好奇心の深くに
37作目です。雨ばかりで精神的にも肉体的にもキツいものがありますね。
ブーン。ブーン。ブーン。ブーン。
耳障りな音が絶え間なく聞こえてくる。発生源はわかっているが、止めに行くのは面倒だ。音なんて意識しなければ無力化されたも同じだ。
「月手さん、コーヒーのお代わりは?」
店員の波名島がポットを持って訊ねた。
「貰っておくよ」
カップを差し出すと、波名島はポットを傾けた。黒い液体がとくとくと流れ落ちる。店の照明に照らされて黒い液体は光を帯びている。
「ちょっと座っていい?」
「いいよ。あれ? マスターはいないの?」
「休憩中だと思う」
彼女はエプロンを着たままで正面に座った。エプロンには「珈琲」という文字が刺繍されている。実は店名である。
「この時間ってお客さんいないんだよね」
「私がいるじゃないか」
「月手さんは常連過ぎるの。私よりも来てるでしょ?」
彼女は自分のネイルを弄りながら言った。緩やかにカールした長髪だが色はわからない。オレンジ色に近い照明が邪魔をしているからだ。
「バイトは君だけ?」
「もう少しで細川くんが来ると思うけど。私、彼のことはあんまり好きじゃないから」
「どうして?」
「彼って品がないでしょ? マスターもどうして細川くんなんて雇ったのか不思議で仕方ないよ。だってね、コーヒーも淹れられないし、他の料理もできないの。加えて、掃除もできないし……。あんまり顔だって良くないでしょ?」
「顔は個性だから仕方ないさ。私も人のことは言えないよ」
「そう? 月手さんは渋くてかっこいいけどなぁ」
彼女は自分用にカップをひとつ持ってきて、コーヒーを注いだ。コーヒーはマスターが淹れたものだ。
私はパンプキンパイにフォークを入れる。パイは抵抗することなくフォークを受け入れ、分割された。この店では日替わりスイーツを実施している。今日はパンプキンパイ、昨日はカヌレだった。
「マスター、なかなか戻ってこないね」
「そうですねぇ。何やってるんだろう?」
「見に行かなくていいのかい?」
「うーん。行きたいのは山々なんですけど……」
波名島は頬に人差し指を突き立てて言った。彼女の場合、これらの仕草を無意識に行う。だから、細川などに付き纏われるのだろう。
私は知っているのだが、細川は波名島のストーカーだ。恐らく、波名島はそれに気付いていない。
「細川くんは何時頃来るのかな?」
「さぁ……? 彼、遅刻多いですし。わからないです」
「そうか」
「用事がある感じなんです?」
「いやいや。用事なんてないよ」
「変なの」
波名島は可愛らしく笑った。この魅惑的な笑顔ですら無意識の賜物なのだろう。細川以外にも彼女に惹かれる人間は多いに違いない。
「ちょっと、マスターを探してきますね」
彼女はそう言うとカウンターの端にあるドアの向こうに消えた。
私は注がれたコーヒーを堪能することにした。マスターの淹れたコーヒーはやはり美味い。私は凡人なので、そこらの缶コーヒーと何が違うのかを言葉にできないが、それでも美味いことはわかる。
マスターこと赤垈は口髭を生やした六十代前半の男だ。オールバックにした白髪が特徴で、イタリアでバリスタとして修業を重ねてきたらしい。それでなのか知らないが、彼のコーヒーが美味いことは確かだ。
余談だが、彼は偽名を使っている。赤垈以外にも笠垈や伊垈と名乗ってきたらしい。
「どうして、そんなにわかりやすい偽名を使うんだい? 『垈』ってのは、常用の漢字ではない。確か、山梨だかの一部でのみ使われるんだったよな。全部の名前に『垈』を含める意味はあるのかい?」
昔、私はそう訊ねたことがある。
「ありますよ」
赤垈は答えてくれた。確か、当時は伊垈だった。
「深い意味なんてないんですよ。単純に、故郷を忘れないようにするためですよ。偽名なんか使ってるとね、自分が何者で何処に由来するのかが薄れてくんです。だから、憶えていられるようにです」
もう十五年も前のことだ。
カップを置いた。コトンという音がした。
