君の御影に見た滴
1
夕焼けに照らされて長く伸びた僕の影は、はっきりとした黒色をしていて、その影に誰かが釘でも刺そうものなら、それは僕の心臓をつらぬいてこの命を落としていたかもしれない。後ろを振り返ると鮮明な赤色をした空があって、心臓から吹き出した血のように感じられた。
「影踏みでもしようか」
そんな声を僕にかけてきたのは、この辺りで『車輪姉さん』と呼ばれている、肌が異様なほど白くて、膝までとどく黒い髪を背の低かった僕の体にまとわりつかせる気味の悪い女だった。
たしか『木矢葉車輪〈きやはしゃりん〉』という名前だったと思うけれど、今では彼女の苗字を覚えている人は少ないのではないだろうか。
「嫌だよ」
そう言って、鬱陶しく僕の上に垂らされた車輪の髪をのけるために彼女の体を押し返したけど、車輪は僕を真上から見下ろしたままピクリともしない。
「車輪、こそばゆいから」
そう言って僕が笑いかけるまで車輪はその髪を僕に絡みつかそうとするのをやめなかった。
「こそばゆいだけなん?」
車輪は狐のようにするどい目の端を少しだけ下げた。それは僕が彼女のことを嫌いだと思っていないと分かったからだと思う。たしかに車輪は気軽に人から『車輪姉さん』などと呼ばれていたけれど、決して好かれてはいなかった。その肌の白さは美人薄命を根づかせた結核を思わせたからだ。結核にかかっているからあんなに白いのだ。そんな口さがないことをいう者も少なくなかった。
僕は知っていた。車輪がどうしてかかってもいない結核を患っているなどと言われ、影で眉をひそめられていたのかを。車輪は日本人とアメリカ人の混血だったのだ。車輪が僕にだけ告げてくれた真実。でも、例え車輪が口をすべらせなくても彼女の母親が固く口を閉じても、その色の白さは確かに白人に酷似していた。だからみんな知っていたのだ。
混血の子供は鬼の子。いくら器量が良くても髪の色が黒くても、仲間になんか入れてやるものか。そんな風に声をひそめた大人の汚い言葉を何度聞いただろう。僕が知らなかっただけで、それをいう者はこの町の者に限らなかったのじゃないかと思う。時代が大きな戦争を終え、新しい時代に変わったのにそれでも異国の者をこの町の者は嫌った。この国を救ってくれたのはその異国の者だったというのに。
車輪という変わった名前をつけた彼女の母は博識で、ヘッセとかいう男の小説を読み、その名を思いついたのだそうだ。でも学のない僕にはどうしてそのヘッセという男の小説と車輪の名前がつながるのか分かってはいなかった。今だってそんなに分かっているわけではない。
「車輪は髪の毛、伸ばしすぎやねん。今どきの女はもうちょっと髪の毛短くしてても良いんちゃうん」
車輪が長い髪にこだわったのは、自分を日本人だと主張したいからだと思う。決して混血なんかじゃないと言いたかったのだろう。でも血は変えられない。どうあがいても彼女は混血なのだ。
でも、そんなことは関係なく、僕には車輪の無理して気味の悪い女を演じるところが好きだった。車輪は美しかった。色が白い以上に彼女の輪郭はなめらかで、目は鳥が通った後の風のように美しい切れ長だった。そんな車輪を大人の男達が囲んでいるところをよく目にした。大人の男達よりも少し背の高い車輪は、その長い手を大きく広げて男達を振り払い逃げていた。そんな時、自分がもう少し大人で体格の良い男であったら良かったのにと思う。奴らは車輪の大きな胸や尻を触ろうとしていた。遊び半分の気持ちだから車輪一人で逃げ切ることが出来るけど、もし本気で車輪の体をむさぼろうという者が現れたら、僕が助けなくてはいけない。そのためにもっと力強い男にならなくてはならない。車輪を守れる青年になってみせる。そう誓ったのは十四の歳だった。
車輪はうまい具合に砂利に髪をつけずにしゃがみこんでいた。何をしているのかと思って近づいてみると、彼女の足元には小さな沢蟹がいた。車輪はここの川で水の流れるのを見るのが好きだった。そして、ときどき沢蟹を捕まえ、僕に見せるのだ。
「うまそうやね」
僕は揚げた沢蟹があまり好きではなかったので「かわいそうや」と言って車輪の指から沢蟹を奪って川に返した。
「何でかわいそうやねん。他の生きてるもんは耕造も普通に食べてるやんか」
そう眉をひそめる車輪を見て、たしかに僕の言っていることは正しくないと思った。
「苦手なんや」
僕が正直に答えると、車輪は立ち上がって僕の頭のてっぺんをわしづかみにし、ごしごしとなでた。
「まだまだガキやなあ」
そんな風に言って。車輪は僕のことをすぐに子供扱いする。そのくせ、この前みたいに影を踏むふりをして抱きしめようとするのだ。車輪に影を踏まれると息がつまりそうになる。彼女が僕の体にふれようとしているのが分かるから。それは決していやらしいものではなかった。愛しい。そう、愛しいと言っているように感じられた。
