二つ目は、トントンで撤退しました。まあ、競合先の製品サイクルと悪いタイミングでかちあってしまいまして。クルマならばクルマのおもちゃで、二つのシリーズを同時に親が買うということはないですよね。
ある程度のバリエーションをそろえて一気にキャンペーンを張るのですが、なかなか先行している競合先は崩せませんでした。
甥は、ビールが入ると饒舌になる。
自分もサラリーマン時代にもどって業界の話を聞くような感じで相槌をうつ。
恭一は興味深そうに聞いているが、わかっているのだろうか。
けっこう大きなイベントを打とうという時に、感染症騒ぎがあって、あれは痛かったですね。
あれですよ、あれ。あれを機に人が集まるイベントができなくなっちゃったでしょう。
まあ、五月ごろから十月ぐらいまでは、いつ暑さにおそわれるかわからないし、屋外では豪雨になったら、まずだめですし。ドーム会場が足らんのですわ。
ネットで代替できないのか。
やはり、多くの人が集まると盛り上がるでしょう。集まる、群れるというのは人間の習性ですよ。
ネット配信が当然となっても、野球やサッカーの集客はむしろ増加傾向だったのですよ。
今や、ドローンや自動追尾カメラでマルチアングル、巻き戻し自由の動画をいくらでも見られるのに、それでも臨場感はリアルにかなわないから。
それで、三つめは、海外で火が付いて、北米と中国で売れています。日本は、なんとなく感度が鈍くて。
いや、この感度云々というのはマーケティングの人間としては言ってはいけないのですが、それでも、海外で一押しすれば返ってくる反応が、国内だと、三回ぐらいたたかないとだめです。
どうしてこんなに鈍くなってしまったのですかね。
まだ、独身だし、近々に海外に出されるかもしれません。それでもいいですが、市場としておもしろそうな中国へ行かせてくれないですかねえ。
二十九(十一月上旬)
すっかり海外に出なくなってしまったなあ。
子どもがいるから仕方がないか。英語も読めなくなってしまった。ネットで勝手に翻訳してくれるから、それでいいのだが、微妙なところで能力がスポイルされているような気がする。
ワープロを使っていると漢字が書けなくなるようなものだ。ワープロで漢字が勝手に出てくるのだからそれでいいではないか、との考えもあるが、なかなか手書きはしなくてよいと子ども達に言うことはできない。語学も同じことだ。
AIがみな訳してくれるから、ABCも読めなくてもよいということはならないだろう。しかし、必要があってタイ語での情報を集めたこともあったが、あのタイ文字を一から習おうとは思わなかった。いきなり、翻訳サイトにコピペで文章を放り込んで日本語訳を得て、それで不便はなかった。
しかし、何かが物足りなかった。
とにかく、どこか海外に行きたい、と思った。
妻が選挙に出る。選挙とはうるさいだけのものだと思っていた。あれが好きな人間の気が知れない。
選挙期間中にこの町にいたくないなあ。子ども二人連れて、海外でもいきたいなあ。
でも上は中三、下は中一だから、とても無理だろう。
三十(十一月上旬)
久しぶりにテレビをつけると、なんとなく見た顔が並んで頭を下げていた。
また、不祥事か。どの不祥事だろうかと考えかけたが思い出すのもいやだ。
どうせ自分はそんな会社をリストラされたと噂をされているだろう。
妻が町長選に立候補したら、何を言われるかわからない。
妻は、夫婦は別人格と気にもしないだろう。
そうは理解しないような古いコミュニティなのだと言っても、それはその古さが悪いのだとするだろう。
しかし、その悪い古さは、選挙までには治らない。選挙後だって治らない。
その悪さが永遠に治らないから、この町に見切りをつけて出て行ったのだ。わかっていながら、戻ってきた自分が悪いのだ。
といって、妻が選挙に出るとは、わかっていなかった。
確実に町の我々家族を囲む雰囲気が悪くなる。麻耶はいいが恭一はよいよ学校に行かなくなる。
日々世界は動いているのに、自分だけこんなことで悩んでいるのはどうなのか。
といっても、世界は素敵な方向に動いているわけではない。
海外では、独裁と戦争、格差と貧困が広がり、パリやロンドンでさえテロが頻発するようになり(いや、前から多かったが)、かつてのようにあこがれの海外旅行、海外留学でもなくなっている。
日本は、国力が落ちてきたので、若い世代が旅行も留学もすっかりしなくなってしまった。それなりの能力のある少数の大学院生や若い研究者は、海外に出たまま戻らなくなっている。給与や待遇が全く違うのだ。そして若いビジネスマンも、欧米、中国資本の会社に転職しようとしている。それがまた経済にもよくない影響を与えている。
そうなっても、コンビニとスーパーの棚はまだ一杯であり、サッカー場と野球場は満員である。牛丼やそば・うどんの類は相変わらず安くてうまい。