ブーン。ブーン。ブーン。ブーン。
まだ音が聞こえている。波名島は気にならなかったのだろうか。
発生源だと思われるのは、カウンターの襤褸のラジオだ。十五年前にも見たような記憶がある。今更、何を受信しようというのだろう。
ブーン。ブーン。ブーン。ブーン。
ああ、鬱陶しい。
私は立ち上がってラジオの方へ歩いた。私はカウンターから離れた席を選ぶ質なのだ。テーブルと椅子を巧く避けて、ラジオの正面に立った。
私はラジオに耳を近付けた。
ブーン。ブーン。ブーン。ブーン。
煩わしい音が聞こえてくる。
しかし、気付いた。
発生源はラジオではないらしい。
「どういうことだ?」
私が首を傾げるのと同じタイミングで入り口のベルが軽やかに鳴った。十年近く変わっていないベルだ。
「どうもー」
甲高い声だった。
「マスターいる?」
「いないよ」
「いないの? 約束したんだけどなぁ」
「約束?」
「そうそう。美味しいカフェオレをご馳走してくれるって約束」
やって来たのは小学校中学年くらいの男子だった。髪が長く、ぱっと見ただけでは女子のようにも見える。よく見ると、頭頂部が金色だ。元々は金髪で、今は黒く染めているようだ。
少年はカウンター席に座った。
「おじさんは誰?」
「あぁ、名乗ってなかったね。私は月手秀之臣と言うんだ」
「昔の人みたいな名前だね」
「よく言われるよ。えっと、君は?」
「僕? 僕はね、ジェミニって言うんだ」
彼は満面の笑みを湛えながら答えた。まるで訊かれるのを待っていたかのように見えた。
「ジェミニ? ハーフかい?」
「違うよ。お父さんもお母さんも違う国の人」
「髪は染めてるのかい?」
「そうだよ。本当は黒なんかじゃないんだけど、お母さんが染めなさいって。眼だってそうなんだよ。本当は緑なんだ。でも、お母さんがカラコンをしなさいって」
彼はカウンターを叩きながら言った。
私は彼を眺めていた。ジェミニというのは本名だろうか。双子座のことではないのだろうか。しかし、こんな幼い子供が偽名を名乗る理由が見当たらなかった。
またベルが鳴った。先程よりも音質が悪いように思えた。入ってきたのは細川だった。彼はグレーのシャツを着ていた。
「こんにちは、月手さん」
彼はにこやかに言った。
「やぁ、細川くん」
「何してるんです? あれ? マスター、いないんですか?」
「わからないんだ。さっき、波名島さんが探しに行ったみたいなんだが、まだ戻らないよ」
「そうなんですね……。うーん、何か変な落としません? ブーン、ブーンって。何だろうこれ。ラジオ?」
「いや、ラジオじゃないよ。私もラジオだと思ったんだが、どうも違うらしいんだ。ほら、こいつは鳴いてない」
私はラジオを手に取り、細川に渡した。彼は「そうですね」と言って、ラジオをカウンターに置いた。
「取り敢えず、着替えてきます。ところで、そこのボクは?」
「ん? ボクって僕? 僕はジェミニだよ」
「ひとりで来たの?」
細川がそう訊ねると、ジェミニは勢い良く首を縦に振った。
「何か飲む? おれはコーヒーとか淹れられないから、冷蔵庫にあるのは何だろな……あぁ、リンゴジュースくらいしかないや。要る?」
「飲みたい!」
細川はジェミニにリンゴジュースの瓶を渡すと、カウンター端の扉の向こうに消えた。
ジェミニは貰ったジュースを美味そうに飲んでいる。
私は何をするでもなく、天井で回るファンを眺めていた。
「ちょっと、トイレ」
リンゴジュースが半分になった辺りでジェミニがトイレに向かった。私は彼にトイレの場所を教えてやった。
彼が走って消えて、私はただ内装を見るだけとなった。
十五年間、リフォームをした記憶はまったくない。天井で緩やかに回り続けているファンも十五歳ということになる。建物の壁に窓はなく、天窓がいくつかある。窓のない壁には有名絵画のレプリカが多数飾られている。赤垈曰く、絵の中のどれかは本物らしい。私はマティスとセザンヌのレプリカの間に飾られている絵がそれだと睨んでいる。単純に見たことがないからだ。実は、私は古美術品で生計を立てている。美術系の大学を卒業した後に辿り着いたのがそれだった。
