1 雪降る夜に(3)
吸血鬼が人とは違う理由のひとつであるが、吸血鬼は霧になって何処へでも移動出来る。
しかし人間の子はそうはならないので、ツヴァイはラファエラの返事を聞いて直ぐに1匹の蝙蝠に命令して吸血鬼を御者として呼びにいかせた。
向かうのは普通の馬車であればここからは10日、吸血鬼の馬車でも半日は掛かるであろうリファナ王国の北部の街、ヴァイツゼッカー公爵領である。
この国の王族と吸血鬼は三千年前にある約束をした。
王族は力のある吸血鬼を恐れてヴァイツゼッカー公爵としての地位を吸血鬼の王に与え、罪人を食料として差し出すことでみだりに自国の民に手を出させないよう契約した。
そして吸血鬼も、王族との誓いを破りみだりに人を喰い殺したものを罪人として裁きを下す事を約束したのだ。
こうしてリファナ王国は吸血鬼と人間が共存する国となった。
勿論その事は人間は王族に近しい貴族しか知らない事実である。
乗ったことも無いような豪華な馬車に初めて乗せられたラファエラは今更ながら少し緊張してきた。そして少し何か早まったような気がした。
向かいに座るこの世のものではないような美貌を持つ吸血鬼は、もしかしたら偉い人なのかもしれないと、御者の態度と馬車の豪華さから感じた。
一体自分はこの後どうなるのだろうと心配になり、手の中のチェーロをぎゅっと抱きしめた。
着いてきますか?とツヴァイは言った。
養うとは言われていない。ひょっとしたら着いた所で喰い殺されてしまうかもしれない。
高貴な吸血鬼が自分のような貧相な子供に親切にしてくれる理由がないのだから。
ラファエラがチェーロを抱きしめて震えていることに気がついたツヴァイは、自身が来ていた黒い外套を脱いでラファエラに掛けた。
「その格好だと人間は寒いですね」
「あの、違うんです。寒さは大丈夫です」
寒くて少女が身を縮めていると考えたツヴァイは、首を傾げる。
寒さは大丈夫と言うならば、何が平気ではないのか?
聞けば少女はおずおずと口を開く。
「ツヴァイさま。何処かに着いたら…私の事を食べますか?」
「はい、パクッと」
「!」
怖がる者を揶揄うのは、吸血鬼としての性である。
息をするようにツヴァイは微笑んで冗談を言ったが、ラファエラはそれがまさか自分をからかっているのだとは気が付かなかった。
「出来れば優しくしてくれませんか…?」
目を潤ませて震える小さな少女は、庇護欲を擽らせる。
ツヴァイは永く生きてきて多くの吸血鬼にかしづかれる存在であり、自分以外の吸血鬼はおおかた皆自分よりも弱い存在だった。
とはいえ彼らは吸血鬼としての強い力を持ち、一人で行動できる翼を持っていた。
本当の意味での“弱者”を見るのはラファエラが初めてだったのだ。
己が世話をしなければ死んでしまう子兎を思うと満たされたような気持ちになる。
こちらに来なさいとツヴァイは少女に告げると、ラファエラは少し躊躇ったあと覚悟したようにツヴァイの隣に座った。
向かいに座るよりも近い距離だ。
けれどもう少しだけ、震える兎を近くに置かなければ気がすまなかった。
抱き抱えて膝に載せる。
より一層震えたラファエラの首筋をそっと撫でると、今度は身体を固くした。中々虐めがいのある兎である。
「誰よりも優しくしてあげましょうね、私の可愛いラフィー」
「っ、よろしくお願いします!」
喰われる気しかしないラファエラと、大切に囲うつもりのツヴァイで食い違いが起こっていたが、何故か会話が成立したのだった。
その後暫くラファエラの気持ちはさておき、ツヴァイにとっては幸福な時間が過ぎていったのだが、東部と北部を繋ぐ林道の中間地点に差し掛かったある時、元々ラファエラが座っていた席に一瞬のうちに少年が現れた事でその時間は強制終了となる。