それで何が悪い、といわれればその通りだが、それを支える人に十分な給与が払われているとは、とても思えない。
「伝統を守りながら、同時に、変化をおそれず、困難な課題に対しても果敢に挑み、乗り越えていく。新しい時代においても、私たちは、そうした努力を積み重ね、躍動感あふれる輝かしい未来を切り拓いてまいります」
である調と、ですます調を混ぜた気持ちわるい話し方は、いつから流行りだしたのだろう。
テレビでは首相の談話が何かにかこつけては流されるようになったが、ほとんど定型で全く新鮮味も緊張感もない。こうして国と社会はずるずると後退していくのだろう。
三十一(十一月中旬)
十一月になっても、なかなか気温は下がらない。
相変わらず職はない。朝起きると、スーツに着替えて車に乗る。妻とは反対側の県境を越えて一つ町を越した新幹線が停まる駅のある大きな市の図書館に行く。
その市の大学の聴講生にもぐり込んだため、市立図書館の貸出カードを取ることができた。
大学の聴講は、社会人用のいつでも入れるコースのものを二つほどとった。
大学の図書館も使えてなかなか便利だが、大学では、やはり周囲からは浮くので、市立図書館の方に足が向く。
市立図書館の平日は頭の白い退職者が多く、こちらも身を置くには少し抵抗がある。
この市は、それなりの中心都市であるため公共施設は結構充実している。図書館も新しく、閲覧室の椅子・机も白木の凝ったものが置かれている。
持ち込みパソコンとWiFiの利用ができる席に開館とともに陣取ってしまう。
職を離れて資格をとるのだろうか、税理士や司法試験の参考書を持ち込んでいる二十代、三十代の男女もいる。そういう生き方もあったかと思う。
オンライン講座と映画と読書で一日潰す。
時々、株取引をする。
誰にも邪魔されない。
三時に株式市場が閉まると、近くの公共施設のジムとプールに行く。そして五時ぐらいまで過ごす。
シャワーを浴びてさっぱりした後、家に帰る。途中で、夕食の材料やデザートのケーキを買う。
地方都市でも、というか、地方都市だから、というか、充実した菓子店がある。
東京ほど家賃が高くなく、交通の利便性の高い地方都市の方が意欲的な若手が店をもちやすいという面もあるだろう。
料理店も、東京や海外で修業した若手がはじめた店がある。
バブル経済の頃に独立を志したものの、東京での地価高騰から、この都市で開店した洋食店が十数店舗あって、ちょうどそのオーナーシェフが世代交代時期を迎えたことも関係していると聞いた。
これは聴講生で参加している大学の地域経済のコースの教授の話だ。
暇ができたら妻を連れて料理店を回るというのは、ひとつの夢かもしれない。
これはこれで、理想の生活かもしれない。
世俗的な成功とも程遠いが、煩わしさはない。
しかし、社会には全く貢献していない。父母は、自分にいろいろと投資をしてくれたと思う。それに報いたとは言えない。
教育はそれなりに受けた、会社からも様々な研鑽の場を与えられた。それを返せたとはとても言えない。
何か世界に大きな貢献をする人間になりたいと思っていた。そう思っていたことさえも、今は忘れてしまった。忘れてしまったことさえも気が付くことがなくなった。
でも、まだ、時々、胸がうずくのだ。
三十二(十一月中旬)
麻那の面談に学習塾の教室まで行った。何でも本部から何かの専門家が来るとのことだった。
「模試で常に上位、という生徒は必ずいます。毎年全国模試をそれなりの回数をやるので入れ替わりが激しいのですが、必ずそういう生徒がいるのです」
まあ、そうでしょう。
「我々は、毎年、そういう生徒を見ています。ただ、何年に一度か、そうでありながらも、そういう枠に収まらない生徒がでてくるのです」
はあ。
「ある種の天才といえます。言い方は難しいのですが、ギフテッド、神の特別な恩寵を受けたと言うべき子どもたちです」
映画で見たことがある。あれは、二〇一〇年代の後半のアメリカ映画だっただろうか。
「娘さんもそのカテゴリーにあてはまるのではないかと考えまして」
例えば、数学の天才とか。あの映画は、そういう女の子の話だったよな。
「ギフテッドにもいろいろな種類があります。認識力、記憶力、思考力、判断力、それぞれがどの程度優れているか、バランスがどうかも見る必要があります」
それで、どうしろと。
「全世界規模の専門の機関があります。そこから人が来ますので面談を受けてみませんか」
うちの娘は受験生ですよ。
「こう言ってはなんですが、お宅のお嬢さんに受からない高校はありません。どうも、満点ではおもしろくないので、発展の問題を作って作問者を試したりしています。それは、記述式の試験だけですが」
それは、どんな。
「狙いとしてこれこれの能力を見るならば、このような出題の仕方が望ましい、とかですね、そうした意見をつけてくるのですよ」