それは僕が車輪のことを見下したり、下賤な者を見る目で見たりせず真正面から車輪を一人の女として見ていたからだと思う。
車輪姉さんと呼ぶ男どもは、たいていは彼女のことを売春婦と同じような者という視線で見ていたし、女は『姉さん』という言葉で少し距離を取ることで混血の悪魔の呪いにかかるのを避けようとしているようだった。車輪はただの優しい女なのに。
「耕造はいつか、もっともっと良い男になると思う」
わしづかみにしていた手を僕の腰に回して車輪はひたいに口づけをした。僕の影は車輪と逆の方向にあるのに、僕は体を動かすことが出来なかった。
「車輪、あかんよ。こんなんしてるとこ見つかったら、いつもの奴らが車輪に何するか分からん」
そうは言っても僕の体は車輪にぴったりとくっついていた。
「そんなん言われても、したいんやもん」
彼女のその行動は、アメリカの父親を持つからだったのだろう。おおらかで大胆で、でも女らしい。それは車輪に流れる血がさせていることだろう。鬼だなんてとんでもない。車輪は誰よりも魅力的だった。
「待っててあげるしな」
車輪が小さな声で言ったのを僕は聞き逃さなかった。車輪は五つも離れたガキである僕の何をそんなに愛してくれていたのだろう。いつも不思議だった。車輪の周りにはいつも人がたくさんいて、その中の何人かは僕のように車輪を真正面から受け止めてくれていただろうに、車輪はいつも僕を待っていた。学校の帰り道で、この沢で、歩く道の先で。
たしかに彼女の想いは恋愛の愛であったと思う。だけど僕は子供で、それにどう答えてやれば良いのか分からなかった。だからその体を抱きしめ返してやることも出来てはいなかった。それでも車輪は満足していたように見えた。
「耕造さん」
その場から出て車輪に手をふり、歩いていると家の近所で麻〈あさ〉が二人の女と一緒に僕を手招いていた。麻は僕よりも一つ年上で、小さい頃からよく面倒を見てくれていた。でも、実のところあまり麻に良い印象を持っていなかった。
「あの姉さんの所に行ってたん?」
麻は車輪のことを『あの姉さん』と呼び、名前を口にするのも嫌がった。名前を口にしたら、のどがつぶれると僕の目の前で大笑いしたこともあった。その姿の何と浅ましかったことか。僕は麻の方がよっぽど人に祟りをもたらしそうな気がした。
麻が僕の面倒を見てくれていたのは、決して純粋な好意からではない。僕の見目が良いから、良いようにしつけて僕を自分のもとにはべらそうとしていたのだ。
十三の時、車輪とばかり話すようになった僕に腹を立てた麻は僕の頬を叩いてその事実を告げた。なんて浅はかで下賤で、醜い女なのだろう。純血の日本人の麻と混血の車輪。心根の美しいのは僕の目から見なくても明白だった。だけど、いくら醜い心を持った女でも、世間が肩を持つのは決まって麻の方なのだ。
「男は売り女が好きやからなあ」
麻がそういうと、傍にいた二人が口に手をやってくすくすと笑った。その麻の姿に、甲斐甲斐しく僕の面倒を見てくれていた頃の面影はなかった。麻が言ったあの時の言葉がすべて本当だったとは思わない。自分の方を見ようとはせず、鬼の子と呼ばれ、妬まれている美しい車輪に僕が心を奪われたからだろう。
車輪に出会った日を思い出す。あれは夜の暗い散歩道だった。月明かりの下で、僕は歌を歌っていた。学校で習ったばかりの童謡だった。春の夜風は少し寒いくらいだったけど、僕には心地よい気温だった。
「その影、踏んだ」
そう言って僕の前に飛び込んで来たのは異人のように背の高い、長い髪の女だった。最初はあやかしかと思った。その姿があまりに白く、美しかったからだ。春の香りに誘われて人の魂を喰いにきたのかと思ったのだ。
だけど、月明かりのしたで、その女はたしかに人間だった。とても美しく凛とした女だった。
「影って、こんな夜に何言ってるねん」
神隠しにこれからあうのではないかと思えるくらい怪しげな気配があるのに、僕はとても普通に言葉を返した。その感じた気配が春の夜の風が運ぶまやかしだとすぐに分かったからだ。この世に、いや僕の前にあやかしなど現れてはいない。冷たい風と月の光が惑わせただけだ。
「あんたこそ何言ってんねん。こんな見事なお月さんが出てる夜に、人の足から影が伸びんわけないやんか」
そう言われて、よく足元を見るとたしかにうっすらとした影が伸びていた。
「ホンマやな」
僕は関心していた。影は太陽の下でだけ映し出されるものだと思っていた。いや、美しく映し出されているのは太陽の光を浴びた部分で、影は僕の体に遮られた悲しい光の残骸なのだけれど。それにしても不思議な女だと思った。子供だとはいえ僕は男だ。初めて見る男の前に何の物怖じもせずに飛び出してくるとは強気だ。
