音楽を聴く時、何を聴いているのか
深夜に一人で歩きながら、耳にイヤホンを突っ込んで、音楽を聴く。ピアノ・ソロ曲を聴く。そうするとさっきまでの鬱屈した気分から解放され、晴れやかな気持ちになる。
そこは深夜である。暗闇が、様々な形の線を隠してしまう。世界の広がりはなくなり、自分の心理とぴったりあった暗い世界が現出する。そもそも、心というものは暗いのだ。
さっきまで私は、誰かと話していた。友人、同僚、恋人。誰でもいい。明るい照明の下で談笑していた。それは楽しい時間に違いない。他人と情緒や空間を共有できる楽しい一時だ。…だが、そこには何か欠けたものがある。自分の存在の全一性を感じられない。顔は笑っているが、心の奥底は笑っていない。
一人になる。歩き出して、音楽を聴く。耳にイヤホンを突っ込んで。そうして、私は音楽と一つになる。私は私になる。
こういう風に書くと「それは詩的なごまかしだ」と人は言うだろう。それでは、論理的に考えてみよう。
例えば、私が「音楽を聴いている時、人生で一番幸せだ」と言えば、人は「ふーん」と言うだろう。人は「この人はそういう人なんだ」と思うだろう。だが、正確には音楽を聴く事、自分の魂の状態に合った音楽を聴く事、それによって全一感を感じる事…その事は「私」とか「他人」とかいう区別を失わせる体験である。正確には体験ですらない。それは全てにして一である、と言った方がいいだろうか。
人は世界を次のように見ているのだろう。ある大きな箱があって、そこに多数の人が揺れ動いている。権威や力に支えられた人間は巨大であり、社会の片隅の人間は木っ端である。この集まりは、時間という流れによって刻々と変化している。時間と空間が世界を仕切り、内部の在り方を知るのが知性であり、論理である、と。
主体について考えてみよう。食事を取る、としよう。それにはビタミンが豊富だと言われる。それは「体にいい」と言われる。そうして規定された体は、あなたの体だ。この体は、ビタミン豊富なものを食べたから良くなったのだ、と満足に浸る。満足をしているのは脳かもしれない。満足をしている時には、脳からある物質が放出される。すると、その物質を沢山出す人が幸福だ、と言われる。それでは「私」とはこの物質の別名なのだろうか。
我々は感じたり、知ったりして生きている。しかし、ある時から、生は大きな箱のようなものに入ってしまった。そこから出る事は到底、考えられない。それよりも、箱の中で認められる事が大切だ、という風になった。
音楽を聴けば脳に良いのかもしれない。音楽を聴けば学力が上がったり、金が得られるのかもしれない。あるいは音楽を聴けば「幸福」になるのかもしれない。…それでは問おう。あなたは幸福になる為に音楽を聴いているのか?
私が芸術を褒め称える文章を書けば、「芸術至上主義者」だと言われるかもしれない。それは世界という箱の中で、党派を形成する事だ。部分を全体に認めさせようとする、という事だ。ところで、私は本当にそのような者か? …もちろん、他者から見た時、このレッテルは正しい。私は文章によっては、結局、芸術至上主義的な言葉しか吐けない。それは私が他人に対して語るという形式を取るからだ。しかし、私が経験した心の流れは、本当にそうしたものだろうか? そこには他人に伝わらない何かがあるのではないか?
もう一度、音楽を聴くという体験に戻ってみよう。私はイヤホンで音楽を聴いている。聴いている私を「あなた」が見れば、私はただイヤホンを耳に突っ込んでいる他人でしかない。しかし、その時、私の内部では何が起こっているか?
その時、私がある感動に浸っているとして、その感動が私自身なのである。そういう事が起こっている。私は音楽を聴いて、「音楽そのもの」になっている。そういう体験がある。
正確にはこれは体験でもない。体験とは、それとは切り離された後に、それを振り返る行為であるから。音楽を聴いている私は、当に「私そのもの」となっている。それでは、普段の私は私ではないのか? 普段、生活しているヤマダヒフミはヤマダヒフミではないのか? そう問われれば、イエスと答える他ない。私はバラバラに切り離された自分として生きている。あれをしている時、別の事を考えている。これをしている時、それと一つになりきれない自分がいる。
私は音楽を聴いて、自分を豊かにしようとも思っていない。音楽こそがこの世で最高だ、とも思っていない。「自分」や「この世」とかいった概念の区別が消え、自分が一つの魂に溶け込んでいる。そういう音が聴こえている。それが音楽を聴くという事だ。
世界は時間や空間で確定されている、とされる。もちろん、だからこそ「明日の夜七時に渋谷駅で待ち合わせだ」と言えばそれができる。できるという風になっている。世界とは、そうした広く大きいもので、我々は知らずに自分の無力さを感じている。この無力さを埋め合わせるのは、多くの人が好んでいるものを好み、多くの人がしている事をする事だ。「私」のしている事は「他人達」もしている。他人と私の間にこうして連絡がつく。
ところが音楽を聴いている時の私は、他人とはどんな連絡もつけるつもりがない。他人と感情を分かち合いたいとも思わない。ただ自分が純粋な広がりとして感じられている。
この広がりは一体、何だろうか? マルティン・ブーバーは「時間の中に祈りがあるのではない。祈りの中に時間がある」と言っている。同じ事だ。音楽を聴く時の私、その全体性がちぎれて、論理や理性になったり、情念になったり、空間や物質になったりする。全ては「私」から発している。
だがこの「私」はヤマダヒフミという個人を指すのではない。私はそう思う…。「私」とか「あなた」、「世界」と「自分」といった区別が壊れて、ある全体性が顔を出す。そもそも、世界のあらゆるものはこの全体性から現れてきたものなのだ。空間や時間といったものはそこに含まれていたものだった。やがて人間はこれを取り出し、網の目のように広げて、「世界」という観念を作り上げた。そして人間をその中に閉じ込めたのである。自分自身の手で。
芸術が現代において盛んであるように見えて蔑ろにされているのは、上記のような事情があるのだろう。芸術家でない人が芸術の効用を語る。そんなにべらべらと喋るのは、彼が芸術家ではないからだ。芸術家が存在しなくなって、芸術はその効能や影響について積極的に語られるようになった。鑑賞する側も、自分という意識から離れられずに、作品を見ている。作品は閉じられた輪の中で身を小さくして、わずかに他人に認められるのを待っている小児のように見える。
音楽を聴くという経験の中にも、他人には語り伝えられない何かがある。不思議であるが、シオランの言うように、音楽がなければ私は魂というものを感じ取れなかっただろう。自己である喜びも知らなかったかもしれない。それは言葉ーー理知では得られないものだ。音楽は魂に直接、作用する。魂とは何かを教えてくれる。「魂とは何か、教えてくれ」ともし誰かに乞われても、私には何も教えられない。その為には、まず君が君自身である必要がある。しかし君は大抵、君ではない。そしてその事に気づいてもいない。
一人で音楽を聴くとは、一人ではなくなる事だ。大勢の人間と聴いても同じだ。大勢の人間と聴いたら、その人は大勢ではなくなる。そうした経験は、人生の中でそう多く訪れる事柄ではないだろう。我々が音楽を聴く時、その時、我々はある広がりの中に存在しており、その中に時間も空間も、理性も情念も含まれている。ある感動が我々を襲うが、知らずに我々は感動そのものとなっている。その経験をどんな言葉も論理で切り裁く事はできない。むしろ、論理というものがそうした広がりの中から現れてきたのだ。