英語では、長文について引用した演説の他の部分を原文と和訳をつけてきました。
時間内にですか。
「時間内にです。語学については、どうやらマルチリンガルを目指しているようですし」
そんな素振りはありませんが。
「今は、ネット接続ができれば、世界中の言語にアクセスできます。才能のある子どもにとって、ネットの海はごちそうの山みたいなものです」
同じ場所にいても、全く違うものを見ているのか。家の中に想像を超えた存在がいるようだ。妻もそうだが。
数日経って連絡があった。
「こう言っては何なのですが。あなたの娘さんは」
なんなのだろう。
「既に運営側に入っています。十一歳のころから、その私が申し上げた専門組織に接触していてですね。既に運営する側に回っています」
はあ。
「だから今のまま、放っておいてくれ、と」
映画でもあった。試験の出題が難しすぎるかと問われた主人公の少女は、その問題が間違っていることを指摘して相手をへこませた。そんなようなものだ。
思い出したが、小学四年生のころ「大学への数学」を読んでいるので、問題が解けるかと問いかけたが、既に出題者側で回答の講評をしていた、ということがあった。
三十三(十一月中旬)
それにひきかえこいつはわかりやすいな。
なんとかフラペチーノをスタバですする恭一を前にして思った。来年は中学生になるとは思えない。
朝、前の通りを低学年と思われる小学生が通ると一度引っ込んで、見送ってから、小学校に向かう。
大丈夫かよ、お前。
そう言うが、それは自問することでもある。
その朝も、まだぐずぐずしている。
また、行かないのか。二学期だけで、五回目か六回目か。
今日はさぼりじゃないんだ。自宅で遠隔学習。口をとがらせて答える。
感染症についてのお知らせのメールを見せられた。
二十一世紀のはじめから中国やアフリカから感染症が何度か日本に伝播してきたが、日本国内に起源をもつ感染症も流行り始めた。
高齢者以外の世代の致死率がある程度を超えなければ問題ないとの社会的な合意もでき、在宅ワークや遠隔学習の仕組みが整ってきたので、社会的な影響は小さく抑え込まれるようになった。
交通事故が自動運転技術で減った分を、感染症による死亡の増加分で補った形で、合計の数は横ばいとの報道もある。交通事故のニュースが流れても誰も食欲を落とさないように、感染症で死者発生のニュースが流れてもなんとも思わなくなった。
マスクは感染症の流行の有無にかかわらずいつもつける人間が多くなり、手洗いは当たり前の習慣になった。
慣れである。
劇的なことは何もない。でもいつの間にか変わっている。
恭一の気の弱そうな顔は、東京にいた時とこちらに来た時とあまり変わっていない。
それでも、背が伸び骨格がしっかりしてきている。
その分、こちらは歳をとるか。
三十四(十一月下旬)
妻と麻那の動きがまったく把握できなくなった。
夕食と寝る前の三十分は、母親も含めて五人で過ごすという約束をしており、その時は、ごく普通の家族である。子ども二人は学校や塾であったことを話し、庭の花のことを話し、親戚のことを話す。仲の良い家族の会話がなされる。
しかし、その時間を外すと、妻と娘はヘッドセットをつけてパソコンに向かう。ゲーミング用によくみられるような大きくカラフルなヘッドセットである。入力はキーボートとバーチャルなコンソール的なものを使う。
部屋にとじこもることはやめよう、ということで間取りをつくったが、リビングの脇に、アーケードゲームのコックピットが設置されているような感じになっている。義理の甥によれば、大型筐体ゲーム用フレームというのだそうだ。
娘は、机の周りに紙の本も積み上げているが、半分は日本語ではない。
恭一のパソコンは、標準的な学校で配布されるものである。これは、食卓のテーブルの上で開かれたり、開かれなかったりする。
リビングの片面は、スクリーンになるようになっているので、複数の画面を開いて、ニュースを流したり、環境系のビデオを流したりしていたこともあったが、結局、家のリビングを拡張させるような静止画を映している。十二畳程度しかないリビングが、なんとなく十八畳から二十畳に見える。
その広々感の中で、自分と恭一はごろごろしている。音楽を聴いているように体を揺らしながら、入力デバイスをたたいている麻那の背中を見ている。
楽しんでいると思えば、娘の成長は喜ぶべきだろう。
見た目は全く十四歳の少女である。
筆記が必要な作業はダイニングテーブルで行うこともある。ほとんどの作業がパソコンとネットを通して行われる時代だが、手を動かすことの価値というのもあるのだそうだ。
そうしたとき、対面の席に陣取ってビールを飲む。母親に似ているが遥かに美人だと思う。
恭一は心配の種ではあるが、それはそれでいなくてはならない。