それともこの異国の血を引いてそうな背の高い美しい女には、十三になったばかりの、背も低く体つきもきゃしゃな僕のような者は男のうちに入らないのだろうか。
「あんた危ないで。こんな時間にこんなとこをウロウロしてたら。無用心や」
女はそう言った。でもそういう彼女の方がよっぽど無用心だと思う。見たところ良い頃合いの歳だろう。なのに一杯飲んだ軽薄な心持になっている男どもがよく通る道を一人で歩くなんて物騒だ。犯されても誰も慰めてはくれない。
「そういうけど、姉さんの方がよっぽど無用心やで」
僕は初めて会う彼女のことを姉さんと呼んだ。それは深い意味はなくて、ただ年上の人だと思ったからこそだった。だけど彼女はとても不快そうな顔をした。
「私のことを知らんあんたまで、姉さんって言うんか」
眉間には深いシワが出来ていた。僕はなぜそれをそんなに嫌がるのか分からなかった。
「だって名前知らんし他に呼びようがないやんか」
その言葉を聞いて途端に彼女の顔は明るくなった。
「車輪や」
「車輪って車の意味か?」
車輪と名乗った女は首を少し傾けて、
「さあ、どうやろねえ」
と言った。
後に車輪の母に会って、名前の由来を聞いたけど、先にも言ったように僕には分からなかった。その夜からどこからともなく車輪は現れて僕の影を踏んだ。車輪が影を踏むことにはきっと何か意味があるんだろうと思ったけど、ただからかって遊んでいるだけのようにも見えた。
「車輪は恋人おらんのか?」
そう聞きながら僕たちは川の流れる道に入る。もう夏になりかけていて、額に汗が染み出るような季節だった。
「何でそんなこと聞くん?」
車輪は浅い川の水で額の汗を洗い流していた。
「だって、毎日僕とばっかり一緒にいるやんか」
年頃の女が子供とはいえ男の僕とずっと一緒にいて、支障はないのだろかと思ったのだ。
「だって耕造はええ男やもん」
車輪は手にすくっていた水を僕にかけた。
「答えなってへんやん」
すると車輪は下を向き、かすれるような声でこう言った。
「私みたいな白痴、誰が相手にするねん」
「白痴なんかとちゃうやんか」
僕は思わず声を張り上げた。
「同じようなもんや。私の父親はアメリカ人なんや。私は混血の子なんや」
初めて会った時には気づいていたことなのに、僕はそのことをすっかり忘れていた。たしかに「鬼がきた」と大声を出して笑って走って行く子供たちに出会ったこともあった。だけど今は異国の者を敵として戦っていた頃とは違う。もう鎖国していた頃とも違うのに、なぜそんな風な態度をするのだろう。
隠せば良いと言っているわけではない。異国の者を差別する意味がないのだ。ましてや日本に住み、日本の教育で育ってきた車輪をどうしてみんな避けるのだ。僕がおかしいのだろうか。僕の考え方の方が間違っているのだろうか。僕が車輪に惚れているからそんな風に思うのだろうか。
「それでも僕が車輪を好きなことに変わりない」
僕がそう呟くと、うつむいたまま嗚咽が聞こえた。髪で顔が隠れているから見えないけど、泣いているのは分かった。
「泣くなや」
子供に好かれても嬉しくなんかないだろう。それでも、僕みたいな男もいると分かって欲しかった。自分の血に異国のものが混じっていることを悲しいと思わないで欲しかった。
「あんた、ホンマにええ男や」
車輪は泣きながらそう言った。
家に帰ると麻がいた。腕をくんで、まるで怒ったように玄関の上に立ちはだかっていた。
「来てたんか」
「来てたんかやない」
麻はそれまでに見たこともないような不機嫌な顔をしていた。きっと学校が終わった後、長い間僕が帰るのを待っていたのだろう。
「耕造さん、最近いったいどこに行っとるん?いっつも帰るの遅いやんか」
「麻には関係ない」
僕は最近買ったばかりの靴を脱いだ。砂利の上をよく歩くから、少し砂がへばりついている。
「せっかく買ってもらった靴、そんな汚して、金持ちやからって物大切にせんでどうすんの」
別に大切にしていないわけではない。汚れればちゃんと洗うし、使っていればこのくらいは仕方がないはずだ。
「あんた、あの姉さんと会ってるんやってな」
「あの姉さんって車輪のことか?」
僕が顔を上げると、麻は僕に向かってつばをはきかけてきた。
「売り女に名前なんていらん」
何のことを言っているのだろうと思った。麻は車輪のことをそんな風に見ていたのだろうか。
「毎日男にいっぱい囲まれて良い気になってる売女のどこがそんなにええねん」