ツヴァイにして見れば何の感動も驚きもない。
しかし人間のラファエラにとっては恐怖の対象がもう1人増えたのだ。
現れたのは癖のある茶色の髪を肩くらいまで伸ばした、ツヴァイと同じ赤い瞳の、外見は15歳近くの少年だ。
一見優しそうな顔に見えるが、彼はツヴァイが抱えている死んだ猫を連れた痩せ細った人間の少女を見るやいなや眉を顰め、ツヴァイ様!と叫ぶように言った。
「それは一体何ですか?」
明らかに自分に向けられた悪意にびくりと固まったラファエラの髪を梳くようにツヴァイは撫でて、髪の先端に1つ優しくキスを落とす。
「ラフィー、挨拶は出来ますか?」
「…ラファエラ・シュナーベルです」
ツヴァイに促され、ラファエラは少年に少し頭を下げて恐る恐る挨拶した。
急に現れたのをみると彼もきっと吸血鬼なのだろう。
どうせ殺されるなら、優しそうなツヴァイがいいなと考えて自分を抱える美貌の青年をじっと見た。
同じ色の瞳でも、ツヴァイの方が優しい色に見えた。
ツヴァイもツヴァイで自分を頼るように見つめるひ弱な少女が可愛くて、飼い主として守ってやらなければなと感じている。
よく出来ましたねと微笑めば、歪な関係を見せつけられていた少年が耐えきれないというように声をあげた。
「名前を聞いているんじゃないんですよ。何なんですかこれ!おい、そこのチビ!ツヴァイ様から離れろ」
ビシッと指をさして非難する少年にますます怯える腕の中のラファエラを見て、ツヴァイは溜息をついた。
「アハト。ラフィーが挨拶出来たのに、君はそんな事も出来ないのですか?」
「っ、チビ。一度しか言わないからよく聞きなよ。僕は十二柱が一人、アハトだ」
このアハトという少年の姿をした齢二万歳の生き物は、吸血鬼の中でも際立って身体能力が高い。
身体能力に才能が全て振られてしまったのではないかと──つまりは頭が入っていないのではないかとよく他の吸血鬼に言われる程、短絡的で好戦的だ。
アハトはツヴァイの熱心な信奉者で、ツヴァイの行くところに毎度現れその度に何かしらのトラブルを起こす。
そのためツヴァイはアハトをどう炊きつければ上手く動かせるかを熟知していた。
そしてアハトもいつもツヴァイの策に嵌るのである。
「アート様」
アハトという言葉は、リファナ王国の人間にとっては発音しにくい単語だった。
一切の悪気がなく、ラファエラはアハトをアートと言い切った。
それを聞いてアハトは渋い顔をして言い直す。
「アートじゃない。アハトだ」
「あ、は、と」
一音ずつ区切れば発音に何の問題も無い。
ずっと顰めっ面だったのが一変、満足そうに頷いたアハトにラファエラは嬉しくなった。
「よろしくお願いします、アート様!」
「それでツヴァイ様。この貧相で頭の悪い人間は何故貴方様の上に座っているのですか?」
この子供に発音を練習させても無駄だと、自分の事は棚に上げ、アハトはツヴァイを問い正す。
今度はあっさりと、屋敷に連れて帰りますとツヴァイは答えた。
「…聞き間違いだな。申し訳ありません、ツヴァイ様。よく聞こえなかったのでもう一度…」
「ラフィーの血を貰う代わりに育てるという取引をしました。何か問題が?」
「大問題ですよ!何故僕じゃ駄目なんですか?僕を育ててくださいませ。僕の方が可愛くて、頭が良くて、いい子になりますよ!」
アハトはツヴァイが大好きなのだ。
美形揃いの吸血鬼の中でも最も美しい顔をしていて、強くて賢くて、冷酷で残忍な所が堪らない。
確かに自分は二万歳を少し超えた年齢だが、姿かたちは幼い部類に入る。
敢えて成長しなかったのはこっちの姿の方がツヴァイに可愛がってもらえると考えたからだ。