不登校の日にスタバに連れていくことが慣例となっている。でも、気の弱そうな顔を見ながら飲むコーヒーはまずくはない。
仕事には恵まれなかったが、家族には恵まれたと思う。
三十五(十一月下旬)
大学と市立図書館通いの日々は心地よい。このままだらだらと過ごしてしまいそうだ。
それで何が悪い。
外は戦争だ。
テレビは、ほとんどネット配信と一体化し、無限にチャンネルがあるようなものだが、ある程度の世間を映す「まとめ」として、旧メディアがある。
その中でも、人気があるのがスポーツだ。
国際大会は、概ね中国と韓国に開催権をとられたが、全国大会はそれなりに盛況となっている。
スポーツの応援が乱暴となり、一時期、場外での乱闘や破壊が常態化するようになったが、監視カメラと警備の強化で徹底的に抑え込まれた。
スタジアムは、画面を通して見るときれいだが、実際に行くと大変らしい。画面には昔から仮想の看板が立ち上がっていたが、今は熱狂する観客自身がCGか何かでつくられて写っているらしい。
ICTが発達し、選手のクローズアップやスローモーションが視聴者一人一人の好みに合わせてできるようになったとともに、そのカメラの目を観客席に向けるといろいろ不都合なことが起こるようになった。観客席にいる不倫関係にある芸能人の動画がネットに上げられ、騒ぎになったことを契機として、観客席はバーチャルな観客で埋まるようになった。
では、リアルな観客席はどうかというと、安価な入場料の荒れた区画と、高額な入場料をとるものの警備ががっちりなされ上質感のある区画に分けられた。比率はその地域の人口構成に合わせて最も収入の上がるように設定されるのだろう。
そして、観客席のバーチャルな観客は、一人ひとりが細部までつくりこまれたCGとなり、その動作がリアルの観客の反応と連動するようになっている。そのバーチャルな観客の姿は、スタジアム各所のスクリーンに映し出され、それを見たリアルな観客は一層盛り上がるという繰り返しである。
三十六(十一月下旬)
「やあ、悪いな。渡航制限がかかってしまって次か来ないんだ」
「彼」がピックアップトラックから降りてきた。
「機械化にも限度があってだな」
「わかった。人手がいるところは手伝おう」
「人手というよりも、監督者として全体を見られるようになってもらいたい。今いる有能なフィリピン人の彼が、故郷に帰るといっているので、一年かけてそのノウハウをこちらに残したい。
彼は地元の名門大学を出て、無茶苦茶優秀なんだよ。俺の農園のシステムは彼が構築したといってもいいだろう。毎日の業務は俺の息子が張り付くから、ノウハウの移転の具合を見てほしい」
「お、息子さんが継ぐことになったのか」
「企業農家として生きていく目途が立ったということだ。ただし、これまでのように外国人の労働力をつまみ食い的に使うことはできないという前提だ。全面的に近代化する。きちんと役職と給料を出すからどうだ」
どうだろう。
「まずは、試用期間を設けてはどうだ。三か月。俺もおまえのところのことを隅から隅まで知っているわけではないし、中学時代の同級生の関係とビジネスでは、お前との関係も変わってくる」
「すぐにでもフル回転をさせたいが、そうもいかないだろう。とりあえず、週三日は来てくれないか」
「今年中は週二日でどうだ。資料は家で読み込むとのことで」
「まあ、いいだろう」
そんな会話があって、「彼」の息子とフィリピン人のエンジニアを紹介された。息子は亮介、エンジニアはカルロスといった。
当日、ざっと畑をみた後に、カルロスからシステム構成を見せられた。細かいところはわからない。ベンダーの話をもう一度聞くことにした。
亮介君は東京の会社勤めを辞めたところで、まだ東京から引っ越し荷物が届かないといっていた。明日の朝、東京に一度戻るという。
一応、僕もシステム・エンジニアなんですけれど分野が違いますから。一から勉強です、などと殊勝なことを言っている。そういえば、亮介君が中学生の頃、一度、我々の同級生の飲み会に付き合わせたことがあったか。
夕方になってやや早かったが、近所の焼き肉屋に四人で出かけた。
亮介君もカルロスもよく食べた。
亮介君は黙りがちだったがカルロスは陽気によくしゃべった。
三十七(十一月下旬)
フィリピンは暑いと思っているでしょう。カルロスは言った。
フィリピンにも涼しいところはあるのです。私の生まれはルソン島の北部のバギオという都市です。避暑地で、気候は日本でいえば軽井沢というところです。バギオは六つ総合大学があり、学園都市です。美術館も博物館も一杯あります。カフェもたくさんあります。
皆、肉を焼きながら聞き流している。
カルロスは、バギオ市のセントルイス大学で、コンピューターサイエンスを専攻して、交換留学生で日本に来たらしい。