「もう四十年近く前になるのか……」
決して安定する商売ではないが、苦はなかった。結婚をして、離婚をして、また結婚した。そして、先立たれた。私に残ったのは、使う予定のない金ばかりだ。
赤垈と出会ったのはいつだろうか。確か大学を卒業して三年後。仕事が軌道に乗った頃のことだ。当時、彼は垈本と名乗っていた。夢を抱えて彷徨う若者だった。私は彼の夢に賛同し、カフェ建設の資金を出した。彼はイタリアへ修業に行き、カフェを開いたのが十五年前のこと。
時間とは実に呆気ないものだ。
私は何もないまま還暦を過ぎた。仕事は息子が引き継いだ。もう何も果たすことのない、ただカフェに通い続ける老人だ。
「はぁ」
私はジェミニが羨ましい。あの頃に戻ってみたいものだ。
私が本物だと睨んでいる絵を眺めていると、ジェミニが戻ってきて、カウンター席に座りジュースを飲み始めた。
「あー美味しいなぁ」
ジェミニは僅かに金色の頭を揺らしている。
「おじさんは何も飲まないの?」
「ああ、私はいいよ。さっき、コーヒーを飲んだしね」
「そ」
そういえば、細川が戻って来ない。どういうことだろう。
ブーン。ブーン。ブーン。ブーン。
まだ音が続いている。意識してしまうと頭から消えなくなってしまう。私は絵に意識を集中させて音を無力化しようとした。
ブーン。ブーン。ブーン。ブーン。
ダメだ。音が意識に居座って消えない。
「ねぇ、おじさん」
ジェミニが私を呼んだ。
「何だい?」
「気にならない?」
「え?」
「音だよ、音。聞こえるでしょ? ブーン、ブーンってさ。これが何処から聞こえてくるのか気にならない?」
気にならないさ。それは嘘になる。
「ああ、気になるよ。ずっと聞こえるんだ」
「探しに行こうよ。音の正体をさ」
ジェミニが私に手を差し出した。私は何も考えず、彼の小さな手を握った。まるで磁石のような引き付き具合だと思った。
掴んでしまったら戻れないような予感が過ったが、私は迷わなかった。いや、迷う余地さえなかったのだ。ジェミニの瞳の奥にある光と闇の混ざり合う様に惹かれたのだろうか。
私はまるで人型のバルーンアートになったかのように、つまりは中身がなくなって風に飛ばされるように、カウンター奥のドアを通過した。
※
「手記を残す。熱された空気の中を泳ぐのは辛かろう。雲が霞む空に浮かぶのは息が苦しかろう。私も同じだ。培養液の夢を見させてばかりでは反乱の芽も育つばかりということらしい。私は人を飼う上で、飼い方を理解していなかった。好奇の心が私に憑いて、私を破滅に導いた。何が必要だったのだろう。愛だろうか? そんな不確かなものに頼っては終いだと私は勘違いしていたのだろうか? しかし、これが現実だ。私は終わりだ。私は私に死を与えることで鳧をつけるしかない。熱された空気の中では四肢も儘ならず、雲が霞む空では肺が仕事を放棄する。あの夢幻のような双子は私の姪のマリーに託す。売るなり、殺すなり、どうしてもらっても構わない。よろしく頼む。 追記.片方が逃げた。すまない」
※
ひんやりとした空気が表皮を滑り抜ける。分厚い壁を乗り越えたような差を感じる。後ろを振り返ると、明るく柔和なライトに照らされて、長閑にファンが回る店内が見えた。
「どうしたの?」
ジェミニが私を見上げていた。
「いや、何でもないよ」
「怖い?」
「え?」
「怖いんでしょ? わかるもん。おじさん、足が生まれたばかりみたいに揺れているよ。怖いなら、戻る?」
彼は眉を八の字にして言った。
「いいや。いいよ。進むよ」
「そっか」
ドアが閉じてゆく。やたらとスローモーションで映る。こういう時は後悔するのがお決まりだってことは知っているつもりでいた。知っているつもりでいただけだった。
「もう少し行けば案内人に会える筈なんだ」
「案内人?」
「うん。綺麗なおねーちゃんなんだよ」
