08 魔導士、殴られる
後半レキ視点です。
黒い雲からぽつぽつと降り出した雫は、今や滝のような豪雨に変わっていた。
先が見えなくなるほどの大雨に襲われた私達は、川に架かった橋の下での雨宿りを余儀なくされた。
近くには釣り小屋があるものの、さすがに人の気配は無い。河原には大小の石が転がり、急流の中アシと思われる水草がもがいている。
ああもう。
こんな場所で足止めを食っているわけにはいかないのに。
勢い任せで連れてきてしまったけど、これからどうすればいいのよ。
私が歯噛みをしていると、唐突にレキが頭を下げてきた。
「……あの、ローザさん。ありがとう、ございます」
「は?」
「ボクを助けてくれたこと、です。その、嬉しかったです……っ」
水を含んで垂れ下がった前髪の向こうで、レキがよわよわしくはにかんでいる。
それを見た、私の心はざわついた。
……鬱陶しい。
好きで助けたわけじゃない。全部、自分のためなのに。
「ねえ。昔の記憶って、少しは思い出した?」
「えっ。……あの、今のところは全然」
無害そうな顔で返答してくる。
本当に私達が狙われる原因がレキにあるのだろうか。
追っ手をかける価値があるようには、どうしても思えない。
「あの、これからどうするんですか?」
「……やることは決まっている。あなたに過去を思い出してもらう。そうしないと、殺されるらしいから」
「……えっ」
それでも助かるかは微妙なところらしいが。
何も行動しないよりはマシだ。
「ねえ、一体何があったのよ。あなたは、どこで何をして、どうして川から流れてきたの」
「あの……ボクは……」
「早く思い出しなさい。命がかかっているのよ」
「ボクを、助けてくれたんじゃ……」
「それよりあなたの過去よ」
「……もう、いい」
「……?」
顔を伏せるレキ。
その奥からかすれた声がして。
「やだ……もう、やだ」
私に背中を向けると、つたない足取りで、歩き出す。
「? ……何やってるの」
そのまま進んでも、あるのは河川だけ。
それもこの雨で増水しているから、たとえ浅瀬であっても、レキの痩せた体じゃ流れに耐えられるはずがない。
「もう……もう、やだぁ……っ。こんなのやだよぉっ」
まだ話は終わってないでしょう。
そっちへ行って、どうする気なの。
「もう、生きていたくないよぉっ」
雨音が酷くて、聞こえない。
なんて言ったのよ。
ばしゃばしゃと音を立てて水の中に入るレキを前に、私は立ち尽くす。
その間も、彼はどんどん進んでいった。
膝までだった水の高さは、やがて腰へ。
胸へ。
そして、首へ。
やがて、川底に溝でもあったのだろう。足を取られて体が沈むと、細い腕だけが水面に浮かんで、小さな体はあっという間に水の中へ消えた。
「――レキ?」
え……え?
なんで、そんなこと。
バカ。
何してるのよ、レキ。
そのままじゃ、あなた。
死――――
◇◆◇◆
そこは、ボクが初めに引き揚げられた川だった。
意識が戻った時のボクはずぶ濡れで、名前と言葉以外のことを何も知らなくて、ボクは世界にひとりぼっちだった。
でも、だからこそ、ガルムさん達に冒険者になれと誘われた時は、嬉しかった。
みんなの荷物を持つのは大変だったけど、厳しい言葉ばかりかけられたけど、それでも、ボクを必要としてくれているんだと思うと、少しでも役に立とうと思った。
ガルムさんやゴードンさんに殴られても。
エミリーさんになじられても。
ローザさんに魔法と言葉で虐げられても。
いつかはボクに優しくしてくれる、変わってくれる日が来ると願っていた。
ボクの世界には、この人達しかいなかったから。
でも、苦しくて辛いだけの日々は、いつまでも変わらなかった。
意味もなく暴行されて、どんなにがんばっても認めてもらえない。
嗤われて、怯えて、心を削られるだけの毎日。
朝が来るのが怖い。
明日は何をされるのだろうと考えるだけで頭の中がぐるぐると回る。
苦しい。
誰かたすけて。
そんな風に願っても、誰も助けてはくれなかった。
パーティーと仲違いしてまで助けてくれたローザさんにも、冷たく突き放された。
そしてボクは、この川に戻ってきた。
(もう、いい)
ほんの少しだけ、生きてみてわかった。
ボクはきっと、生きるのに向いてないんだ。
過去なんてどうでもいい、明日なんて来なければいい。
もう終わりにしたい。
よどんだ視界。
冷たい、水の底。
還ろう、ボクのいるべき場所へ。
口を開けると、ぽこりとたくさんの泡が溢れ出た。
喉や鼻を冷たいものが満たして、すぐに呼吸ができなくなった。
でも、苦しくなんてない。
もうこれ以上、苦しまなくてすむ。
だから、苦しくなんてない。
(…………?)