それなのに何処の馬の骨かも分からない人間の少女に、自分が夢にまで見たツヴァイ様の養い子というポジションを取って行かれるなんて。
熱弁するアハトに、ツヴァイは非情な一言を落とす。
「ラフィーのうっかりしてる所と愚かな所が気に入ったので、 駄目です。ちなみに同族の貴方が同じ事をしたら見限りますよ」
愚かでひ弱で頭が悪い事が可愛いと思うのは、人間だからだ。
ツヴァイにとって同族の吸血鬼は、賢く使える者で無ければ存在価値がないも同然。
理不尽さに呻き声をあげるアハトは、例え僕が許しても、十二柱は許しませんよ!と捨て台詞を吐いたのだった。
その言葉に反応したのはラファエラだった。
アハトが2度も口に出した十二柱が何なのかが気になりツヴァイに尋ねれば、アハトに対する態度とは一転してツヴァイは微笑んで答える。
ツヴァイ曰く、十二柱とは五万年前を始めに、今は亡き吸血鬼の始祖が自分の血と肉を使って作った最古の吸血鬼の事を指すらしい。
自分は二番目、アハトは八番目に作られ、十二番目を作って始祖は死んだとツヴァイは説明した。
「それは、ツヴァイ様とアート様は長生きで凄いって事ですよね?」
幼い頃母に聞いた、おとぎ話のような伝承の上でしかラファエラは吸血鬼を知らなかった。
血を吸う化け物で、陽の光が苦手で、人間よりも長生き。
それくらいの知識しか無かったラファエラは、五万年などという途方もない数字を聞いて驚いたのだ。
まさかこの、自分とそう年齢の変わらなさそうなアハトもそんな年齢だなんて想像もしていなかった。
驚くラファエラに、アハトは当たり前だよと馬鹿にしたように説明をする。
「僕よりもツヴァイ様は本当に凄いんだぞ。十二柱は六人ずつ、二千年眠りにつく事で永遠に生きる。最初に作られたアインス様とツヴァイ様は始祖の尊い血を一番受け継いでいらっしゃるんだ。始祖亡き後はお二人で交互に王となり、我々を守って下さっているんだからな」
「…え?」
だから人間のチビが軽々しく接していい相手ではない、と締めるつもりでアハトが話した内容に、分かりやすくラファエラは目を見開いて固まった。
ギギギと音がなりそうに首を動かしてツヴァイを見る。
確かに唯ならない雰囲気の吸血鬼だとは思っていた。
けれどその独特の雰囲気はラファエラが出会ったことの無い吸血鬼だからで、ツヴァイがまさか王だなんて思わなかったのだ。
今自分は吸血鬼の、それも王の膝に座っている?
ずっと食べられると思っていたけれど、さっきのアハトとの会話を聞いてツヴァイは自分を育ててくれるのだと安心した。
しかしラファエラは今度は違う意味で安心出来ずにいた。
振り返って自分を見つめるラファエラの髪を片方に除け、誰もが見蕩れてしまうような綺麗な笑みをツヴァイは浮かべる。
「貴女を育ててあげましょう。か弱いラフィーが傷つかないように。悪魔からも守ってあげましょうね」
悪魔からも?
ラファエラがそう考えた瞬間、ツヴァイは優しくラファエラの首筋に牙を立てた。
吸血鬼が牙を立てるのは食事の時だけでは無い。
牙越しに吸血鬼の妖力を送り込まれると。その妖力の強さに当てられてしまい人間は意識を失うのだ。
ラファエラも一瞬のうちに力が入らなくなり、気を失った。
そしてぱたりとツヴァイの腕の中にラファエラが倒れたのとほぼ同時に、大きな音を立てて馬車が止まる。
御者の吸血鬼の、悪魔!という叫び声が馬車の中にまで響くと、アハトは訳知り顔の王に向かって呆れ顔で問いかけた。
「…これは何者ですか」
「哀れな少女なんです。可愛いでしょう?」
完全無欠の愛しい王の唯一の欠点は、厄介事を持ってくる事だなとアハトは苦笑いを浮かべた。