ジェミニは歯を見せて笑う。歯のひとつひとつがとても小さい。乳歯というのはこういうものなのかもしれない。
ドアの向こうの空間は想像以上に広いし、入り組んでいた。十五年間一度も入ったことがなかったが、こうなっているとは思わなかった。しかし、店の外から見た面積と一致しないように思える。
ロッカーがいくつも連なって閉鎖感を作り出している。天井では切れた蛍光灯が不気味にこちらを見下ろしている。床にはよく何かわからないゴミが散乱していて歩くのを阻害する。しかし、ジェミニは気にせず進んでいく。一度、いや、何度もここを訪れたことがあるかのように、躊躇うことなくずんずんと。
次第にロッカーが倒れて、やがて床に埋まり、開けた場所に出た。壁はいくつものポスターで埋まっており、そのどれもが赤垈が昔から愛しているアイドルのものばかりだ。色褪せているが、大切に扱われていることがわかった。名は変えても、彼は彼らしい。
空間の中心に腐りかけの木箱があり、そこに白衣を着た金髪の女性が足を組んで座っていた。
「あれが案内人かい?」
「そうだよ」
ジェミニが走って近寄ってので、私も走った。
「それ、お客さん?」
少し訛りのある言葉で案内人は言った。
「そうだよ」
「そう。初めまして。僕はハービンジャー。ハルって呼んで」
彼女は落ち着きのある高い声で言った。手に骨付き肉を持っている。
「ハルさんは、女性なんですか?」
「僕はね、半分。どちらでもないし、どちらでもあるんだ。いいよ、あなたの認識のままで。僕はどちらかであることに拘りなんかないから」
「じゃあ、女性として認識させてもらうよ」
「いいけど、どうして?」
「え? 第一印象だよ。不足かな?」
「充分だよ」
彼女は前髪を払った。金色に青いメッシュが入っている。
「ねぇ、ハル。僕ら冒険しに来たんだ」
「そう急かさないで欲しいな。ほら、お肉あるよ。食べよ?」
彼女は肉をふたつ手に取って私たちに寄越した。
「ありがとう」
肉を噛んだが、非常に噛み難く、あまり美味しくもない肉だった。しかも、骨に対して肉が少な過ぎるように思えた。横を見るとジェミニも顔を顰めながら噛んでいる。
「ねぇ、ハル。もう少しまともなの食べようよ?」
「まともでしょう?」
「うーん……」
ジェミニは半分残った肉を投げ捨てた。私は無理矢理食べきった。それほど食べ難い肉だった。
「ねぇ、行こうよ。ねぇ、待ち草臥れたんだ」
「急かさないで。僕が肉を食べてるから。あと、十秒」
ハルは肉を一気に口に入れて、骨から引き剥がし、軽く咀嚼して飲み込んだ。そして、立ち上がり言った。
「では、行きましょうか。案内人は僕、前兆の僕が承るよ。悪路は選ばないようにするから、よろしくね」
彼女は長い金の髪を纏めながら言った。
「ところで、赤垈はいないのかい?」
「赤垈? 僕が知っているのは上垈さんだよ。上垈さんならさっきまでいたんだけどね」
彼女は歩きながら言った。
広場を抜けると、再びロッカーが連なる道になった。足元が腐っているのか、泥濘のようになり始めた。所々に落下した蛍光灯がある。その内のいくつかは電気も通っていないだろうに白々と光っている。
「ここはどういう場所なんだい? 本当に同じ建物の中なのか?」
「疑問に思います?」
「ああ、思うよ。明らかに外観から見た時の面積と内部の面積が合致していない。嘘みたいな話だが、まるで違う世界に飛ばされたようだ」
「いえいえ。まだそんな超技術は持ち合わせてない筈。私はただのハービンジャーなのでわからないけれど」
「ハービンジャーってのは『先駆者』とかって意味かな?」
「さぁ? えっと、お客さん、名前は?」
「私は月手秀之臣だよ。変わった名前だろう?」
「その由来はご存知かな?」
「ああ、大体知ってるよ」
「それは本当の由来? 後付けされた偽物の理由では?」
「え?」
「本当の真意は名付けたもののみが知り、秘匿される。僕の名前は確かに『先駆者』って意味だけど、どうしてそう名付けたのか、それの真意なんて知らないんだ」