立派なエリートだが、なんで、こんな田舎で、ビニールハウスの温度管理や農業用ドローンのコントロールシステムをつくっているのだろう。
それとなく東京にはもっと稼ぎのいい仕事があるだろうに、と言ったら、目をかがやかせて、いえいえ、こここそが最先端なのですよ。ここで得た経験は世界で使えます。早くフィリピンに戻って、世界征服に乗り出すのです、と言った。
ビールを飲み過ぎている、と思ったが、あながちホラでもないらしい。
一時的にりょーすけ君にここは渡しますが、私は戻ってきます。戻ってきて、今度は二人で世界にうってでるのです。
亮介君は、にやにやしてカルロスを見ている。
そしたら、僕たちは大金持ちになります。お父さんをつれて世界一周の旅に出ます。
感染症と災害で世界一周旅行も今は魅力的でないのだが、それには気づかないようだ。
お父さんと言われた「彼」は気にしないようだ。
シャチョーとお父さんと呼び方をころころ変えながらカルロスはしゃべった。
「彼」と亮介君は、無口な方でカルロスの話を聞いていた。自分は、かえって気を使って合いの手を入れていたが、そのうち疲れてきたので、勝手に冷酒を飲んだ。
焼き肉屋の建物は安普請で、煙もこもりがちだったが、そういうものだと思えば気にならなかった。
なによりも肉が良かった。肉卸をやっている会社の直営なのだそうである。 野菜は地場のものだが「彼」が農場から直接旬の秋野菜を持ち込み、それが一層おいしい。
ここのところ、昼と夜との温度差が非常に大きく秋ナスのできがよいということだ。
カルロスは、秋ナスと肉とビールですっかりごきげんで、機械学習と農場システムの改善について熱弁をふるった。
三十八(二月上旬)
年が明けて、義理の甥がアメリカに赴任するらしい。
日本では売れないで打ち切りになったテレビシリーズが、アメリカでは継続して、ネット配信もはじまったとのことだ。
日本では手に入らない組み立て玩具の実物を見せられ恭一はうらやましそうだ。
今は、ネット上の多言語も同時通訳してくれるので、外国のネット動画は、ほとんど日本のものと同じ感覚でみられる。
「やっぱりリアルでないとね」
と甥は、恭一にいくつかアメリカ版の玩具を渡してくれた。
広げたり畳んだりして様々な恐竜に変形する玩具だ。
「人種的にいうとヒスパニックとかアジア系に人気なんですよ。西海岸の大学にはファンクラブまであって、新しいモデルを提案してくるんです。今は、3Dプリンターで何でも作れますから」
「いいなあ。僕もアメリカ行きたいな」
「大学生になったら来るといいよ。そのころまで居るかどうかわからないが、居たら歓迎するよ」
あっちの大学の学費は高いそうだが。
思わず口をはさんでしまった。
「ここのところずいぶん円も安くなってしまって、なかなか海外旅行もままならないですからね。でも、向こうで働けば給料も高いから」
大学生は給料はもらえないだろうが。
「いや、あちらで博士号でもとって勤めれば、僕の倍ぐらいの給料が初任給でもらえますよ」
まあ、恭一が中学生になったら一度、遊びにいかせてもらうよ。恭一、一人で行くか。
「いやだ、お母さんとがいい」
お父さんはいらないか。そうか。
ちょっと父親としてがっかりした。
三十九(二月上旬)
カルロスは本当に優秀だ。
こちらは副社長の肩書をもらっているが、彼が最高技術責任者(CTO)になった方がいいのではないか。
カルロスがいないところで「彼」に言った。
無理にでも引き留めた方がいいんじゃないか。亮介君には申し訳ないが、とても代わりが務まるとは思えない。
「いや、カルロスはフィリピンにもどるが、遠隔でここのシステムもみてもらう。大丈夫」
農家の一室ではあるが為替のディーリングルームのようにディスプレイが並び、画面上には様々なグラフと畑の画像が映し出されている。
「彼」は手元のキーボードをかちゃかちゃと叩いてから、こちらに椅子を回した。
「四月になったら、ビニールハウスを一気に倍に増やす。そのためのシステムを今拡張している。かなりのキャパがあるから、当分更新しなくてもいいだろう。まあ、最適化のための調整は続ける必要があるが」
外は冬雨が降っている。昔ならば雪だったのかもしれない。
冬は感染症の季節だった。一度通年型のでかいやつが来て数年で収まったが、その後も何年か一度は流行る。南半球の森林火災と同じように年中行事となっている。
冬が暖かいのは、ハウス栽培の燃料費がかからなくてよいというが、太陽光と太陽熱でほとんどのエネルギーを賄うようになっているので、そう恩恵はない。
恭一の小学校の運動会は、二回延期になった後、中止とされてしまった。恭一は、駆け足が遅いので、それなりに喜んだが。
「日本はどうなってしまうのだろうか」
なんとなくつぶやいてしまった。
