1 雪降る夜に。(1)
その年のリファナ王国は、何万人もの凍死者を出した。
富める者は暖炉の前で幸せを語り、そうでなければ夢を見るように死んでしまうような冷酷な冬だった。
リファナ王国の東部、プレセットの街で最も幸せに暮らしている人間の部類に入るのは、貴族。とりわけ伯爵家以上の家格を持つ、上位貴族達だ。
シュナーベル伯爵家もその例外では無かった。
とある十歳の女の子を除いては。
「お父様ったら酷いわ!ルチアにドレスを買ってくれないなんて」
「ルチア。…今月はもう三着も新しい物を作っただろう?」
「違うの。この前のとは違う赤いやつが欲しいの!」
「参ったな。我儘はいけないよ」
夕食の席でドレスを強請るルチアは、焦げ茶色の艶のある巻き髪に緑色の瞳のシュナーベル伯爵家の令嬢だ。彼女はまさしく文字通りお姫様だった。
膨れている様子は愛らしく、シュナーベル伯爵は言葉は強いものの頬を緩める。
可愛い娘に振り回される夫の様子を見ていた妻、イザベラは苦笑した。
「いいじゃないの、あなた。うちにお金が無い訳ではないでしょう?」
「この寒さのせいで大勢の領民が凍死しただろう。あまり派手に動いて、蜂起でもされたら困るんだ」
伯爵は深い溜息をつく。
先日も、近くの子爵領の領民が蜂起して、子爵の屋敷は酷い有様だと風の噂で聞いた。
王都では反乱を起こそうとしている者も多い。
シュナーベル伯爵は、恐ろしいと身震いする。
生まれた時から与えられていた暖かく大きな屋敷や豪勢な食事をたかが平民の抵抗のせいで手放す気はなかった。
「ラファエラは何処なの?!」
食事を終えた後、苛立ちながらルチアはある少女を探していた。
自分と同じ歳で同じ父親から生まれた、妾のこども。
使用人として屋敷に住まわせてやっている汚い少女は、ルチアの良いストレス解消相手だった。
寒さを堪えて屋敷の外までラファエラを探せば庭の片隅、沢山の薪の中に彼女の姿はあった。
斧を足下に置いて何かに話しかけている。
目を凝らして見れば、それはラファエラ同様汚らしい猫であった。
「今日は特別寒いから私の毛布を貸してあげる。チェーロの母様はどこにいるんだろうね」
汚い猫と汚いボロ切れを着た妾のこどもの筈なのに、雪の中のその光景がルチアには一瞬絵画の様に見えてルチアは尚更機嫌が悪くなった。
「何よ、その汚い猫。使用人の癖に動物を飼うなんて」
ルチアが話しかければラファエラは猫を庇うように立ち上がった。
「お嬢さま、申し訳ありません。この猫は、少し前に屋敷に間違って入り込んでしまったのです。この寒さですから、死んでしまっては可哀想で……」
自分を見つめる透き通った水の様な瞳も、雪の中で輝く金色の髪も、自分よりも劣った人間の癖に“ラファエラ”だなんて天使の名前を持っている事も、全てがルチアを苛立たせる。
この猫を奪って殺してしまえば気が済むかしらと一瞬考えたが、もっといい案が浮かんでルチアは微笑んだ。
「そうね。死んでしまっては可哀想ね。うちに入れてあげましょう。可愛い猫に罪は無いわ」
「お嬢さま…!ありがとうございます」
「その代わり、あなたが今日は此処で寝るの。命令よ」
ルチアの提案に一瞬ラファエラは心から喜んだ。
いつもは自分を殴り、罵る相手だが動物を慈しむ心を持っているのだと喜んで、そして下された命令に絶望した。
凍える寒さに手が真っ赤になり、初めは痛みを感じていたが既にもう手には感覚がなかった。
野良猫のチェーロにあげようと持ってきた毛布があったことが幸いだった。
自分が置いてもらっている伯爵家の令嬢の命令に逆らえば、この寒さのなか路頭を彷徨う事になるという事は学の無いラファエラにも理解出来た。
七つの時に流行り病でラファエラの母が死んだ。
死ぬ前に、自分に何かあれば行くようにと母は大きな屋敷を教えてくれた。
そこにはお父様がいるから力になってくれるはずだ、と。
母が死に、父に会いに行くと、ラファエラの姿を見て怒り狂ったのは伯爵夫人だった。
何やらラファエラの姿がラファエラの母に瓜二つであり、伯爵夫人は自分の夫が誰に手を出したかを理解したのだろう。
こうしてラファエラ・シュナーベルは伯爵家に受け入れられずに、伯爵令嬢でありながら使用人としてシュナーベル伯爵家に置かれることとなったのだ。
ラファエラはルチアに少し嘘をついた。
チェーロは少し前に迷い込んだと告げたが、本当はラファエラが屋敷に来てすぐに出会った猫だった。
チェーロと名付けたその猫は、ラファエラにとって光だった。
懐かなかった小さな猫が次第に自分だけに甘える姿に、一人ぼっちだったラフェエラは幸せを感じていたのだ。
理不尽に暴力を振るわれても、食事を何日も抜かれても、チェーロという家族がいたからラファエラは耐えられた。
寒さに耐えきれずに屋敷に戻れば、ルチアはチェーロにまで危害を加えるかもしれない。
住処を失う可能性と、大切な家族を失う可能性がある以上、ラファエラは絶対に部屋に戻れなかった。
辛い時間は進むのが遅い。
身体が震える中、ラファエラは夜が明けるのを永遠と待っている気分だった。
空に浮かぶ星の数を数えていると急に眠気が遅い、夢を見た。