車輪が下賤な奴らに囲まれてからかわれ、困っている様子が麻には良い気になっているように見えるらしい。それは女としての嫉妬だろうか。麻だって歳相応の可愛らしい顔立ちをしている。けれどまだ子供だから車輪と違って色気づいた男どもによってこられるわけではないのだ。麻だって車輪の歳になればそのくらいの男はついてくるだろう。しかも車輪の場合とは違ってからかい半分で来る者ばかりではなく、れっきとした取り巻きがつくと思う。その時、初めて気づいた。車輪が『姉さん』と呼ばれるのを嫌う理由。そしていつも車輪の周りにたむろう奴らが『車輪姉さん』などとおべっかを使う理由。
みんな麻と一緒なのだ。混血で美しいなりをした車輪のことを売春婦を見るのと同じ目で見ていたからなのだろう。そういうことが分かるから車輪は初めて会ったあの夜「あんたまで…」と言ったに違いない。
その頃とまったく変わらない態度で今、麻は目の前にいる。いや、一つも変わらないわけではない。車輪を見る目だけが変わらないのだ。
麻の僕に対する興味は消え失せていた。残っているのはきっと面倒をみてやったのに裏切られたという思いと、男は自分に興味を持ってはくれないという劣等感。十三だったあの頃、たしかに麻は可愛らしかったし、将来は想いをよせてくる連中もたくさんいるだろうと思われて当然の顔立ちをしていた。だけど麻は半年前、通り魔にあってしまった。顔立ちの良い者ばかりを狙う刃物を持った女に顔をきつく切りつけられてしまったのだ。しかもバッテンの字に。その傷は深く、縫わなければならないくらいだった。医学の進んでいないこの国で、そのバッテンの傷跡を消せる医者はどこを探しても、どれほどの金を出してもいなかった。その通り魔を捕まえたのがいかんせん、車輪だったことが麻の心をさらに傷つけた。車輪は襲われそうになっている少女のすぐ近くを歩いていたようだ。
「女あ!」
少女に向かって行く刃物を持った女に車輪は大きな声を張り上げた。その声は家の中にいた僕にも聞こえた。僕が窓から外を見下ろすと、人がいるとは思っていなかったのだろう、襲いにかかろうとしていた女は体を震わせて振り向いた。
「その影、踏うんだ」
僕が夜の月の下で異国の者と分かったくらいだ。夕焼けで真っ赤に染まった車輪を見て、この差別社会を生きるその女が車輪を異形の者と思ってしまわなかったわけがない。
「体がピクリとも動かなくなった」
後でその通り魔はそう言っていたらしい。車輪に影を踏まれたら何かが起こる。その女は巡回していた警察に捕まり、僕は恋惑う。車輪の影踏みは人でない者の力があるのかもしれない。それは混血の美しい女が持つ計り知れない力。警察が大声をあげて通り魔を押さえ込んだものだから、近所の者たちも外に出てきてその中に僕も麻もいた。僕は普段は真っ白な車輪の素肌が血のように染まるのを見て誇らしいと思ったけれど、きっとその凛とした表情が麻には屈辱だったに違いない。
「純血の私がこんなんなったのに……」
そういう声が僕の真横にいる麻の口から漏れたのを覚えている。その時の麻の顔を僕は見ることが出来なかった。それはバッテンがついているからではない。きっと嫉妬と苛立ちで寸前に捕まっていった犯罪に身を染めた女と同じくらい、狂気めいたものが浮かんでいたに違いないからだ。
顔にそんな傷を負ってもこのテレビもない家が多いような国で、テレビを持つ裕福な麻にいつも取り巻きはいた。今、目の前にいる女二人もそうだ。だけど、麻を囲むのはいつもテレビを見たいがためについてくる靴もボロボロの女子供で、ある程度の歳というか麻と歳が近ければ近いほど男は麻の顔もまともに見なかった。かつては好意をよせていたように見えていたのに、その事件の後にあからさまに顔を逸らすようになった男に麻が持ち前の負けん気で文句を言うと男は笑って言ったのだそうだ。
「だって、あんたはもう可愛くなんかないやんか」
と。
「よう人前に出れんな」
とまで言ったのだそうだ。その時はさすがの麻も僕に泣きついてきた。
「何でやの?私、全然わるくないやんか」
悔しさで顔が赤くはれてバッテンがくっきりと浮かんでいたけれど、その傷跡を僕は醜いとは思わなかった。可愛らしい顔立ちをしていたから狙われたのだ。そしてそんな顔になっても帽子一つかぶらずに顔をあげて外を歩く麻は僕には眩しいくらい尊敬出来る人だった。麻が車輪のことを悪く言うのは社会のせい。仕方がないのかもしれない。そう思うと傷を負ってからの方が麻はよっぽど綺麗になったのじゃないだろうか。でも僕と車輪が一対である限り、麻はもう二度と僕の前で優しい顔も、恋した言葉も投げかけないと思う。
麻や社会がどれだけ車輪を鬼だと、売春婦だと言っても僕は車輪の一番傍にいる人間なのだ。すぐにでも異人のような大きな体格を手に入れて車輪を守れる男になりたいのだ。そうだ。僕はもしかしたら、純血の日本人である自分よりも、もっと力強く見える異国の大男になりたかったのかもしれない。
2