「日本がどうなろうが、この農園の規模を倍にする。まあ、賭けだが。勝算はある」
エンジニアはフィリピンから協力する。
「でも、販売先は日本だろう。この近隣だろう」
「半分は海外向けだ。販路の開拓もカルロスが華僑と組んでやっている」
古い農家の畳の部屋でする会話としては、似つかわしいのかに似つかわしくないのか。
「まあ、そうしないと生き延びられない」
また、どこからか警告のピーという音がして、「彼」はまたキーボードをかちゃかちゃとたたいた。
「俺の子どもの頃には、農業は遅れた古臭い家業だけれど、のんびりとして、いざとなったら逃げ帰れる先だった。あったろう、都会で夢破れた若者が言う、田舎へ帰って農業でもやるわ、というセリフが。それが、今は、国際情勢と相場に直結した生き馬の目を射抜くような話になってしまった」
まあ、儲かっているから、文句は言えない。
「彼」は複雑な笑いを浮かべた。
四十(六か月後、九月上旬~下旬)
半年後、「彼」は、ロボット農業ベンチャーの旗手として日本全国を飛び回り、この町の農場を不在とすることが多くなった。
データは遠隔で「彼」の元にリアルタイムで送られ、自分との打ち合わせもどこからでもできるようになっている。
一応、現地担当副社長みたいな待遇で、実際、町名と会社名、副社長との肩書を名刺に刷り込んでいる。
妻の町長出馬の話はどうなったのだろうか。家で口をきかないわけでもないが、その話には触れない。といって仲が悪いわけではない。
恭一の不登校の教育相談に行ったり、麻那の美術展の展示を見に行ったりはする。
中学生になっても、恭一の不登校には、月に二、三回起きる。
妻はもうあまり心配していないようで、私とスタバのなんとかフラペチーノを食べに行ければ大丈夫、などと言っている。
まあ、引きこもってしまわれるよりはよっぽど良いが。
母は、同じ家にいるのに不思議と動線が、家族と被らない。一家族と一人が同じ屋根の下にいるような感じで、食卓は囲むが後の場面では、ほとんど会うことのないような過ごし方をしている。
妻とつるんでの政治活動はどうなっているのだろうか。自分の母親ながらだんだん妖怪のように感じる。
「恭一はやればできる。大丈夫だ」
しばらく学校に続けて通っていたのだが、今日はまた、振り出しでいつものようにスタバにいる。
やればできる、といっても何をどうやるのか、言っている私もわからない。
スタバは相変わらず、田舎にふさわしくない内装でこの親子を迎えてくれる。
ここに初めて来てから、季節は過ぎていく。この温暖化で夏以外の季節感はどんどんなくなっていくが。
恭一は心細そうな顔をしている。中学生になっても相変わらず体は小さい。
恭一のなんとかフラペチーノの食べ方は、カップに浮いているクリームを半分だけ沈めて、液体部分に溶かして紙ストローで飲んでしまい、残りのクリームをスプーンですくう。
ちょっとだけ手つきが器用で大人びてきたか。
四十一(六か月後、九月上旬~下旬)
平日の午前である。農園には、午後から行くと登録してある。
右も左もわからず、はじめてここに来たときより、だいぶましになったが、それなりに忙しい。こういうふうにずるずると仕事に入っていいのだろうか。手持ちの資産は株取引でなんとなく増えている。農園からの収入がなくとも当面食べていける。
恭一と麻那がいるから冒険ができない、という言い訳はできるが、どのみち自分は冒険などできない人間なのだと思う。
大手企業にいたから、それなりに社会人をやっていたが、そういう場所にたまたまいただけだ。
肩書なしで勝負するには経験も度胸も能力も勤勉性も欠ける。そう自認して開き直れば楽なものだ。
ビジネスとしての農園は一気に広がる。「彼」が撒いた種が花開く勝負の時だが、自分としては目の前で事態があれよあれよと進んでいくだけだ。
「彼」とカルロスがすべて仕切っていて現状を理解するだけで精一杯だ。
着々と立ち上がる現実と仮想の構造物の広がりを見て感心しているだけである。
亮介君も同じようなものだろう。とはいうものの、三十近く年齢が違えば当然見ているもの、見えているものも違うだろうが。
車で久しぶりに県境の橋の袂から河原に降りてみる。そこから見える山は昔のままだ。吹き下ろす風も温暖化で変わったと言うが、わからない。
隣にいる恭一は、暑いとも寒いとも言わないで、興味なさそうに光る川面を眺めている。
秋の川の流量はもっと多かったような気がするが。昔と比べても仕方がない。
今日は気持ちのよい秋の日だ。そう記憶にとどめておこう。
四十二(八か月後、十一月上旬~下旬)
そうした日々がどれだけ貴重だったろうか。
あっという間にあらゆるものが崩れてしまった。
まず、「彼」とカルロスが出張先の北海道で遭難した。山に登ったわけではなく、地震による地崩れである。平地である畑にいたのだが、土地が盛り上がり、そして崩れたそうだ。