彼女は歩くことを止めないまま言った。ジェミニは退屈そうに欠伸をしている。足元は沼のようになり、私は足が沈まないように必死に歩いていたが、ジェミニとハルは何でもないように、公園の遊歩道のような気楽さで歩いていた。
ブーン。ブーン。ブーン。ブーン。
またあの音が聞こえ出した。
「またこの音か」
「ずっと聞こえてるよ」
ジェミニが言った。
「ハルさん。この音の原因は知ってますか?」
「知っていたならお答えしましょう」
「つまり、知らないんだね」
「……案内人はエンターテイナーです。お客さんを楽しませるために、ヒントをひとつ」
「ヒント?」
彼女は人差し指を立てた。
「機械仕掛けの神をご存知ですか?」
「よく知らないけど名前は知っているよ。それがヒントかい?」
「そうですね」
機械仕掛けの神は物語の最後に大団円を提供する存在。私の中ではそういう認識だ。悲劇を終わらせてくれるなんて理想の神様だ。
足元が腐った道を歩き続けていると、不意に赤いランプが見えた。それは点滅しており、近くまで行くと音が鳴っていることがわかった。これは踏切だ。黄色と黒の棒が下がっている。電車が来るのだろうか。
「止まって。電車が来ます」
「ここは建物の中じゃないのかい?」
「建物の中だよ」
ジェミニがそう言った。彼は腐った泥のような物質を丸めて、踏切の向こう側に投げて遊んでいた。
「電車は誰のものだい?」
「さぁ? それは知らされてないですね」
彼女は首を竦めて言った。
轟音が聞こえてきて、ブーンという音が掻き消された。轟音の原因は勢いよく、線路も敷かれていない道を駆け抜けた。泥が跳ねるかと思ったが、そんなことはなかった。
遮断桿が上がり、再び歩き出した。踏切の向こうは腐った沼地ではなく、舗装された煉瓦の道だった。ロッカーも蛍光灯も消え、洒落たカフェの並ぶようになり、空にはいくつもファンが回っている。
「これは、赤垈のカフェか?」
私は確信があった。カフェの外装には私も口出しをしたし、十五年間リフォームは一度もされていない。
「僕もこれ知ってるよ」
ジェミニが燥いだ声で言った。
ブーン。ブーン。ブーン。ブーン。
まだ聞こえてくる。しかも、さっきよりもずっと大きな音で、より不快に聞こえてくる。少し頭が痛くなり始めた。
「ハルさん。今更だが、この探検にゴールはあるのかい?」
「ありますよ。もう少し。この道を真っ直ぐ、真っ直ぐ進めば。地面が切り換わったでしょう? 後半になったってことなんですよね」
「なるほどね」
私たちはハルを先頭に止まることなく歩いた。ジェミニが時々道草を食って離脱するが、すぐに戻ってきた。
「ねぇ、喉、渇いてない?」
「え?」
「おじさん、疲れたよね?」
彼はカップに入ったコーヒーを三つ持ってきた。
「ありがとう」
私は彼の好意に感謝しながらコーヒーを飲んだ。しかし、一口つけた瞬間に、口の中に苦味ではない何かが広がった。名状し難い不快さがじんわりと侵食するように広がったのだ。
「え、何これ」
ジェミニもそれを吐き出している。
「コーヒーだと思ったのになぁ」
「仕方ないよ。ゴールが近いし、伴って夢の侵食が少しずつ迫ってきてるんだから……」
「夢の侵食?」
「あー。聞かれちゃいました? ヒントですよ」
「本当に答えはあるのかい?」
「ありますよ。ねぇ、ジェミニ?」
「あるよ」
ジェミニはハルの腰にしがみついて答えた。まるで姉と弟のように微笑ましく見える。
「ジェミニもエンターテイナーなのかい?」
「うんうん」
「そうか。君は仕掛人側ってことなんだね。雇い主は赤垈かな?」
ふたりは微笑んだまま何も言わなかった。そして、また歩き出した。私は仕方がないのでそのまま着いて行った。
煉瓦の道をひたすら歩くと、開けた場所に出た。
「何だここは……?」
広場を取り囲むように巨大な歯車がいくつも回転している。遠くを眺めたが、どうやら行き止まりらしい。歯車は錆びているような様子もなく、スムーズに動いている。
ブーン。ブーン。ブーン。ブーン。