歳を一つ重ねて僕の身長はぐんと伸びた。十センチは伸びたのではないだろうか。今までは同じ学年で一番か二番目に低かった背は並くらいになっていた。
「もう十五歳か」
己の誕生日に車輪に一番に報告に行った。彼女は家の窓から顔を出して、頬杖をついていた。
「初めて会ってから二年も経つねんなあ」
あの時から車輪は歳を取らなくなったように見える。ずっと一緒にいるからだろうか。
「私ももうすぐ二十歳やなあ」
車輪の誕生日は翌月の同じ日だった。
かつての女は二十歳にはとっくに結婚していたけれど最近は二十五になっても結婚しない女もいる。だから車輪が後五年待ってくれても世間的には差し支えはないのだ。僕のことを本当に待てるのかと聞きたかったけど、未来のことなんて分からない。今、僕と車輪は想い合っているのは事実だ。それがこの先も続けばいいと思う。でも僕は見てしまった。車輪が異国の男と会っているところを。車輪よりもずっと背が高くて、車輪に「アイラビュー」と言って手を握っていた。僕にだってそのくらいの英語は分かる。愛していると言っていたのだ。車輪は泣いていた。僕以外の人の前で泣く車輪を初めて見た。
「今さら何言ってんねん」
持たれた手を振り離すように車輪は大きく手をぶんと引いたけれど、その男は手を離さなかった。
「ショーンは自分の国の女と結婚したんやろ」
男は悲しそうに目を細めた。
「仕方がなかったんだ」
「仕方がないなんて理由にならん。選んだのはあんたや」
そう言われてその異人はやっと手を離した。車輪はそのまま走って行ってしまったけれど、きっとその男はかつて、車輪の恋人だった男なのだろう。僕の知らない車輪の影にあったものを見た気がした。
「耕造はきっと、麻と結婚するんやろうなあ」
突然、車輪がそう言った。僕は驚いた。車輪が麻を知っているとは思わなかったからだ。
「何で麻と僕が結婚しんとあかんのや」
麻に好意を持ったことなど一度もない。麻だってもう僕のことなんて何とも思っちゃいない。
「だって、耕造はお金持ちの息子やからな」
車輪の言う意味が分からなかった。
「今の時代に金持ちも貧乏も関係ないやろ」
僕がそう反論すると車輪はため息をつくように笑った。
「それは耕造がええ奴やからや。ええ男はいっつも犠牲になるんや」
五歳上の車輪は僕の知らない何を知っているのだろう。あの時の異国の男ときっと何かあったのだと思うけど詮索する気にはならなかった。
「僕はどんだけ経っても僕のままや」
そう言う僕に車輪はただ、分かっているとだけ言った。
身体測定があって、車輪の家に行った時も、車輪は窓からどこか遠くを見ていた。
「十センチも伸びたんやぞ」
喜ぶ僕に子供やねえと車輪は見もしないで言った。
その夜、父が家にいた。働きづめでめったに家族がそろうことがない僕の家ではめずらしいことだった。
「喜べ。お前と麻の婚約が決まったぞ」
豪勢な料理を前に父は手を叩いた。
「麻とお前は昔から仲が良かったしな。決めてやったんや」
僕の家で父に意見することなんて許されなかった。だけど僕ははっきりと言った。
「僕には車輪がいます」
それを聞いた父の顔が真っ赤に膨れ上がった。
「あの女は結核や。お前、うつるぞ」
「車輪は結核なんかやありません」
僕は父がなぜ麻と僕を結婚させたがるのか分かった。麻の親が大会社の社長だからだ。
「お前は麻の顔が醜くなったからって麻を見捨てるんか」
父はそんな風に言った。僕を卑怯な男だと責めるふりをしているのだろう。そうすれば僕が負い目を感じるかと思ったに違いない。
「麻は美しいやないですか。誰やって結婚してくれる。やけど車輪は違います」
父はため息をついた。
「同情は命取りやぞ」
それ以降、父は何も言わなかった。その頃から車輪が見かけるたびに男たちに囲まれていることが増えた。車輪は相変わらず嫌そうにしていたけれど奴らはときどき、車輪を羽交い絞めにした。その時、僕は思わずその中に駆け込んで行ったけど猛者たちに突き飛ばされてしまった。
「ガキが」
そう言ってつばを吐きかけられたけど、その男の耳元で
「阿呆。坊ちゃんや」
と言っているのが聞こえた気がした。たしかにこの辺りで僕は坊ちゃんと呼ばれている。しかしこんな悪そうな奴らにまで坊ちゃんと言われるのは不自然な気がした。でもどこが不自然なのか分からない。それから僕が割り込むと、車輪の周りから男どもは簡単に離れて行くようになった。それは僕が少し大人になり体格も良くなったからかと思ったけど、金持ちの坊ちゃんを敵にまわしてはいけないという浅はかな考えからかとも思えた。僕は自分の力で車輪を助けることが出来ているわけではないということが悲しかった。
「車輪。僕といたら大丈夫やからこれからもずっと傍にいてや」
車輪は僕の体を抱きしめて