遺体は見つからなかった。
私は亮介君と現地に行き、その後、地元の農園の手当てをしてからフィリピンのカルロスの実家に行った。
カルロスの実家は裕福な実業家だった。家は大邸宅と言っていいだろう。
遺品らしいものも何も持って行けず、カルロスがプログラムを書いて飛ばしていた小型のドローンを持参した。彼は自分のものにはサインをする癖があり、そのサイン付きのものだ。
それを抱きしめて、中国系の彼の母親は泣き崩れた。母親へは、頻繁にビデオレターを送っていたようで、それを見せてもらった。
居なくなった人間が生き生きと画面の中で話している。タガログ語はわからないが、亮介君と私もこらえられず泣いた。
「彼」には、亮介君以外の親族がいなかったので近所の菩提寺で簡単な葬儀をあげた。「ベンチャーの星」的な立場で、国内外に交友も広がっていたはずだが、親族だけ、ということで簡単に済ませた。
もう、その頃には、日本列島のあちこちが悲鳴をあげ、東京は半分沈みかけていた。
地球全体がおかしくなっていたが、日本も例外でないということだ。
ある日、妻と娘が別れを言いに来た。
超国家的組織で専従として活動するとのことだった。
「何だ、それは」
説明では、この異常気象、地殻変動、その他諸々の異変に立ち向かうための組織ができ、娘と妻がその組織に招集されたとのことだった。
「招集?」
招集ではないだろう。特に麻那は、例によって運営の側に回っているはずだ。
止めて止められるものではない。ちょうどそのころ、農園は根こそぎやられた。秋雨前線の影響だが、そういう穏やかなものではない。空気の塊に叩き潰されたというのが正しい表現だろう。いつからか当たり前になった爆弾低気圧というやつの仕業だ。
妻と娘が招集に応じる代わりに、私と恭一はアメリカ大陸にわたる権利を得た。これも正確には、二人の配属について、英語を直訳すると「不可欠な条件」として家族の「保護」がなされた、ということになる。
「これは人質ということではないかね」
と麻那に聞いたが、答えはなかった。いずれにせよ日本にはもう居られない。 安全なところに行くにはこのルートが最善だと言われた。
麻那と自分では、もはや見えているものが違いすぎる。
「大きくなったな」
などと、場ににつかわしくない言葉を交わしたのは、東京西部の米軍基地である。そこから大型軍用機に乗ってカルフォルニアまで飛んだ。
アメリカでも山火事と竜巻などの災害が頻発しているが、沈みつつある日本よりもましだ。
実家の母親は、
「いまさら海外はごめんだね。わたしゃここで死ぬよ」
といって動かなかった。
動かないといっても、なにやらネットであちらこちらに指示を出している。キーボードを打つ速さが、とても老人とは思えない。
どうも、妻と娘の組織にからんでいる。
うちの女どもは。
それから、数ヶ月のうちに富士山を含むいくつかの活火山は噴火し、日本の 大部分の地域が住めなくなっていった。
亮介君とも連絡がどれなくなった。
四十三(一年後、四月)
カルフォルニアでは、軍基地の将校クラスの一軒家を与えられたが監視付きだった。
一週間もたたないうちに、基地は山火事に襲われた。
軍事基地が山火事に襲われるというのはどういう状況か、日本にいたときには想像もできなかったが、目の前では信じられないような光景が広がっていた。
まさしく炎が壁となって広大な基地の上に倒れてくるのだ。
基地を放棄せざるを得なくなり、そこから、軍用車で逃げる際に幹線道路に出てきた大きな野生動物にぶつかった。
軍用車は大きく傾いて転倒し、私は車体から放り出された。記憶があるのはそこまでで、気づいた時には、中西部の町の大学病院に担ぎ込まれていた。
左肩が潰れ、左腕は動かなくなった。
恭一は軽傷で、私にずっと付き添っていてくれた。まだ、十四になるかならないかである。一人で残してはいけないが、この体でそう助けになるとも思えない。とにかく異国の病院で二人だけの知り合いがいない状況である。
それでもVIP待遇であり、周囲の人間からの扱いは明確に違った。
これは麻那のおかげなのだろうか。
中西部の病院のベッドの上で、テレビで西海岸の惨事を見ながら、そう思った。
四十四(一〇年後、四月)
そうして、時が経ち、今、私と恭一は、アメリカ東部のカナダとの国境に近い町にいる。
アメリカだって半分は住めなくなっているが、このアメリカ建国初期にできた町は、奇跡的に過去の姿を保っている。私と恭一は、その町の中にある大学だった建物群の中に住居を与えられている。日本人は我々二人以外にいないが、人種は様々だ。
恭一の親友はモーゼスという名前だが、どうみてもアジア人だ。
もはや生きている人間は、八割方難民といってもよい。