濁った目の前で、何かが動いた。
気のせいでなければ、あざやかな赤い色をしていたと思う。
それは、どんどんこちらに近付いてきた。
(なに、これ)
ゆらゆらと、尾ひれの長い魚みたいに揺蕩って。
やがてボクの体にからみついたそれは、川の淵とは真逆のほうへ、力の入らなくなったボクをいざなっていく。
やめてよ。
ボクはもう、そっちに行きたくないよ。
もう痛いのはやだよ。
たすけて。
でも、そんな声は届かずに。
視界が晴れて、大粒の雨が降り注ぐ空が姿を現した。
「う……ゲホゲホゲホ……っ! おえええええっ!」
びちゃびちゃと水を吐き出す。
吐き出したら、あっちへ行けないのに。
ボクの体はボクの意志と正反対のことをする。
どうして、なんで。
ボクの体にからみついていたのは、水分を含んで重さの増したローブの裾と、雪のように白い腕だった。
「ごほっ……げほっ! うぷ……っ!」
「はぁ……はぁ……っ」
赤い影。
すぐ隣で息を吐いているのは、ボクの心を痛めつけた元凶のひとりだった。
濡れるのを嫌がっていたのに全身びしょ濡れで、頬にべったりと髪を張り付かせて、ボクと同じ姿勢で膝をついている。
どうして。
どうして、こいつが。
ボクなんか、世界で1番どうでもいいと思ってたくせに。
荒い息遣いのまま、紫色の瞳がボクを映す。
そこに浮かんでいたのは、いつもの理不尽な不満や侮蔑を含んだものではなかった。
ずぶ濡れのまま、あいつはボクに訊く。
「どうしてこんな真似したの」
それを聞いたボクの胸の中で、変な音がした。
それと同時に、今まで溜まりに溜まっていたものが解放されていった。
流れに身を任せたまま、ボクは。
「お前のせいだろおおおおおおおおおおおおおっ!!!!」
憎い、憎さしか感じないあいつの顔面を、ボクは殴りつけていた。
「――っ」
あいつは、盛大な水しぶきを上げて呆気なく倒れる。
どうしてわからないんだ。
ボクは、そんなに難しいことをお願いしているのか。
少しだけ、ほんの少しだけでいいのに。
「うわあああああああああああああああ」
馬乗りになったボクは、あいつにこぶしを浴びせ続ける。
何発も、何発も。
いつ反撃されるかと、怯えながら。
「う……うわああああ! ぐす……うわあああああああんっ!」
こんなことの何が楽しいんだよ。
こんなの手が痛くなるだけだ。
何が楽しくて、ボクに仕打ちをするんだよ。
殺すなら殺せよ。
もう、沢山だよ……。
「はぁはぁ……っ。う……うわああっ!」
精も魂も尽き果てたボクは、最後に渾身の力をこめて、あいつを殴ってやろうとして。
――――。
その顔を見て、こぶしが止まる。
赤い髪をべっとりと張り付けて、白い頬を紅潮させながら。
あいつは、困っていた。
「……っ。……っ」
眉尻を下げて心配そうにボクを見つめていた。
どうにかしなくちゃ、そんな表情を向けていた。
「……う……して」
あいつが何かを呟く。
知らない。わからない。
なんでそんな顔をするの。
それ以上は力が入らずに、ボクの肩から力が抜ける。
あいつは何も言わない。
でも、その時。
「見ぃ~つけた」
ボクでもあいつでもない、女の人の声が、雨の中に響き渡った。