「一緒にいたいけど、たぶんずっとは無理や」
と言った。
「何でや」
こんな町中で抱き合っても僕はもう平気だった。僕と車輪の仲を町中の人に見せつけてやろう。そんな風に思っていた。
「だって耕造は麻と結婚するんやから」
前にも言われたことだった。どうして車輪は僕と麻が婚約を無理強いされているということを知っているのだろう。
「みんな知ってることや。私はそれまでのつなぎ役でしかないんや」
僕の肩に涙のシミが出来ているのが分かった。そんなことはない。父は僕が車輪の話をして以来、麻の話をしなくなった。きっと理解に苦しむ息子の行動に頭を悩ませたまま放置しているのだろうと思っていた。僕は自分が父の意見を封じることが出来たと思い込み、いい気になっていたのだ。父はそんな簡単な人間ではなかったのに。
車輪の誕生日が過ぎて一月が経った頃、いつもの沢で車輪はうずくまっていた。まるで川の水で自分の息の根をとめうようとでもしているように長い時間、顔を水に浸していた。少し遠くでそれを見ていた僕は急いで走って行き、車輪の体を抱き起こした。
「何してるんや」
車輪は髪も水浸しにしていた。
「あんたこそ急に何すんねん。冷たい良い具合の水やったのに」
それを聞いた時、僕は自分がとんでもない勘違いをしていたのだと気づいた。車輪はただ、のどが渇いて川の水を飲んでいただけだったのだ。
「髪の毛まで川に流れてたから自殺でもする気かと思ったやんか」
僕がそう言うと車輪は大口を開けて笑った。久しぶりに見た笑顔だった。こんな突き抜けたような笑い方が大好きだったのだ。だからとても嬉しかった。僕と麻の噂を信じてしまって嘆いている車輪は見ているとつらかった。そんなことは起こらないと言っても信じてはくれなかったから。
「あんたは坊ちゃんやから」
と言って。
「耕造、もう離したら?」
そう言われた車輪の顔は僕の唇のすぐ下にあった。いつもなら車輪の方が上にいるのに何だか新鮮だった。
「嫌や」
僕はもっと強く抱きしめた。
「耕造、痛い」
「僕だって男やからな」
僕は車輪のひたいに口づけをした。そして唇に初めて唇を合わせた。車輪は少しだけ抵抗したけれどすぐに僕にしがみついて、何度も何度も口づけを交わした。息が荒く、自分たちが大人と子供ではない男と女なのだと分かり合えた時だった。
「耕造、好きや」
唇が離れるたびに車輪はそう言った。そして僕も同じようにした。沢には誰だって来る。だから誰かに見られているかもしれなかった。けれどそんなことはどうでも良かった。僕と車輪は今、やっと男と女の位置に立てたのだ。そう思った。
「ずっと一緒にいてや」
僕は言ったけれど、車輪はそれには言葉を返してくれなかった。麻が急に取り巻きを作るようになった。それも同じ年頃の男たちだった。理由は顔に出来たバッテンがほとんど分からないほど綺麗な白い顔になったからだ。冬になって血流が悪くなり、バッテンが赤く浮くのをとめているのだと思った。同時に流行の風邪にもかかって、よく咳をするようにもなった。
「カバンをお持ちします」
と言ってくる下男に、
「立場はわきまえや」
と凛とした態度で接している麻を見ると安心した。もう彼女が負い目に感じることなんてないのだ。きっと良い男を見つけて自由な恋愛をするに違いないと思った。その頃から麻はまた僕の家に来るようになった。その理由を麻は僕が病気になったからだと言った。自分が看病しなくてはいけないと、かつての世話焼き娘時代を思い出させた。
「僕は病気なんかやないよ」
どうしてこんなに健康な僕が病気に見えるのか分からなかったけど、すぐに麻は理由を言った。
「耕造、本気の恋の病にかかってしもたから」
どうやら沢で車輪と口付けを交わしているのを麻に見られたらしい。でも恥ずかしいとは思わなかった。
「私だって好いた男くらい出来たから、あんたの相談にのってやろうと思って」
麻は今までに見たこともないくらい生き生きとしていた。それが僕は嬉しかった。麻と話すのが楽しいと思ったのはどれくらいぶりだろうと考えてみたら三年か四年ぶりだった。でももしかしたらもっと短い期間だったかもしれない。それくらい長いように感じたというだけだ。
「どんな男なんや?」
僕が聞くと麻はとても言いにくそうにした後、小さな声で
「異人なんや」
と言った。
車輪を混血の鬼と思っていた麻が異人を好きになるとは思わず驚いた。しかもその男には妻がいるという。
「めかけでも良いんや。アイラビューって言ってくれるんや」
「麻って英語話せたっけ?」
と聞くと麻は首を振って、
「ショーンが日本語を話せるんや」
と説明してくれた。
その時、ショーンという名前をなぜ思い出さなかったのだろう。車輪を泣かせていたあの男と同じ名前だったのに。僕が車輪にその話をして麻のことはもう気にしないで良いのだと言うと、車輪は顔面を蒼白にさせた。