今までで最大の音だ。つまり、音の源に近付いたということだ。だが、まだ私には正体がわからなかった。
「さぁて、ゴールですよ!」
ハルが両手を広げる。
「やったね、おじさん!」
ジェミニも跳ねて喜んでいる。
「ゴール?」
「はい。でも、想像以上にスムーズに進んできたので、まだちょっと準備が終わってないみたいで……。ジェミニ、どう?」
「終わったって。そう言ってる」
「どういうことだ?」
私がそう言った瞬間、歯車が移動し、空間が割れ、錆びた歯車や螺で構成された4メートルほどの塊が出現した。
「何だねこれは?」
「機械仕掛けの神様です」
「これが……?」
「僕のお兄ちゃんなんだよ」
ジェミニが塊に近寄り抱き着いた。
「……どういうことだ?」
「僕が簡単に説明しましょう。ジェミニは彼らで、神の素体となったのが兄、それのメッセンジャーとなったのが弟というわけです。神の属性を得た兄は物理的に不可能な移動が可能になりました」
「物理的に不可能な移動?」
「はい。夢への移動です。ある研究者……名前は伏せますが、彼らを実験していた者でも予想外の事態でした」
「それが私に関係あるのか?」
「いいえ。まったく」
「は?」
「あなたは言わば被害者。申し訳ありませんね」
「……?」
「続けますね。別のある研究者は兄が夢に逃げ込んだことを特定しました。そして、それを利用して夢の世界の開拓をしようと考えました」
「夢の開拓?」
「はい。現実とは違い意識すれば無限である世界。その夢を拡大し維持させるために、兄を柱として置きました。結果として夢は拡大し、今、あなたがいることが可能であるように安定性を得たのです」
「私は何故巻き込まれた? それに、カフェの店員たちは何処へ消えたというんだね?」
「偶々です。あなただけが被害者ではありません。僕たちは植物状態の人々の見る夢を糧にして生きています」
「植物状態?」
「ご存知ないんですね。あなたは十五年前、カフェが開く前に事故で植物状態に陥りました。赤垈氏も波名島氏も細川氏も、あなたの十五年間の継続的な夢で作られた夢幻の人々。申し訳ありませんが、夢の維持のため、機械仕掛けの神様の餌になってもらいました」
「餌……だって?」
「はい。ずっと聞こえていたブーンという音は神様の食事の音です。神様は存在を食し、肉は吐き捨てます。あなたも食べましたよね?」
私はハルが最初に食べていた肉を思い出す。やけに淡白で固かった。あれは赤垈の肉だったのだろうか。
「ご協力感謝致します。お陰で夢はまだ持続できます」
「何て心のないことを……」
「心ですか? でも、これはビジネスのためですからね……」
「ビジネス?」
「そうです。私たちは『ニュクスの子供計画』と呼んでいますが、これは夢をもうひとつの現実として提供しようという試みです」
「その犠牲に私はなるのか?」
「はい。だって、植物人間に未来がありますか? 大丈夫です。苦しみなんてないですから。いつも通り眠っていて下さい。すぐにタナトスが迎えに行きますから」
私は恐怖で逃げ出した。煉瓦の道を、赤垈のカフェが並ぶ通りを無我夢中で走った。しかし、無意味だった。踏切の片方の遮断桿の向こうから先が消え去っていたからだ。
「無意味ですよ。逃げられません」
「ハルさん、あなたは何者ですか?」
「ハービンジャーです。まぁ、種明かしをすれば、夢の研究をしています。名前はハービンジャーのハルです。よろしくお願いします」
ハルの後ろから、歯車の塊が迫ってくる。私は抵抗もできずに捕まった。しかし、身体が圧潰する感覚も、私が夢の存在であると理解すればどうということはなかった。
「あなたも悪いんですよ。誘惑に負けるから……。あなたがジェミニを無視すれば良かったんです。好奇心は猫を何とやら……ですよ」
そんなハルの声が聞こえた。それを境にブーン、ブーンという音が頭を破裂させたそうに鳴り響いている。
この音は夢なのか現実なのか。
意識が途絶えるまで考えた結果、どうでもいいとわかった。