海から近いその大学の建物群の住居地域には、なんとなく、我々と同じような、例の「超国家的組織」の親族が多いような気がする。
この海辺の町の主な産業としては漁業だが、採れる魚の種類も昔とはちがうそうだ。その昔を知っている者も少ない。
海流と地形の関係で、気候も落ち着いている。不思議とそこまでもネットはアクセスできるようになっており、それさえつながれば、生活はどうにでもなる。
世界は傾きつつある。あるところでは狂乱とともに、あるところでは沈黙とともに。それでもネットワークは生きていて、様々なマーケットができている。人が交わるところに取引があり、市場ができる。それは太古の昔からだろう。
大学の購買部に残っていたその時点での最新のPCを操作して、なんとかネット上での物品や株の取引を行っている。市場参加者は、不思議なのだが、それなりに居る。この地球上のどこに、その市場を支えるほどの人とモノが残っているのだろうか。
いずれにせよ、大学の敷地内のそれなりのゲストハウスに住まわせてもらえている。費用はどこから出ているのかわからないが、要望や苦情は、家中に設置してあるスマートスピーカーが応答する。
キーワードで起動していない時は、プライバシーが保たれていると最初に言われたが、本当のことはわからない。
家事や掃除はハウスキーピング用のロボットがやってくれる。食事は自炊することも、ロボットに頼むこともできるが、食材だけそろえてもらい自炊するようにしている。
先週は、恭一の二十三歳の誕生日を祝った。恭一の台湾人のガールフレンドと三人である。なぜかケーキは手に入った。
甘さも抑えられ、まるで昔の日本のもののようだ。ろうそくも手に入り、三人でその灯を見つめた。
日本を出て、概ね十年になった。
四十五
楽園。この大学と海辺の街区と港を合わせてそう呼ばれているらしい。
そこから出ることはできない。アメリカの地上波放送は、とうに活動をやめ、紙の新聞も発行されることはない。
ネットワークは世界と通じているが、その世界は大きく侵食され、島嶼のように無事なところはところどころに残っているだけのようだ。
大学だけではなく海辺の街区さえ人の出入りが激しい。町の経済とは、明確に別の力が働いている。港には大きな軍関係の船舶が停泊することがあり、さらに巨大な空母が港に入れないので、遠くに停泊しているのが見えることもある。
町から出ている高速道路の向こうには軍事基地と空港があるとのことで、そこからの車両も多い。空港への軍用機や民間旅客機の離発着の音もそれなりに聞こえる日もある。その辺は、ネット上での航空写真も地図も更新されてないので、よくわからないが、以前はなかったもののようだ。
ネット上もずいぶんさびしくなった。なんとなく文字ばかりになり、ネットスケープとかいうインターネットの初期のブラウザの表記を思い起こさせる。
四十六
突然、連絡があって、麻那が現れた。三十分の面会だという。
「お父さん。久しぶり」
「元気だったか」
なんとありふれたやりとりだろう。話は続かない。
麻那は何か言いたそうだったが、止めた。
「いろいろ言いたくとも言えないこともあるのだろう。言わなくていいぞ」
麻那は泣き出した。
麻那の顔を見たのは何年ぶりだろうか。麻那の泣き顔を見たのは、さらに前で思い出せないが、確かに麻那だ。
後ろには大きな軍用車が控え、二人軍服を着た軍人が直立している。さらに、その向こうの丘には垂直離着陸機が控えている。
麻那がまとっている制服は、それなりの階級のものなのだろう。
「お母さんは、お母さんは・・あるミッションを遂行している時に別れたけれど、それから連絡がとれない」
そこまで言って、肩をふるわせた。
麻那の言いたいことはわかった。
「あいつを甘く見るな。お父さんの奥さんだ。麻那の思っているずっと上を行く」
そう言ってみた。
なんの情報も根拠もないがそう言ってみた。
隣には恭一がいる。
スタバでなんとかフラペチーノを食べていた時と変わらない心細そうな顔をしている。
四十七
しばらくして、大学町にも退避指示が出た。
既に、合衆国政府は崩壊し、いくつかの政府的な組織がこの大学町を管理してきた。直近の組織は日本語に訳すと国連人類生存委員会地域管理セクションである。
玩具メーカーの駐在員だった義理の甥が、その組織の上級士官として赴任してきたが、宇宙に上がる、とのことで赴任と別れの挨拶が同時になった。
退避指示は、住民を現地に残存と宇宙ステーション移住に分けている。残存は四十五歳以上ということで、恭一と私は別れることになる。
恋人ができて恭一もずいぶん大人になったと思ったが、その通知を受け取った時は、また、あの顔だ。
「恭一は大丈夫だ」
私は言った。
「麻那にも、お母さんにもきっとまた会える。その時はよろしく言ってくれ」
空は真っ赤に燃えている。見たことのない赤だ。
了