「ショーン」
そう呟いて。
次の日、やはり車輪は僕の目にとまる所にいた。僕が家に行かなくても車輪はいつだって僕の歩く前にいる。
車輪は言い争っているようだった。その相手はかつて車輪を泣かせていた異人だった。
「ショーン、何をする気なん?」
「俺はただ、車輪のためになればそれで良いと思っているだけだ」
車輪はその男をたしかにショーンと呼んだ。麻に妾でも良いとまで言わせた男の名前だ。それがまさかこの男なのだろうか。
「麻には決められた婚約者がいるんよ」
「でもそれは車輪の恋人だろう」
まさかこのショーンという男は自分が愛した車輪のために、僕の婚約者と噂される麻に近づき愛を語ったのだろうか。それを麻は本気の愛だと勘違いしたままあんなに嬉々とした顔を僕に見せていたのか。それはあまりに哀れだった。
「そんなんされても私は嬉しくない。ショーンのことだってもう好きやないんよ」
車輪は顔を真っ赤にさせた。
「知ってる。だけど俺は車輪を愛してるから、車輪のためになることをしたい」
そんなことを言い合っている時、いつものやからが現れた。ずいぶんにやにやと笑っていて、今にも懐から刃物とつきつけて車輪をおどしそうな様子だった。僕は急いでその中に入って行ったけど、男たちは僕を突き飛ばした。
「坊ちゃんはこの女にだまされてるんでっせ」
奴らの中の一人がそう叫んだ。その時、初めて僕は車輪にいたずらしようとしていた連中が僕の父が雇った下郎どもなのだと悟った。
車輪は倒れた僕を大きく見開いた目で見て顔を背けた。きっとショーンと一緒にいるところを見られたのが嫌だったのだろう。車輪はとっくに知っていたのだ。自分を売春婦と同じように扱って近寄ってきていた男たちと、僕が一緒にいるようになってから近寄ってくるようになった男たちが別の目的で近づいてきていたことを。だからずっと一緒にいるなんて無理だと言ったのだ。僕が大人になる前に必死で愛を訴えていたのだ。僕は何も分かっちゃいなかった。ただ、車輪に好きな気持ちを伝えていれば二人は幸せになれるのだと思っていた。
「その影踏うんだ」
突然、男たちの間で車輪が大きな声をあげた。車輪を助けないといけないと思って起き上がった僕の体はその言葉とともに動かなくなってしまった。
「耕造は傷つかんでいいねん」
車輪がそう言ったと思うと、男たちはいっせいに懐に隠し持っていた棒切れで二人をめった打ちにし始めた。それでも体が動かない。僕は影を踏まれている。そう思うと動けなかった。思い込みだったのだと思う。車輪に影を踏まれると動けなくなるということが。それを知っていたから車輪はそう言った。僕が恐怖で動けなくなったのだと気づいてしまわないように。
奴らが笑いながら去って行った頃、ショーンはほぼ息をしていないように見えた。車輪は女だからか、顔は打たれていなかった。いや違う。混血は鬼のこ。混血は鬼そのもの。顔を打てば殺される。そんな思いがきっとあんな連中の中にも根付いていたのだろう。異人は人間だけど混血の者は特別な力を持つのだ。それでも体をたくさん打たれた車輪は苦しそうだった。
「耕造…」
精一杯の声で車輪は言葉を発した。
「ここに来て」
僕はやっと動けるようになり車輪のもとに走りよった。
「ごめんな車輪。ごめん」
僕は車輪に影を踏まれたというのを言い訳にして暴力から逃げたのだ。車輪を守ると十四歳のあの時誓ったのに。
僕は警察を呼んでもらって、彼らが来る前に車輪だけかついで彼女の家に運んだ。ショーンの方はきっと助からないだろう。麻は真実を知らないまま愛しい人に死なれてしまうのだ。でも知るよりはよっぽど美しい思い出に出来ると思う。だって僕の父も麻の父親も、婚約を取り消したりしてはいなかったのだから。
僕はきっと学校を卒業すれば麻と結婚させられるのだろう。それまでは車輪と一緒にいたい。そう思い、僕は車輪の母親の許可をもらって車輪の家に住まわせてもらうことにした。自分の家には学校を卒業したら帰りますとだけ紙を残した。それだけで伝わったのか、僕を無理に連れて行こうとする者はいなかった。
「ヘッセのな」
車輪の母親が言い出した。
「覚えてるか?ヘッセ」
たしか車輪の名前の由来になった小説を書いた人の名前だ。僕は首を立てに振った。
「『車輪の下』の主人公は自殺してしまうんや。車輪の父親は首を吊って死んだ。車輪が生まれる前に」
僕はただうなずいた。
「車輪はまっとうに生きていけるんやろうか」
僕は眠る車輪の安らかな寝顔を見てから窓の外を見た。その窓からはちょうど他の家の隙間の向こうの空が見えて、心が吸い込まれそうになった。車輪はいつもこれを見ていたのかと思った。
「綺麗やろ」
寝ていたと思った車輪の声がした。振り返ると車輪はさっきと同じ体勢で目だけ開けて僕を見ていた。
「空が突き抜けたみたいや」
僕がそう言うと車輪はおもしろそうに笑った。まるで車輪の笑顔みたいだと言いかけてやめた。この隙間を突き抜けて、車輪がどこかに行ってしまいそうだと思ったからだ。
「耕造、桶に水を入れてきてくれん?」
体を拭きたいのだと車輪は起き上がって手ぬぐいを僕の前にちらつかせた。
「見たらあかんで」
古ぼけた桶に水をいっぱいにしてくると、車輪は手をぐっと握って僕を威嚇した。しかたがないので僕は車輪の母親と一緒に夕食の材料の買出しに出かけた。
坊ちゃんが一緒ならと野菜をまけてくれた八百屋は僕を哀れそうに見ていた。
「坊ちゃん、今のうちにようけい好いた人と一緒におりや」
そんな言葉をくれた。
帰ると車輪の母親は台所に行き、僕は車輪のいる部屋に戻った。まだ裸でいたらどうしようと思って念のため声をかけてみたけれど返事はない。あの体でどこかに出かけたのだろうかと思って襖を開けると、車輪は桶の水の中に顔を突っ伏していた。
「またそんなとこの水飲んで。ちょっと待てば帰ってくるやんか」
そう言っても反応がない。僕は不安になって車輪の体を持ち上げた。さっきまで束ねられていた髪はほどけて乱れ、車輪の顔は水に濡れて青くむくんでいた。
「車輪?」
何度呼びかけても車輪はもう返事をしなかった。車輪は顔を洗える程度の桶の水で水死したのだ。
僕は何が起こっているのか分からなかった。警察が来て、もしかしたら誰かに殺されたのかもしれないと言われても僕には何のことかさっぱり分からなかった。分からないから涙も出てこない。車輪の葬式を僕と彼女の母親だけでやった。でも僕はなぜ自分がこんな行為をしているのか理解出来なかった。
車輪が死んだ。僕が持ってきた水で。殺されたのか?僕の父親が雇った者の手で。
その時、車輪の母親がぼそっとつぶやいた。
「私があんな名前をつけたから……」
僕は母親の方に顔を向けた。
「ヘッセの小説の主人公な、水死したんや。車輪と一緒や。たぶん車輪はあんたと結ばれることがないのがつらくて死ぬのを選んだんやと思う。殺されたんやない」
結ばれることのない愛。死を選ぶしかなかった現実。車輪は死んだら体から抜け出して、ずっと僕の傍にいられるからとそのために自殺したのだろうか。そう思った時、急に涙が流れてきた。
ただ一緒にいたかった。好きだと言っていたかった。家なんて捨てても良かったのだ。僕は大声を張り上げて泣いた。もう答えてはくれない車輪の棺のふたを開け、抱きしめて泣いた。どれだけゆすっても車輪は起きない。目を覚まさない。車輪の魂はもうこの体にはない。
大声で泣いている中、僕は体を持ち上げられた。持ち上げたのは見たことのある顔の男だった。僕の家の運転手だ。
「坊ちゃん、もう良いでしょう」
そう言われて、僕は持ち上げられたまま車輪の姿を確認出来ないようにされた。車の中に放り込まれたのだ。それでも僕は泣いていた。
「坊ちゃん、麻様も亡くなりました」
その言葉にが耳に入ってきても僕にはどうでも良かった。
「結核です。坊ちゃんも感染している恐れがあります。別荘でこれから過ごしていただきます」
そのまま僕は家からずっと離れた別荘に放り込まれた。何週間も経って落ち着いた頃、僕はやはり結核に感染していると告げられた。
麻が急に白く美しくなったのは結核のためだったのだ。また結核が流行り始めているという情報はラジオから届いた。
結局、鬼と呼ばれた車輪ではなく純血の幼馴染が真っ先に僕の周りで結核で死んだことになる。結核で必ず死ぬわけではないと医者は言っているけれど、戦争が終わったばかりでまともに医療も発達していないこの日本で、僕が生きていられるとは思えなかった。生きている必要もなかった。だってもう車輪はこの世にはいないのだから。死ねば会えるのだろうか。車輪はどんな姿で僕を迎えてくれるだろう。早く死ねられれば良いのに。そう思っていた。毎日、死が待ち遠しかった。
なのにどうして僕は生きながらえているのだろう。父が死に、母が死に、髪に白髪が混じっても僕は生きている。結核が治ったと言われてすぐに父の会社は倒産した。僕は一人になり働いた。
結局、車輪に踏まれた影をそのままに妻をめとることもなかった。僕は一人でどうして生きているのだろう。自殺を考えたこともあった。でも車輪がそれを許してはくれなかった。
「耕造は傷つかんでいいねん」
そう言って。
僕は傷ついたらいけない。車輪がそう言った。僕は誰に傷つけられることもなく、人を信じないでただ生きていくしかなかった。車輪の影踏みは言葉でまで踏んだ。僕は生きて、何もなくただ呆然と隙間の向こうの空に向かって歩いて行かなければならない。